(2020年3月8日)
※≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』はこちらから≫
井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』 (中経の文庫)
執筆項目は次のようになる。
第3章 シュリー翼へ
9時代概説 フランス絵画
フランス人が誇る美術の黄金時代 17世紀 古典主義とバロック
<3時間コース>
ラ・トゥール 「ダイヤのエースを持ついかさま師」
「聖セバスティアヌスを介抱する聖女イレーヌ」
ル・ナン兄弟 「農民の家族」
プッサン 「アルカディアの牧人たち、通称われ、アルカディアにもあり」
シャンパーニュ 「カトリーヌ=アニエス・アルノー尼と修道女カトリーヌ・ド・サント・シュザンヌ・ド・シャンペーニュ」
<6時間コース>
ボージャン 「チェス盤のある静物」
プッサン 「四季連作 夏、またはルツとボアズ」
ロラン 「夕日の港」
10時代概説 フランス絵画
「ロココ」から「自然主義」へ 18-19世紀 ヴァトーからコロー
<3時間コース>
ヴァトー 「シテール島の巡礼」
シャルダン 「食前の祈り」
ルブラン 「ルブラン夫人と娘ジュリー」
コロー 「真珠の女」
<6時間コース>
ブーシェ 「ディアナの水浴」
フラゴナール 「かんぬき」
アングル 「トルコ風呂」
ジェリコー 「エプソムのダービー」
シャセリオー 「アハシュエロス王との謁見のために化粧するエステル」
コロー 「モルトフォンテーヌの思い出」
第3章 シュリー翼へ
9時代概説 フランス絵画
フランス人が誇る美術の黄金時代 17世紀 古典主義とバロック
<3時間コース>
ラ・トゥール
ラ・トゥール(1593-1652)
① 「ダイヤのエースを持ついかさま師」
1635年/油彩・カンヴァス/106×146㎝ Sully 3F
② 「聖セバスティアヌスを介抱する聖女イレーヌ」
1649年頃/油彩・カンヴァス/167×131㎝ Sully 3F
「ダイヤのエースを持ついかさま師」
1635年/油彩・カンヴァス/106×146㎝ Sully 3F
【光と闇のマジック巧みな画家の心の明暗を読む】
ラ・トゥールは、おそらくオランダで修業し、30歳でロレーヌ公に絵が買い上げられ、1639年にはパリに進出している。国王ルイ13世から“王の常勤画家”に任命されてからは、宗教画を納めている。ロレーヌ地方がフランスに合併されてからは、パリから派遣された美術好きの知事のため、6回も作品が発注されて高額の画料が支払われた人気画家であった。
没後、作品は散逸し、息子や工房の模作が多いが、今日、約40点しか真作がない(5点もルーヴルは所蔵し、まさに宝庫である)。
その内の風俗画の代表、若者に賭け事の危険を教える「いかさま師」がある。ラ・トゥールの光と闇のマジックにはファンも多い。
アメリカに同じ構図のクラブのカードをすり替える絵もあるが、出来はルーヴルのダイヤのカードを持つ、この「いかさま師」の方が良いといわれる。いかさま男女3人の関連した表情に心理的緊張感が増して、完璧な構図となっていると評される。
「聖セバスティアヌスを介抱する聖女イレーヌ」
1649年頃/油彩・カンヴァス/167×131㎝ Sully 3F
【「戦う画家」が描く慈愛の聖女】
光と闇の画家の絶頂を示す晩年作が「聖女イレーヌ」である。それは、矢で射られたローマ時代の殉教者を慈愛で救った聖女の物語である。
セバスティアヌスは、伝承には、3世紀ローマ帝国の軍人で、禁教下に仲間を助けようとして露見し、弓で射殺刑となったが急所を外れて、瀕死のところをイレネという女性に看護されて救われる。
布教に復帰したセバスティアヌスは再逮捕され、今度は棍棒で打たれて殉教した(遺体は、ローマの下水道に投げ込まれたといわれる)。
このラ・トゥールの絵は、瀕死のセバスティアヌスがイレネ(仏語イレーヌ)たちに発見される感動の名シーンである。
このような絵を描いた画家だから、さぞ本人も慈愛の精神にあふれていたと想像される方も多いだろうが、実際はそうではない。17世紀の文献によると、ラ・トゥールは地元ロレーヌでは欲に固まった金満家で市民に恨まれ、目下には横柄、脱税、暴力で裁判所に訴えられてもいる(絵もそうだが、性格も明暗の激しいカラヴァッジョに似ていると井出氏はみている)。
それでは、この性悪な画家の絵から、なぜこんな聖なるメッセージが発せられるのか。
17世紀のロレーヌ地方は宗教戦争のただ中にあり、画家の住んだ町が火災で壊滅、その上飢饉とペストの流行で、生き抜くだけでも困難な時代であった。ラ・トゥールは、フラ・アンジェリコのように安穏な修道院生活の画家を目指すわけにはいかなかったようだ。むしろ植民地を切り開いていく反宗教改革時代の“戦う画家”となってしまった。画家はその作品において、信仰の力が人の魂を動かすことを見せつけ、その戦いに勝つことでしか救われないと考えたと井出氏は想像している。
(井出、2011年、202頁~206頁)
ル・ナン兄弟
ル・ナン兄弟(1600/1610頃-1648頃)
「農民の家族」
1640-45年頃/油彩・カンヴァス/113×159㎝ Sully 3F
【ブルジョワのために描いた質素で粋な農民画の傑作】
ル・ナン兄弟は、フランス北東部、美しいゴシック様式の大聖堂で有名なラン出身である。兄弟はパリで共同の工房を持ち、たくさんの顧客を抱えていた。
(ただし、Lenainとしか署名しないので、とくに農村を主題とした絵の多い長男アントワーヌと次男ルイの絵画は区別が難しいようだ)
再評価は、1850年代、評論家シャンフルーリがラン出身で、このル・ナン兄弟を記事で紹介したことから、ブームが起こる(その点、フェルメールも事情が似ていた)。
シャンフルーリは、クールベやミレーらの農民画が注目を浴びた時代に写実主義を推進した。
ル・ナン兄弟の作品は早くからルーヴル入りを果たした。「農民の家族」という作品は、暖炉に向かう子たちを入れると、合計8人の農民の家族が猫や犬とともに、記念写真のように描かれている。大人たちの視線は、私たち(鑑賞者)の方に向けられている。
奥のご主人は、大きなパンを大事に抱え込んでおり、一方で左の老女の瞳は慈愛にあふれ、当時は高価なワイングラスを手にしている。貧しいはずの農家にとってあまりに威厳に満ちた肖像が描かれている。
この絵は、聖体のパンと受難の血のワインを使って家庭でミサをあげる、農村部の新しいキリスト教信仰を写したものとする説が出されたようだが、単なる深読みとされた。というのも、ル・ナン兄弟の農民画は純粋にパリで描かれ、パリの貴族やブルジョワのために描かれた空想の農民画であるから。
19世紀のミレーのように、郊外の農村に住んで、現地取材したわけではない。ひょっとして、画家はこの絵を発注したパリのお金持ちの一家を農民に見立てたのかもしれないともいわれる。
井出氏の解釈では、ローマで流行のカラヴァッジョ様式の宗教画をフランスの農村に移し替えてみようとしたのではないかという。画家の機知と自信が感じられ、ありえない設定だけれど、存在感があり、質素を装いながら粋を貫くフランス絵画の傑作であると評している。
(井出、2011年、207頁~209頁)
プッサン
プッサン(1594-1665)
「アルカディアの牧人たち、通称われ、アルカディアにもあり」
1638-40年頃/油彩・カンヴァス/185×121㎝ Richelieu 3F
【若い牧人たちが読んでいる文章の意味は?】
プッサンは1594年、ノルマンディー地方のレザンドリの名家に生まれる。各地で画家修業した後、30歳でローマに到着し、以後パリに戻った2年間を除き、枢機卿や貴族のパトロンを得てローマで活躍し、当地で没している(だから、ローマ滞在の方がフランスより長い)。
しかし、1639年、プッサン45歳のときに、本国のルイ13世からパリに帰って、首席宮廷画家になるようお声がかかった。ローマで結婚した最愛の妻マリーが27歳で家付き娘であったことなどから、画家は逡巡する。とはいえ王様の要望となれば命令のようなものであったから、1640年、単身赴任でパリに到着する。まもなく、パリの画家たち、とくにライバル宮廷画家シモーヌ・ヴーエ一派から敵対され、ローマと残した妻が恋しくなる。
その頃描いたのが、この「アルカディアの牧人たち」なのである。
この絵の欝々としたメランコリーの世界は、画家がパリに帰る直前の不安感が反映したものと井出氏は考えている。
Et In Arcadia Ego.「われ、アルカディアにもあり」という古代の石棺の銘文、つまり死はどんな理想郷にもある。お前たちの青春もはかない一瞬に過ぎない、というきつい言葉を若い牧人たちが読んでいて、それぞれに意味を探っている。
(この絵については、パノフスキー(E. Panofsky)の名解釈が『視覚芸術の意味』(岩崎美術社)で読めるので、お勧めであるという)
ここから、プッサンはローマのカラヴァッジョの影響から抜け出て、フランス人自らの古典主義に目覚めた内省と思索の時代に入ることは後年の名作群が証明してくれると井出氏は指摘している。
(井出、2011年、210頁~211頁)
シャンパーニュ
シャンパーニュ(1602-1674)
「カトリーヌ=アニエス・アルノー尼と修道女カトリーヌ・ド・サント・シュザンヌ・ド・シャンペーニュ」
1662年/油彩・カンヴァス/165×229㎝ Sully 3F
【愛娘を奇跡的に癒した祈りと神の愛を伝える】
シャンパーニュはブリュッセル生まれで、フランスに帰化した画家である。パリでルイ13世やリシュリュー枢機卿の宮廷画家として、肖像画や宗教画に腕を振るった。とくにフランドルで学んだ細密描写による布のテクスチャーの見事さは他の追随を許さない。
肖像画では、ルーヴルのリシュリュー枢機卿一人の肖像が厳格と繊細さを兼ね備えて、宰相としての個性をよく捉えている。
(ただ、リシュリューという人は、ルーヴルのリシュリュー翼の名前を冠している偉い政治家というよりも、デュマの小説『三銃士』のせいもあって、策謀家としての陰険なイメージがありすぎる)。
そこで、この画家の代表作としては、二人のシスターを描いた奉献画の方を井出氏は挙げている。
パリのポール・ロワイヤル修道院は当時厳格な高等教育で有名で、画家は娘カトリーヌを修道女として預けている。
ところが、彼女は足が麻痺して動けなくなってしまう。
(原因は粗食で栄養が悪かったのか、陽に当たらなかったのが悪いのか。今日でもパリでは脚気が風土病であるという)
そこで、カトリーヌ=アニエス・アルノー修道院長は、9日間の勤行を彼女のために尽くして、病は奇跡的に治癒した。父の画家シャンパーニュは感激して、さっそく画筆をとり、この絵を仕上げて修道院に寄贈した(そのいわれが画面の背景左上に事細かに描いてある)。
ベージュ色と黒と十字架の赤というシンプルな配色に、横たわる娘と祈る院長の二人だけの構成は、この修道院のモットーである清貧にふさわしい。
もともとこの修道院は、1632年からフランスにおけるキリスト教の厳格派であるヤンセン主義の神学校となっていた。その教理は、人間の原罪の深さを強調し、人間は善をなしえないとされ、禁欲的なものであったそうだ(だから、哲学者パスカルや劇作家ラシーヌも学んだ校風は贅沢が禁止されたものであった)。
美は神の愛を通じて表現に至ることを、この絵は教えてくれるようだ。
(井出、2011年、213頁~215頁)
<6時間コース>
ボージャン
ボージャン(1612頃-1663)
「チェス盤のある静物」
1630-35年頃/油彩・板/55×73㎝ Sully 3F
【現世を否定し信仰へ向かうヴァニタス画の最高傑作】
絵画における禁欲的なヤンセン主義の影響は、先のシャンパーニュが典型である。そして物質を描くはずの静物画でも、現世を否定し来世のために、身を律するという「メメント・モリ」(死を想え)の考え方が17世紀には流行した。
一般に「ヴァニタス(現世の虚しさ)画」と呼ばれるジャンルで、このボージャンの作品「チェス盤のある静物」が最高傑作であるとみられている。とくにこの絵は、「五感の寓意」とも呼ばれている。
まず、リュートと楽譜は聴覚、パンとワインは味覚、カーネーションは臭覚、鏡は視覚、チェス盤や財布、カードは触覚を表す。
一見、何気なく配置しただけに思えるが、そこから手前の賭け事や音楽の遊興生活を否定し、奥の聖体を表すパンとワイン、三位一体の3本のカーネーションの宗教生活へと向かう構図が読める。
そして結局は壁の鏡(そこには何も映っておらず、死、あの世の象徴)へと人間は導かれてしまう運命にあることを暗示している。
このように、ボージャンはローマに学んだ優れた宗教画家である。
(静物画は4点しか遺されていないが、ルーヴルのもう1点「巻菓子のある静物」も見事である)
(井出、2011年、216頁~217頁)
プッサン
プッサン(1594-1665)
「四季連作 夏、またはルツとボアズ」
1660-64年/油彩・カンヴァス/118×160㎝ Richelieu 3F
【聖書から描いた四季に人間の人生を思う】
プッサンは2年で宮廷画家の職を投げて、パリからローマに帰ってしまう。その一時帰宅の言い訳が、妻を迎えに行ってくるからとのことであったが、結局二度と故国の土は踏まなかった。
リシュリューの甥の公爵が、ローマに直接注文した画家プッサン最晩年の傑作が、この「四季連作」である。
プッサンはここで四季の自然を、聖書の主題において、また幼青壮老の人生と一日の移り変わりにおいて俯瞰した。
(昔はただ春夏秋冬が横一列に並んでいたが、改装後は八角形の間でぐるりと見回せるので、画家の宇宙観がよくわかるという)
「春」はアダムとエヴァの楽園で朝を表す。この「夏」は、寡婦のルツに地主のボアズが落ち穂拾いの許可を与える出会いの場面で、後に二人は結婚してダビデの家系を作る。時は真昼、人生も成年期である。
「秋」はモーセが約束の地の葡萄を選ばせる収穫図で、夕映えの空である。「冬」は夜の大洪水が描かれる。ただし人類は終わりではない。冬の洪水から春の再生へと循環する。
(井出、2011年、218頁~219頁)
ロラン
クロード・ジュレ、通称ロラン(1600-1682)
「夕日の港」
1639年/油彩・カンヴァス/103×137㎝ Richelieu 3F
【後輩画家も真似できない「夕景の巨匠」が描く夕焼け】
クロード・ジュレ、通称ロランという画家も、17世紀にローマに憧れ住み着いてしまったフランス人である。プッサンとは仲が良く、一緒に郊外に写生に出たようだ。
ロランは数々の風景素描を構成し、聖書や神話の物語性も盛り込んで、現実よりも理想的な風景画を創り出した。17世紀のオランダでは、人物抜きの自然そのままに近い風景画が人気であったが、フランスの宮廷人も憧れのイタリア風景を欲しかったようだ。
そこでサービス精神のあるロランは、2枚ひと組で朝と夕方、都会と田園という対照的な情景を描いて大評判となる。この「夕日の港」という作品も、ルーヴルにある朝の田園風景「村の祭り」と対幅であるそうだ。
やはりロランは夕景の巨匠で、ピンクとオレンジの豊かな諧調こそが画家の命である。この絵の遠近法上の消失に位置する夕日が船と建築と群衆の舞台を統一している。
19世紀風景画の大家ターナーやコローが何とか再現しようとしたロランの夕景だが、真似できなかったようだ。
(井出、2011年、220頁~221頁)
10時代概説 フランス絵画
「ロココ」から「自然主義」へ 18-19世紀 ヴァトーからコロー
<3時間コース>
ヴァトー
ヴァトー(1684-1721)
「シテール島の巡礼」
1717年/油彩・カンヴァス/129×194㎝ Sully 3F
【ルーヴルが作品名を改題した理由とは?】
この絵はかつて「シテール島への船出」と呼ばれて有名な絵であった。いつのまにか今の「シテール島の巡礼」に改題された。
ヴァトーという画家は、長わずらいの結核により37歳という若さで病没した、いかにも細面で優男であった。
画筆のタッチは繊細でパステル画のようである。絵に根源的な迫力はなくとも、その上品な艶っぽさ、賑やかだけど哀しいはかなさが魅力的である。
「シテール島の巡礼」のシテールとは、縁結びの神社のような島である。つまり、古代ギリシアではキテラといい、愛の神ヴィーナスが住み、ここに巡礼すれば、片思い、失恋、不倫なんでも恋愛問題は片付くという島である。様々なカップルが船でやってきては、それなりの解決を見て帰っていく。
ロココ時代にはこの絵ばかりでなく、田園の恋愛劇やオペラがはやって、ひとまとめに」して<フェート・ギャラント>(日本語で<雅な宴>)と呼ばれる。
(ただし、本来のgallenteは、和風の<みやび>というより色気が濃い)
この絵ではヴィーナス像の下にいる3組のカップルが主役である。衣裳は違っても意味的には、同一人物と考えてよいと井出氏はいう(異説があるので、要注意だが)。
一番右の男性はまだ気のない女性に愛を告白する。真ん中は、愛を受け入れた女性は手を取られて起き上がる。左は、男性が女性の腰に手を回して、早く愛の儀式を終えて立ち去ろうとするが、女性はこれまでの自分を名残惜しそうに振り返っている。このとき、もう二人は夫婦というわけである。足元に犬がいるのは忠実のシンボルである。
上記の分析は、この絵のファンだった彫刻家のロダンによるものであるそうだ。まさに恋愛のフルコースがここにある。こうして大勢の恋人たちが楽しそうに船に乗り込んで、キューピッドたちに導かれて帰路につく、つまりここが「シテール島」である。
正確には、この絵は「シテール島からの船出」である。「シテール島へ」としてきた長年の慣習は誤りということを、ルーヴルとはライバルの、イギリスの国立美術館長が論文で指摘した。悔しいがルーヴルは仕方なく、「シテール島の巡礼」とまでは改題し、お茶を濁しているそうだ。
(井出、2011年、226頁~228頁)
シャルダン
シャルダン(1699-1779)
「食前の祈り」
1740年/油彩・カンヴァス/49×38㎝ Sully 3F
【ルイ15世も惚れ込んだフランス家庭の風景】
シャルダンは若い頃からリアルな静物画に優れていた。
同じくルーヴルにある「赤エイ」などの数点には17世紀フランドルの巨匠画家の風格がある。まだ29歳で王立アカデミーの会員に迎えられた。
数年に1度ルーヴル宮殿で開かれたサロン展に次々と名作を出品し、わざわざ地味な日常的モチーフ、台所の片隅や市民風俗を得意にして、ブームを巻き起こした。
そして、ルイ15世までがシャルダンのファンになってしまう。この「食前の祈り」などに惚れ込んで献呈させ、ヴェルサイユ宮殿の書斎に飾って喜んでいたそうだ。この王様の趣味は料理と刺繍と錠前直しといわれているので、意外と下々の暮らしの情報に通じていたかもしれないという。
原題は、Le Bénédicitéという。「主のお恵みあれ」Bénissezの意味のお祈りである。下の小さい子には発音が難しくて言うのに時間がかかるらしく、画面ではお母さんとお姉さんが睨んで待っているところである。フランス人家庭の今でも通じる躾の厳しいところがこの絵にも表れているらしい。また、視線の方向によって、うまく三角形の幾何学的な構図で描いている点も、評価が高い。
そしてシャルダンのすごいところは、描く時代風俗がロココなのに、造型は先に進みすぎて近代に突入している点にあると井出氏はみている。そのギャップが超個性的で、こんな画家は18世紀には他にいないという。
ただ、今の感覚で絵を解釈できない点も付言している。例えば、このお祈りをしている下の小さい子であるが、一見スカートをはいて女の子のようでも、実は男の子 le garçonnetである。
フランスでは20世紀初めまで男の子も物心がつくまで女の子の衣装を着せて育てる風習があった(例えば、ルノワールの絵にも息子Jeanが女の子として描かれる)。
この子の椅子にかけてある太鼓も男児の遊び道具であり、1744年のこの絵の複製版画には、「そのお姉さんはこっそりと小さい弟のことを笑っている」と説明文もついているという。
また、この母親も実は家政婦兼家庭教師 gouvernanteという説もある。この絵の前にシャルダンは最初の妻を亡くし、やもめ暮らしで9歳の長男は家政婦任せだったから、その生活の反映かもしれないともみられている。
(井出、2011年、229頁~231頁)
【補足 シャルダンの「食前の祈り」】
姉と似た形の服を着せられている弟が女の子でないことについては、鈴木杜幾子氏も言及している。
このことは、やはり椅子にぶら下げられた太鼓と床に転がる撥(ばち)からわかるという。
太鼓は軍隊で用いられることからの連想か、伝統的に男の子のアトリビュート(その人物が誰であるかを示すために一緒に描かれる品物)であった。
少年がある年齢に達するまで少女の服装で育てられる習慣は、歴史家アリエスは『<子供>の誕生』の中で、ルイ13世が7歳8ヵ月まで「ローブ」(長いドレスのような型の衣装)を着せられていたと記している。
(フィリップ・アリエス[杉山光信・杉山恵美子訳] 『<子供>の誕生』みすず書房、1980年、53頁)
この点について、鈴木氏は、次のようにコメントしている。こうした風習の根拠ははっきりしないが、ズボン類よりも「ローブ」型の衣服の方が歴史が古いため、子供服に一種の「アルカイスム(古風趣味)」が残存したとも考えられるとする。また一般に家父長制社会においては男児の方が女児よりも大切な存在と考えられていたから、病魔や死神などの男児の命を脅かすものの注意を逸らすという呪術的な発想もあったかも知れないと鈴木氏は述べている。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」 シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、12頁~15頁、221頁)
【鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』はこちらから】
鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』 (講談社選書メチエ)
ルブラン
ルブラン(1755-1842)
「ルブラン夫人と娘ジュリー」
1786年/油彩・カンヴァス/105×84㎝ Sully 3F
【優美な自画像で名声を得た女性画家】
マダム・ルブランは、画家の父ルイ・ヴィジェから学んだ後、グルーズやヴェルネという当代一流の画家に私淑し、恵まれた才能を開花させた肖像画家である。
ルイ16世の妃マリー・アントワネットに同じ歳の女性ということもあって、親友並みの庇護を受け、“ヴェルサイユの薔薇”風の肖像画が描いた。おかげで、当時女性に門戸を開いていなかった王立美術アカデミーにも入会した。成功した画商とも結婚して、順風満帆かと思われた矢先に、1789年、フランス大革命に遭遇する。
王と王妃はギロチンにかかり、マダム・ルブランも寵愛された故に故国から追われ、ヨーロッパ各地を転々とする。ただ、これまでの経験と優美な姿形がものをいって、イタリア、ロシア、ウィーンなどの宮廷で大歓迎され、全欧的な名声を得た。
1802年に帰国を許されるが、また政治的に疎まれて出国し、故国に安住の地を得たのは、王政復古後のことである。
波瀾万丈の人生を送った割に、画風は古典的で安定しており、女性はあくまで可愛らしく、男性は理知的で頼もしく描く。とくに自画像が評判高く、ルーヴルの娘との自画像2点は有名である。
1786年作の31歳の時のものと、1789年作の34歳の時のものがある。
前者は、初々しいお母さんで、ラファエロの聖母子のようで、しかも衣装は東洋風である(レンブラントの絵も研究した形跡が認められている)。この娘リュシー・ルイーズ、通称ジュリーは、当時6歳、第一子が早世したので、大変可愛がられたようだ(ただし、成人して母に背き、30代で先立ってしまう運命であった)。
この「ルブラン夫人と娘ジュリー」はシュリー翼3階にある。
一方、後者の1789年の娘との自画像は、ドゥノン翼2階にある。こちらは、革命時代のファッションで、古代ローマ風の肩出しドレスを着ている。
さて、この1780年代は、思想家ルソーの影響もあって、乳母任せの子育てを母親自ら行なうのが流行した時代でもあった。ここでマダム・ルブランはいち早くリーダー役を買って出ている。今日の女性芸術家のパイオニアとしての貫禄があると井出氏は評している。
(井出、2011年、232頁~234頁)
コロー
コロー(1796-1875)
「真珠の女」
1868年頃完成/油彩・カンヴァス/70×55㎝ Sully 3F
【イタリアとルーヴルへの画家の感謝を読む】
日本で開かれたコロー展では、「真珠の女」が絵はがき人気ナンバー1だったそうだ。
コローは風景画家で、人物画は余技のはずだが、「真珠の女」はコロー画集の表紙写真にも選ばざるをえない魅力がある。
ところで、「真珠の女」というタイトルであるにもかかわらず、le parle(真珠)をこの絵にいくら探してもない。
コローはこの絵を売らなかったので、このタイトルが付けられたのは、没後14年たった1889年のことである。つまりパリ万博で開かれた40数点のコロー回顧展での初公開の際といわれる。
おそらくモデルの額にかかる草の冠が真珠色に見えたか、あるいはこのモデル自体が真珠のような美しさを発したか、あるいはフェルメールの「真珠の耳飾りの女」と比べられたかもしれないと井出氏は推測している。
X線写真によると、この絵は画家コローが長期にわたって手を入れた絵であることがわかり、頭部や胸を何度も加筆修正している。
制作年代については、以前は1868~72年と晩年の作に推定されていたが、最近では、画家がモデルに着せるイタリアの民族衣装を送ってもらった1857年コロから、制作が始まり、1868年にまでまたがるものとされている(緻密なデッサンや精確な色彩のトーン・バランスは、この絵が最晩年の融通無碍な境地にはまだないことを示すとされる)。約10年間は長いので、画家にとってよほど大切な思い出が込められているようだ。
モデルについては、この頃画家のお気に入りだったベルト・ゴールドシュミット嬢とされる。
この絵のポイントは2つある。
1つは、このモデルのポーズで、ルーヴルの「モナ・リザ」にそっくりであり、とくに手と指に注目したい。
もう1つは、顔の表情で、ラファエロの「美しき女庭師」の聖母によく似ている。
井出氏は、この絵は、コローが若い頃学んでいたイタリアへの感謝のオマージュであり、そしてパリで日頃お世話になっているルーヴル美術館へのオマージュでもあると理解している。
(井出、2011年、235頁~237頁)
<6時間コース>
ブーシェ
ブーシェ(1703-1770)
「ディアナの水浴」
1742年頃/油彩・カンヴァス/57×73㎝ Sully 3F
【永遠に男たちを魅了するエロカワイイ美女たち】
ブーシェは、ヴァトーを受け継ぐ「雅なる宴」の画家から、さらに官能的な裸体表現へと展開した画家である。
ルイ15世とポンパドゥール侯爵夫人の宮廷画家として、ロココ絵画を“エロ可愛い”ものにした画家であると井出氏はみている。
真面目な革命時代には顰蹙を買ってお蔵入りになり、この画家の絵でルーヴルに展示されたのは、この絵が初めてで、1852年のことであるそうだ。
この絵は、ギリシア神話の狩りの女神ディアナの水浴シーンが描かれている。ブーシェの描くロココ美女たちは、華奢で小顔である。また、森の青緑の新鮮さが風景画の要素となり、獲物のジビエが静物画、ディアナたちを守って警戒する犬が動物画となっている。ブーシェのエンターテナーとしてのプロ意識が隅々に発揮された名品であると評している。
(井出、2011年、238頁~239頁)
フラゴナール
フラゴナール(1732-1806)
「かんぬき」
1777年頃/油彩・カンヴァス/74×94㎝ Sully 3F
【扇情的な危な絵が宗教画と対だったワケは?】
フラゴナールはロココの最後の世代の画家である。
ローマに留学してデッサンを修業し、速筆で一気に肖像画を仕上げる早業は伝説的である。
帰国後は宮廷やアカデミーに入らずに独立し、富裕層の邸宅装飾や風俗画に活躍し、一世を風靡した。ただし、大革命により一気に凋落し、晩年は忘れ去られた画家である(ルノワールがその女性表現を再評価した)。
この絵はちょっと危な絵に近いと井出氏はいう。というのは、ブルジョワ夫人と使用人階級の青年が密会して内鍵を下ろし、扇情的なシーンであるから、ベッドや深紅のカーテンが描かれ、闇と光が交差して、レンブラントのような効果がドラマを盛り上げている。
フランス大革命まであと10年余りなので、民衆が旧体制の階級差を侵犯するという政治性も感じられるようだ。
この絵は1974年に購入品でルーヴルに入り、たちまち人気作品となった。この絵は、ルーヴルに1988年に寄贈された同じサイズの宗教画「羊飼いの礼拝」と対幅であったようだ。ベッドサイドテーブルのリンゴが原罪を表すので、それを濯ぐためにキリストが生誕するという理屈であるそうだ。
(井出、2011年、240頁~241頁)
アングル
アングル(1780-1867)
「トルコ風呂」
1862年頃/油彩・板に貼付けたカンヴァス/108×110㎝ Sully 3F
【老巨匠が夢見たハーレムは大胆すぎて非公開だった】
アングルは、ドラクロワとは違い、中近東には行ったこともないはずである。
「トルコ風呂」は、82歳の老画家が夢見たハーレムの美女たちが描かれている(井出氏がアングル作品で最も好きな作品という)。
アングルは、イスタンブールの英国大使夫人によるハーレムの女風呂探訪記を参照したそうだ。
この絵をよく見ると、手前の背中を向けたポーズは、ルーヴルにある「浴図」と同じ構図である。この他、既作品からのポーズがいくつも見受けられ、これが画家アングルの集大成であることがわかる。とはいえ、あまりに大胆なポーズばかりのため、ナポレオン3世が購入するはずが、皇后に拒否されてしまった曰く付きの問題作である。
以後長いこと公開がはばかられ、やっと1905年のアングル回顧展で日の目を見る。その時、若きピカソが大激賞した。そしてピカソ晩年のエロチカシリーズもアングルの世界である。二人の老巨匠のパワフルさには、井出氏は脱帽している。
(井出、2011年、242頁~243頁)
ジェリコー
ジェリコー(1791-1824)
「エプソムのダービー」
1821年/油彩・カンヴァス/92×122.5㎝ Sully 3F
【大の馬好き画家が遺した競馬風景】
ジェリコーは騎兵隊にいたせいもあって、大の馬好きであった。乗るのも描くのも、また賭けるのも熱心ということで、サラブレッドの聖地、英国のエプソンまで旅してダービーを取材した。
井出氏は、この絵は、絵というよりもアニメを見ているような時間性を感じるという。というのは、馬身が引き延ばしていることと、すべての馬が四本脚を伸ばして宙に浮かせていることによる。跳躍でなく普通に走るだけなら、これはあり得ない。
ところで、馬の走行を初めて連続写真に撮ったのが英国人写真家マイブリッジで、1878年のことだそうだ。それによれば、馬が浮遊する瞬間は四本脚を全部引き付ける時だけで、伸ばしている時は少なくとも1本は脚を地に付けている。ジェリコーの時代の画家はまだこの事実は知らない。
ただジェリコーほどファンタスティックに描いた画家はおらず、雲と芝の描写も素晴らしい。落馬事故がもとで早世したこの画家も、この傑作を遺したことで瞑目すべきかもしれないと井出氏はみている。
(井出、2011年、244頁~245頁)
シャセリオー
シャセリオー(1819-1856)
「アハシュエロス王との謁見のために化粧するエステル」
1841年/油彩・カンヴァス/45×35㎝ Sully 3F
【ユダヤ人を救った美しき聖書のヒロイン】
シャセリオーはもとアングルの弟子であったが、途中で師のライバルのドラクロワに私淑して傾倒する。いわゆる折衷的なスタイルを持っている。つまり、アングルの冷たい無機質の女体に、ドラクロワの熱い血を注ぎ入れたと井出氏はとらえている。
二人の師の中近東趣味、オリエンタリスムの画風を受け継いだが、この絵が代表作である。
この絵の女性には、次のような物語がある。
旧約聖書のユダヤのヒロイン、エステルは、バビロニアのアハシュエロス王にその美貌で召し出され、王妃となって拉致されたユダヤ人奴隷たちを救う。
その召し出される時に、エステルは髪をとかし、宝飾をまとい、美しさに磨きをかけて、王を陥落させようとする。エステルの抜けるような白い肌と、ブロンドの髪がこの絵の見どころであるという。
(井出、2011年、246頁~247頁)
コロー
コロー(1796-1875)
「モルトフォンテーヌの思い出」
1864年/油彩・カンヴァス/65×89㎝ Sully 3F
【モザイクのような緑と光が織りなすヴァーチャルな風景】
この絵の地名モルトフォンテーヌは、パリの北東の近郊にある沼の公園に由来し、画家コローは何度も通って鉛筆でスケッチを重ねている。
しかし、この絵は決して現実の風景ではないと井出氏は強調している。
画題の原文に、Souvenir de Montefontaineとあるように、この絵はあくまでも現地の「想い出」「回想」の産物であるという。コローが画筆とパレットのすべての巧みを奮って構成したヴァーチャルな空間である。そこでは、コローの特訓と感性のおかげで、完成した20色にも及ぶ緑のグラデーションが、モザイクのように散りばめられ、そして銀灰色の靄が軟焦点の写真のような効果をもたらしている。コローは、17世紀のロランの伝統を革新して、幾何学的な古典構図と光と大気の調和の美をこの絵で成し遂げている。
サロン展で見た皇帝ナポレオン3世がすぐに官費での購入を決めた。
(井出、2011年、248頁~249頁)