歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その6  私のブック・レポート≫

2020-03-14 19:08:12 | 私のブック・レポート
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その6 私のブック・レポート≫
(2020年3月14日)
 


※≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』はこちらから≫


井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』 (中経の文庫)






【読後の感想とコメント】の執筆項目は次のようになる。


≪前回その5の執筆項目≫

ルーヴル美術館について
ルーヴルの初代館長ヴィヴァン・ドゥノン
『モナ・リザ』の展示場所の変遷について
レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ
ミケランジェロとヴァザーリの『芸術家列伝』
ルネサンス期における聖母像の変化
レオナルドの初期聖母像の特色とその後の変化
レオナルド・ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』
レオナルドの『岩窟の聖母』に対するヴェルフリンの評価
レオナルドの『カーネーションの聖母子』の特色
ラファエロについて

≪今回その6の執筆項目≫
美術作品のランキング
ミケランジェロ、レオナルド、ラファエッロ
ミケランジェロの「奴隷」について
ミケランジェロを主人公とした映画「華麗なる激情」

ギリシア神話のテセウスと西洋絵画
『ミロのヴィーナス』の欠けた腕の謎








【読後の感想とコメント】


美術作品のランキング


井出洋一郎氏による著名画家のオーダー表


井出洋一郎氏は『美術の森の散歩道』(小学館、1994年)の「第10章 西洋絵画の巨匠 「絵の巨人群(ジャイアンツ)」のベスト・ナイン見立て」と題して、西洋絵画史上屈指の画家を9人に絞り、リストアップしている。井出氏はプロ野球のファンであるそうで、西洋美術の巨匠たちをオーダーに組む試みをしている。
(井出、1994年、135頁~145頁)。

ところで、井出氏の尊敬する指揮者で評論家の宇野功芳氏は、その著『クラシックの名曲・名盤』(講談社現代新書)の中で、交響曲や名指揮者で野球チームのベスト・オーダーを組んでいる。そこでは、次のようになっている。

≪交響曲と名指揮者ベストナイン≫
<交響曲>           <名指揮者>
1 モーツァルト「ジュピター」   シューリヒト
2 モーツァルト「第四十番」    ワルター
3 ベートーヴェン「エロイカ」   トスカニーニ   
4 ベートーヴェン「第九」     フルトヴェングラー
5 ブルックナー「第八」      クナッパーツブッシュ
6 ブルックナー「第九」      クレンペラー
7 マーラー「大地の歌」      マタチッチ
8 ベートーヴェン「田園」     クライバー
9 モーツァルト「プラハ」     ムラヴィンスキー

※一見して、下位に大物を配置した重量パワー打線で、終盤に強いチーム作りを目指したようだ。6番には変則バッターのベルリオーズ「幻想」を、指揮者では一応カラヤンを言えるべきだろうという。

さて、井出氏が選んだ「オールド・マスターズ」のオーダーは、次のようになる。
(印象派以後の画家たちやピカソ以下20世紀の面々では、とても一軍入りは難しく、実力、貫禄不足であり、当分ファームで鍛えておくということらしい)

≪画家の「オールド・マスターズ」のオーダー≫
 
1 ショート      ルーベンス 1577-1640
2 キャッチャー    アングル 1780-1867
3 サード       ベラスケス 1599-1660
4 ファースト     ミケランジェロ 1475-1564
5 センター      レンブラント 1606-1669
6 セカンド      ドラクロワ 1798-1863
7 レフト       ゴヤ 1746-1828
8 ライト       ターナー 1775-1851
9 ピッチャー     レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519

※このオーダーはピッチャーに左腕のベテラン超変化球投手レオナルドをもってきたところがミソだという。サウスポーでしかも鏡文字を使ってサインを出すこの投手には、敵のバッターも眩惑されることであろう。しかし絵を未完成にほうっておく癖のあるレオナルドは完投型ではない。だから、若手で速球派のカラヴァッジオと、はったり精神旺盛なクールベを救援に用意する必要がある(二人とも性格が過激で乱闘要員にも使える)。

以下、井出氏は、このオーダーの各選手を解説している。
1番のオランダ・バロックの巨匠ルーベンスは多作主義で、筆が速いから足も速く、出塁率が高い。画題にもむらがなく、何でも描くから守備範囲が広い。外交官でもあって、サードのベラスケスともマドリード訪問の際、親交を保って、三遊間の守りも連携がスムーズで、理想のトップ・バッターだという。

2番を打つ19世紀新古典派のアングルは、作風からして几帳面で、確実にバントで送る技術は最高である。アカデミー院長兼任のキャッチャーとして、チームを冷静に管理する性格も心強い。アングルはピッチャーのレオナルドにも、その臨終の際の想像画を描いたくらいだから、常々尊敬心を抱いており、リードも細心である。

3番ベラスケスは打率、守備、走塁とも完璧主義のテクニシャンで、頭脳派のパワー・ヒッターである。ベラスケスの宮廷肖像画あ、野球でいえば、華麗な三塁打であるそうだ。

4番は神様ミケランジェロである。ホームラン王だから、ローマ法王とは対等な口をきくほど気位が高い。

5番のレンブラントは人気をよいことにして贅沢三昧したつけが回り、かなり借金を背負っているらしく、ボーナス次第で見違えるほどの働きをする。

6番ロマン派のドラクロワは守備要員、壁でも天井でもどこでもこなせるし、話題性のある絵が多いから、時にタイムリー・ヒットが期待できる。

下位の7・8番にゴヤとターナーという大物を置いたのは、宮廷画家であると同時に、反体制の表現をする、したたかなゴヤの方は、相手に応じてバットを左右に換えるスイッチ・ヒッター的な打撃ができる。
旅行好きな風景画家ターナーは、フット・ワークが軽く、盗塁王のねらえるグランド・ツーリストである。いずれも、相手ピッチャーには気が抜けない、嫌なバッターであると井出氏は想像している。

ここまでは、井出氏の半ば“お遊び”のオーダーおよび査定であるが、次に紹介するのは、フランス17世紀の美術批評家によるものである。

ロジェ・ド・ピールによる著名画家の査定


フランス17世紀の美術批評家ロジェ・ド・ピール(1635-1709)の『絵画の原理講義』(1708年、パリ)にみえるランキングを紹介しておこう。
         <構想><デッサン><色彩><表現><合計>
ラファエロ    17    18     12   18   65
ルーベンス    18    13     17   17   65
カラッチ     15    17     13   13   58
ル・ブラン    16    16      8   16    56
コレッジオ   13 13 15 12 53
プッサン    15 17 6 15 53
ティツィアーノ 12 15 18 6 51
レンブラント 15 6 17 12 50
レオナルド 15 16 4 14 49
ジョルジョーネ 8 9 18 4 39
ミケランジェロ 8 17 4 8 37
カラヴァッジオ 6 6 16 0 28


ド・ピールは絵画の世界で、上記の選手への査定を行った人物である。
ド・ピールは、ルネサンスから当時の著名画家を構想、デッサン、色彩、表現の四分野でそれぞれ20点満点、合計80点で査定しているそうだ。
井出氏はそれを抜き書きしている(現代の評価と全く違った結果となって興味深い)。

例えば、井出氏がピンチ・ヒッターにも入れなかったラファエロがルーベンスと並んで堂々1位となっている。それに比べ、なんと神様の4番打者ミケランジェロがビリから2番目である。デッサンだけの評価とは、勝負に関係のないホームランが多いと見なされたようだ。
レンブラントは大砲が期待されたのに、ポテンヒットばかりとみなされた。カラヴァッジオなど、デッド・ボールが過ぎると判断されて、表現は零点である。
しかし、ド・ピール球団社長の友人で、選手会アカデミーの会長ル・ブランは当然か意外な高得点をもらい、4位につけ、にっこりハンを押したと井出氏は想像している。
1708年のこのシーズン、大物トレードがありそうだと結んでいる。
(井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館、1994年、135頁~145頁)

【井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館はこちらから】


井出洋一郎『美術の森の散歩道―マイ・ギャラリートーク』 (小学館ライブラリー)


ミケランジェロの「奴隷」について


ミケランジェロは、「モーセ」と「奴隷」という彫刻で何を表現しようとしたのであろうか。
「モーセ」には、なにか沈鬱な影が強く宿っており、モーセが前途の困難と使命の重大さを十分に意識していることを表現したものだといわれる。あるいは「モーセ」に託してミケランジェロが祖国フィレンツェの、そしてイタリアの運命のきびしさを示したものだともいわれる。
一方、「奴隷」の姿も、虜囚のユダヤ人を、あるいは外国勢力の支配のもとのイタリアを、あるいはメディチ独裁下のフィレンツェ民衆の苦痛を示すものとも、解釈されている。
(会田雄次『ミケランジェロ その孤独と栄光』新潮社、1966年[1977年版]、174頁~175頁)。
【会田雄次『ミケランジェロ その孤独と栄光』はこちらから】


『ミケランジェロ―その孤独と栄光』


ミケランジェロ、レオナルド、ラファエッロ


ミケランジェロは、1475年3月6日、フィレンツェ近くの小邑カプレーゼに生まれた。父はその町の大法官であった。
ミケランジェロは6歳で学校に通い始めたが、出来の悪い生徒で読み書きの習得も遅く、古典語にも親しめず、絵を描くことにのみ異常な意欲を示して、父を絶望させたようだ。また、6歳の時、母を亡くしている。

13歳の時、当時最高の流行画家ギルランダイオの工房に入り、徒弟となった。工房の仲間が酒場などで憂さを晴らしている時、ミケランジェロは紙と鉛筆を携えてフィレンツェの町を逍遥し、聖堂や彫像の類を綿密に写生した。

1490年、15歳の時、ロレンツォ・デ・メディチ邸に寄宿を許され、教養をつんだ。ミケランジェロはみずからに娯楽を許さず、友人を求めず、若い娘に目もくれず、陰鬱寡黙で喧嘩早かったそうだ。ある時、トリジアーノという男といさかい、こっぴどく殴られて、鼻が曲がってしまった。それ以来ますます人間嫌いになり、性格がひねくれた。
(恩人ロレンツォに敵対するサヴォナローラを熱烈に崇拝するようになったのは、主としてこの狷介な性格の類似のためと、モンタネッリはみている。1492年、ロレンツォは世を去る)

ミケランジェロは、1495年、20歳となる。この20代はミケランジェロの人生にとって、かけがえのない時代であったようだ。フィレンツェでレオナルド・ダ・ヴィンチと会う。そして1498年、23歳の時、「ピエタ」(サン・ピエトロ大聖堂)を、1504年、29歳の時、「ダヴィデ像」(アカデミア美術館)を制作した。
「ピエタ」は、ローマ駐在フランス大使ジャン・ド・ヴィリエが制作を依頼し、1年で完成し、ミケランジェロの最高傑作の一つとなった。23歳のミケランジェロは、この一作で名声を得た。
(モンタネッリ、ジェルヴァーゾ(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史 下巻』中央公論社、1982年、369頁~381頁。羽仁五郎『ミケルアンヂェロ』岩波新書、1939年[1998年版]、83頁~160頁)


ヴェルフリンは、「ピエタ」のマリアの態度について、次のように叙述している。
「なお一層に驚くべきものはマリアの態度である。泣き腫れた顔、苦痛のしかめ面、力なき崩折れ、といったものが以前の作家たちの表わしたところである。しかるにミケランジェロは、「神の母は地上の母のように泣くべきでない、」といっている。全く静かに彼女は顔を垂れ、顔つきには感動がなく、ただ沈められた左手のみが雄弁である。それは半ば開かれて、苦痛のおし黙った独白に伴奏している。」
(ヴェルフリン(守屋謙二訳)『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』美術出版社、1962年[1973年版]、65頁~66頁)

ミケランジェロは、「ピエタ」のマリアの悲しみを表現するにあたり、「神の母は地上の母のように泣くべきでない」と考えていたようだ。以前の作家が、その悲しみを泣き腫れた顔、苦痛のしかめ面などで表わしたのに対して、ミケランジェロは、静かに顔を垂れ、感動がない顔つきにした。そして、左手にその悲しみを雄弁に語らせたとヴェルフリンはみる。「それは半ば開かれて、苦痛のおし黙った独白に伴奏している」と捉えている。

さて、ミケランジェロは、上品で社交的で身ぎれいなレオナルド・ダ・ヴィンチとは対照的な人物であった。
歴史家モンタネッリは、20代のミケランジェロについて次のように叙述している。
「相変わらず友人を作らず、酒場や遊郭に通わず、女に目をくれず、汚れた服を着、髪はくしけずらず、めったに身体を洗わず、着のみ着のまま、長靴もはいたままで寝た。態度は粗暴だし、容姿も美しいとは言えなかった。背は平均より低く、肩だけが不釣合にがっちりと張り、若いのにひたいに皺が刻まれ、頬骨が尖り、口が歪み、鼻もトリジアーノの拳骨で曲げられたままになっていた。それでもミケランジェロには、どこか人をひきつけるところがあったのであろう。かれに会った人はすべて、その魅力に打たれたと言う。」
(モンタネッリ、ジェルヴァーゾ(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史 下巻』中央公論社、1982年、372頁)

【モンタネッリ、ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史』中央公論社はこちらから】


『ルネサンスの歴史(下) - 反宗教改革のイタリア』 (中公文庫)


一方、レオナルドの20代について、モンタネッリは次のように述べている。
「かれは疲れを知らぬ働き手で、描き彩る他に数学、物理、天文、植物、医術の論文を貪り読み、飽きれば馬を森へ乗り入れて長い散策を娯しみ、あるいはリュートを弾いて歌った。女性には関心を示さなかったが、優雅に着こなし、長い髯を蓄え、物腰が柔らかく、心遣いが細やかだった。」
(モンタネッリ、ジェルヴァーゾ(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史 下巻』中央公論社、1982年、265頁)

レオナルドも、女性に関心を示さなかったが、ミケランジェロと違い、服装のセンスはよく、優雅に着こなした。ミケランジェロやレオナルドと対照的な人柄、性格であったが、ラファエッロ である。モンタネッリは、10代後半から20代初めのラファエッロ について、次のように述べている。
「若い画家は昼夜兼行で制作に当った。かれを仕事から引き離すことができたのは、女性の魅力だけだった。かれは、褐色の髪の愛らしい感じの女を特に好んだ。美青年で、粋で、気前がよかったから、女はいくらでも集まって来た。自画像を見ると、やや繊細な感じで、顔色は蒼く、口と目が大きく、鼻はがっちりしていて、褐色の長髪を肩に垂らしている。服を優雅に着こなし、指に高価な指輪をはめていた。溢れるばかりの才能がある上に、物腰が柔らかだったから、同僚の好感を買った。」
(モンタネッリ、ジェルヴァーゾ(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史 下巻』中央公論社、1982年、280頁~281頁)。

ラファエッロ は美青年で、粋で、気前がよかったようだ。「かれを仕事から引き離すことができたのは、女性の魅力だけだった」とあるように、女好きでもあり、女性にもてた。三拍子も四拍子も揃っており、ミケランジェロとは全く対照的な人物像である。

さて、ミケランジェロの名声は、フィレンツェ共和国の依頼で、3年の年月を費やして完成させた『ダヴィデ』で決定的となった。
この完成後、フィレンツェは、ミケランジェロに市庁舎大広間の壁画を依頼し、ダ・ヴィンチと競作させようとした。ダ・ヴィンチは50歳、ミケランジェロは30歳であった。この壁画の制作については、ダ・ヴィンチが途中で放棄し、ミケランジェロもローマに呼ばれ、壁画は完成されなかった。
(柳澤一博『知られざる芸術家の肖像 伝記映画を見る』集英社文庫、1997年、103頁~104頁)。

ミケランジェロを主人公とした映画「華麗なる激情」


システィナ礼拝堂の天井画に挑むミケランジェロを描いた映画に「華麗なる激情」(THE AGONY AND THE ECSTASY)がある。1965年のアメリカ映画(20世紀フォックス)である。

この映画は、天井画に挑むミケランジェロと、パトロンの法王マリウス2世との葛藤と友情を描いた大作である。
監督のキャロル・リードはイギリスの名匠で、「第三の男」(1949年)などの名作で知られる。主演のミケランジェロ役には、「ベン・ハー」(1959年)のチャールトン・ヘストン、ユリウス2世役には、「クレオパトラ」(1963年)のレックス・ハリスンが扮した(ルックス・ハリスンは「クレオパトラ」でシーザーを演じただけあって、威厳があり、魅力的な人物であると柳澤一博氏は評している)。
監督のキャロル・リードは、華麗なルネサンスの時代を背景とした芸術家ミケランジェロの“苦悩と恍惚”(英語の原題)を描きだしたといわれる。

この映画の焦点は、パトロン(法王)と芸術家との対立と葛藤である。
当時の芸術家によってパトロンは不可欠な存在だった。レオナルド・ダ・ヴィンチは生涯パトロンを求めてイタリアを転々とし、ミラノのスフォルツァ公やチェーザレ・ボルジア、最後はフランス国王フランソワ1世に仕えた。
一方、ミケランジェロは当時イタリアでは最大のパトロンであるローマ法王ユリウス2世以来の歴代法王に仕えた。
この映画では、ユリウス2世はせっかちで、天井画制作中のミケランジェロを何度もせっつく。すると、ミケランジェロは「私が満足した時が完成です」と答える。パトロンと芸術家は、顔を合わせるごとに言い争いをする。ヘストンのミケランジェロは、たとえ相手が法王でも自分の主張を押し通そうとする。ふたりとも気性が激しく、頑固である。

この映画には、やはりユリウスに重用された画家ラファエッロ(トーマス・ミリアン)も登場する。ミケランジェロよりも8歳年下のラファエッロ は、ミケランジェロとは対照的に穏やかな性格で、優雅な物腰の人物である。ラファエッロは若いのに自分の立場を心得ていて「芸術家はパトロンの召使に過ぎない」ということを知っている。

この映画でも、ミケランジェロとラファエッロ は対照的な人物像として描かれている。ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井画に着手したのは、1508年5月10日であった。天井画に着手した時、ミケランジェロは33歳、完成したのは37歳の時だった。
ミケランジェロは1000平方メートル近い天井にほとんど一人で絵を描いた。これは気の遠くなるような仕事である。

モンタネッリは、次のように記している。
「この言語に絶する苦闘の四年間は、ミケランジェロを二十年分も老け込ませ、その身体を変形させ、視力を弱め、性格をさらにねじ曲げた」
(モンタネッリ、ジェルヴァーゾ(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史 下巻』中央公論社、1982年、376頁)

天井画が完成すると、ローマ中の人々が見物に押し寄せた。絵が完成して数か月後、ユリウス2世は逝去したが、念願の大作を目にすることができた。
このシスティナ礼拝堂の天井画から23年後、ミケランジェロは時の法王パウルス3世の依頼で、「最後の審判」の制作に取りかかった。この時、ミケランジェロは59歳である。これは6年の年月を費やして完成した。

晩年のミケランジェロは、ルネサンス最大の巨匠として、王侯並みの扱いをされ、若い芸術家からは神のように崇められた。
だが、彼は病気を患い、孤独だった。1564年2月18日、死去し、数え年89歳であった。
(柳澤一博『知られざる芸術家の肖像 伝記映画を見る』集英社文庫、1997年、100頁~113頁)。

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ギリシア神話のテセウスと西洋絵画


【テセウスについて】
井出洋一郎氏の『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2010年)には、ギリシア神話のテセウスを主題とした絵画を解説している。

2020年1月から、TBSテレビ・ドラマ『テセウスの船』が話題になっている。主人公の父・佐野文吾が無差別殺人事件の犯人として死刑判決が下ったが、冤罪を主張し続けている中、息子の田村心(竹内涼真)が、事件当時の28年前にタイムスリップしてしまうという設定である。Uruさんの歌うウィスパー・ボイスの主題歌「あなたがいることで」も、しっとりとしたバラードで、ドラマに奥行きを与えている。

さて、ギリシア神話のテセウスは、牛頭人身のミノタウロスを倒した英雄として知られている。井出氏も『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2010年)の「第2章 英雄と半神、人類と怪物たち」において、テセウスを取り上げている(118頁~123頁)。簡単に紹介しておこう。

テセウスはアテネの最高の英雄で、人気はヘラクレスに次ぐ。ヘラクレスは野蛮で何をするかわからないところがあるが、テセウスははるかに紳士的かつ常識的である。
アテネ王のアイゲウスが友人の娘アイトラとなした子という説と、実父はポセイドンだったという説があるようだ。

美術では主に三つの物語に主人公として表現される。
① 「アテネに戻るまでの武勇伝」
テセウスの父アイゲウスは生まれる子のために、剣とサンダルを大岩の下に隠し、母となるアイトラに、子がそれを取り出せたら、アテネに寄こすように言い残した。
成長したテセウスはそれを難なく取り出すと、徒歩でアテネの父のもとに向かった。その間、行く手を阻む強盗や害獣を次々と退治し、テセウスはアテネに入った。アイゲウス王の妻で魔女のメデイアは、自分の子を世継ぎにしようとして、テセウスを毒殺しようとするが失敗し、アテネから逃げ去る。

② 「ミノタウロス退治」
エウロペの子でヘレタ王ミノスは、ポセイドンとの誓約を破り、妃パシファエが牛頭の怪物ミノタウロスを産むという天罰を受ける。
ミノス王は名士ダイダロスに命じて迷宮を作らせ、ミノタウロスを封じ、クレタとの戦いに敗れたアテネの少年少女をミノタウロスの生贄として要求した。そこにテセウスが志願して、生贄を運ぶ船に乗り込み、クレタ島に向かう(その船は、悲しみを表す印として黒い帆が張られていた)。
ミノス王の娘アリアドネはヴィーナスの導きでテセウスを愛し、テセウスに迷宮から糸をたぐって脱出する方法を教える。見事、ミノタウロスを退治したテセウス一行はアリアドネを連れてクレタ島を去る。

≪ミノタウロス退治の絵画≫
この「ミノタウロス退治」関連の美術品としては、次のようなものがある。
・ギュスターヴ・モロー「クレタ島の迷宮のミノタウロスに捧げられるアテネの若者たち」
(1855年、油彩・画布、アン美術館[フランスのアン])
・作者不詳「ミノタウロスを倒すテセウス」
(紀元前5世紀初め、陶器画、赤絵式スタムノス、大英博物館[イギリスのロンドン])
・二コラ・プッサン「父の武器を発見するテセウス」
(1633-34年、油彩・画布、ウフィツィ美術館[イタリアのフィレンツェ])
・ヨハン・ハインドリッヒ・フュースリ「アリアドネから糸を受けるテセウス」
(1788年、油彩・画布、チューリヒ美術館[スイスのチューリヒ])
・フランソワ・ジョゼフ・エム「ミノタウロスを退治するテセウス」
(1807年、油彩・画布、国立高等美術学校[フランスのパリ])
・パブロ・ピカソ「ミノタウロス」
(1928年、木炭、紙・画布、ポンピドゥー・センター国立近代美術館[フランスのパリ])

③ 「アマゾン族との戦い」
アテネ王となったテセウスは、黒海沿岸のアマゾン族を退治するため戦い(アマゾマキア)、女王ヒッポリテの妹アンティオペを拉致してアテネに連れ帰った。
アマゾン族は復讐のためアテネを襲ってアクロポリスを包囲するが、テセウスの働きで撃退された。

井出氏は、「ギャラリートーク」というコーナーで、さらにテセウスについて詳しく説明している。
テセウスはヘラクレスに次ぐ英雄のはずなのに、絵ではミノタウロス退治くらいしかない。不思議なことに、ギリシア・ローマ美術だと壺絵や壁画でたくさん登場するが、ルネサンス時代にはほとんど名画がない。17世紀になって、やっと英雄として歴史画に顔を出してくる新顔である。

そもそも15、16世紀ルネサンス時代の名画に描かれた神話というのは、実はイタリアに伝わったローマ神話なので、本家本元のギリシア神話ではないといわれる。ギリシア神話自体に興味が持たれたのは、ギリシア本土に考古学的な興味が出てきた17世紀の古典主義時代からで、本格的に遺跡が発掘されてヨーロッパ中が古代史ブームにわいた18世紀になってからである。
だから、アテネの王子で周辺の怪物退治で名をはせたといっても、アッティカ地方のローカルな英雄テセウスの美術デビューはかなり遅れたと井出氏は考えている。

ところで、テセウスの最期は悲惨で、ヘラクレスが天上のオリンポスに迎え入れられたのとは対照的である。すなわち、アマゾン族の妻に産ませた子のヒッポリュトスに、後妻のパイドラが不倫の恋情を寄せ、振られた腹いせに義理の息子に誘惑されたと嘘をついて自殺する。テセウスはそれを信じて息子を死なせてしまう。
(エウリピデスやラシーヌの悲劇になった有名な話である)
ここらあたりが、テセウスの運の尽きである。あげくはアテネからも追われ、亡命を受け入れたスキュロス島の王に殺害されてしまう。
(井出洋一郎氏『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2010年、118頁~123頁)

【井出洋一郎『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出はこちらから】


井出洋一郎『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか 』(中経の文庫)



『ミロのヴィーナス』の欠けた腕の謎


井出洋一郎氏は『美術の森の散歩道』(小学館、1994年)の「第12章 ミロのヴィーナス 美の女神像の失われたポーズを求めて」と題して、『ミロのヴィーナス』の欠けた二本の腕の謎について解説している(このブログでも以前言及したが、ここで補足しておく)。

まず最初に、ルーヴル美術館のギリシア・ローマ部長アラン・パスキエ氏が、1985年のルーヴル発行の解説書で述べた見解を紹介している。
「左手は上方、右手は下に体を交差して左腰の高さに、それ以上のことは無謀な推量に過ぎない」と。
これがパスキエ氏の結論である(身も蓋もない結論と井出氏は評している)

1820年の発見時から、165年を経てこの結論に至るまでが、諸説紛々の時代であったが、井出氏は主な見解を紹介している。
≪有力なフルトヴェングラー説≫
各種の説の中でも横綱的風格を保っているのが、ドイツの美術史家アドルフ・フルトヴェングラーの説である。
クラシック音楽のファンなら周知のとおり、彼は往年の大指揮者ウィルヘルム・フルトヴェングラーの父上である。ミュンヘン大学の教授として、ギリシア・ローマ美術史に優れた業績を残した。

フルトヴェングラーの学説(1893年)以前には、この『ミロのヴィーナス』はその古典的な格調のゆえに、紀元前5-4世紀の制作年代と考えられてきた(すなわち。古典期後期からヘレニズム初期の古い時代)。
古い方が有難みが増すし、等身大以上の丸彫りのヴィーナス像で首の付いたギリシア彫刻は、今でも『ミロのヴィーナス』しかないので、当時の学会の過剰な期待がかかったともみられる。

しかし、フルトヴェングラーは、その様式や彫刻技術、銘文の書体などが、古典期より下ったヘレニズム末期(紀元前2世紀末)のものであることを明らかにした。今日の研究の進歩によって、その時代推定は広く認められている。

フルトヴェングラーの復元図では、右手は左腰にあてがい、石柱に支えられた左手は、丸い果物が描かれている。ヴィーナスとともに発見された腕の断片を、リンゴをもったヴィーナスの手とみなし、前に出したその腕の重さを支えるために、当時よく使った石柱を補った。その台座として、ルーヴル美術館に入ったばかりの『ミロのヴィーナス』を写生した、画家ドベェのデッサンに描かれた銘文入りの台座を当てた。

古来ヴィーナスにリンゴは付き物で、女神アテナやヘラと一緒に美人コンテストを開いたときの審判パリスが、優勝の賞品としてヴィーナスに与えたのが金のリンゴである。リンゴを持ったヴィーナス像は、「勝利のヴィーナス」としてあがめられ、ほかにも『アルルのヴィーナス』など、ローマ時代の模刻に例がある。

また、このミロ島の古代名は「メロス」、ギリシア語でリンゴは「メーロン」で、ますます『ミロのヴィーナス』が持つにふさわしい。また、図の台座の銘記からは、少なくとも紀元前3世紀末以降に建設された町であるアンティオケア出身の何とかアンドロスが作者と読め、この像のヘレニズム末期様式と文の内容、書体が一致した。これで万事解決と思われた。
ところが、このフルトヴェングラーの復元案には、かなり疑問が残る。
・まず、ルーヴルに保存されているリンゴを持つ左手や腕の断片を、ヴィーナスのものと考えたが、この断片は大理石の素材や仕上げの点で本体とは異なり、本来ヴィーナスの付属品とは必ずしもいえない。
・また、台座もヴィーナスが踏まえるドベェのデッサンとは違う、ヴーティエの写した若い男のヘルメ柱の台座である可能性が大きい(肝心の台座がルーヴル内で行方不明となる)。
このように、フルトヴェングラーは発掘品のすべてをヴィーナス本体に同一のものと考え過ぎた。
・この発掘現場の洞穴は、中世には石灰製造工場の資材置場だったとする説があるようで、信仰の失せた大理石像など、石灰の原料にされてしまう。そしてヴィーナス像の周りに、像と関係のない断片があってもおかしくない。

完璧と思われたフルトヴェングラー説にも欠点があり、その欠点が共通した学説として、イギリスのクローディアス・タラルが、いち早く1860年に発表した案がある。
タラルは、失われた台座に若い男のヘルメ柱を立て、左手を宙に浮かせてリンゴを持った手を下にかざすように考えた(ヘルメ柱を従えたヴィーナス像も実在するが、少なくとも、左腕のポーズは不自然であると井出氏は評している)。

≪その他の諸説 ハッセ、ファレンティン≫
その他の諸説も紹介している。ハッセやファレンティンは、問題の多いヘルメ柱や支柱を取り除き、単体像として新説を出した。
ハッセ案は、タラル案と同じようなポーズであるが、ヴィーナスは左手で髪を解こうとしており、その手に持つのはリンゴではなく、ヘアバンドの飾りであろうとする。
また、ファレンティン案は、水浴中にのぞき見されて驚いたヴィーナスがはっとして左手を挙げたところと考え、後にはこれはヴィーナスではなく、狩人アクタイオンにのぞかれる女神アルテミスであると改めている。
(これらの案に対して、髪を解くポーズというのも無理が多く、またアルテミスは処女神なので、この像のイメージとは合わないと井出氏は批判している)

≪その他の諸説 ミリンジェン、クララック、ミュラー≫
ところで、19世紀前半の英、仏、独を代表する学者(ミリンジェン、クララック、ミュラー)は、ヴィーナスの両手に金属製の丸い盾を持たせて、盾に映る自らの姿にうっとり見入るポーズを考えた。

これらの案に対して、井出氏はかなり可能性が感じられるという。神話での夫役である軍神アルス(ローマ名はマルス)の盾を持つヴィーナス像は実例があり、ナポリの『カプアのヴィーナス』などには、『ミロのヴィーナス』と少なくとも血縁めいた親近さがあるとみている。
ただ、両者の決定的な違いが、カプアのうつむいた視線は、今日失われた盾に完全に向かっているのに対して、ミロの像はむしろ上を向き、遠くを眺めている点にある。
(とすると、どうしてヴィーナスは、盾を持たなくてはいけないのかと素朴な疑問を抱くことになる)

≪群像説≫
このヴィーナスは群像の一つであったとする説がある。
ヴィーナスの姿勢が左に開かれていることから、それは単身像ではなく、左に何かの像を伴ったカップル、あるいはグループ像だと考える案である。
事実、ローマ時代には、ヴィーナスとその夫アレスを並べた例が残っている。時代の近いヘレニズム末期の『ミロのヴィーナス』にも、隣にアレス像を組み合わせる意見がある。
例えば、アレス像として『ボルゲーゼのアレス』(紀元前5世紀末の原作によるローマ期のコピー)を横に置くと、戦に出かける夫を優しく見送る若妻、といった風情がよくにじみ出ている。しかし、ここでも問題となるのが、ヴィーナスの視線である。やはり、この若妻は遠くを見過ぎている。

さて、ヴィーナスが発見された現場近くには、ギリシア時代の体育館の遺跡があるが、このヴィーナス像は、元来は体育館の記念彫刻であると仮定する説もある。今は失われた大理石板の銘文には、体育館次長なるバッキオスという人物が、ヘルメスとヘラクレスに奉献するとあり、ヴィーナス像がヘルメス像やヘラクレス像と群像となっていたとする考えである。

そこからは計3体のヘルメ柱が発見されているので、真ん中の像は青年ヘラクレス、右は美徳の女神、左はヴィーナス像と考える。つまり、神話にある「別れ道のヘラクレス」の物語を群像として表したものという説である。
英雄ヘラクレスが若いころ道を歩いていると、美しい女(=欲望)と質素な女(=美徳)に同時に誘われ、迷った挙句に質素な女の指す厳しい道を選び、未来の苦難と栄光が約束されるといった教訓がテーマになっているそうだ。

ヴィーナスは美とともに欲望の女神であり、左手にリンゴをかざし、右手は若いヘラクレスを指して誘惑するポーズをとったとする。ヘラクレスはレスリングの神様だから、美女の誘いに負けずに練習に励めという意味合いになるという。ルーヴルのパスキエ氏が紹介した案であるそうだ。

井出氏としては、ここまで他の像を補う必要があるのか疑問だし、ヴィーナスの表情がそんなに誘惑的に見えないのが弱点であると評している。
井出氏は個人的な意見としては、「無謀な推量」ならば、大胆な最後の群像説に食指が動きながら、最初のフルトヴェングラー説も捨て難いとみている。
ともあれ、二本の腕が失われたおかげで、この『ミロのヴィーナス』の美が永遠のものになったことだけは否めない。彫刻の美しさは、なんと言ってもトルソ(胴体)にあるからとこの12章を結んでいる。
(井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館、1994年、161頁~174頁)

【井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館はこちらから】


井出洋一郎『美術の森の散歩道―マイ・ギャラリートーク』 (小学館ライブラリー)



≪参考文献≫


井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2011年
井出洋一郎『聖書の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2010年
井出洋一郎『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2010年
井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館、1994年
井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』青春出版、2005年
フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年
佐藤幸三、青木昭『図説レオナルド・ダ・ヴィンチ――万能の天才を尋ねて』河出書房新社、1996年
塚本博『イタリア ルネサンスの扉を開く』角川学芸出版、2005年
H.ヴェルフリン『古典美術――イタリア・ルネサンス序説』美術出版社、1962年[1973年版]

会田雄次『ルネサンス 新書西洋史④』講談社現代新書、1973年[1994年版]
高階秀爾『ルネッサンスの光と闇――芸術と精神風土』中公文庫、1987年
(本書は、ルネサンスの美術作品を時代の精神的風土のなかに読み解こうとした著作で、昭和46年度の芸術選奨文部大臣賞を受けた名著)
鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」 シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年
羽仁五郎『ミケルアンヂェロ』岩波新書、1939年[1998年版]
会田雄次『ミケランジェロ その孤独と栄光』新潮社、1966年[1977年版]
佐藤幸三、青木昭『図説レオナルド・ダ・ヴィンチ――万能の天才を尋ねて』河出書房新社、1996年
柳澤一博『知られざる芸術家の肖像 伝記映画を見る』集英社文庫、1997年
モンタネッリ、ジェルヴァーゾ(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史 上下巻』中央公論社、上巻1981年、下巻1982年
フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年
ヴェルフリン(守屋謙二訳)『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』美術出版社、1962年[1973年版]

【井出洋一郎『聖書の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版はこちらから】


井出洋一郎『聖書の名画はなぜこんなに面白いのか 』(中経の文庫)

【井出洋一郎『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出はこちらから】


井出洋一郎『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか 』(中経の文庫)

【井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』青春出版はこちらから】


井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』 (プレイブックス・インテリジェンス)

【井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館はこちらから】


井出洋一郎『美術の森の散歩道―マイ・ギャラリートーク』 (小学館ライブラリー)


【モンタネッリ、ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史』中央公論社はこちらから】


『ルネサンスの歴史(下) - 反宗教改革のイタリア』 (中公文庫)

【ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ』タッシェン・ジャパンはこちらから】


ダ・ヴィンチ NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)



≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その5 私のブック・レポート≫

2020-03-14 18:51:17 | 私のブック・レポート
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その5 私のブック・レポート≫
(2020年3月14日)
 


※≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』はこちらから≫


井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』 (中経の文庫)






【読後の感想とコメント】の執筆項目は次のようになる。
(なお、2回に分けて述べることにする)


≪その5の執筆項目≫

ルーヴル美術館について
ルーヴルの初代館長ヴィヴァン・ドゥノン
『モナ・リザ』の展示場所の変遷について
レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ
ミケランジェロとヴァザーリの『芸術家列伝』
ルネサンス期における聖母像の変化
レオナルドの初期聖母像の特色とその後の変化
レオナルド・ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』
レオナルドの『岩窟の聖母』に対するヴェルフリンの評価
レオナルドの『カーネーションの聖母子』の特色
ラファエロについて

≪その6の執筆項目≫
美術作品のランキング
ミケランジェロ、レオナルド、ラファエッロ
ミケランジェロの「奴隷」について
ミケランジェロを主人公とした映画「華麗なる激情」
ギリシア神話のテセウスと西洋絵画
『ミロのヴィーナス』の欠けた腕の謎







【読後の感想とコメント】


ルーヴル美術館について


井出洋一郎氏の監修した『世界の博物館 謎の収集』(青春出版、2005年)において、第2章で、ルーヴル美術館について紹介している(29頁~48頁)。

ルーヴル美術館は、パリを横切るセーヌ川の東岸にある。川を挟んで西岸には、オルセー美術館の優美な建物が見え、北西に向かうコンコルド広場があり、さらに北へ向かうと凱旋門にぶつかる。

さて、ルーヴル美術館は巨大なカタカナの「コ」の字型の建物である。3つの部分に分かれて、それぞれにリシュリュー翼、シュリー翼、ドゥノン翼という名前が付けられている。
ここを訪れた人は、まず「コ」の字型の建物に囲まれた中庭にあるガラスのピラミッドに入り、地下の受付で入場券を手に入れた後、それぞれの翼へと足を運ぶことになる。
35万点にも及ぶ展示物は、「古代オリエント美術・イスラム美術」部門、「古代エジプト」部門から「彫刻」部門、「絵画」部門まで7つのパートに分けられる。さらにルーヴルそのものの歴史を語る「中世のルーヴル/ルーヴルの歴史」部門が付け加えられている。

ただ、部門ごとにひとつの部屋にまとまっているわけではなく、内容によっては分散しているので、すべてを系統立てて見るのは難しい。それはまるで芸術品の迷宮である。
だから、自分が見たいもの、有名なものはあらかじめ目星をつけて、まっすぐそこに向かって進んでいくのが良いとされる。
例えば、ルーヴル美術館を訪れた人の多くが真っ先に足を運ぶのが、ドゥノン翼の2階である。そこには、かの『モナ・リザ』があるからである。
(井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』青春出版、2005年、29頁~30頁)

ルーヴルの初代館長ヴィヴァン・ドゥノン


今回紹介した井出洋一郎氏の『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2011年)のコラム「初代館長ヴィヴァン・ドゥノン」において、ルーヴル美術館の初代館長について述べている。
ドミニク・ヴィヴァン=ドゥノン男爵(1747-1825年)は、ルーヴルの前身ナポレオン美術館の初代館長であった。その名は、セーヌ川寄りのドゥノン翼として今でも記念されている。
ルーヴル美術館の他の翼の名リシュリュー、シュリーはルーヴル宮殿の拡張に功績があった王の重臣に過ぎない。
ドゥノンは美術館の実質的な初代館長(1802-1815年)であり、一番の功績者であった。
ナポレオンの台頭とともに、エジプト遠征に考古学者、記録画家として随行して、1802年に版画入りの報告書を提出したことが、後の皇帝に認められた。このことにより、初代館長に任命される。
(井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2011年、129頁)

『モナ・リザ』の展示場所の変遷について


現在でこそ、『モナ・リザ』はルーヴル美術館に展示されているが、歴史的にみると、この名画をフランソワ1世が入手して以来、その展示場所は色々と転々としている。この点を簡潔に説明しておきたい。

ルーヴルの建物は、もともと1190年にパリを守る要塞として建てられたが、フランソワ1世によって華麗な王宮として、1550年に生まれ変わる。
またフランソワ1世は名画『モナ・リザ』をダ・ヴィンチの死後に買い取ったが、すぐにルーヴルに持ち込んだわけではない。まず、それをフォンテーヌブロー城に持ち運んだ。その時多くの人の目に触れる機会が生まれ、誰かが「これはジョコンダ夫人である」と言い出した。それ以降『モナ・リザ』=ジョコンダ夫人だという説が生まれたと井出氏は解説する。

1683年にはルイ14世のコレクションに加えられ、1695年にはヴェルサイユ宮殿に飾られた(一時的にルーヴルに移された時期もあったが、18世紀末まではほとんどヴェルサイユ宮殿に飾られていた)。

その後、この作品を手にしたのは、かのナポレオンだった。彼もまた、この微笑に魅せられ、居住していたチュイルリー宮に『モナ・リザ』を移し、自分の寝室の壁にかけた。そして、その後、ナポレオンが手に入れた美術品を一堂に集め、「ナポレオン美術館」といわれたルーヴルに移されることになる。最終的に『モナ・リザ』がルーヴル美術館の正式な収蔵品となるのは、1804年のことである。
自分の寝室に『モナ・リザ』を飾ったナポレオンは、ルーヴルの歴史を語る上で欠かせない人物のひとりである。そのナポレオンがその権力の象徴のひとつとしていたルーヴルだが、今は『モナ・リザ』がそのルーヴルの象徴として君臨し続けているのも、運命の不思議な巡りあわせである。
(井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』青春出版、2005年、29頁~48頁)

【井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』はこちらから】


井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』 (プレイブックス・インテリジェンス)


レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ


レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ、この3人は、細密な写実という隘路を通って、理想的に表現することを完成した、まさにルネサンス美術の完成者であったと評される。
しかもこの完成された美術は、必ずしも宗教と無関係であるのではない。ラファエロの聖母像でも「システィンの聖母」のごときは、威儀美容の人間美を兼ね備え、そのうえ喜怒哀楽の現世を越えた価値の表現であり、人間の慈母として人々の心からなる礼拝にたえるものである。それはまさに祭壇画であって、展覧会や大広間に飾られるべき装飾的な性格を持つものではない。
ミケランジェロの芸術も、人間的自覚と信仰を合一しようとする苦悩の中から生まれ、それにより深化させられた。
(会田雄次『ルネサンス 新書西洋史④』講談社現代新書、1973年[1994年版]、74頁)

また、レオナルドも、ミケランジェロも、ラファエロも、フィレンツェの育て上げた天才たちでありながら、ミラノやローマにおいてその天才にふさわしい活躍ぶりを見せた。これらのフィレンツェの子たちは、ヴァザーリの言う通り、「町を去って他国で作品を売」り、それによってフィレンツェの「町の名声を広く世界に伝えた」のである。
(高階秀爾『ルネッサンスの光と闇――芸術と精神風土』中公文庫、1987年、92頁~93頁)

ミケランジェロとヴァザーリの『芸術家列伝』


ヴァザーリの『芸術家列伝』は、その題名の示す通り、個々の芸術家の伝記を集大成したものである(1550年の初版本と1568年の再版本と2種の版がある)。

ヴァザーリが意図したのは、単に個々の芸術家の生涯を羅列的に並べるということではなく、ひとつの「芸術の歴史」を書くことであったようだ。ヴァザーリは、芸術にはひとりひとりの芸術家の創造力を超えた大きな流れのあることを信じ、「列伝」というかたちでその流れを明らかにしようとした。
ヴァザーリは『芸術家列伝』の序文のなかで、ギリシアの芸術家たちのことを語っているが、芸術はまず古代ギリシアに生まれ、育ち、繁栄の絶頂に達し、そして亡んでしまい、その後、ルネサンス期において(具体的にはチマブエ以降)、再び生まれ変わってきたと考えている。
このように、「再生」した芸術は、ミケランジェロにおいてその絶頂に達するものとヴァザーリは考え、そのような芸術の「歴史の流れ」を書き残した。
したがって、『芸術家列伝』は、ミケランジェロにおいて頂点に達する芸術史ともいえる。ヴァザーリは「ミケランジェロ伝」を書くためにあれだけ多くの芸術家の伝記を書いたと言ってもよいと高階氏は極端な言い方をしている。

少なくとも、1550年の初版本においては、その意図は明確だったそうだ。だから、ヴァザーリはその「ミケランジェロ伝」を、他のどの芸術家の伝記よりも桁違いに長く書いたのみならず、当時まだ活躍していた芸術家は、ミケランジェロ以外全部切り捨ててしまった。

ただし、1568年の再版においては、事情が変わっていた。ヴァザーリにとっていわば「神」にも等しい存在だったミケランジェロはすでに世を去っていた。新しい世代の芸術家たちが、ミケランジェロやラファエロに代表される古典主義芸術の大家たちに代わって、その地位を確立していた。
だから、『芸術家列伝』の再版本では、その「歴史」をミケランジェロで終わりにすることはできず、新しく多くの現存(当時)の芸術家たちの伝記をつけ加えた。
「ティツィアーノ伝」もそのひとつである。この伝を書くためにヴァザーリはフェラーラに旅行までして、ティツィアーノに会って話を聞いている。それだけに『芸術家列伝』のなかでも、この「ティツィアーノ伝」の信憑性は高いとされる。
(高階秀爾『ルネッサンスの光と闇――芸術と精神風土』中公文庫、1987年、348頁~350頁)

【高階秀爾『ルネッサンスの光と闇――芸術と精神風土』はこちらから】


高階秀爾『ルネッサンスの光と闇―芸術と精神風土』 (中公文庫)



ルネサンス期における聖母像の変化


14世紀、初期ルネサンスの絵画は、平面の二次元的表現を超えて、立体的な三次元的深みを出そうとする努力がなされ、15世紀前半は、その三次元的表現が、より現実的形態と人間的表情を持つ工夫をともなうようになった。そして15世紀後半、レオナルド・ダ・ヴィンチが活躍するルネサンス最盛期を迎える。

その歩みを、14世紀のジョット、15世紀前半のマザッチョ、そしてレオナルドと、それぞれが描いた聖母像を青木昭氏は比較している。
・ジョット「荘厳の聖母」1310年頃
抽象的、図式的な中世・ビザンチン様式を抜け出して、人物の輪郭線が明暗によってぼかされ、聖母の表情や衣服の柔らかさは、画面にふくよかな立体感をもたせている。

・マザッチョ「聖母子」1426年頃
一見、中世的様式を踏襲しているかのようにみえるが、右手で、幼子キリストのあごをくすぐる聖母マリアは、まるで当たり前の母親であり、親子の情愛がほのぼのと感じられる。

・レオナルド「ブノワの聖母」1478年頃
レオナルドの最初期の作品の一つである。聖母の髪形は、師ヴェロッキオの影響が濃いが、豊かな丸みのある愛らしい聖母の表情は、レオナルド自身のものであるといわれる。この表情がその後のレオナルドの聖母像のパターンとなったと青木氏はみている。

上記三者のうち、ジョットの聖母では、いかに立体的に表現するのかに精一杯であり、その表情はまだ固い。マザッチョにおいて、その聖母の顔に温かい血が流れているのを感じることができるようになる。そしてレオナルドの聖母では、その生き生きとした表情に加えて、心の動きまで伝わってくるのがよくわかる。この表情、この手法こそ、ルネサンス精神そのものを具現していると青木氏は理解している。
レオナルドは、ルネサンスの先人たちの足跡の上に、ルネサンス精神の頂点を極めた。
(佐藤幸三、青木昭『図説レオナルド・ダ・ヴィンチ――万能の天才を尋ねて』河出書房新社、1996年、7頁~8頁)

レオナルドの初期聖母像の特色とその後の変化


塚本博氏は、レオナルドの聖母の顔の表情に注目して、初期フィレンツェ時代とミラノ滞在期以降では、その類型が異なることを指摘している。
「カーネーションの聖母」や「ブノワの聖母」では、フィレンツェの美術家の影響がまだ顕著であった。一方、「岩窟の聖母」や「聖アンナと聖母子」では、女性の面相に深みのある心理的起伏が生じているという。

① 「カーネーションの聖母」1475年頃、62×47.5㎝、ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク)
・初期フィレンツェ時代に描かれた、早い時期の聖母子図である。
・ほぼ正面を向いて量感ある上半身を見せるマリアの姿には、レオナルドの師であったヴェロッキオの彫像が反映されているとされる。
・また背景の幽遠な風景は、すでに聖アンナとモナ・リザの構成を予告していると塚本氏はみている。

② 「ブノワの聖母」1475-1478年頃、48×31㎝、エルミタージュ美術館)
・これも初期の聖母像の特色を示している。
・マリアと幼児キリストをともに斜めに組み合わせた、空間性の豊かな配置に、レオナルド独自の群像表現が見られる。
・しかし、ほほ笑みのマリアの初々しい姿には、フィレンツェの彫刻家デジデリオ・ダ・セッティニャーノの雰囲気が残っていると塚本氏は指摘している。
・このマリア像は、三王礼拝や猫を抱くイエスにも共通して現れているという。

③ 「岩窟の聖母」、ルーヴル美術館)
・ミラノに移ってからのレオナルドによる聖母像は、ヴェロッキオやデジデリオの影響が後退し、うつむくような内省的な表現を見せるようになる。ミラノ時代初期の『岩窟の聖母』はその変化をもっともよく示す作品である。
・この作品はまた、構図の観点からも独創的である。すなわち、三王礼拝に見られたような群衆の喧噪が静まり、岩山を背景にして、聖母と天使が二人の幼児を見守るような穏やかな所作で、画面の空間的広がりを規定している。
・アルベルティが推奨した動きの活発な物語画を目指した15世紀イタリア絵画は、この「岩窟の聖母」という作品の登場で、古典的様式に進路を変えたと塚本氏は理解している。
(塚本博『イタリア ルネサンスの扉を開く』角川学芸出版、2005年、145頁~147頁)

レオナルド・ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』


レオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」
1483-86年頃/油彩・板(後にカンヴァス)/199×122㎝ Denon 2F

ミラノのフランチェスコ派の無原罪懐胎教団は、レオナルドならびにミラノ在住の2人の画家デ・プレディオス兄弟に、当時完成したばかりの無原罪懐胎の祭典のために建てられた礼拝堂に飾る大祭壇画を注文した。

指物師がすでに1482年に完成した大型のリテーブル(祭壇背後の飾り壁)の中央パネルを、レオナルドは描いた(これは、レオナルドがミラノで完成した最初の絵画である。1483-1486年頃とされる)。
中央パネルに描かれた絵は2つのヴァージョンがある。
古い方は、今日、パリのルーヴル美術館にある。
後年制作された新しい方は、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある(こちらの「岩窟の聖母」は1493-1495年頃と1507-1508年、195.5×120cm。このヴァージョンの方には、光輪や洗礼者ヨハネのアトリビュートである杖が加えられた)

ところで、リテーブルの中央にある壁龕(ニッチ)には、無原罪懐胎を表す木彫の礼拝像である聖母子像が置かれていた。レオナルドの「岩窟の聖母」は、この壁龕の前にある可動の絵として置かれ、年間364日、この無原罪懐胎の聖母子を覆い隠していた。無原罪懐胎の祭日である12月8日だけ、この板絵はずらされ、これによって本来の礼拝像である聖母子像は姿を現し、直接拝むことができた。「岩窟の聖母」は、」本来の礼拝像を隠してしまう「覆い絵」であったようだ。

この絵で、レオナルドは処女マリアを、幼児の洗礼者ヨハネやキリスト、そして天使といっしょに洞穴のなか、あるいは前に描いた。今日、広く呼ばれる「岩窟の聖母」という名前はここに由来する。

「岩窟の聖母」の両ヴァージョンで、岩あるいは石からなる床部が画面の前縁で突然途絶えてしまったように見える。レオナルドはこうすることで、この場所が人里離れた場所であることを暗示しているとツォルナー氏は解釈している。

水やまばらな若木から放たれる後景の鈍い光は、岩地の荒涼とした雰囲気を和やかにする。また宗教的なシンボルという視点から、マリアのマントを留めている真珠とクリスタルガラスは、マリアの純潔のしるしと理解できる。このように理解したとすれば、「岩窟の聖母」の掛けられた礼拝堂が、無原罪懐胎の教理に奉献されたこととの関連も生じてくるとする。
宗教文学から抜き出された、似たようなトポスに関連しうる岩山も、マリアの象徴的表現という意味で解釈できるようだ。
(この岩山の含意は、後に制作された「聖アンナと聖母子」(1502-1516年頃、板に油彩、168×130cm、ルーヴル美術館[パリ])に描かれた岩山に当てはまるとツォルナー氏は考えている。聖母マリアは、人間の手によって引き裂かれていない山とされた)。

ところで、レオナルドが無原罪懐胎教団のために制作した「岩窟の聖母」では、明らかに幼児ヨハネは重要な役割を担っている。しかし、画面にヨハネが描出されていることは、イコノグラフィーでは珍しい特異なケースであるそうだ。

ヨハネとキリストの幼児期での出会いは、聖書に書かれた一般の話ではなく、いわゆる聖書外典、つまり公的にはあまり認証されていない聖書の追記に叙述されている。
そこでは、マリアとキリストがエジプトへ避難する途中に、荒野でヨハネに出会うという記述がある。

この出来事を「岩窟の聖母」の登場人物や、やや荒涼とした岩場は表しているのかもしれない。ヨハネとキリストとの荒地での出会いを、ここで見事に描出する根本的な意味は、注文主の宗教上の思想に基づくとツォルナー氏はみている。
「岩窟の聖母」の祭壇画の寄進者は、フランチェスコ派の教団であり、この教団の崇拝対象は、キリストと聖フランチェスコ、そして洗礼者ヨハネも含まれた。このため寄進者たる教団は、直接キリストを拝むと同時に、キリストから祝福され、また処女マリアにも庇護を与えられた幼児ヨハネであることが可能であった。

マリアはヨハネの上に手を戴せており、また彼女のマントの一部もヨハネの体に触れている。そのため、ヨハネと教団の会員は、聖母の保護下にあるように見える。ヨハネに掛かるマリアのマント以外にも、岩が避難所とみなされるゆえ、画面に描出された場所自体が、保護を意味するモティーフでもある。
そして、おそらく岩を避難所に仕立て上げるために、レオナルドは後景の岩山や衣装を描くのに大変苦労したであろうとツォルナー氏は想像している。
(フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年、28頁~33頁)。

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ダ・ヴィンチ NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)

レオナルドの「岩窟の聖母」に対するヴェルフリンの評価


ハインリヒ・ヴェルフリンは、ブルクハルトのルネサンス研究を継承して、名著『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』を若くして刊行した。
ヴェルフリンの関心は、主としてレオナルド、ミケランジェロ、ラファエッロ に向けられ、ルネサンスにおける「古典」の内実を明らかにしている。

ヴェルフリンはレオナルドの「岩窟の聖母」について次のように述べている。
「しかしレオナルドとヴェルロッキオとの間にはまた一種の内面的親近性が存立していたように思われる。われわれはヴァザーリの叙述から、この二人の関心がどんなに親しく触れあい、またヴェルロッキオが紡いだ、どんなに多くの糸をレオナルドが取りあげたか、ということを知る。それにもかかわらず、この弟子の年少時代の諸作を見ることは一つの驚異である。もしすでにヴェルロッキオの<洗礼図>(フィレンツェ、アカデミア)における天使(この天使のみはレオナルドの筆である。なおこの図はいまウフィツィに蔵せられる)がある他の世界からの声のようにわれわれの心を動かすならば、<巖窟の聖母>のような図はフィレンツェの千四百年代の諸々の聖母との関連において、いかに全く比較を絶するもののように思われることであろうか。(中略)
一切がここでは意味深くて新しい。モティーフそのものも、形式上の取りあつかいも。細部における運動の自由と、全体における集群の法則性とがある。」

フィレンツェの1400年代の諸々の聖者像と比べてみても、「全く比較を絶するもの」と評している。
(ヴェルフリン(守屋謙二訳)『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』美術出版社、1962年[1973年版]、36頁~37頁。なお、このヴェルフリンの著作に対する評価は、塚本博『イタリア・ルネサンスの扉を開く』角川学芸出版、2005年、237頁~238頁を参照のこと)。

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『古典美術―イタリア・ルネサンス序説』 (1962年)


『カーネーションの聖母子』の特色


『カーネーションの聖母子』について、ツォルナー氏も、師匠ヴェロッキオとの密接な関連性がみられると主張している。
中景の小さな柱や後景の風景などは、フランドル絵画の絵画要素であり、聖母や幼児キリストの形態はヴェロッキオの工房で発展させられたタイプであるという。
この種の聖母像は、家の装飾や個人的な祈祷を目的に作られたもので、15世紀のフィレンツェで広く出回ったようだ。

レオナルドは聖母子の深い愛のきずなを表すと同時に、ふさわしいシンボルを使って、キリスト教の教義内容を描き出したとされる。例えば、幼児キリストは、おぼつかない手つきで、受難のシンボルである赤いカーネーションをつかもうとしている。このことで無邪気で罪のない姿に、後に起こる救世主の十字架上の死がすでに暗示されている。
同様に、シンボルと判断されるのは、画面右下の花の生けられたガラスの花瓶であり、これはマリアの純潔と処女性を明示する。

これらのカーネーションやガラスの花瓶といった描出の難しい要素を描くことで、画家は自分の力量を印象的に証しているとツォルナー氏はみている。
(フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年、17頁)

ラファエロについて


ラファエロは、イタリア中部の美しい中世の町ウルビーノに生まれたが、幼児期に父母と死別する。実母は8歳、父を11歳で亡くし、すぐに継母側との間で財産争いに巻き込まれるなど、小さいころから人間的な苦労をしている。しかし、ラファエロはおおらかさを保ち、画家であった父の血を引いて絵画の才に恵まれ、10代半ばで師ペルジーノの助手となるも、数年で技量を凌駕したといわれる。
師を追い越し、花の都フィレンツェに出て、当時最前衛をゆくレオナルド」やミケランジェロのスタイルを貪欲に取り入れ、自らの理想の中庸の美を作り上げる。
数々の聖母子画や、ヴァティカン宮の署名の間の『アテネの学堂』を初めとする壁画群は、その天分を遺憾なく発揮した。

ヴァザーリ(1511-74)の『美術家列伝』(初版1550年、第2版1568年)には、「ラファエロはたいへん女好きで惚れやすい人であった」と記されている。ここらへんの評判が、女嫌いのレオナルドやミケランジェロと比べて軽くみられる理由にもなっている。

例えば、当時のラファエロの恋人の一人を描いた『ラ・フォルナリーナの肖像』(国立美術館[ローマ])がある。左腕の腕輪にラファエロの署名を入れ、いかにも親しそうにこちらを見ている。このかわいいローマ美人は、一説にヴァティカン近くのパン屋の娘マルゲリータ・ルーティといわれる(ラファエロを崇拝していたフランス19世紀の画家アングルも、彼女がラファエロの絵のモデルとなっているところを空想して描いたほど有名な恋人である)。

その面影は、『小椅子の聖母』(ピッティ美術館[フィレンツェ])や『サン・シストの聖母』(ドレスデン国立絵画館)などのマドンナ像にも表れている。
当時はネオ・プラトニズムの思想の最盛期であったから、こうした身近な美の再現を通して神の美を表すラファエロの方法は、まさにトレンディーであったようだ。

しかし、女たちを愛し愛されたこの恵まれたラファエロは、37歳で亡くなるまで独身を通した。結婚に至らなかった理由は何かという点については、ヴァザーリも伝えているのは、ラファエロには野心があったという。つまり自分が枢機卿になりたいとの一念が結婚を避け通した理由であったそうだ。
(井出氏によれば、大それた野心で、現実的でもないので、何か他の理由があるのではと推測している。例えば、特定の女性に縛られない自由な身でいたかったとか、理想が高すぎて、本当に気に入った女性がこの世にいないとか)。

ラファエロは、友人のカスティリオーネにあてた1516年の手紙の中で、理想のモデルについて次のように語っている。
「一人の美しい女性を描くには、何人もの美しい女性を見て、閣下が私とともに選んでくださることが必要です。しかしそう美しい女性は多くありませんし、正しい鑑識眼も私にはありませんので、私は自分の頭にひらめく、ある『アイディア』を利用します」

この手紙を井出氏は、「ラファエロの描く美しいマドンナやヴィーナスは、彼の全女性体験が昇華された内的なイメージであり、一人のモデルからは理想の美は得られない」と解釈している。
そして、このラファエロの慎重な言葉の裏には、彼のマザー・コンプレックスが隠されていると推測している。つまり、早くから実母を亡くし、継母との確執があり、一人の女性に裏切られることへの恐れがあり、複数の女性から愛されていないと気が済まない苦労性の人格ができてしまったのではないかという。それは、ラファエロの芸術の折衷主義的で、影響を受けやすいところに通ずるとも、井出氏はみている。
(井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館、1994年、119頁~133頁)

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井出洋一郎『美術の森の散歩道―マイ・ギャラリートーク』 (小学館ライブラリー)