歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その4 私のブック・レポート≫

2020-03-08 17:29:28 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その4 私のブック・レポート≫
(2020年3月8日)
 


※≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』はこちらから≫


井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』 (中経の文庫)






執筆項目は次のようになる。



第3章 シュリー翼へ
9時代概説 フランス絵画 
フランス人が誇る美術の黄金時代 17世紀 古典主義とバロック
<3時間コース>
ラ・トゥール 「ダイヤのエースを持ついかさま師」
「聖セバスティアヌスを介抱する聖女イレーヌ」
ル・ナン兄弟 「農民の家族」
プッサン    「アルカディアの牧人たち、通称われ、アルカディアにもあり」
シャンパーニュ 「カトリーヌ=アニエス・アルノー尼と修道女カトリーヌ・ド・サント・シュザンヌ・ド・シャンペーニュ」

<6時間コース>
ボージャン   「チェス盤のある静物」
プッサン    「四季連作 夏、またはルツとボアズ」
ロラン     「夕日の港」

10時代概説 フランス絵画 
「ロココ」から「自然主義」へ 18-19世紀 ヴァトーからコロー
<3時間コース>
ヴァトー    「シテール島の巡礼」
シャルダン   「食前の祈り」
ルブラン    「ルブラン夫人と娘ジュリー」
コロー     「真珠の女」
<6時間コース>
ブーシェ    「ディアナの水浴」
フラゴナール  「かんぬき」
アングル    「トルコ風呂」
ジェリコー   「エプソムのダービー」
シャセリオー  「アハシュエロス王との謁見のために化粧するエステル」
コロー     「モルトフォンテーヌの思い出」








第3章 シュリー翼へ
9時代概説 フランス絵画 
フランス人が誇る美術の黄金時代 17世紀 古典主義とバロック
<3時間コース>

ラ・トゥール


ラ・トゥール(1593-1652) 
① 「ダイヤのエースを持ついかさま師」
1635年/油彩・カンヴァス/106×146㎝ Sully 3F

② 「聖セバスティアヌスを介抱する聖女イレーヌ」
1649年頃/油彩・カンヴァス/167×131㎝ Sully 3F

「ダイヤのエースを持ついかさま師」
1635年/油彩・カンヴァス/106×146㎝ Sully 3F
【光と闇のマジック巧みな画家の心の明暗を読む】
ラ・トゥールは、おそらくオランダで修業し、30歳でロレーヌ公に絵が買い上げられ、1639年にはパリに進出している。国王ルイ13世から“王の常勤画家”に任命されてからは、宗教画を納めている。ロレーヌ地方がフランスに合併されてからは、パリから派遣された美術好きの知事のため、6回も作品が発注されて高額の画料が支払われた人気画家であった。

没後、作品は散逸し、息子や工房の模作が多いが、今日、約40点しか真作がない(5点もルーヴルは所蔵し、まさに宝庫である)。

その内の風俗画の代表、若者に賭け事の危険を教える「いかさま師」がある。ラ・トゥールの光と闇のマジックにはファンも多い。
アメリカに同じ構図のクラブのカードをすり替える絵もあるが、出来はルーヴルのダイヤのカードを持つ、この「いかさま師」の方が良いといわれる。いかさま男女3人の関連した表情に心理的緊張感が増して、完璧な構図となっていると評される。

「聖セバスティアヌスを介抱する聖女イレーヌ」
1649年頃/油彩・カンヴァス/167×131㎝ Sully 3F

【「戦う画家」が描く慈愛の聖女】
光と闇の画家の絶頂を示す晩年作が「聖女イレーヌ」である。それは、矢で射られたローマ時代の殉教者を慈愛で救った聖女の物語である。
セバスティアヌスは、伝承には、3世紀ローマ帝国の軍人で、禁教下に仲間を助けようとして露見し、弓で射殺刑となったが急所を外れて、瀕死のところをイレネという女性に看護されて救われる。
布教に復帰したセバスティアヌスは再逮捕され、今度は棍棒で打たれて殉教した(遺体は、ローマの下水道に投げ込まれたといわれる)。
このラ・トゥールの絵は、瀕死のセバスティアヌスがイレネ(仏語イレーヌ)たちに発見される感動の名シーンである。

このような絵を描いた画家だから、さぞ本人も慈愛の精神にあふれていたと想像される方も多いだろうが、実際はそうではない。17世紀の文献によると、ラ・トゥールは地元ロレーヌでは欲に固まった金満家で市民に恨まれ、目下には横柄、脱税、暴力で裁判所に訴えられてもいる(絵もそうだが、性格も明暗の激しいカラヴァッジョに似ていると井出氏はみている)。

それでは、この性悪な画家の絵から、なぜこんな聖なるメッセージが発せられるのか。
17世紀のロレーヌ地方は宗教戦争のただ中にあり、画家の住んだ町が火災で壊滅、その上飢饉とペストの流行で、生き抜くだけでも困難な時代であった。ラ・トゥールは、フラ・アンジェリコのように安穏な修道院生活の画家を目指すわけにはいかなかったようだ。むしろ植民地を切り開いていく反宗教改革時代の“戦う画家”となってしまった。画家はその作品において、信仰の力が人の魂を動かすことを見せつけ、その戦いに勝つことでしか救われないと考えたと井出氏は想像している。
(井出、2011年、202頁~206頁)

ル・ナン兄弟


ル・ナン兄弟(1600/1610頃-1648頃) 
「農民の家族」
1640-45年頃/油彩・カンヴァス/113×159㎝  Sully 3F

【ブルジョワのために描いた質素で粋な農民画の傑作】
ル・ナン兄弟は、フランス北東部、美しいゴシック様式の大聖堂で有名なラン出身である。兄弟はパリで共同の工房を持ち、たくさんの顧客を抱えていた。
(ただし、Lenainとしか署名しないので、とくに農村を主題とした絵の多い長男アントワーヌと次男ルイの絵画は区別が難しいようだ)

再評価は、1850年代、評論家シャンフルーリがラン出身で、このル・ナン兄弟を記事で紹介したことから、ブームが起こる(その点、フェルメールも事情が似ていた)。
シャンフルーリは、クールベやミレーらの農民画が注目を浴びた時代に写実主義を推進した。

ル・ナン兄弟の作品は早くからルーヴル入りを果たした。「農民の家族」という作品は、暖炉に向かう子たちを入れると、合計8人の農民の家族が猫や犬とともに、記念写真のように描かれている。大人たちの視線は、私たち(鑑賞者)の方に向けられている。
奥のご主人は、大きなパンを大事に抱え込んでおり、一方で左の老女の瞳は慈愛にあふれ、当時は高価なワイングラスを手にしている。貧しいはずの農家にとってあまりに威厳に満ちた肖像が描かれている。

この絵は、聖体のパンと受難の血のワインを使って家庭でミサをあげる、農村部の新しいキリスト教信仰を写したものとする説が出されたようだが、単なる深読みとされた。というのも、ル・ナン兄弟の農民画は純粋にパリで描かれ、パリの貴族やブルジョワのために描かれた空想の農民画であるから。

19世紀のミレーのように、郊外の農村に住んで、現地取材したわけではない。ひょっとして、画家はこの絵を発注したパリのお金持ちの一家を農民に見立てたのかもしれないともいわれる。
井出氏の解釈では、ローマで流行のカラヴァッジョ様式の宗教画をフランスの農村に移し替えてみようとしたのではないかという。画家の機知と自信が感じられ、ありえない設定だけれど、存在感があり、質素を装いながら粋を貫くフランス絵画の傑作であると評している。
(井出、2011年、207頁~209頁)

プッサン


プッサン(1594-1665) 
「アルカディアの牧人たち、通称われ、アルカディアにもあり」
1638-40年頃/油彩・カンヴァス/185×121㎝ Richelieu 3F

【若い牧人たちが読んでいる文章の意味は?】
プッサンは1594年、ノルマンディー地方のレザンドリの名家に生まれる。各地で画家修業した後、30歳でローマに到着し、以後パリに戻った2年間を除き、枢機卿や貴族のパトロンを得てローマで活躍し、当地で没している(だから、ローマ滞在の方がフランスより長い)。

しかし、1639年、プッサン45歳のときに、本国のルイ13世からパリに帰って、首席宮廷画家になるようお声がかかった。ローマで結婚した最愛の妻マリーが27歳で家付き娘であったことなどから、画家は逡巡する。とはいえ王様の要望となれば命令のようなものであったから、1640年、単身赴任でパリに到着する。まもなく、パリの画家たち、とくにライバル宮廷画家シモーヌ・ヴーエ一派から敵対され、ローマと残した妻が恋しくなる。
その頃描いたのが、この「アルカディアの牧人たち」なのである。
この絵の欝々としたメランコリーの世界は、画家がパリに帰る直前の不安感が反映したものと井出氏は考えている。

Et In Arcadia Ego.「われ、アルカディアにもあり」という古代の石棺の銘文、つまり死はどんな理想郷にもある。お前たちの青春もはかない一瞬に過ぎない、というきつい言葉を若い牧人たちが読んでいて、それぞれに意味を探っている。
(この絵については、パノフスキー(E. Panofsky)の名解釈が『視覚芸術の意味』(岩崎美術社)で読めるので、お勧めであるという)

ここから、プッサンはローマのカラヴァッジョの影響から抜け出て、フランス人自らの古典主義に目覚めた内省と思索の時代に入ることは後年の名作群が証明してくれると井出氏は指摘している。
(井出、2011年、210頁~211頁)

シャンパーニュ


シャンパーニュ(1602-1674) 
「カトリーヌ=アニエス・アルノー尼と修道女カトリーヌ・ド・サント・シュザンヌ・ド・シャンペーニュ」
1662年/油彩・カンヴァス/165×229㎝ Sully 3F

【愛娘を奇跡的に癒した祈りと神の愛を伝える】
シャンパーニュはブリュッセル生まれで、フランスに帰化した画家である。パリでルイ13世やリシュリュー枢機卿の宮廷画家として、肖像画や宗教画に腕を振るった。とくにフランドルで学んだ細密描写による布のテクスチャーの見事さは他の追随を許さない。

肖像画では、ルーヴルのリシュリュー枢機卿一人の肖像が厳格と繊細さを兼ね備えて、宰相としての個性をよく捉えている。
(ただ、リシュリューという人は、ルーヴルのリシュリュー翼の名前を冠している偉い政治家というよりも、デュマの小説『三銃士』のせいもあって、策謀家としての陰険なイメージがありすぎる)。

そこで、この画家の代表作としては、二人のシスターを描いた奉献画の方を井出氏は挙げている。
パリのポール・ロワイヤル修道院は当時厳格な高等教育で有名で、画家は娘カトリーヌを修道女として預けている。
ところが、彼女は足が麻痺して動けなくなってしまう。
(原因は粗食で栄養が悪かったのか、陽に当たらなかったのが悪いのか。今日でもパリでは脚気が風土病であるという)
そこで、カトリーヌ=アニエス・アルノー修道院長は、9日間の勤行を彼女のために尽くして、病は奇跡的に治癒した。父の画家シャンパーニュは感激して、さっそく画筆をとり、この絵を仕上げて修道院に寄贈した(そのいわれが画面の背景左上に事細かに描いてある)。
ベージュ色と黒と十字架の赤というシンプルな配色に、横たわる娘と祈る院長の二人だけの構成は、この修道院のモットーである清貧にふさわしい。

もともとこの修道院は、1632年からフランスにおけるキリスト教の厳格派であるヤンセン主義の神学校となっていた。その教理は、人間の原罪の深さを強調し、人間は善をなしえないとされ、禁欲的なものであったそうだ(だから、哲学者パスカルや劇作家ラシーヌも学んだ校風は贅沢が禁止されたものであった)。
美は神の愛を通じて表現に至ることを、この絵は教えてくれるようだ。
(井出、2011年、213頁~215頁)

<6時間コース>

ボージャン


ボージャン(1612頃-1663) 
「チェス盤のある静物」
1630-35年頃/油彩・板/55×73㎝ Sully 3F

【現世を否定し信仰へ向かうヴァニタス画の最高傑作】
絵画における禁欲的なヤンセン主義の影響は、先のシャンパーニュが典型である。そして物質を描くはずの静物画でも、現世を否定し来世のために、身を律するという「メメント・モリ」(死を想え)の考え方が17世紀には流行した。

一般に「ヴァニタス(現世の虚しさ)画」と呼ばれるジャンルで、このボージャンの作品「チェス盤のある静物」が最高傑作であるとみられている。とくにこの絵は、「五感の寓意」とも呼ばれている。
まず、リュートと楽譜は聴覚、パンとワインは味覚、カーネーションは臭覚、鏡は視覚、チェス盤や財布、カードは触覚を表す。
一見、何気なく配置しただけに思えるが、そこから手前の賭け事や音楽の遊興生活を否定し、奥の聖体を表すパンとワイン、三位一体の3本のカーネーションの宗教生活へと向かう構図が読める。
そして結局は壁の鏡(そこには何も映っておらず、死、あの世の象徴)へと人間は導かれてしまう運命にあることを暗示している。
このように、ボージャンはローマに学んだ優れた宗教画家である。
(静物画は4点しか遺されていないが、ルーヴルのもう1点「巻菓子のある静物」も見事である)
(井出、2011年、216頁~217頁)

プッサン


プッサン(1594-1665) 
「四季連作 夏、またはルツとボアズ」
1660-64年/油彩・カンヴァス/118×160㎝ Richelieu 3F

【聖書から描いた四季に人間の人生を思う】
プッサンは2年で宮廷画家の職を投げて、パリからローマに帰ってしまう。その一時帰宅の言い訳が、妻を迎えに行ってくるからとのことであったが、結局二度と故国の土は踏まなかった。

リシュリューの甥の公爵が、ローマに直接注文した画家プッサン最晩年の傑作が、この「四季連作」である。
プッサンはここで四季の自然を、聖書の主題において、また幼青壮老の人生と一日の移り変わりにおいて俯瞰した。
(昔はただ春夏秋冬が横一列に並んでいたが、改装後は八角形の間でぐるりと見回せるので、画家の宇宙観がよくわかるという)

「春」はアダムとエヴァの楽園で朝を表す。この「夏」は、寡婦のルツに地主のボアズが落ち穂拾いの許可を与える出会いの場面で、後に二人は結婚してダビデの家系を作る。時は真昼、人生も成年期である。
「秋」はモーセが約束の地の葡萄を選ばせる収穫図で、夕映えの空である。「冬」は夜の大洪水が描かれる。ただし人類は終わりではない。冬の洪水から春の再生へと循環する。
(井出、2011年、218頁~219頁)

ロラン


クロード・ジュレ、通称ロラン(1600-1682) 
「夕日の港」
1639年/油彩・カンヴァス/103×137㎝ Richelieu 3F

【後輩画家も真似できない「夕景の巨匠」が描く夕焼け】
クロード・ジュレ、通称ロランという画家も、17世紀にローマに憧れ住み着いてしまったフランス人である。プッサンとは仲が良く、一緒に郊外に写生に出たようだ。

ロランは数々の風景素描を構成し、聖書や神話の物語性も盛り込んで、現実よりも理想的な風景画を創り出した。17世紀のオランダでは、人物抜きの自然そのままに近い風景画が人気であったが、フランスの宮廷人も憧れのイタリア風景を欲しかったようだ。

そこでサービス精神のあるロランは、2枚ひと組で朝と夕方、都会と田園という対照的な情景を描いて大評判となる。この「夕日の港」という作品も、ルーヴルにある朝の田園風景「村の祭り」と対幅であるそうだ。

やはりロランは夕景の巨匠で、ピンクとオレンジの豊かな諧調こそが画家の命である。この絵の遠近法上の消失に位置する夕日が船と建築と群衆の舞台を統一している。
19世紀風景画の大家ターナーやコローが何とか再現しようとしたロランの夕景だが、真似できなかったようだ。
(井出、2011年、220頁~221頁)

10時代概説 フランス絵画 
「ロココ」から「自然主義」へ 18-19世紀 ヴァトーからコロー
<3時間コース>

ヴァトー


ヴァトー(1684-1721) 
「シテール島の巡礼」
1717年/油彩・カンヴァス/129×194㎝ Sully 3F

【ルーヴルが作品名を改題した理由とは?】
この絵はかつて「シテール島への船出」と呼ばれて有名な絵であった。いつのまにか今の「シテール島の巡礼」に改題された。

ヴァトーという画家は、長わずらいの結核により37歳という若さで病没した、いかにも細面で優男であった。
画筆のタッチは繊細でパステル画のようである。絵に根源的な迫力はなくとも、その上品な艶っぽさ、賑やかだけど哀しいはかなさが魅力的である。

「シテール島の巡礼」のシテールとは、縁結びの神社のような島である。つまり、古代ギリシアではキテラといい、愛の神ヴィーナスが住み、ここに巡礼すれば、片思い、失恋、不倫なんでも恋愛問題は片付くという島である。様々なカップルが船でやってきては、それなりの解決を見て帰っていく。

ロココ時代にはこの絵ばかりでなく、田園の恋愛劇やオペラがはやって、ひとまとめに」して<フェート・ギャラント>(日本語で<雅な宴>)と呼ばれる。
(ただし、本来のgallenteは、和風の<みやび>というより色気が濃い)

この絵ではヴィーナス像の下にいる3組のカップルが主役である。衣裳は違っても意味的には、同一人物と考えてよいと井出氏はいう(異説があるので、要注意だが)。
一番右の男性はまだ気のない女性に愛を告白する。真ん中は、愛を受け入れた女性は手を取られて起き上がる。左は、男性が女性の腰に手を回して、早く愛の儀式を終えて立ち去ろうとするが、女性はこれまでの自分を名残惜しそうに振り返っている。このとき、もう二人は夫婦というわけである。足元に犬がいるのは忠実のシンボルである。

上記の分析は、この絵のファンだった彫刻家のロダンによるものであるそうだ。まさに恋愛のフルコースがここにある。こうして大勢の恋人たちが楽しそうに船に乗り込んで、キューピッドたちに導かれて帰路につく、つまりここが「シテール島」である。

正確には、この絵は「シテール島からの船出」である。「シテール島へ」としてきた長年の慣習は誤りということを、ルーヴルとはライバルの、イギリスの国立美術館長が論文で指摘した。悔しいがルーヴルは仕方なく、「シテール島の巡礼」とまでは改題し、お茶を濁しているそうだ。
(井出、2011年、226頁~228頁)

シャルダン


シャルダン(1699-1779) 
「食前の祈り」
1740年/油彩・カンヴァス/49×38㎝ Sully 3F

【ルイ15世も惚れ込んだフランス家庭の風景】
シャルダンは若い頃からリアルな静物画に優れていた。
同じくルーヴルにある「赤エイ」などの数点には17世紀フランドルの巨匠画家の風格がある。まだ29歳で王立アカデミーの会員に迎えられた。

数年に1度ルーヴル宮殿で開かれたサロン展に次々と名作を出品し、わざわざ地味な日常的モチーフ、台所の片隅や市民風俗を得意にして、ブームを巻き起こした。

そして、ルイ15世までがシャルダンのファンになってしまう。この「食前の祈り」などに惚れ込んで献呈させ、ヴェルサイユ宮殿の書斎に飾って喜んでいたそうだ。この王様の趣味は料理と刺繍と錠前直しといわれているので、意外と下々の暮らしの情報に通じていたかもしれないという。

原題は、Le Bénédicitéという。「主のお恵みあれ」Bénissezの意味のお祈りである。下の小さい子には発音が難しくて言うのに時間がかかるらしく、画面ではお母さんとお姉さんが睨んで待っているところである。フランス人家庭の今でも通じる躾の厳しいところがこの絵にも表れているらしい。また、視線の方向によって、うまく三角形の幾何学的な構図で描いている点も、評価が高い。

そしてシャルダンのすごいところは、描く時代風俗がロココなのに、造型は先に進みすぎて近代に突入している点にあると井出氏はみている。そのギャップが超個性的で、こんな画家は18世紀には他にいないという。
ただ、今の感覚で絵を解釈できない点も付言している。例えば、このお祈りをしている下の小さい子であるが、一見スカートをはいて女の子のようでも、実は男の子 le garçonnetである。

フランスでは20世紀初めまで男の子も物心がつくまで女の子の衣装を着せて育てる風習があった(例えば、ルノワールの絵にも息子Jeanが女の子として描かれる)。

この子の椅子にかけてある太鼓も男児の遊び道具であり、1744年のこの絵の複製版画には、「そのお姉さんはこっそりと小さい弟のことを笑っている」と説明文もついているという。
また、この母親も実は家政婦兼家庭教師 gouvernanteという説もある。この絵の前にシャルダンは最初の妻を亡くし、やもめ暮らしで9歳の長男は家政婦任せだったから、その生活の反映かもしれないともみられている。
(井出、2011年、229頁~231頁)




【補足 シャルダンの「食前の祈り」】


姉と似た形の服を着せられている弟が女の子でないことについては、鈴木杜幾子氏も言及している。
このことは、やはり椅子にぶら下げられた太鼓と床に転がる撥(ばち)からわかるという。
太鼓は軍隊で用いられることからの連想か、伝統的に男の子のアトリビュート(その人物が誰であるかを示すために一緒に描かれる品物)であった。
少年がある年齢に達するまで少女の服装で育てられる習慣は、歴史家アリエスは『<子供>の誕生』の中で、ルイ13世が7歳8ヵ月まで「ローブ」(長いドレスのような型の衣装)を着せられていたと記している。
(フィリップ・アリエス[杉山光信・杉山恵美子訳] 『<子供>の誕生』みすず書房、1980年、53頁)
この点について、鈴木氏は、次のようにコメントしている。こうした風習の根拠ははっきりしないが、ズボン類よりも「ローブ」型の衣服の方が歴史が古いため、子供服に一種の「アルカイスム(古風趣味)」が残存したとも考えられるとする。また一般に家父長制社会においては男児の方が女児よりも大切な存在と考えられていたから、病魔や死神などの男児の命を脅かすものの注意を逸らすという呪術的な発想もあったかも知れないと鈴木氏は述べている。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」 シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、12頁~15頁、221頁)

【鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』はこちらから】

鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』 (講談社選書メチエ)




ルブラン


ルブラン(1755-1842) 
「ルブラン夫人と娘ジュリー」
1786年/油彩・カンヴァス/105×84㎝ Sully 3F

【優美な自画像で名声を得た女性画家】
マダム・ルブランは、画家の父ルイ・ヴィジェから学んだ後、グルーズやヴェルネという当代一流の画家に私淑し、恵まれた才能を開花させた肖像画家である。

ルイ16世の妃マリー・アントワネットに同じ歳の女性ということもあって、親友並みの庇護を受け、“ヴェルサイユの薔薇”風の肖像画が描いた。おかげで、当時女性に門戸を開いていなかった王立美術アカデミーにも入会した。成功した画商とも結婚して、順風満帆かと思われた矢先に、1789年、フランス大革命に遭遇する。

王と王妃はギロチンにかかり、マダム・ルブランも寵愛された故に故国から追われ、ヨーロッパ各地を転々とする。ただ、これまでの経験と優美な姿形がものをいって、イタリア、ロシア、ウィーンなどの宮廷で大歓迎され、全欧的な名声を得た。
1802年に帰国を許されるが、また政治的に疎まれて出国し、故国に安住の地を得たのは、王政復古後のことである。

波瀾万丈の人生を送った割に、画風は古典的で安定しており、女性はあくまで可愛らしく、男性は理知的で頼もしく描く。とくに自画像が評判高く、ルーヴルの娘との自画像2点は有名である。
1786年作の31歳の時のものと、1789年作の34歳の時のものがある。
前者は、初々しいお母さんで、ラファエロの聖母子のようで、しかも衣装は東洋風である(レンブラントの絵も研究した形跡が認められている)。この娘リュシー・ルイーズ、通称ジュリーは、当時6歳、第一子が早世したので、大変可愛がられたようだ(ただし、成人して母に背き、30代で先立ってしまう運命であった)。
この「ルブラン夫人と娘ジュリー」はシュリー翼3階にある。
一方、後者の1789年の娘との自画像は、ドゥノン翼2階にある。こちらは、革命時代のファッションで、古代ローマ風の肩出しドレスを着ている。

さて、この1780年代は、思想家ルソーの影響もあって、乳母任せの子育てを母親自ら行なうのが流行した時代でもあった。ここでマダム・ルブランはいち早くリーダー役を買って出ている。今日の女性芸術家のパイオニアとしての貫禄があると井出氏は評している。
(井出、2011年、232頁~234頁)

コロー


コロー(1796-1875) 
「真珠の女」
1868年頃完成/油彩・カンヴァス/70×55㎝ Sully 3F

【イタリアとルーヴルへの画家の感謝を読む】
日本で開かれたコロー展では、「真珠の女」が絵はがき人気ナンバー1だったそうだ。
コローは風景画家で、人物画は余技のはずだが、「真珠の女」はコロー画集の表紙写真にも選ばざるをえない魅力がある。

ところで、「真珠の女」というタイトルであるにもかかわらず、le parle(真珠)をこの絵にいくら探してもない。
コローはこの絵を売らなかったので、このタイトルが付けられたのは、没後14年たった1889年のことである。つまりパリ万博で開かれた40数点のコロー回顧展での初公開の際といわれる。

おそらくモデルの額にかかる草の冠が真珠色に見えたか、あるいはこのモデル自体が真珠のような美しさを発したか、あるいはフェルメールの「真珠の耳飾りの女」と比べられたかもしれないと井出氏は推測している。

X線写真によると、この絵は画家コローが長期にわたって手を入れた絵であることがわかり、頭部や胸を何度も加筆修正している。
制作年代については、以前は1868~72年と晩年の作に推定されていたが、最近では、画家がモデルに着せるイタリアの民族衣装を送ってもらった1857年コロから、制作が始まり、1868年にまでまたがるものとされている(緻密なデッサンや精確な色彩のトーン・バランスは、この絵が最晩年の融通無碍な境地にはまだないことを示すとされる)。約10年間は長いので、画家にとってよほど大切な思い出が込められているようだ。
モデルについては、この頃画家のお気に入りだったベルト・ゴールドシュミット嬢とされる。

この絵のポイントは2つある。
1つは、このモデルのポーズで、ルーヴルの「モナ・リザ」にそっくりであり、とくに手と指に注目したい。
もう1つは、顔の表情で、ラファエロの「美しき女庭師」の聖母によく似ている。

井出氏は、この絵は、コローが若い頃学んでいたイタリアへの感謝のオマージュであり、そしてパリで日頃お世話になっているルーヴル美術館へのオマージュでもあると理解している。
(井出、2011年、235頁~237頁)

<6時間コース>

ブーシェ


ブーシェ(1703-1770) 
「ディアナの水浴」
1742年頃/油彩・カンヴァス/57×73㎝ Sully 3F

【永遠に男たちを魅了するエロカワイイ美女たち】
ブーシェは、ヴァトーを受け継ぐ「雅なる宴」の画家から、さらに官能的な裸体表現へと展開した画家である。
ルイ15世とポンパドゥール侯爵夫人の宮廷画家として、ロココ絵画を“エロ可愛い”ものにした画家であると井出氏はみている。

真面目な革命時代には顰蹙を買ってお蔵入りになり、この画家の絵でルーヴルに展示されたのは、この絵が初めてで、1852年のことであるそうだ。

この絵は、ギリシア神話の狩りの女神ディアナの水浴シーンが描かれている。ブーシェの描くロココ美女たちは、華奢で小顔である。また、森の青緑の新鮮さが風景画の要素となり、獲物のジビエが静物画、ディアナたちを守って警戒する犬が動物画となっている。ブーシェのエンターテナーとしてのプロ意識が隅々に発揮された名品であると評している。
(井出、2011年、238頁~239頁)

フラゴナール


フラゴナール(1732-1806) 
「かんぬき」
1777年頃/油彩・カンヴァス/74×94㎝ Sully 3F

【扇情的な危な絵が宗教画と対だったワケは?】
フラゴナールはロココの最後の世代の画家である。
ローマに留学してデッサンを修業し、速筆で一気に肖像画を仕上げる早業は伝説的である。
帰国後は宮廷やアカデミーに入らずに独立し、富裕層の邸宅装飾や風俗画に活躍し、一世を風靡した。ただし、大革命により一気に凋落し、晩年は忘れ去られた画家である(ルノワールがその女性表現を再評価した)。

この絵はちょっと危な絵に近いと井出氏はいう。というのは、ブルジョワ夫人と使用人階級の青年が密会して内鍵を下ろし、扇情的なシーンであるから、ベッドや深紅のカーテンが描かれ、闇と光が交差して、レンブラントのような効果がドラマを盛り上げている。
フランス大革命まであと10年余りなので、民衆が旧体制の階級差を侵犯するという政治性も感じられるようだ。

この絵は1974年に購入品でルーヴルに入り、たちまち人気作品となった。この絵は、ルーヴルに1988年に寄贈された同じサイズの宗教画「羊飼いの礼拝」と対幅であったようだ。ベッドサイドテーブルのリンゴが原罪を表すので、それを濯ぐためにキリストが生誕するという理屈であるそうだ。
(井出、2011年、240頁~241頁)

アングル


アングル(1780-1867) 
「トルコ風呂」
1862年頃/油彩・板に貼付けたカンヴァス/108×110㎝ Sully 3F

【老巨匠が夢見たハーレムは大胆すぎて非公開だった】
アングルは、ドラクロワとは違い、中近東には行ったこともないはずである。
「トルコ風呂」は、82歳の老画家が夢見たハーレムの美女たちが描かれている(井出氏がアングル作品で最も好きな作品という)。
アングルは、イスタンブールの英国大使夫人によるハーレムの女風呂探訪記を参照したそうだ。

この絵をよく見ると、手前の背中を向けたポーズは、ルーヴルにある「浴図」と同じ構図である。この他、既作品からのポーズがいくつも見受けられ、これが画家アングルの集大成であることがわかる。とはいえ、あまりに大胆なポーズばかりのため、ナポレオン3世が購入するはずが、皇后に拒否されてしまった曰く付きの問題作である。

以後長いこと公開がはばかられ、やっと1905年のアングル回顧展で日の目を見る。その時、若きピカソが大激賞した。そしてピカソ晩年のエロチカシリーズもアングルの世界である。二人の老巨匠のパワフルさには、井出氏は脱帽している。
(井出、2011年、242頁~243頁)

ジェリコー


ジェリコー(1791-1824) 
「エプソムのダービー」
1821年/油彩・カンヴァス/92×122.5㎝ Sully 3F

【大の馬好き画家が遺した競馬風景】
ジェリコーは騎兵隊にいたせいもあって、大の馬好きであった。乗るのも描くのも、また賭けるのも熱心ということで、サラブレッドの聖地、英国のエプソンまで旅してダービーを取材した。

井出氏は、この絵は、絵というよりもアニメを見ているような時間性を感じるという。というのは、馬身が引き延ばしていることと、すべての馬が四本脚を伸ばして宙に浮かせていることによる。跳躍でなく普通に走るだけなら、これはあり得ない。

ところで、馬の走行を初めて連続写真に撮ったのが英国人写真家マイブリッジで、1878年のことだそうだ。それによれば、馬が浮遊する瞬間は四本脚を全部引き付ける時だけで、伸ばしている時は少なくとも1本は脚を地に付けている。ジェリコーの時代の画家はまだこの事実は知らない。

ただジェリコーほどファンタスティックに描いた画家はおらず、雲と芝の描写も素晴らしい。落馬事故がもとで早世したこの画家も、この傑作を遺したことで瞑目すべきかもしれないと井出氏はみている。
(井出、2011年、244頁~245頁)

シャセリオー


シャセリオー(1819-1856) 
「アハシュエロス王との謁見のために化粧するエステル」
1841年/油彩・カンヴァス/45×35㎝ Sully 3F

【ユダヤ人を救った美しき聖書のヒロイン】
シャセリオーはもとアングルの弟子であったが、途中で師のライバルのドラクロワに私淑して傾倒する。いわゆる折衷的なスタイルを持っている。つまり、アングルの冷たい無機質の女体に、ドラクロワの熱い血を注ぎ入れたと井出氏はとらえている。
二人の師の中近東趣味、オリエンタリスムの画風を受け継いだが、この絵が代表作である。

この絵の女性には、次のような物語がある。
旧約聖書のユダヤのヒロイン、エステルは、バビロニアのアハシュエロス王にその美貌で召し出され、王妃となって拉致されたユダヤ人奴隷たちを救う。
その召し出される時に、エステルは髪をとかし、宝飾をまとい、美しさに磨きをかけて、王を陥落させようとする。エステルの抜けるような白い肌と、ブロンドの髪がこの絵の見どころであるという。
(井出、2011年、246頁~247頁)

コロー


コロー(1796-1875) 
「モルトフォンテーヌの思い出」
1864年/油彩・カンヴァス/65×89㎝ Sully 3F

【モザイクのような緑と光が織りなすヴァーチャルな風景】
この絵の地名モルトフォンテーヌは、パリの北東の近郊にある沼の公園に由来し、画家コローは何度も通って鉛筆でスケッチを重ねている。
しかし、この絵は決して現実の風景ではないと井出氏は強調している。
画題の原文に、Souvenir de Montefontaineとあるように、この絵はあくまでも現地の「想い出」「回想」の産物であるという。コローが画筆とパレットのすべての巧みを奮って構成したヴァーチャルな空間である。そこでは、コローの特訓と感性のおかげで、完成した20色にも及ぶ緑のグラデーションが、モザイクのように散りばめられ、そして銀灰色の靄が軟焦点の写真のような効果をもたらしている。コローは、17世紀のロランの伝統を革新して、幾何学的な古典構図と光と大気の調和の美をこの絵で成し遂げている。
サロン展で見た皇帝ナポレオン3世がすぐに官費での購入を決めた。
(井出、2011年、248頁~249頁)

≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その3 私のブック・レポート≫

2020-03-08 17:04:06 | 私のブック・レポート
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その3 私のブック・レポート≫
(2020年3月8日)
 


※≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』はこちらから≫


井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』 (中経の文庫)







執筆項目は次のようになる。



第2章リシュリュー翼へ
6時代概説 フランドル絵画
油彩で全欧の美術をリード 15-17世紀 フランドル、中世末期からバロック
<3時間コース>
ファン・エイク 「宰相ロランの聖母」
ボス      「阿呆船(ママ)」
マセイス    「金貸しとその妻」
ルーベンス   「マリー・ド・メディシスの生涯」連作から「マリーのマルセイユ上陸」
<6時間コース>
ウェイデン   「ブラック家の祭壇画」
ブリューゲル  「乞食たち」
ウテウァール  「アンドロメダを救うペルセウス」

7時代概説ドイツ、オランダ絵画 
肖像画と風景画のブーム到来 16-17世紀 ドイツ、オランダ
<3時間コース>
デューラー   「自画像、もしくはあざみを持った自画像」
ホルバイン   「エラスムス」
レンブラント  「ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴」
「ビロードのベレー帽を被ったヘンドリッキエ・ストッフェルス」
フェルメール  「レースを編む女」
<6時間コース>
クラナハ    「風景の中のヴィーナス」
グリーン    「騎士と乙女と死」
ホーホストラーテン 「室内の情景、もしくは部屋履き」

8時代概説 フランス絵画 
「冷たい美女」の誕生を見る 15-16世紀 中世末期からルネサンス
<3時間コース>
カルトン   「ヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンのピエタ」
フーケ    「ギヨーム・ジュヴネル・デ・ジュルサンの肖像」
クーザン   「エヴァ・プリマ・パンドラ」
フォンテーヌブロー派 「ガブリエル・デストレとその姉妹ビヤール公爵夫人とみなされる肖像」

<6時間コース>
ベルショーズ 「聖ドニの祭壇画」
クルーエ   「エリザベート・ドートリッシュの肖像」
カロン    「アウグストゥスとティブルの巫女」









第2章6
<3時間コース>

ファン・エイク


ファン・エイク(1390頃-1440/41) 
「宰相ロランの聖母」
1435年頃/油彩・板/66×62㎝ Richelieu 3F

【聖と俗をつなぐ橋が意味するものとは?】
この「宰相ロランの聖母」の左に跪く二コラ・ロランは、ブルゴーニュの都市オータンの出身で、弁護士あがりであるが、ブルゴーニュ公国のジャン無怖公に見いだされて宰相に任じられる。続くフィリップ善良公の統治期は、ロランの働きもあって、隣のフランス、イギリスを凌ぐほど、繁栄を見せた。今のベルギーであるフランドル地方もその領地であった。

宰相ロランは古都ブルージュで活躍中の巨匠ヤン・ファン・エイクに、自分が聖母と救世主キリストに祝福してもらう絵を描かせた。そしてこの名画を故郷のオータンの教会礼拝堂に奉納し、故郷に錦を飾る。
(キテイル毛皮と金刺繍の豪華な衣裳を見ると、幼い頃故郷で貧しかった境遇からいかに立身出世したか想像できる)

ロマネスク様式の柱頭には彫刻に人間の原罪を表す図像が選ばれている。また回廊の外の花壇にも聖母を表す白百合をはじめ30種類もの草花があるそうだ。
背景の風景に注目すると、高い塔のある右岸がキリスト側の聖域であり、左岸の住居区がロラン側の俗界である。そして両界を橋で相互に通行できる=熱心な祈りが神に通じるとの例えであるとみられている。
(井出、2011年、134頁~136頁)

なお、中野京子氏は、カルトン「アヴィニョンのピエタ」(1455年頃、ルーヴル美術館)やボッティチェリ「東方の三博士の礼拝」(1475年頃、ウフィツィ美術館)よりも、「もっと不遜な寄進者」が描かれた作例として、この「宰相ロランの聖母」を挙げている。
(中野京子『はじめてのルーヴル』集英社、2016年、170頁~174頁)

ボス


ボス(1450-1516) 
「阿呆船(ママ)」
1510-15年頃/油彩・板/58×33㎝ Richelieu 3F

【ユーモアあふれる中に批判精神を読もう】
このパネル画は、ボスの得意とした三連祭壇画の上部断片である。3枚のうち、中央パネルは失われ、右翼は「守銭奴の死」(ワシントンのナショナルギャラリー蔵)と考えられている。

この画題は、「愚者の舟」や「阿呆船」と訳される。当時のドイツの人文主義者セバスティアン・ブラント著のベストセラー『阿呆船』(1494年バーゼル初版)がそのテクストであると長く考えられてきたそうだ。
そこには、世俗の快楽にふける描かれた12人には、あらゆる階級の人間の愚かさを暴く内容であったが、今日の民俗学的研究の結果、このような舟に乗った愚者たちの出し物が当時のカーニバル行列にもあり、ボスがテクストを読まなくとも、この絵は描けたようだ。

この絵の場面を見ると、テーブルを挟んで鼻の赤い修道士と、リュートを弾く修道女たちが、ロープから吊るされたクレープをパン食い競争のように、大口を開けて噛みつこうとしている。
マストの天辺仮面は「虚偽」のシンボルである。三日月の三角フラッグはトルコの旗で、キリスト教国では悪魔のシンボルとされた。

この絵の主人公は、やはり中央の修道士と修道女であり、聖職者批判がこめられているとみられている。これには、この絵の制作年代が絡む。1500年には、ヴァティカンのローマ教皇庁では免罪符を発行し、これに異を唱えたルターが宗教改革ののろしを上げたのが、1517年である。この絵の制作年代がちょうどその間に入る。
ボスの故郷のブラバント地方は、この後一斉にプロテスタントに改宗した。ボスの鋭い批判精神はユーモアをもって時代の先端を走ったとみられている。
(井出、2011年、137頁~139頁)

マセイス


マセイス(1465/66-1530) 
「金貸しとその妻」
1514年/油彩・板/71×68㎝ Richelieu 3F

【金貸し夫婦に道徳を語る聖書の聖母子と鏡】
マセイスは、15世紀末までに常套化したフランドル絵画を、新しい視覚をもって16世紀のルネサンス絵画に繋いだ中興の祖として名高い。
イタリアに旅していないのに、レオナルドそっくりの聖母像やカリカチュアを描いているが、それにはアントウェルペンで入手した複製版画が頼りになったと考えられる。

この画家の聖画も流行した。当時航路で取引の多かったポルトガルの教会に行くと、地方でも祭壇画はほとんどこのマセイスか、弟子のものであるようだ。
そのマセイスの代表作は、この「金貸しとその妻」である。描き込まれた一つひとつのものに寓意を象徴が込められ、画面は魅力に満ちている。

この二人は夫婦で、男は金貸しと両替商を営む、貿易都市アントウェルペンでは最先端の金融業者であった。奥さんも毛皮の縁の付いた立派な服を着ている。海外の様々な金貨を天秤で量り、金の含有量を調べて値踏みをしている。指輪や真珠やクリスタルの瓶など貴重品がテーブルに所狭しと並べられている。
これには隣で聖書の写本を読んでいた奥さんも、マリア像のページのところで思わず手を止め、真珠の方に目をやっている(それは忘我の心境か)。

これには聖と俗の道徳的寓意が込められている。ただし、単純に、地上の富よりも天の栄光を選びなさいといっているのではないという。ここでは金の重さをごまかさないという商業道徳の遵守が求められているようだ。
手前には、凸面鏡(とつめんきょう)があるが、これには窓と人が映っており、男の作業が監視されていることを示し、奥さんの写本には聖母子像がしっかりとお見通しであることを示しているとみられている。
(井出、2011年、140頁~141頁)

ルーベンス


ルーベンス(1577-1640) 
「マリー・ド・メディシスの生涯」連作から「マリーのマルセイユ上陸」
1621-25年/油彩・カンヴァス/394×295㎝ Richelieu 3F

【画家の共感が生んだすさまじい迫力】
ルーベンス「マリー・ド・メディシスの生涯」の24枚の連作を一通り見て歩くだけでも30分はかかるので、どれか1枚を堪能したいなら、この「マリーのマルセイユ上陸」を井出氏は選んでいる。

この連作の由来は、フランス王アンリ4世にフィレンツェのメディチ家からお輿入れしたマリー王妃の苦難の半生を、新築なったリュクサンブール宮殿の自室に掲げようと、王妃はわざわざ異国のフランドル画家ルーベンスに制作依頼したことにある。

王妃は莫大な持参金付きで稼いだが、アンリ4世は王妃を妾の一人くらいにしか見ないし、貴族たちも「太った銀行家の娘」と軽蔑される。
しかしアンリ4世が暗殺されると、マリーは幼い息子の摂政として政治に口を出し始める。王妃のイタリア人家臣派と、もともとの宮廷派に分かれて権力闘争を繰り広げたが、即位した息子のルイ13世がフランス派に抱き込まれ、母は背かれて追放された。
結局許されて、都には帰れたものの、無力な晩年を送ることになる。この連作のすさまじい迫力の底には、マリーの満たされない欲望が渦巻いていると井出氏はみている。

この絵にあるように、マリーがマルセイユ港に上陸するところから、マリーの闘争が始まる。姉や叔母に付き添われたマリーは、名声の擬人像が到着のラッパを鳴らし、フランスやマルセイユの擬人像に歓迎されて、船を下りる場面である。マリーは出迎えに会釈もせず、視線を遠くに向けて、威厳を保って凛とした風情である。また、下の海を象徴する神々や妖精の群像は、ドラクロワやルノワールが絶賛したほどの輝かしい肉体を誇っている。
(確かに太っていたマリーをほっそり見せる効果もあって、これは画家の気配りかもしれないと井出氏はみている)。

ところで、ルーベンスは若き日にフィレンツェにも学び、1600年、マリー17歳のドゥオーモでの結婚式(新郎はフランスから派遣された代理夫)にも偶然出席していた。だから画家のマリーに対する共感が筋金入りだった。普通、ルーベンスの大作は工房で弟子たちに分業させるのだが、この24枚の連作はほとんど一人で描き上げた渾身の労作であるようだ。
(井出、2011年、142頁~145頁)

<6時間コース>

ウェイデン


ウェイデン(1399/1400-1464) 
「ブラック家の祭壇画」
1452年頃/油彩・板/40×全長136㎝ Richelieu 3F

【マグダラのマリアに見る夫に先立たれた妻の面影】
ウェイデンは、描いたマグダラのマリアに史上初めて涙を流させた悲劇的な「十字架降下」(1435年、プラド美術館)で有名である。「ブラック家の祭壇画」の3枚の絵でも、その哀愁のトーンは変わらない。

その3枚のうち、中央には救世主キリスト、右の聖ヨハネ、左の聖母マリア、そして右扉にはマグダラのマリア、左扉には洗礼者ヨハネが描かれている。それらの悲痛な表情とただならぬ緊張感には、強い霊的なものが感じられる。

折りたたんだケースの裏に注文主ジャン・ブラックと妻のカトリーヌ・ド・ブラバンの紋章と十字架、頭蓋骨が描かれており、夫妻の私的な祭壇画として制作された。ところが、夫のジャンがこの絵の完成と同時期に急逝してしまう。新婚わずか2年たらずのことだった。

研究者はこの祭壇画のマグダラのマリアに、妻カトリーヌの面影を見るようである。他の4人が宗教画としての類型的な人物構成なのに対し、この女性だけは鮮やかな生命感があるとみる。一つの可能性として、同情した画家がすでに描いた他の聖人聖母のパネルと交換したのではないかとも、井出氏は指摘している。
(井出、2011年、146頁~147頁)

ブリューゲル


ブリューゲル(1525/30-1569) 
「乞食たち」
1568年/油彩・板/18.5×21.5㎝ Richelieu 3F

【物乞いたちの服に付いたキツネのシッポの意味は?】
ルーヴルにはフェルメールは2点あるのに、ブリューゲルはこの小品「乞食たち」1点のみである。
この作品は、晩年の力強い人物像の傑作として、また特異な民俗的テーマとしても世界に名高い逸品である。

施療院か修道院の庭に5人の杖をついた足の不自由な者たちが集合し、右の皿を持った女に連れられて出かけるところであるようだ。絵の5人は、それぞれ司教、貴族。士官、市民、農民の役を演じて、市や縁日でグロテスクな踊りをさせられ、その女が皿で見物人から集金する。

ブリューゲル研究者の森洋子氏によれば、当時のフランドルでは、こうした障碍者や物乞いたちは決して同情の対象ではなく、悪人や欺瞞の象徴にされたそうだ。服に狐の尻尾の毛を付けているのも、虚偽のアレゴリー(寓意)であるという。
(17世紀のジョルジュ・ド・ラトゥールも偽の盲目音楽師を描いている。要するに、騙されてはいけないという教訓らしい)
(井出、2011年、148頁~149頁)

ウテウァール


ウテウァール(1556-1638) 
「アンドロメダを救うペルセウス」
1611年/油彩・カンヴァス/180×150㎝ Richelieu 3F

【フランドル絵画史の最後を飾る記念作】
ウテウァールは、画風が16世紀フランドル絵画の様式上にある画家である。
(ウテウァールはユトレヒト生まれなので、厳密にはオランダ人)
この画家はフランスやイタリアに学んだ、いわゆる北方マニエリスム画家の最後の世代である。

画題は王女アンドロメダが、あまりの美貌を女神に厭われて竜に襲われる寸前、天馬に乗ったペルセウスがおりてきて退治するというギリシア神話である。
この画家は、アンドロメダを描くにあたり、小顔にして身体を引き延ばし、真珠色の肌に輝かせている。その代わりに、足元には骸骨や貝殻を細密に描いている。これは、15世紀フランドル絵画の伝統を受け継いでいる。ただ、背景の青くかすむ海景や空は、オランダ風景画に繋がる新しい要素であるようだ。
しかし、これからの17世紀オランダ絵画はレンブラント、フェルメール、ライスダールらの身近な自然と向き合う新世代の活躍を迎える。ウテウァールのこの作品は、フランドル絵画史200年の最後を飾る記念作として井出氏は位置づけている。
(井出、2011年、150頁~151頁)


7時代概説ドイツ、オランダ絵画 
肖像画と風景画のブーム到来 16-17世紀 ドイツ、オランダ
<3時間コース>

デューラー


デューラー(1471-1528) 
「自画像、もしくはあざみを持った自画像」
1493年/油彩・羊皮紙を貼ったカンヴァス/56.5×44.5㎝ Richelieu 3F

【自画像に込めたプライドと意気込み】
デューラーは生涯に少なくとも3枚の油彩の自画像を遺している。当時の画家としては珍しいことである。それまでは自画像はあったとしても祭壇画の中に群衆の一人として描き込むのが通例であった。
(ここにデューラーの職人ではない、近代的芸術家としてのプライドを井出氏は感じている)

とくにこの像は、22歳の時の作で、最初の作例である。故郷ニュルンベルグから諸国行脚の修業の旅に出た頃で、意気込みとパワーが暗い背景から迫ってくる。長髪の頭には房の付いた赤い帽子を被り、刺繍の入ったシャツや青緑の上着なども洗練された趣味を思わせる。引き締まった表情と太い鎖骨やがっしりした首も、画家の栄光の未来を象徴していると井出氏はみる。

手には葉アザミを持っていることから、この絵の翌年に結婚した妻アグネスへの、夫の忠実の寓意とする説が従来大勢を占めていた。しかし、近年、当時父親が息子の結婚を取り決めていた慣習によって、この絵の制作時にはまだデューラーの結婚は知られなかったはず、とする意見が出ている。だから、別の解釈をする必要に迫られる。

そこで、葉アザミのもう一つの寓意であるキリストの受難の意味をこの自画像に負っていると考えられている。事実、3番目の1500年の自画像では、自身を光輪のある正面像のキリストになぞらえて描いている。だから、創造の苦悩を背負った芸術家のデビューとしてふさわしいイメージであるとする。
また別の解釈もある。
デューラーは銅版画「メランコリア」のように、後年アリストテレス以来の四性論(自然と人間を4つの要素に分類する哲学)を自らの絵画に応用したことから、この自画像も、多血質、黄胆汁質、粘液質、憂鬱質の四気質から、若さと帽子の赤という情熱的な色彩が象徴する多血質の自画像ではないかともいう。

いずれにせよ、この自画像は、ルネサンスという近代の幕開けに真の個性ある芸術に立ち向かう若者の記念碑的な名作として、井出氏は理解している。
(井出、2011年、156頁~158頁)

ホルバイン


ホルバイン(1497-1543) 
「エラスムス」
1523年頃/油彩・板/43×33㎝ Richelieu 3F

【駆け出しの画家による品格ある名品】
エラスムス(1469-1536年)はロッテルダム生まれのヨーロッパ随一の宗教学者、人文」学者である。『痴愚神礼賛』などで当時の封建社会の腐敗を風刺したユーモリストとしても有名である。

英国に渡り政治家トマス・モアと親交を結んで、ホルバインが後年チャールズ8世の宮廷画家になれたのも、このモアの紹介による。だから、画家ホルバインにとって、エラスムスは生涯の恩義ある人物であった。
この肖像画の出会いがなければ、画家の代表作「大使たち」(1533年)も描かれなかったかもしれないといわれる。

3点遺るエラスムス像のうち、本作はバーゼルに滞在したエラスムスから英国のモアに贈られたと考えられている。のち17世紀にルイ14世の所蔵になり、今日のルーヴルでも肖像画でトップクラスの人気を保っている。絵自体の品格も、油彩の技術も、とりわけ優れている。

モデルのエラスムスは、宗教戦争時代、カトリックと新教徒の分裂を調停し、キリスト教徒の融和を目指した国際人だった。ロンドンのナショナルギャラリーに前向きの公式風な肖像画はあるが、ルーヴルの横向きで執筆中のこの絵の方が、本人を彷彿とさせて好ましいと井出氏は評している。画中の文字は、1523年にバーゼルでエラスムスが刊行したマルコによる福音書の注解であるとされる。

実は、エラスムスは、当時20代で駆け出しのホルバインよりも、本当は巨匠デューラーに油彩肖像画を描いてもらいたかったようだ。1520年にオランダで出会ったエラスムスとデューラーは意気投合し、ルーヴルに遺る未完の素描や銅版画までは生まれた。しかし、油彩となると時間がかかるし、互いに忙しい身でスケジュールが合わず、実現しなかった。
(デューラーの画風は剛直なリアリズムで、モデルの気持ちなど斟酌しないので、体面を気にするインテリのエラスムスとしては強引に依頼できなかったであろうと井出氏は想像している)
(井出、2011年、159頁~161頁)

レンブラント


レンブラント(1606-1669)
① 「ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴」
1654年/油彩・カンヴァス/142×142㎝ Richelieu 3F
② 「ビロードのベレー帽を被ったヘンドリッキエ・ストッフェルス」
1654年/油彩・カンヴァス/74×61㎝ Richelieu 3F

【道ならぬ恋に悩むバテシバの苦悩を読む】
この2作は、レンブラント後期48歳の傑作であり、ルーヴルの至宝ともいえる。

バテシバの話は、旧約聖書のダビデ王がこの人妻に横恋慕して身ごもらせた上、夫ウリヤを戦地に赴かせて死なせてしまう罪深いものである。
ダビデ王からのラブレターをもらい、召し出される前に身を装うバテシバの思いを、黄金色のトーンの中に浮かび上がらせている。ここにレンブラントの才能は完熟のきわみに達している。
バテシバの重苦しく悩ましげな表情から、井出氏はさまざまな思いを読み取っている。夫を裏切るべきか、王妃の座を勝ち得るべきか、寡婦のような生活にこれ以上耐えていくのか、ダビデ王の情けに応えなければ、わが身はどうなるのかなど。
(複雑な女性心理の綾を描いて面目躍如たる傑作であるとして、「ヘンドリッキエの肖像」について言及している。井出洋一郎『聖書の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2010年、79頁、82頁参照のこと)

ところで、モデルとなったヘンドリッキエの肖像が同じルーヴルの展示室にある。それが
「ビロードのベレー帽を被ったヘンドリッキエ・ストッフェルス」(1654年/油彩・カンヴァス/74×61㎝ Richelieu 3F)である。
同年1654年のバテシバ像と同じ万感の思いがとくに瞳の表現に込められていると井出氏はみる。
前妻サスキアを亡くして、荒れていた画家の生活を立て直したのは、家政婦として入った当時20歳のヘンドリッキエであった。
資産家の娘だった前妻の遺言が、夫が再婚すると遺産が半減する理由とはいえ、画家は彼女を家政婦のまま入籍せず、その結果、娘コメリアが生まれたこの絵の1654年、二入の関係は教会によって不道徳との告発を受けた。
(その後、ヘンドリッキエは1663年、38歳の若さで画家に先立つ。井出氏は、彼女の包容力の奥深さに感嘆している)
(井出、2011年、162頁~164頁)


フェルメール


フェルメール(1632-1675) 
「レースを編む女」
1669-70年/油彩・板の上にカンヴァス/24×21㎝ Richelieu 3F

画家フェルメールの再発見者は、フランスの美術批評家テオフィール・トレ(1807-69年)である。晩年の論文で、フェルメールという画家の存在を明らかにした。またクールベやミレーの写実主義も高く評価し、その上日本美術愛好のジャポニザンであった。
日本でも、フェルメールの人気は高い。絵が数点あれば、展覧会は100万人も入るそうだ。小林頼子氏は世界的なフェルメール学者であるし、指揮者で音楽評論家の宇野功芳氏も熱烈な愛好家である。

フェルメールは寡作で完璧主義の小品ばかりで、36点ほどの現存作品があるそうだ。
画家は生涯に大作や力作も含め、何百も描いてこそ、評価されるという見地に立てば、実力はレンブラントが遥かに上であるかもしれない。しかし、日本人の琴線に触れる何かがフェルメールにはある。井出氏はこの点について、今も昔も日本文化のキーワードである「カワイイ」ではないかと、現代風に解釈している。すなわち、小さいこと、一生懸命なこと、純粋なことというこの3点がそろって、可愛いいとされる(何かジブリのアニメみたいともいう)。この3点の魅力がそろっている作品が、フェルメールの「レースを編む女」であると井出氏はみている。

画寸は、24×21㎝で、13インチのノートパソコンより小さい。そして主題はデルフト伝統のレースを一心に編んでいるだけである。そして、色彩としては、パールグレイを背景にして、レースの輝く城は別格として、ラピスラズリの青とレースの糸の赤、少女の服の黄色の三原色という単純な色彩を使っている。
その彩色が、いったん女の指先の白糸にピントが合わされて、遠ざかるに従い微妙にボケてくるという、一眼レフカメラのような距離感の精確さを帯びている(カメラ好きの日本人には好まれているとみる)。

なお他にもフェルメールの作品1点「天文学者」(51×45㎝)がある(ただし、こちらはルーヴルの展示室ではあまり人気がない)。
(井出、2011年、165頁~167頁)

<6時間コース>

クラナハ


クラナハ(1472-1553) 
「風景の中のヴィーナス」
1529年/油彩・板/38×25㎝ Richelieu 3F

【小悪魔的なヴィーナスにご用心】
クラナハは、ドイツの東、ヴィッテンブルクのザクセン選帝侯に長く宮廷画家として仕えた。
また、当地の大学神学教授だった宗教改革のヒーロー、ルターとも家族ぐるみの親友であった。だから、複雑な政治的立場にあった。
幸いに、歴代のザクセン公はカトリックのハプスブルク家に対抗する意味でもルターに好意的で、画家クラナハもカトリックとプロテスタント、双方の注文をうまくこなした。双方問題のない画題、つまりイタリア・ルネサンスの人文主義に基づく神話画、とくに裸体のヴィーナス像では北方画家随一の人気を得た。

そのヴィーナス像の特徴は、小顔で胸も小さめで、ちょっとおなかがふっくらとして、極端に足が長い。これは同時代フィレンツェ画家のマニエリスムの影響であるといわれる。
1520-30年代のクラナハは、アダムとエヴァでもヌードで描いている。この「風景の中のヴィーナス」も、エヴァと同じく、男性を陥れる魅力ある悪女の性格が濃い。
遠景の湖畔に建つゴシック風の建物の町に対して、手前の鬱蒼としたドイツの森に女神は立っている。この女神は北方の自然の守護神と井出氏は解釈している。
(井出、2011年、168頁~169頁)

グリーン


グリーン(1484/85頃-1545) 
「騎士と乙女と死」
1505年/油彩・板/35×29㎝ Richelieu 3F

【死神から乙女は助かるのか】
ハンス・バルドゥング・グリーンはニュルンベルクでデューラーの弟子となり、当時ドイツ領ストラスブールで主に木版挿絵画家として有名であった。
油彩画でも死神を主題とした中世的な絵画でユニークな存在感を示す。この「騎士と乙女と死」はその代表作である。

この絵では、馬上の騎士が、骸骨の死神から乙女を奪い取り、救おうとしている。愛による生命の復活劇という伝統的な物語である。
この絵の骸骨は丈夫な前歯で乙女のガウンをしっかり食いしばり、片足は馬の足に引っ掛けようとして、しぶとく粘っている。

師デューラーの銅版画の騎士像は、死神を圧倒する迫力があった。それに対して、グリーンの場合、騎士には神通力はなく、死神にやがては再び乙女は奪い去られる運命にある。このたくましい死神のイメージは、「死の舞踏」に表されたドイツ中世末期のペシミスティックな民衆的終末観があると井出氏は推測している。
調和的でない、どぎつい原色のコントラストも、20世紀ドイツのキルヒナーやマルクの表現主義絵画に通じる革新性があるという。
(井出、2011年、170頁~171頁)

ホーホストラーテン


ホーホストラーテン(1627-1678) 
「室内の情景、もしくは部屋履き」
1654-62年/油彩・カンヴァス/103×70㎝  Sully 3F

【誰もいない部屋に残された物たちが語るミステリー】
この絵に描かれた部屋には誰もいない。ただし、部屋の持ち主の痕跡が至るところにあり、それを推理するところに、ミステリーの面白さがあると井出氏はみている。
その仕掛けについて、例えば、奥の壁の2点の画中画に注意を向けると。右は「父の叱責」という売春婦の娘の罰を描いたものであるらしく、この部屋の持ち主が女であることを暗示している。
また、読みかけの本、開かれたドアと挿しっぱなしの鍵、消えたロウソク、脱ぎ捨てられたスリッパ、壁の箒は、すべて家事を捨てて男との密会のために家を飛び出した主婦の不在の証拠だと解釈する説を紹介している。
(なお、この「室内の情景、もしくは部屋履き」は、1993年、神戸、横浜のルーヴル誕生200周年展に出品されて、日本人にとって俄然、人気の名画となったそうだ)
(井出、2011年、172頁~173頁)


8時代概説 フランス絵画 
「冷たい美女」の誕生を見る 15-16世紀 中世末期からルネサンス
<3時間コース>

カルトン


カルトン(1415頃-1466) 
「ヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンのピエタ」
1455年頃/油彩・板/163×218㎝ Richelieu 3F

【キリストを抱く3人の見事なデッサン力】
「ヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンのピエタ」は、通称「アヴィニョンのピエタ」である。ピエタとは、慈悲の意で、亡きキリストを抱いた聖母像のことである。

正式地名ヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンは、14~15世紀に教皇庁のあった大都市アヴィニョンのローヌ川沿いの対岸にある小さな町であるそうだ。中世そのままの町で、枢機卿たちの邸宅や聖アンドレの要塞、フィリップ4世の建てた塔が遺る町である。

その町の礼拝堂にひっそりと伝えられたこの板絵を発見したのは、メリメであった。メリメは、フランス・ロマン派の作家で、『カルメン』の原作者である。当時、メリメは歴史記念物保存官として、フランス各地を巡察していた。
この板絵
は、以後展覧会で評判となり、ルーヴル入りを果たして、作者についても当地で活躍していたラン市出身のアンゲラン・カルトンと確定した。圧倒的な表現力と希少性もあって、フランスの国宝扱いとなった。

ゴシック様式の祭壇画に多い板を繋いだ金地の絵である。聖母に抱かれたキリストの亡骸を哀悼する弟子のマグダラのマリアと聖ヨハネ、そして左にはこの絵を寄進した教会の参事会員の肖像が描かれている。

造形的には、このキリストの折れ曲がった遺体や聖母の構造が鋭角的な北方ゴシックの木彫像のようであり、作者の出身ランの大聖堂を想起させるそうだ。
それ以外の3人が堂々とした人体像と顔の表情に見事なデッサン力を発揮している。これはイタリア14世紀のシエナ派から15世紀初めのフィレンツェ絵画に範があるようだ。
このように、北の造形要素と南の要素をこの画家は巧みに調合させ、そこに気品と格調を付加している

(ここに、フランス的国民画家の誕生と井出氏はみている。
また史上初めて涙を描いたとされるのはウェイデンであるが、この絵のマグダラのマリアも2粒の涙が見える。この画家は北フランスの故郷での修業時代、ウェイデンの画風に触れた可能性があると推測している。)
(井出、2011年、178頁~180頁)

フーケ


フーケ(1415~20頃-1478~81) 
「ギヨーム・ジュヴネル・デ・ジュルサンの肖像」
1460年頃/油彩・板/93×73㎝ Richelieu 3F

【肖像画を引き立てる背景の3D空間にも注目】
フーケは、中世の無名職人ではない最初のルネサンス的芸術家であり、フランス人で最初の自画像を描いた。
フーケは、ロワール川の美しい古都トゥールに生まれた。その写生素描の腕前は、フランス王シャルル7世の肖像(ルーヴル蔵)や、1440年代にイタリアに旅行して描いたローマ教皇の肖像画からわかる。

シャルル7世といえば、救国のヒロイン、ジャンヌ・ダルクを見殺しにした王様として知られている。フーケの描いたその肖像は、歴史家木村尚三郎氏によれば、「ネクラ的なふてぶてしさ」は良く描けているが、その顔つきが貧相なので好きになれないという。
そこで、井出氏は、フーケの代表作として、このジュルサンの肖像を挙げている。彼は、シャンパーニュ地方の名門貴族出身で、シャルル7世に仕えた宰相で、大法官である。

その顔を見ると、福耳で、鼻梁、鼻の下の広さに豊かな顎をしている。晩年には、位人臣(くらいじんしん)を極める福相であると井出氏は評している。
この肖像画は、斜めから見た祈りの姿である。このことから、もとは三連祭壇画の左翼であって、中央の聖母子を礼拝する寄進者であると仮定されている。右翼には、ジュルサンの妻が描かれていたらしい。
フランドル発祥の油彩画の最高技術が発揮されていることは、彼の毛皮付きの豪華な赤い衣裳や、金刺繍の大きな財布を見ればわかる。
また人物周辺の3D空間は、ルネサンス遠近法の成果であり、ひときわ目立つのは、背景の黄金色の木彫壁面である。
ここには、ジュルサンと画家フーケのイタリア装飾好みがあらわれており、壁の柱頭には、ジュルサン家の家紋が可愛い2頭の熊によって支えられている。ほかにも聖書を載せたクッションのデザインもイタリア風でセンス抜群であるそうだ。

ところで、ジュルサンは、あのシャルル7世に仕えて百年戦争を乗り切り、そして父王と敵対していた息子ルイ11世にも引き続いて重用された。そのルイ11世は、ブルターニュ公国を手に入れ、フランスの中央集権化と近代化に大きく貢献した。
ジュルサンは、大変な権謀術数の持ち主であり、宮廷画家フーケにふさわしい超大物であると井出氏はみている。
(井出、2011年、181頁~183頁)

クーザン


クーザン(1490頃-1560頃) 
「エヴァ・プリマ・パンドラ」
1550年頃/油彩・板/97×150㎝ Richelieu 3F

【エヴァとパンドラの2つのイメージを背負う女】
ジャン・クーザンは、1540年からパリに定住し、フォンテーヌブロー宮殿装飾の仕事に携わり、フィレンツェ画家ロッソの影響を受けた。そして、クーザンはこのフランス絵画初の優美なヌードを誕生させた。

暗い洞窟の奥に高山の幻想的な風景という設定は、レオナルドの「岩窟の聖母」のようであると井出氏は指摘している。フランスに晩年を過ごした大巨匠レオナルドが、まいた種がここに開花したとみる。

この絵の上部に描かれた銘板のタイトルは、「エヴァは最初のパンドラである」という意味である。この仄白いヌードの美女には、聖書による最初の誘惑のリンゴを食べたエヴァと、ギリシア神話によるゼウスが男の勢力を弱めるために作らせた最初の女パンドラの2つのイメージを背負わせたそうだ。

彼女のエヴァとしての持物は髑髏とリンゴの枝で、死ぬべき運命と原罪を表し、パンドラとしてはゼウスからの贈り物の壺と蛇が腕に巻き付いて、これからの人類(男たち)に降り掛かる不幸を表しているという。
(なぜ、こんなに女が悪者にならなければいけないのかという理由は、井出氏の前著『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』の「パンドラ」の項を参照のこと)

日本では英語のPandra’s Boxの翻訳で「パンドラの匣(はこ)」というが、この絵では「パンドラの壺」となっている。
もともとのギリシア神話では、これは「壺」(ピトス)、それがラテン語に訳されたりする過程で、16世紀オランダの学者エラスムスが「匣」(ピクシス)と誤訳したのがPandra’s Boxの始まりであるそうだ。
(だから、17世紀以降のアルプス以北の国の絵ではパンドラは匣を持ち、イタリアでは相変わらず壺を持つことになった)
(井出、2011年、184頁~186頁)

フォンテーヌブロー派


フォンテーヌブロー派 
「ガブリエル・デストレとその姉妹ビヤール公爵夫人とみなされる肖像」
1594年頃/油彩・板/96×125㎝ Richelieu 3F

【多くの謎に包まれた一押しの「冷たい美女」二人】
「ガブリエル・デストレとその姉妹ビヤール公爵夫人とみなされる肖像」は、井出氏の一押しの「冷たい美女」であるそうだ。
有名な絵なのに、作者は誰かは特定できない。
絵を見ると、人体やカーテンのデッサン、色彩にヴェネツィア派やレオナルド・ダ・ヴィンチも研究した跡があり、イタリア画家に近いことがわかるそうだ。ただし、奥の部屋の空間には少しフランドル風の素朴さがのこるとされる。そこで、当時のフォンテーヌブロー派による作だと判定されている。

この絵の最も謎めいたところは、この美女たちが誰であるのか。そしてお風呂で何を見せているのかという主題にかかわるものである。伝承として、右の金髪美人は、フランス王アンリ4世の愛人ガブリエル・デストレ、左の茶髪の婦人はその妹でビヤール公爵夫人とされている。
二人は、ガブリエルが王の初子を懐妊したアレゴリー(寓意)として、妹が姉の乳首をつまみ、姉が婚約指輪を見せびらかし、奥の部屋の侍女が生まれてくる幼児の産着を編んでいると理解された。つまり、世継ぎを巡る当時の宮廷政治の寓意とされている。
(一方で、この二人はティツィアーノの「聖なる愛と俗なる愛」にあるような「双子のヴィーナス」であり、フィレンツェの新プラトン主義のフランス宮廷版と田中英道氏は主張している。つまりお風呂に入っているのは実は海の意味で、二人は天上のヴィーナスと地上のヴィーナスだと考えている。井出洋一郎『ギリシア神話の名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2010年、210頁~211頁も参照のこと)

そもそもこの絵の卵形美女の顔は、ガブリエルの姉妹どちらにそっくりというわけではないようだ(ガブリエルの肖像の素描がパリ国立図書館に遺っている。渡辺一夫氏の名著『世間噺後宮異聞』(筑摩書房)でも、ガブリエルは「絶世の美人かどうか」と疑問を呈している)。

しかし、この絵の描かれた当時のガブリエルは、アンリ4世の後宮のうちで準王妃として最も権勢を誇っており、懐妊した余勢を駆って、画家に命じて自分を思い切り理想化した可能性もあると井出氏はみている。
ともあれ、この絵から5年後ガブリエルは4人目の王の子を懐妊しながら28歳で急死してしまう(毒殺をも疑われる悲劇を迎える。翌年アンリ4世は財政的な理由でメディチ家からトスカナ大公の姪マリーを選んで結婚する)。
(井出、2011年、187頁~189頁)

ベルショーズ


ベルショーズ(1415-1445活躍) 
「聖ドニの祭壇画」
1415-16年/テンペラ、金地・板からカンヴァスで裏打ち/162×211㎝ Richelieu 3F

【三位一体の神のもとで首を切られる聖人の物語】
ブルターニュ公国の宮廷画家ベルショーズの名のわかる唯一の作品が、「聖ドニの祭壇画」
である。これは、ディジョン近郊の修道院教会のための祭壇画である。

いかにも中世末期の国際ゴシック様式で、オール金地にラピスラズリのブルーが映えている。中央には、三位一体の父なる神と聖霊の鳩にキリスト磔刑像がある。左には、ローマ時代、3世紀のガリア地方、パリの初代司教の聖ドニが、入牢した窓からキリストによって聖体拝受をしてもらっている。右では、弟子とともに役人に首を切られる場面が描かれる。

もう一つのポイントは、背景の地面が坂になっていて、この場所がパリのモンマルトル(殉教者の山の意)の丘であることを示している。首を切られた聖ドニは、なんと自分の首を持って歩き出し、倒れたところがパリ北郊外、歴代のフランス王の墓所サン・ドニ大聖堂が建った場所である。
(井出、2011年、190頁~191頁)

クルーエ


クルーエ(1520頃-1572) 
「エリザベート・ドートリッシュの肖像」
1571年頃/油彩・板/36×26㎝ Richelieu 3F

【悲劇の王妃エリザベートの束の間の幸福を伝える肖像】
「エリザベート・ドートリッシュの肖像」は、ウィーンの皇帝マクシミリアンの娘の肖像画である。その兄がルドルフ2世というハプスブルク家のお姫様である。1570年に、16歳でフランスにお輿入れして、シャルル9世の妃となる。
この絵は王妃の即位式に記念として描かれたとされる。作者は当時フランスで最高の宮廷画家フランソワ・クルーエである。

芳紀17歳、香るがごとき名花を、クルーエはまるで宝飾品のように繊細緻密に扱って描いていく。真珠やダイヤ、サファイアなどの描写はもちろん、金糸のような髪の毛、薔薇色の素肌、立ち襟の刺繍までも熟練の極みが見られ、画家クルーエが王妃を心から歓迎して親密に描いたことがわかる。

ただし、この王妃のその後は悲劇的であった。夫のシャルル9世が病弱で、母カトリーヌ・ド・メディシスに実権を奪われ、わずか4年たらずで王妃は夫と死別する。一人娘を得たが早世してしまい、エリザベートは再嫁も断り、故郷ウィーンで寂しく38歳の若さで散ってしまう。
この絵の頃が、希望に満ちた最も幸せな時期だったことになる。「小さな天使」と呼ばれた純粋な優しいお人柄だったそうだ。この肖像画がある限り、エリザベートの美徳は永遠に讃えられるであろうと井出氏は評している。
(井出、2011年、192頁~193頁)

カロン


カロン(1521-1599) 
「アウグストゥスとティブルの巫女」
1575-80年頃/油彩・カンヴァス/125×170㎝ Richelieu 3F

【天に現われた聖母子と地上の親子の対比も一興】
カロンはフランス人ではあるが、イタリア的な本格マニエリスム様式を見せてくれる画家である。
というのは、フォンテーヌブロー宮殿装飾で、イタリア人画家プリマティッチョやニコロ・デッラバーテの弟子を長く勤めたからである。フィレンツェから輿入れしたカトリーヌ・ド・メディシス王妃がお気に入りの宮廷画家として、肖像画やフィレンツェ好みの凝った寓意画を遺した。

「アウグストゥスとティブルの巫女」では、古代ローマと16世紀パリを強引につなげて舞う不思議な世界を描いている。
前景では、「ソロモンの円柱」と呼ばれる2本の捻り円柱の下でローマ帝国初代皇帝アウグストゥスが跪いてティヴォリ(仏語ティブル)の巫女の託宣を受ける。巫女は幼児キリストと聖母像が現れた天を指し、将来のローマ帝国におけるキリスト教の勝利を予言する。

後景では、当時のパリのチュイルリー庭園を騎馬試合、セーヌ川で競艇が開かれていて、観客席はそちらに興じている。中央の貴婦人一行が振り向いて古代ローマの奇跡を見守っている。

このアウグストゥスはシャルル9世、後ろの貴婦人が母で王太后カトリーヌ・ド・メディシス、右の若者が息子で次の王アンリ3世たちであるそうだ。
(井出、2011年、194頁~195頁)