≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その2≫
(2020年7月4日投稿)
【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】
小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
今回のブログでは、ルーヴル美術館所蔵の作品について、小暮満寿雄氏の解説を補足しておきたい。
まず、「アングルのヴァイオリン」について取り上げる。アングルによる≪パガニーニの肖像≫がルーヴル美術館に所蔵されているので紹介しておく。続いて、アングルの≪トルコの浴場≫という作品と、写真家マン・レイの≪アングルのヴァイオリン≫との関連について、鈴木杜幾子氏の著作に拠りつつ、解説してみたい。
また、小暮氏が「近代絵画の父」として位置づけていたスペインの画家ゴヤについて、解説とともに、ルーヴル美術館所蔵の作品についてフランス語の解説文を読んでみる。
そして、アングルを総帥とする新古典派とドラクロワを旗手とするロマン派がしのぎを削っていた頃、風景画として生きたコローについて取り上げてみたい。ドラクロワより2つ年上にもかかわらず、画家としての出発は遅く、26歳の時であった。詩情あふれる風景画、人物画がルーヴル美術館に展示されている。
その他、ドラクロワのショパンの肖像画、ジョットの作品についても言及しておく。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
小暮氏は、アングルが大変なヴァイオリンの名手で、イタリアのパガニーニと共演したことがあることに言及していた。そして今でもフランスでは、本業以外の特技を「アングルのヴァイオリン」というと点に触れていた(小暮、2003年、211頁)。
この点、高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』(日本放送出版協会、1986年)でも述べられている。すなわち、“アングルのヴァイオリン(得意の余技)”という言葉を後世にのこすほど、アングルは達者なヴァイオリン奏者だった。
実はアングルには、パガニーニの肖像画がある。
〇アングル「パガニーニの肖像」(1819年 石墨 29.8×21.5㎝ ルーヴル美術館蔵)
天才的ヴァイオリニストのパガニーニに、アングルはローマで出会った。アングルはパガニーニの結成したカルテットの第二奏者となった。
この作品の来歴は詳らかではないが、デッサンの稀有の名手アングルは、引き直しのない正確無比な線により、楽器を携えた端正な正面向きの姿に、大音楽家パガニーニをとらえた。演奏する先々で聴衆を熱狂させ、旋風を巻き起こし、奇行をもって知られた音楽の鬼神は、伝説とは裏腹に明晰で、知性と高雅な人格の持ち主として、ここに現前している。
(高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』(日本放送出版協会、1986年、34頁~35頁)
【高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』はこちらから】
ロマン派登場 (NHK ルーブル美術館)
マン・レイの作品として、<アングルのヴァイオリン>と題する有名な作品がある(1924年、写真)。
この作品は、アングルの<トルコの浴場>の中央の人物を思わせる後ろ姿の裸婦を、ヴァイオリンに見立てた写真である。1924年の作品である。
19世紀アカデミズム絵画の巨匠アングルの代表作<トルコの浴場≫は、皮肉なことに、20世紀の多くの前衛画家たちの関心をひきつけてきたといわれる。
例えば、ピカソは<アヴィニョンの娘たち>(1907年、ニューヨーク近代美術館蔵)において、室内の裸婦群像というテーマを換骨奪胎した。写真では、先のマン・レイの写真作品がそうである。
この点について、鈴木杜幾子氏が『フランス絵画の「近代」』(講談社選書、1995年、162頁~184頁)において、解説している。
さて、小暮氏も述べていたように、アングルは、ダヴィッドのもっとも若い世代の弟子として、19世紀新古典主義陣営の指導者となった画家である。
そして、<トルコの浴場>は、そのアングルの晩年の代表作であり、その一つのヴァージョンがルーヴル美術館所蔵であり、1863年に完成された。
この代表作は、単に美術史上の名作という以上に、その造形的特異性によって強烈な印象を与える作品である。
まず、画面が完全な円形という点が目を引く。円形画は、イタリア・ルネサンス期には「トンド」と呼ばれ、有名なラファエロの<小椅子の聖母>など多くが制作されたが、近代絵画の形式としては、室内装飾などの特殊な場合を除いては、例が少ないそうだ。それをアングルは、このタブロー画にあえて採用した。
真円という画面のかたちは、この作品の特異な印象を強めている。この絵の中では、直線は建物の線にしか用いられておらず、個々のモチーフは、曲線のみで構成されている。しかも、アングルの使用する曲線は、例えばルネサンスの巨匠ボッティチェリの線のように、速度をもって流れてゆく曲線ではなく、形態を確定し、それを背景からくっきりと切り取る機能をもっており、そのため動きの感じを与えないようだ。
<トルコの浴場>を埋め尽くす裸婦の身体を構成する線は、画面の円形と呼応し、この絵の閉ざされ、自己完結した印象を強めている。
この絵に描かれている多数の裸婦(正確には25人)の多くに、制作当時80歳前後であったアングルが、若いときから描き続けてきた東洋の裸婦のポーズが再利用されているそうだ。
例えば、前景の向こう向きに座って楽器を弾く裸婦の腕を除く上半身は、<ヴァルパンソンの浴女>(1808年、ルーヴル美術館蔵)そのままである。そして、右手前に横たわって両腕を頭の上に挙げている裸婦は、<奴隷のいるオダリスク>(1839年、マサチューセッツ州ケンブリッジ、フォッグ美術館蔵)を連想させる。
<トルコの浴場>は、アングルの東洋への夢が、集大成されている。
(ただ、この絵には多数の裸婦が描かれているが、ドラクロワの<サルダナパロスの死>(1827年、ルーヴル美術館蔵)のような物語性は完全に排除されている)
この<トルコの浴場>の制作は、アングルの青年期から東洋の浴場に対する個人的な関心以外に、直接的な動機があったようだ。この点について、鈴木杜幾子氏は解説している。つまり、この作品の注文者、その後の所有者や世間での評価などについて説明し、最終的にルーヴル美術館所蔵となった経緯について述べている。
この作品の発端は、1848年のナポレオン公の注文にさかのぼるそうだ。ナポレオン公とは、ナポレオン1世の弟、ウェストファリア王ジェロームの息子に当たる。このナポレオン公は、アングルに「良き時代を描いた魅力的な習作に基づくハーレム」の絵を注文した。
(その後、この絵の注文者は、事情は不明だが、ドミドフ公に変わった)
1859年、アングルは正方形に近い長方形画面を完成した。この第一ヴァージョンでは装身具をつけている裸婦は一人もいない。その後、1860年、アングルはネックレス、ブレスレットなどをつけさせ、第二ヴァージョンを作り、これを完成作として、当初の注文者ナポレオン公に売却した。
ところがこの作品は、ナポレオン公の妻、クロティルド公妃があまりに多くの裸体が描かれていることに拒否反応を起こしたため、アングルに返却されることになる。
手元に戻った作品をアングルは2年後に手直しした。まず全体の形を円形にし、ポーズなども改変した。円形にされたことによって、近代絵画としては特異なものになり、描きなおしによって構図の緊密さが増した。
そして、アングルは1865年、円形の<トルコの浴場>完成作を、カリル・ベイという名のパリ滞在中であったペテルスブルグ駐在トルコ大使に売却した。
この人物はエロティックな絵画の愛好家で、クールベの<眠り>(1866年、パリのプティ・パレ美術館蔵)や<世界の起源>(1866年、パリのオルセー美術館蔵)の注文者として知られている。
カリル・ベイが1868年に売却してから、<トルコの浴場>は幾人かの個人コレクターの手を経て、1907年にジョルジュ・プティ画廊の手に渡った。
(アングルのアトリエを出てからジョルジュ・プティ画廊のティツィアーノに渡るまでの間に、この絵が公に展観されたのはただ一度、1905年のアングル回顧展のときだけで、終始個人コレクターの手元にあった)
さて、このように、いわば「大画家の知られざる代表作」であった<トルコの浴場>は、どのような経緯でルーヴル美術館で公開されるにいたったのか?
それは、1907年にこの作品がジョルジュ・プティ画廊に入ったいきさつと絡み合っているそうだ。この年、所有者ド・ブロリ公が<トルコの浴場>を手放す意思をもっていることを知ったルーヴル美術館絵画部長は購入を希望したが、美術館評議会によって反対された。
表向きの理由は12万フランという価格が高すぎるということであった。しかし実際には、この絵が不快感を与えると判断されたためである。
さらに、ド・ブロリ公は作品の国外流出を防ぐために価格を9万フランに下げたがルーヴル美術館は購入せず、ジョルジュ・プティ画廊が入手した。だが最終的には、ルーヴル友の会が資金集めに成功し、1911年、この作品はルーヴル美術館の所蔵品に加えられた。
こうした経緯を解説して、鈴木氏はこの<トルコの浴場>に次のようにコメントしている。
最初の購入者ナポレオン公の妻の反応、二番目の購入者カリル・ベイの特殊な趣味、そしてルーヴル美術館評議会の逡巡、これらの事実を考えあわせるならば、<トルコの浴場>が、19世紀後半から20世紀にかけてのフランス市民社会にとってどのような存在であったかを想像できるとする。
<トルコの浴場>は、当時の上流階級の女性に抵抗を感じさせ、エロティックな絵画のコレクターの収集の対象となり、個人所有者の客間に飾られて友人たちが見ることには差し支えがなく、識者の間では知られていても、美術館での公開にはためらいが感じられる、という性格の作品であったと鈴木氏はみている。1907年のルーヴル美術館評議会は<トルコの浴場>について、このような裸体の堆積が「公序良俗」に違反しかねないという懸念をもったのである。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社選書、1995年、162頁~184頁)
【鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社選書はこちらから】
フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで (講談社選書メチエ)
「近代」の持つ特殊な性格を考えるとき、「近代」の先駆者として、ゴヤという芸術家の存在がクローズアップされると高階秀爾氏も強調している。
ゴヤは、18世紀から19世紀にかけての移り変わりの時期に生きた画家である。つまり、旧体制の時代から革命の時代にかけて生き抜き、80年余りの生涯に「近代」の矛盾をいわば先取りした芸術家であった。
フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(1746~1828)は、スペインのサラゴーサの近くのフェンデトードスという貧しい片田舎に鍍金師の息子として生まれた。
ゴヤが生まれた18世紀とは、どのような時代であったのか?
18世紀のちょうど中ごろ、フランスで言えば、ルイ15世の支配する時代であり、少なくとも表面的には、華やかな王朝文化の花が咲き誇っていた時代である。
17世紀の太陽王ルイ14世以来、ヨーロッパ文化の主導権を握ったフランスは、18世紀においても、まだその栄光を保ち続けていた。17世紀がフランス古典主義の成立期であったとすれば、18世紀はそのフランスの文化が、ドイツ、オーストリアから、さらには北欧やロシアにまで拡まっていった時期であった。そして宮廷の趣味や文化に関するかぎり、スペインもその例外ではなかった。
また他方、絵画を中心とする造形芸術の面においては、ルネサンスの偉大な達成を背後に持つイタリアの伝統も、根強く残っていた。フランスやスペインでも、画家たちはまずイタリアの巨匠に学ぶのが正当な道であると考えられていた。
(ゴヤ自身も、修業時代において、短期間ながらイタリアに渡っている)
とくにスペインにおいては、ヴェネチア派の巨匠ティエポロが、1762年から1770年に世を去るまで、スペインの宮廷に招かれて数多くの仕事を残した。
その上、スペインの宮廷には、ティエポロが招かれる以前から、メングス(ヴィンケルマンの友人で、新古典主義美学の信奉者)が宮廷画家として仕えていた。ティエポロの死後、宮廷における美術の独裁者として、勢力を振るっていた。そのメングスの威光は、「彼を讃美しないことは、ほとんど教会か国家に対する反逆罪とまで考えられるほどであった」そうだ。
ゴヤが芸術家としての道を歩み始めたのは、このような状況の中においてであった。
だから、ゴヤの初期の作品は、王宮のためのタピスリー(壁掛綴織)の下絵(カルトン)に代表される。それらは、イタリア風の明るい色彩表現に味つけされた華やか宮廷趣味を反映していた。
ゴヤは、1775年から1792年まで、20年近くにわたって50点以上のタピスリーの下絵を制作している。それらの多くは、「スペイン風の雅びな宴」と呼ばれるように、当時の貴族社会や民衆の生活の中の遊楽の情景をテーマとしながら、「生きる歓び」を歌い上げている。
この間、ゴヤは、1786年には国王附きの画家となり、1789年、フランスに革命の勃発した年には、正式の宮廷画家に任命されている。
このように、ゴヤの前半生は、宮廷画家としての地位を確実なものにしていったが、生涯の後半の時期にいたって、ドラマティックな変貌を遂げていく。つまり、≪1808年5月2日≫や≪1808年5月3日≫(ともに、マドリードのプラド美術館蔵)に見られる激しい告発者に、さらには、晩年のゴヤの「聾者の家」を飾った一連の「黒い絵」や版画作品に見られる不気味な幻想家に変貌していく。
その変貌過程は、まさしく「近代」というドラマの幕開けにふさわしい。この変貌の理由として、高階氏は次のように考えている。
① フランス革命の余波を受け、ナポレオン軍の侵攻をこうむったスペインには、もはや平穏無事な宮廷の日々など、なくなってしまったこと。
② ゴヤは、1792年、生死にかかわる大病に冒され、その結果、聴力を失って、音のない世界に投げ出されてしまったこと。
ゴヤは、前半生では、陽気で社交好きで、時に羽目をはずすほど行動的であった。しかし、後半生は、他人から隔絶された孤独な、ただ見るだけの人間になってしまった。
この病気からの恢復期に、ゴヤがはじめて注文によらない自由な発想の作品を描いている。この不幸な出来事がゴヤのなかに何か決定的な変化をもたらしたようだ。聴力を失い、宮廷での平穏な生活を失ったゴヤのなかに、しだいに近代人が目覚めてくることとなる。
そのことは、ゴヤにとっての運命の年ともいえる、この1792年に、彼は王立サン・フェルナンド美術アカデミーに提出した『美術教育についての報告書』のなかに、はっきりとうかがえることができると高階氏はみている。
ゴヤのこの報告書は、「規則」を重んじ、既成の形式の習得を金科玉条としたアカデミーに対し、制作における「自由」を徹底的に主張している。ここに明白に「近代」を示していた。
それは、いわば、芸術における「人権宣言」であったという。
しかも、デッサンにおける「形式的な幾何学や遠近法」を否定し、「自然の模倣」を何よりも重視し、そこに「奥深く、不可思議な神秘」が隠されていることを見抜いていた点で、ゴヤはロマン主義を予告していると高階氏は解説している。
ゴヤがこの報告書を書いたのは、46歳の時のことである。
その後ゴヤは、なお40年近くも生きて、着衣と裸体のふたつの≪マハ≫(マドリードのプラド美術館蔵)から、「黒い絵」にいたる驚くべき作品群を残した。
その間、世紀が変わり、ナポレオンの抬頭と失脚があり、ロマン派の「革命」が登場して、歴史はゴヤが予告した方向に静かに動いていった。
(高階秀爾『近代絵画史(上)』中公新書、1975年[1998年版]、10頁~16頁)
【高階秀爾『近代絵画史(上)』はこちらから】
近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (上) (中公新書 (385))
中川右介氏も、ゴヤを取り上げているので、紹介しておこう。
(中川右介『教養のツボが線でつながる クラシック音楽と西洋美術』青春出版社、2008年、119頁~122頁)
スペインのゴヤ(Francisco de Goya y Lucientes, 1746~1828年)は、時代としてはロココ時代から活躍しているが、ロマン主義の画家として分類されることもある。
宮廷画家として活躍した時代には、貴族たちの肖像画を描いていたが、聴力を失ってからは、不気味な絵を描くようになる。
(評価が高く、見て面白いのは、後期のグロテスクになってからの作品であるといわれる)
スペイン最大の画家と呼ばれるのは、質の高さもさることながら、量的にも膨大な数の作品を遺したからであろう。現存する作品には約700点といわれている。
本名は長く、フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスという。1746年にスペイン北東部で生まれた。1774年にマドリードに出て、十数年にわたり、タペストリー工場で下絵の仕事をする。
1780年、34歳でスペインのアカデミーの会員になり、ようやく画家として認められる。1786年、国王カルロス3世付の画家に、そして1789年にはその後を継いだカルロス4世の宮廷画家になる。画家としてのスタートは遅れたが、順調に出世した。
ところが、1792年に大病のため聴覚を失ってしまう。それでも、宮廷画家として制作を続け、1799年には首席宮廷画家となる。53歳にしてスペインの画家として最高の地位を得た。
だが、スペインという国家そのものが危機を迎える。ナポレオン率いるフランスに征服されてしまう。それに反発する市民たちの叛乱も相次ぎ、スペインは混乱に陥る。
代表作≪裸のマハ≫は、1798年から1805年(ママ、1797年~1800年頃)にかけての作品である。モデルとなった女性が誰かは分からず、レオナルド・ダ・ヴィンチの≪モナ・リザ≫と並ぶ、謎の女性であるとされた。「マハ」というのは、人名ではなく、スペイン語で「小粋な女」という意味の言葉である。
この絵は、現実に存在する女性を描いたものである点で、ヌード画史上、革命的なものだった。≪裸のマハ≫以前の絵画にも、裸の女性は数多く登場しているが、それは神話の世界の女神や、その時代の女性であっても、あくまで想像上の女性であった。だから、そのからだは理想化された美しいものだった。しかし、≪裸のマハ≫は、きわめてリアルな女性像である。
マハが誰なのかは分からないが、ゴヤが現実にいる女性をモデルにして描いたのは、明らかである。スペインはカトリックの国なので、性的なことには厳しいタブーがあり、神話の世界のものでもヌードは禁止されていたそうだ。
そのような「問題作」だったので、描かれてから15年近く過ぎた1815年に、ゴヤは猥褻容疑で異端審問を受け、誰の依頼でこの絵を描いたのか追及された。しかし、ゴヤは口を割らなかった。
(この絵が見つかったのは、当時のスペインの首相の邸宅で、ゴヤのパトロンのひとりだった。そのため、首相の愛人がモデルではないかとか、あるいはゴヤの愛人だったとされるアルバ公爵夫人ではないかとか、諸説があるという)
また、同じ構図で、服を着ているだけの≪着衣のマハ≫もあるのはなぜかなど、謎に満ちた作品である。
ゴヤのグロテスク系の作品の代表作が≪巨人≫である。1808年から1812年頃の作品である。
暗雲たちこめるなか、画面の上3分の2ほどは、後ろを向いた巨人が描かれ、下には逃げまどう人や馬が描かれている。幻想的だが、不気味な絵である。
これは、ナポレオン軍によってスペインが戦争に巻き込まれていく様子を表現したものだと解釈されている。
(「巨人」はナポレオンというよりも、「戦争」そのものの象徴だとされる)
1824年にはスペインの混乱を避けるためにフランスに亡命し、1828年、82歳でフランスのボルドーで亡くなった。
(中川右介『教養のツボが線でつながる クラシック音楽と西洋美術』青春出版社、2008年、119頁~122頁)
【中川右介『クラシック音楽と西洋美術』はこちらから】
教養のツボが線でつながるクラシック音楽と西洋美術 (青春文庫)
さて、ここでルーヴル美術館所蔵のゴヤの絵画についての解説文を読んでみよう。
PEINTURE ESPAGNOLE
〇Francisco José de Goya y Lucientes,
Portrait de la comtesse del Carpio, marquise de la Solana,
1794-1795, huile sur toile, 181×122㎝
« Le monde est une mascarade ; le visage, la mise et la voix, tout
est mensonge. Chaqun veut sembler ce qu’il n’est pas, tous
trompent et personne ne se connaît soi-même. » Ainsi par-
lait Goya, qui a pourtant su redonner ici la force de carac-
tère de cette femme cultivée et charitable, encore jeune mais
très malade, et qui, se sachant condamnée, voulut sans doute
laisser à sa fille ce portrait. Sortant à peine d’une longue
maladie qui l’a laissé sourd, Goya adopte désormais une
touche vive et spontanée, comme pour une esquisse, ce
que les tenants d’une peinture lisse lui reprocheront.
(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001, pp.86-87.)
≪訳文≫
スペイン絵画
〇フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス
「カルピオ女伯爵(ラ・ソラーナ侯爵夫人)の肖像」:
1794~1795年、油彩・カンバス、181×122㎝
「この世は仮面舞踏会。顔も身なりも声も、すべてがまやかし。誰もが自分を自分以外の者に見せようとして騙し合っているが、誰一人として自分自身のことを知っている者はいない。」
このようにゴヤは語っているが、この作品では、教養があり、思いやりも深く、まだ若いが不治の病におかされたこの女性の精神力の強さが巧みに描かれている。死期の近いことを知った彼女は、おそらく娘にこの肖像画を残そうとしたのだろう。
耳が聞こえないという長患いがやっと治り、もとの体に戻ったゴヤは、それ以後まるで素描を描くように、生き生きとした衝動的なタッチを用いるようになるが、これはなめらかなタッチの絵画の支持者たちには不評だった。
(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年、87頁)
【語句】
Le monde est <êtreである(be)の直説法現在
une mascarade [女性名詞]仮面舞踏会(masquerade)
la mise [女性名詞]身なり、服装(attire, dress)
mensonge [男性名詞]うそ(lie)、虚構(illusion)
Chaqun veut sembler <vouloir~したい(want)の直説法現在
sembler ~のように思われる、~のように見える(seem)
ce qu’il n’est pas <êtreである(be)の直説法現在の否定形
tous trompent <tromperだます(deceive)の直説法現在
personne ne se connaît <代名動詞se connaître自分を知る(know oneself)の
直説法現在の否定形
parlait <parler話す(speak)の直説法半過去
qui a pourtant su redonner <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(savoir)+不定法 直説法複合過去
savoir+不定法~することができる、~するすべを知っている(know how to do, be able to do)
redonner 再び与える、返してやる(give again)
pourtant [副詞]それでも、しかし(yet, however)
caractère [男性名詞]性格、毅然とした性格、気骨(character)
cultivé(e) (←cultiverの過去分詞)[形容詞]耕された、教養のある(cultivated)
charitable [形容詞]慈悲深い、情け深い(charitable)
se sachant condamnée <代名動詞 se savoir+属詞 自分が~であることを知っている 分詞法現在
condamné(e) (←condamnerの過去分詞)[形容詞]有罪の宣告を受けた(condemned)、病人が医者に見放された(fated, doomed)
<例文>
Le malade se sait condamné. その病人は医者に見放されたことを知っている。
voulut sans doute laisser <vouloir+不定法 ~したい(want)の直説法単純過去
laisser 残す(leave)
Sortant à peine <sortir外へ出る(go out)、(de, から)(ある状態から)抜け出す、~を脱する(come out of, get rid of)の分詞法現在
qui l’a laissé sourd <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(laisser) 直説法複合過去
laisser ~のままにしておく(leave, keep)
sourd [形容詞]耳が聞こえない(deaf)
Goya adopte <adopter取り入れる、採用する(take up, adopt)の直説法現在
spontané(e) [形容詞]ごく自然な、飾らない、率直な(spontaneous)
une esquisse [女性名詞]素描、スケッチ(sketch)
tenant(e) [男性名詞、女性名詞](意見の)擁護者(defender)
lisse [形容詞](肌などが)滑らかな、すべすべした(smooth, sleek)
(cf.) matière [peinture] lisse <絵画>絵具を薄く滑らかに塗った画肌(絵画)
lui reprocheront <reprocher非難する(reproach)の直説法単純未来
【Françoise Bayle, Louvre(フランソワーズ・ベイル『ルーヴル見学ガイド』)はこちらから】
Louvre: Visitor's Guide: Francoise Bayle
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー(1796~1875)は、19世紀における風景画と肖像画の発達において、クールベ以前に重要な足跡を残した画家である。
クールベとコローは、対照的な性格の画家として、高階秀爾氏は理解している。
コローは、何事につけても控え目で、従順で、かぎりなく善良な性格であったそうだ。
コローの父親はパリで流行の洋装店を経営していて、息子にも自分の跡を継がせたいと望んでいた。コローは正面切ってさからうことができず、ようやく26歳になってから、絵画に身を捧げる決心を固める。
したがって、画家としての出発は比較的遅く、その活躍の時期は、ほとんど一世代年少のクールベと、かなりの部分で重なり合う。
コローが最初からほとんど風景画ばかりに専心するようになるのは、生まれつき自然を愛する抒情詩人的であったことにもよるが、それと同時に、伝統的なアカデミックな訓練を受ける修業期間を持たなかったことも影響しているようだ。
画家を志したコローは、すでに20代の半ばを過ぎてから、まずミシャロン(1796~1822)のもとで学んだ。ミシャロンは、ごく短期間だけコローの師だったが、豊かな才能に恵まれていた画家である。ローマ賞「歴史的風景画」部門の第一回受賞者として1817年以来ローマに学んだ後、ちょうど帰国したばかりのところであった。
コローと同い年でありながら、すでに名声を得ていた。しかし、ミシャロンは、コローが弟子になった年に惜しくも若くして世を去ってしまう。長く生き続けたら、フランス風景画の歴史に、もうひとりの優れた画家を持つことができたといわれている。
その後、コローは、一時ベルタンのアトリエに学んだ。ただ、コローの絵画を本当に養ったのは、パリや、ルーアンや、フォンテーヌブローで試みた自然と対話であったと高階氏はみている。
本質的に抒情詩人の魂を持っていたコローは、ミシャロンの教えにしたがって、「自分の前に見えるものをできるだけ丹念に描き出す」ことを目ざした。
そして、1825年から28年にかけて最初のイタリア旅行をし、続いてフランス各地を巡遊し、その後再び1834年、1843年にイタリアへ旅をする。こうした旅は、自然とコローのつながりを一層強めたようだ。
コローは鋭敏な感受性により、風景作品において、空間がひとつの統一ある奥行のなかにしっかり把握している。そして人物は、≪ティヴォリ眺望≫や≪モルトフォンテーヌの想い出≫(ともにルーヴル美術館蔵)に見られるように、周囲の風景から切り離すことのできない渾然一体の要素となっている。
晩年になってから急速に増えてくる独立した人物像においても、コローのこの独特の詩情は失われていないようだ。
描かれているのは、ほとんどの場合若い女性で、それも半ば放心状態で物想いにふけっているところが、しばしばテーマとなる。
コローは、衣裳の飾りなどに華やかな色彩を効果的に用いながら、ほとんど動きのない静かなポーズを丹念にカンヴァスの上に写し出し、その姿を通して静謐な抒情の歌を響かせる。
リオネルロ・ヴェントゥーリは、コローの名作≪真珠の女≫(ルーヴル美術館蔵)について、次のように評している。
「その画面構成は、新古典主義的で、主題はロマン主義的、目的は写実主義的で、描法は印象主義的である」
この指摘は、そのままコローのほとんどの人物画に、そしてさらにはその風景画にも、多かれ少なかれあてはまると高階氏はいう。つまり、事実、富も名誉も求めず、ただひたすら自然の歌を歌い続けたコローは、その長い生涯の間に、フランス絵画を新古典派から印象派の入口まで、いつの間にか持ってきてしまったと捉えている。
ルーヴル美術館所蔵のコローの風景画と人物画の傑作として、次の2作品を挙げておく。
〇コロー≪モルトフォンテーヌの想い出≫(1864年 65×89㎝ ルーヴル美術館)
この作品は、外界の自然と画家の内面の詩的感覚を結びあわせた、銀白色のヴェールのかかった詩的風景画の代表作である。コローの風景画の中で、最も詩情あふれる作品とされる。サロンに出品し大好評を博した。
モルトフォンテーヌは、パリの東北60キロにあるオワーズ川支流に沿った景勝地である。池や森がいくつもあって、いつも霧が立ちこめている。ヴァトーが約150年前に滞在し、≪シテール島の巡礼≫(1717年 ルーヴル美術館)の着想を得たところである。
また、ジェラール・ド・ネルヴァルが幼年期を過ごした地であり、小説にも書いている。
この≪モルトフォンテーヌの想い出≫は、同時代の詩人ネルヴァルの初恋の思い出を綴った小説に感動したコローが、そのイメージをこの風景に託して描いたものとされる。いわば、詩人と画家のイメージが結晶して生まれた作品である。
コローの芸術を称える詩人ボードレールはコローについて次のように書いている。
「明らかにこの画家は心をこめて自然を愛し、愛情と同じ程度の知性でもって自然を見つめる術(すべ)を知っている」
〇コロー≪真珠の女≫(1868~70年 70×55㎝ ルーヴル美術館)
≪真珠の女≫は、コローの人物画の中で最も有名な作品である。
コローは死ぬまでこの絵を手放さず、その客間に飾っていた。
当時16歳の近所の古織物商人の娘、ベルト・ゴールドシュミットがモデルである。コローのイタリアみやげの民族衣装を着ている。
小さな葉の冠をつけ、そのひとつの葉が額に落とした影を人々が真珠だと思い、1889年の初公開以来、「真珠の女」と呼ばれている。コローの描いた影は銀白色の真珠色だったからである。
腕を組んだゆったりとしたポーズは古典的で、レオナルドの≪モナ・リザ≫を想わせるポーズと印象をもっている。ただ、謎めいた≪モナ・リザ≫に比して、親密でモデルの内面性をうかがわせ、コロー自身の永遠のミューズといえるようだ。
(エックス線を使った研究によると、モデルの顔は何回となく描き直され、実際のモデルとは異なる古典的な顔立ちになっているという。コローは、モナ・リザに対抗して、ひそかに永遠なる女性を模索していたのか?)
(高階秀爾『近代絵画史(上)』中公新書、1975年[1998年版]、55頁~58頁。風景画と人物画については、高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年、74頁~81頁を参照のこと)
【高階秀爾『近代絵画史(上)』はこちらから】
近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (上) (中公新書 (385))
さて、ここでルーヴル美術館所蔵のコローの絵画「青衣の婦人」についての解説文を読んでみよう。
PEINTURE FRANÇAISE
〇Jean-Baptiste Corot, La Dame en bleu,
1874, huile sur toile, 80×50.5㎝
« Il peignait un arbre mieux que quiconque, il
est encore meilleur dans ses figures », affirmait
Degas. Pourtant, les contemporains de Corot le
considéraient surtout comme un paysagistes, et
ils ignorèrent qu’il peignit des figures durant
toute sa vie, avec une prédilection pour les jeunes
femmes à la fin de sa carrière. Cette Dame en
bleu, exécutée une année avant la mort du peinture,
a le regard un peu perdu : vers qui, vers quoi
tourne-t-elle la tête ? « Les créatures étaient faites
par l’artiste à son image : douces, tendres et
rêveuses, occupées de fleurs et de musiques »,
affirmait Moreau-Nélaton, grand connaisseur et
grand collectionneur de celui que les autres
peintres avaient baptisé « papa Corot », tant sa
bonté était grande.
(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001, p.52.)
≪訳文≫
フランス絵画
ジャン・バティスト・コロー「青衣の婦人」:1874年、油彩・カンバス、80×50.5㎝
「コローは誰よりもうまく木を描き、しかも人物画はもっとうまい」とドガは断言した。
しかし、コローと同時代の人々はむしろコローを風景画家と考えており、彼が生涯にわたって人物画を描き続けたことや、特に晩年には若い女性を好んで描いたことは知られていなかった。
画家の死の1年前に制作されたこの「青衣の婦人」の眼差しは何となくはかない。彼女は誰を、あるいは何を見つけているのだろうか?
優しさ故に他の画家から『パパ・コロー』と呼ばれたコロー、そのコローの作品の収集家であり、偉大な美術鑑定家であるモロー・ネラトンは次のように言っている。
「女性たちは芸術家によってそのイメージどおりに作られた。おだやかで、優しく、夢見がちで、花や音楽に心奪われるものとして。」
(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年、52頁)
【語句】
Il peignait <peindre描く(paint)の直説法半過去
quiconque [代名詞](不定代名詞)いかなる人、だれでも(anyone, anybody)
il est <êtreである(be)の直説法現在
meilleur [形容詞](bonの優等比較級)(que,よりも)よりよい(better [than])
affirmait <affirmer断言する(affirm)の直説法半過去
Degas [固有名詞]ドガ(Edgar Degas, 1834~1917)フランスの画家
Pourtant [副詞]しかし、それでも(yet, however)
(対立はmaisより弱く、cependantより強い)
considéraient <considérer(comme, と)みなす(consider)の直説法半過去
ils ignorèrent <ignorer知らない(be ignorant of, know nothing about)の直説法単純過去
qu’il peignit <peindre描く(paint)の直説法単純過去
une prédilection [女性名詞]偏愛、ひいき(predilection)
exécutée <exécuter(作品などを)制作する(execute, make)の過去分詞
a le regard un peu perdu <avoir持つ(have)の直説法現在
le regard [男性名詞]視線、まなざし、目つき(look, gaze, glance)
(cf.) avoir le regard noyé ぼんやりした目つきをしている
un peu perdu (←perdreの過去分詞)[形容詞]失われた(lost)、途方にくれた、すっかり混乱した(lost, mixed-up)
quoi [代名詞](疑問代名詞)<前置詞+quoi>何(what)
tourne-t-elle la tête ? <tourner回す(turn)の直説法現在
(cf.) tourner la tête à qn (人)をふらふら(混乱)させる、(人)にほれて夢中になる
(turn s.o.’s head)
Les créatures [女性名詞]創造されたもの、人間、女(creature)
étaient faites par <助動詞êtreの直説法半過去+過去分詞(faire) 受動態の直説法半過去7
rêveur(se) [形容詞]夢見るような、夢見がちな(dreamy)
occupé(es) (←occuperの過去分詞)[形容詞]忙しい(busy)、ふさがっている(engaged)、占拠された(occupied)
(cf.) occupé de qn/qc (ある考えなど)のとりこになった、~に気を取られた
affirmait 既出
connaisseur(se) [男性名詞、女性名詞](女性形はまれ)目きき、鑑定家(connoisseur)
avaient baptisé <助動詞avoirの直説法半過去+過去分詞(baptiser) 直説法大過去
baptiser 洗礼を授ける(baptize)、あだ名で呼ぶ(nickname)
tant [副詞](接続詞的に)あれほど(so much)、それほどまでに(so, to such a degree)
<例文>
Il ne peut pas venir ici, tant il est fatigué.
彼はここに来られません、それほど疲れているのです(He cannot come here, he is so tired.)
sa bonté [女性名詞]善良さ(goodness)、優しさ(kindness)
était <êtreである(be)の直説法半過去
【Françoise Bayle, Louvre(フランソワーズ・ベイル『ルーヴル見学ガイド』)はこちらから】
Louvre: Visitor's Guide: Francoise Bayle
ドラクロワ(Delacroix, 1798~1863)が残した数少ない肖像画の中に『ショパンの肖像』と『ジョルジュ・サンドの肖像』がある。
現在、『ショパン』の方はパリで、『サンド』はコペンハーゲンで、それぞれ独立した肖像画として公開されている。
〇ドラクロワ『ショパンの肖像』
1838年 油彩 45×38㎝ ルーヴル美術館
〇ドラクロワ『ジョルジュ・サンドの肖像』
1838年 油彩 79×57㎝ コペンハーゲン オードロップゴー美術館
【ルーヴル美術館所蔵のドラクロワ『ショパンの肖像』の写真】(2004年5月筆者撮影)
私も、この肖像画をルーヴル美術館で見たことがある
この『ショパンの肖像』の制作年は1838年である。
この年の夏、画家のアトリエに28歳のショパンがよく訪れてはピアノを弾いたそうだ。楽器にむかうショパンの背後には、彼のミューズである小説家ジョルジュ・サンドが座っていた。画家は二人の姿を半身の肖像画にとどめ終生手もとに置いたが、没後作品は分断された。
一方、ドラクロワ自身も『自画像』を、1837年(39歳)頃に描いている。画家がショパンとジョルジュ・サンドの肖像を描く1年ほど前であり、彼らとの親交が深まっていた時期である。
ところが、この二枚の肖像画は、もともと同じ一枚の画布に描かれたのだといわれる。
制作は1838年、ショパンがサンドから「あなたを熱愛する人がおります。ジョルジュ」という短い恋文を受け取った頃である。
ポーランド生まれの音楽家フレデリック・ショパンは28歳である。ピアニストとしても作曲家としてもすでに名高く、パリ社交界の寵児となっていた。
一方、『愛の妖精』の作者ジョルジュ・サンドは34歳である。女権拡張を唱えて、男装をして葉巻を吹かしたり、当時としては型破りの女性だった。
二人はこの年の冬、サンドの息子、娘とともに、地中海のマヨルカ島(スペイン)に旅をする。『雨だれ』を含む24の前奏曲が、そこで完成する。そして次の年からは毎夏のようにパリを離れ、中仏ノアンにあるサンドの館で生活を共にするようになった。有名な恋の物語である。
ドラクロワは、恋人たちの共通の友人であった。「彼はまれに見る高貴な人間だ。私が会った最も純粋な芸術家だ」と記すほど、ドラクロワはショパンの人格を愛した。ドラクロワは、おそらく創作意欲の赴くままに肖像画の絵筆をとったことであろう。ピアノを弾くショパンと、その背後で演奏に聴き入るサンドとを、一つの構図の中に描いたとされている。
今日、とりわけ『ショパンの肖像』は、モデルの内面の個性をとらえた肖像画として、傑作の一つに数えられている。
楽想を追っているのか、憑かれたように宙を見つめる目である。引き締まった口もとで、みけんのあたりに、深々とした苦悩を漂わせている。
ドラクロワは、病弱で孤独でもあった音楽家の、鋭い感性とほの暗い情念を浮かび上がらせていると評されている。
ドラクロワは、恋人たちの肖像画を、なぜか未完成、未公表のまま、ずっと手元に置き続けた。そして画家が亡くなったとき、絵は元の形のままでアトリエに残されていた。
では、その後、いつ、だれが、なにゆえに、一枚の絵を二つに切り裂いたのか。
この点、主に次の三つの説があるようだ。
① デュティーユ家の相続争いの結果だという説
② サンドの息子モーリスが切らせたという説(ショパンを嫌っていたサンドの息子モーリスが母親に迫り、デュティーユ家に絵を切断させるように仕向けたとする)
③ 相続争いはなくても二枚にした方がお金になると考えたからだという説
ドラクロワ研究の第一人者もモーリス・セリュラス氏も、絵の切断の謎については、一切の推測を避けているそうだ。
二つに切られたこの絵の運命が、ショパンとサンドの悲しい破局を象徴しているのかもしれない。
(朝日新聞日曜版「世界名画の旅」取材班『世界名画の旅1 フランス編1』朝日新聞社、1989年、105頁~115頁。高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年、62頁~63頁)
【『世界名画の旅1 フランス編1』朝日新聞社はこちらから】
世界名画の旅〈1〉フランス編 1 (朝日文庫)
〇ジョットの≪聖痕をうけるアッシジの聖フランチェスコ≫
(1300年頃 板 313×163㎝ ルーヴル美術館 1814年に購入)
この絵については小暮満寿雄氏も取り上げていた(小暮、2003年、41頁~45頁)。
1300年頃、ジョットは中部イタリアのアッシジにあるサン・フランチェスコ聖堂に祭壇画を描くことになる。30年前、師のチマブーエがここに、天使たちに囲まれた≪荘厳の聖母子≫(1270年代 板絵 427×280㎝ ルーヴル美術館 1811年に購入)を描いている。
ジョットの方は、聖フランチェスコの生涯を綴ることになった。二人の絵を比べてみると、その間30年、大きな変化が起こっているとロビンソン氏はいう。
ジョットの方は、背景の木立と家のある丘を描いている。自然描写というには、単純で素朴ではあるが、自然が絵画の中に入りこんできた。
そして、地面に跪く一人の男、これも画期的であったようだ。聖職者の平服スータンを纏い、髪を円形に刈り、頭髪をつけたこの男こそ、アッシジの聖フランチェスコであり、実在の人物が絵画に登場してきたからである。
聖フランチェスコは、光輪をつき、鳥の姿をした人物の方に顔をあげている。これはイエス・キリストである。
キリストと聖フランチェスコの間には、何本かの線が走り、掌、足、胸を繋いでいる。この線は「奇跡」を描いているといわれる。
キリストの身体には、「スティグマータ(聖痕[せいこん])」と呼ばれる、磔の刑にあったとき受けた傷跡がある。
この絵では、キリストが聖フランチェスコにこの聖なる傷を移しているところであり、二人を結ぶ線は、その瞬間に結ばれた絆を象徴しているそうだ。
そしてキリストは熾(し)天使(セラフィム)の姿で、聖フランチェスコの前に顕れた。熾天使は格の高い天使であり、6枚の翼をもつ。この絵でも、キリストにも、6枚の翼が描かれている。
ところで、ジョットは早い時期から、「ほんとうらしく描きたい」と思っていた。人々の行動を観察し、動物をみつめ、自分をとりまく世界を研究した。
「ジョットは自然の弟子であり、人間の弟子ではない」と、16世紀の美術史家ジョルジオ・ヴァザーリは記している。
次のようなエピソードが、ジョットのエピソードとして伝えられている。
ある日、ジョットはチマブーエが描いた肖像の鼻にハエを描き足した。それが、実に本物そっくりだったので、仕事をつづけるようとしたチマブーエは、何度もそのハエを追い払おうとしたという。
とはいえ、ジョットはまだまだ現実から遠いところにいた。14世紀の画家はまだ、それほど空間をうまく構築することができなかった。
(アネッテ・ロビンソン(小池寿子・伊藤已令訳)『絵画の見方 ルーヴル美術館』福武書店、1991年、22頁~23頁、28頁~33頁)
【ロビンソン『絵画の見方 ルーヴル美術館』福武書店はこちらから】
絵画の見方・ルーヴル美術館
(2020年7月4日投稿)
【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】
小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
【はじめに】
今回のブログでは、ルーヴル美術館所蔵の作品について、小暮満寿雄氏の解説を補足しておきたい。
まず、「アングルのヴァイオリン」について取り上げる。アングルによる≪パガニーニの肖像≫がルーヴル美術館に所蔵されているので紹介しておく。続いて、アングルの≪トルコの浴場≫という作品と、写真家マン・レイの≪アングルのヴァイオリン≫との関連について、鈴木杜幾子氏の著作に拠りつつ、解説してみたい。
また、小暮氏が「近代絵画の父」として位置づけていたスペインの画家ゴヤについて、解説とともに、ルーヴル美術館所蔵の作品についてフランス語の解説文を読んでみる。
そして、アングルを総帥とする新古典派とドラクロワを旗手とするロマン派がしのぎを削っていた頃、風景画として生きたコローについて取り上げてみたい。ドラクロワより2つ年上にもかかわらず、画家としての出発は遅く、26歳の時であった。詩情あふれる風景画、人物画がルーヴル美術館に展示されている。
その他、ドラクロワのショパンの肖像画、ジョットの作品についても言及しておく。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
【補足】アングルのヴァイオリン
アングルの≪トルコの浴場≫と、マン・レイの≪アングルのヴァイオリン≫
「近代」の先駆者ゴヤ
ロマン主義時代のゴヤ
フランス語で読むゴヤの解説文
コローの絵にみえる詩情
フランス語で読むコローの解説文
【補足】ドラクロワのショパンの肖像画
【補足】ジョットの≪聖痕をうけるアッシジの聖フランチェスコ≫
【読後の感想とコメント】
【補足】アングルのヴァイオリン
小暮氏は、アングルが大変なヴァイオリンの名手で、イタリアのパガニーニと共演したことがあることに言及していた。そして今でもフランスでは、本業以外の特技を「アングルのヴァイオリン」というと点に触れていた(小暮、2003年、211頁)。
この点、高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』(日本放送出版協会、1986年)でも述べられている。すなわち、“アングルのヴァイオリン(得意の余技)”という言葉を後世にのこすほど、アングルは達者なヴァイオリン奏者だった。
実はアングルには、パガニーニの肖像画がある。
〇アングル「パガニーニの肖像」(1819年 石墨 29.8×21.5㎝ ルーヴル美術館蔵)
天才的ヴァイオリニストのパガニーニに、アングルはローマで出会った。アングルはパガニーニの結成したカルテットの第二奏者となった。
この作品の来歴は詳らかではないが、デッサンの稀有の名手アングルは、引き直しのない正確無比な線により、楽器を携えた端正な正面向きの姿に、大音楽家パガニーニをとらえた。演奏する先々で聴衆を熱狂させ、旋風を巻き起こし、奇行をもって知られた音楽の鬼神は、伝説とは裏腹に明晰で、知性と高雅な人格の持ち主として、ここに現前している。
(高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』(日本放送出版協会、1986年、34頁~35頁)
【高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』はこちらから】
ロマン派登場 (NHK ルーブル美術館)
アングルの≪トルコの浴場≫と、マン・レイの≪アングルのヴァイオリン≫
マン・レイの作品として、<アングルのヴァイオリン>と題する有名な作品がある(1924年、写真)。
この作品は、アングルの<トルコの浴場>の中央の人物を思わせる後ろ姿の裸婦を、ヴァイオリンに見立てた写真である。1924年の作品である。
19世紀アカデミズム絵画の巨匠アングルの代表作<トルコの浴場≫は、皮肉なことに、20世紀の多くの前衛画家たちの関心をひきつけてきたといわれる。
例えば、ピカソは<アヴィニョンの娘たち>(1907年、ニューヨーク近代美術館蔵)において、室内の裸婦群像というテーマを換骨奪胎した。写真では、先のマン・レイの写真作品がそうである。
この点について、鈴木杜幾子氏が『フランス絵画の「近代」』(講談社選書、1995年、162頁~184頁)において、解説している。
さて、小暮氏も述べていたように、アングルは、ダヴィッドのもっとも若い世代の弟子として、19世紀新古典主義陣営の指導者となった画家である。
そして、<トルコの浴場>は、そのアングルの晩年の代表作であり、その一つのヴァージョンがルーヴル美術館所蔵であり、1863年に完成された。
この代表作は、単に美術史上の名作という以上に、その造形的特異性によって強烈な印象を与える作品である。
まず、画面が完全な円形という点が目を引く。円形画は、イタリア・ルネサンス期には「トンド」と呼ばれ、有名なラファエロの<小椅子の聖母>など多くが制作されたが、近代絵画の形式としては、室内装飾などの特殊な場合を除いては、例が少ないそうだ。それをアングルは、このタブロー画にあえて採用した。
真円という画面のかたちは、この作品の特異な印象を強めている。この絵の中では、直線は建物の線にしか用いられておらず、個々のモチーフは、曲線のみで構成されている。しかも、アングルの使用する曲線は、例えばルネサンスの巨匠ボッティチェリの線のように、速度をもって流れてゆく曲線ではなく、形態を確定し、それを背景からくっきりと切り取る機能をもっており、そのため動きの感じを与えないようだ。
<トルコの浴場>を埋め尽くす裸婦の身体を構成する線は、画面の円形と呼応し、この絵の閉ざされ、自己完結した印象を強めている。
この絵に描かれている多数の裸婦(正確には25人)の多くに、制作当時80歳前後であったアングルが、若いときから描き続けてきた東洋の裸婦のポーズが再利用されているそうだ。
例えば、前景の向こう向きに座って楽器を弾く裸婦の腕を除く上半身は、<ヴァルパンソンの浴女>(1808年、ルーヴル美術館蔵)そのままである。そして、右手前に横たわって両腕を頭の上に挙げている裸婦は、<奴隷のいるオダリスク>(1839年、マサチューセッツ州ケンブリッジ、フォッグ美術館蔵)を連想させる。
<トルコの浴場>は、アングルの東洋への夢が、集大成されている。
(ただ、この絵には多数の裸婦が描かれているが、ドラクロワの<サルダナパロスの死>(1827年、ルーヴル美術館蔵)のような物語性は完全に排除されている)
この<トルコの浴場>の制作は、アングルの青年期から東洋の浴場に対する個人的な関心以外に、直接的な動機があったようだ。この点について、鈴木杜幾子氏は解説している。つまり、この作品の注文者、その後の所有者や世間での評価などについて説明し、最終的にルーヴル美術館所蔵となった経緯について述べている。
この作品の発端は、1848年のナポレオン公の注文にさかのぼるそうだ。ナポレオン公とは、ナポレオン1世の弟、ウェストファリア王ジェロームの息子に当たる。このナポレオン公は、アングルに「良き時代を描いた魅力的な習作に基づくハーレム」の絵を注文した。
(その後、この絵の注文者は、事情は不明だが、ドミドフ公に変わった)
1859年、アングルは正方形に近い長方形画面を完成した。この第一ヴァージョンでは装身具をつけている裸婦は一人もいない。その後、1860年、アングルはネックレス、ブレスレットなどをつけさせ、第二ヴァージョンを作り、これを完成作として、当初の注文者ナポレオン公に売却した。
ところがこの作品は、ナポレオン公の妻、クロティルド公妃があまりに多くの裸体が描かれていることに拒否反応を起こしたため、アングルに返却されることになる。
手元に戻った作品をアングルは2年後に手直しした。まず全体の形を円形にし、ポーズなども改変した。円形にされたことによって、近代絵画としては特異なものになり、描きなおしによって構図の緊密さが増した。
そして、アングルは1865年、円形の<トルコの浴場>完成作を、カリル・ベイという名のパリ滞在中であったペテルスブルグ駐在トルコ大使に売却した。
この人物はエロティックな絵画の愛好家で、クールベの<眠り>(1866年、パリのプティ・パレ美術館蔵)や<世界の起源>(1866年、パリのオルセー美術館蔵)の注文者として知られている。
カリル・ベイが1868年に売却してから、<トルコの浴場>は幾人かの個人コレクターの手を経て、1907年にジョルジュ・プティ画廊の手に渡った。
(アングルのアトリエを出てからジョルジュ・プティ画廊のティツィアーノに渡るまでの間に、この絵が公に展観されたのはただ一度、1905年のアングル回顧展のときだけで、終始個人コレクターの手元にあった)
さて、このように、いわば「大画家の知られざる代表作」であった<トルコの浴場>は、どのような経緯でルーヴル美術館で公開されるにいたったのか?
それは、1907年にこの作品がジョルジュ・プティ画廊に入ったいきさつと絡み合っているそうだ。この年、所有者ド・ブロリ公が<トルコの浴場>を手放す意思をもっていることを知ったルーヴル美術館絵画部長は購入を希望したが、美術館評議会によって反対された。
表向きの理由は12万フランという価格が高すぎるということであった。しかし実際には、この絵が不快感を与えると判断されたためである。
さらに、ド・ブロリ公は作品の国外流出を防ぐために価格を9万フランに下げたがルーヴル美術館は購入せず、ジョルジュ・プティ画廊が入手した。だが最終的には、ルーヴル友の会が資金集めに成功し、1911年、この作品はルーヴル美術館の所蔵品に加えられた。
こうした経緯を解説して、鈴木氏はこの<トルコの浴場>に次のようにコメントしている。
最初の購入者ナポレオン公の妻の反応、二番目の購入者カリル・ベイの特殊な趣味、そしてルーヴル美術館評議会の逡巡、これらの事実を考えあわせるならば、<トルコの浴場>が、19世紀後半から20世紀にかけてのフランス市民社会にとってどのような存在であったかを想像できるとする。
<トルコの浴場>は、当時の上流階級の女性に抵抗を感じさせ、エロティックな絵画のコレクターの収集の対象となり、個人所有者の客間に飾られて友人たちが見ることには差し支えがなく、識者の間では知られていても、美術館での公開にはためらいが感じられる、という性格の作品であったと鈴木氏はみている。1907年のルーヴル美術館評議会は<トルコの浴場>について、このような裸体の堆積が「公序良俗」に違反しかねないという懸念をもったのである。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社選書、1995年、162頁~184頁)
【鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社選書はこちらから】
フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで (講談社選書メチエ)
「近代」の先駆者ゴヤ
「近代」の持つ特殊な性格を考えるとき、「近代」の先駆者として、ゴヤという芸術家の存在がクローズアップされると高階秀爾氏も強調している。
ゴヤは、18世紀から19世紀にかけての移り変わりの時期に生きた画家である。つまり、旧体制の時代から革命の時代にかけて生き抜き、80年余りの生涯に「近代」の矛盾をいわば先取りした芸術家であった。
フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(1746~1828)は、スペインのサラゴーサの近くのフェンデトードスという貧しい片田舎に鍍金師の息子として生まれた。
ゴヤが生まれた18世紀とは、どのような時代であったのか?
18世紀のちょうど中ごろ、フランスで言えば、ルイ15世の支配する時代であり、少なくとも表面的には、華やかな王朝文化の花が咲き誇っていた時代である。
17世紀の太陽王ルイ14世以来、ヨーロッパ文化の主導権を握ったフランスは、18世紀においても、まだその栄光を保ち続けていた。17世紀がフランス古典主義の成立期であったとすれば、18世紀はそのフランスの文化が、ドイツ、オーストリアから、さらには北欧やロシアにまで拡まっていった時期であった。そして宮廷の趣味や文化に関するかぎり、スペインもその例外ではなかった。
また他方、絵画を中心とする造形芸術の面においては、ルネサンスの偉大な達成を背後に持つイタリアの伝統も、根強く残っていた。フランスやスペインでも、画家たちはまずイタリアの巨匠に学ぶのが正当な道であると考えられていた。
(ゴヤ自身も、修業時代において、短期間ながらイタリアに渡っている)
とくにスペインにおいては、ヴェネチア派の巨匠ティエポロが、1762年から1770年に世を去るまで、スペインの宮廷に招かれて数多くの仕事を残した。
その上、スペインの宮廷には、ティエポロが招かれる以前から、メングス(ヴィンケルマンの友人で、新古典主義美学の信奉者)が宮廷画家として仕えていた。ティエポロの死後、宮廷における美術の独裁者として、勢力を振るっていた。そのメングスの威光は、「彼を讃美しないことは、ほとんど教会か国家に対する反逆罪とまで考えられるほどであった」そうだ。
ゴヤが芸術家としての道を歩み始めたのは、このような状況の中においてであった。
だから、ゴヤの初期の作品は、王宮のためのタピスリー(壁掛綴織)の下絵(カルトン)に代表される。それらは、イタリア風の明るい色彩表現に味つけされた華やか宮廷趣味を反映していた。
ゴヤは、1775年から1792年まで、20年近くにわたって50点以上のタピスリーの下絵を制作している。それらの多くは、「スペイン風の雅びな宴」と呼ばれるように、当時の貴族社会や民衆の生活の中の遊楽の情景をテーマとしながら、「生きる歓び」を歌い上げている。
この間、ゴヤは、1786年には国王附きの画家となり、1789年、フランスに革命の勃発した年には、正式の宮廷画家に任命されている。
このように、ゴヤの前半生は、宮廷画家としての地位を確実なものにしていったが、生涯の後半の時期にいたって、ドラマティックな変貌を遂げていく。つまり、≪1808年5月2日≫や≪1808年5月3日≫(ともに、マドリードのプラド美術館蔵)に見られる激しい告発者に、さらには、晩年のゴヤの「聾者の家」を飾った一連の「黒い絵」や版画作品に見られる不気味な幻想家に変貌していく。
その変貌過程は、まさしく「近代」というドラマの幕開けにふさわしい。この変貌の理由として、高階氏は次のように考えている。
① フランス革命の余波を受け、ナポレオン軍の侵攻をこうむったスペインには、もはや平穏無事な宮廷の日々など、なくなってしまったこと。
② ゴヤは、1792年、生死にかかわる大病に冒され、その結果、聴力を失って、音のない世界に投げ出されてしまったこと。
ゴヤは、前半生では、陽気で社交好きで、時に羽目をはずすほど行動的であった。しかし、後半生は、他人から隔絶された孤独な、ただ見るだけの人間になってしまった。
この病気からの恢復期に、ゴヤがはじめて注文によらない自由な発想の作品を描いている。この不幸な出来事がゴヤのなかに何か決定的な変化をもたらしたようだ。聴力を失い、宮廷での平穏な生活を失ったゴヤのなかに、しだいに近代人が目覚めてくることとなる。
そのことは、ゴヤにとっての運命の年ともいえる、この1792年に、彼は王立サン・フェルナンド美術アカデミーに提出した『美術教育についての報告書』のなかに、はっきりとうかがえることができると高階氏はみている。
ゴヤのこの報告書は、「規則」を重んじ、既成の形式の習得を金科玉条としたアカデミーに対し、制作における「自由」を徹底的に主張している。ここに明白に「近代」を示していた。
それは、いわば、芸術における「人権宣言」であったという。
しかも、デッサンにおける「形式的な幾何学や遠近法」を否定し、「自然の模倣」を何よりも重視し、そこに「奥深く、不可思議な神秘」が隠されていることを見抜いていた点で、ゴヤはロマン主義を予告していると高階氏は解説している。
ゴヤがこの報告書を書いたのは、46歳の時のことである。
その後ゴヤは、なお40年近くも生きて、着衣と裸体のふたつの≪マハ≫(マドリードのプラド美術館蔵)から、「黒い絵」にいたる驚くべき作品群を残した。
その間、世紀が変わり、ナポレオンの抬頭と失脚があり、ロマン派の「革命」が登場して、歴史はゴヤが予告した方向に静かに動いていった。
(高階秀爾『近代絵画史(上)』中公新書、1975年[1998年版]、10頁~16頁)
【高階秀爾『近代絵画史(上)』はこちらから】
近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (上) (中公新書 (385))
ロマン主義時代のゴヤ
中川右介氏も、ゴヤを取り上げているので、紹介しておこう。
(中川右介『教養のツボが線でつながる クラシック音楽と西洋美術』青春出版社、2008年、119頁~122頁)
スペインのゴヤ(Francisco de Goya y Lucientes, 1746~1828年)は、時代としてはロココ時代から活躍しているが、ロマン主義の画家として分類されることもある。
宮廷画家として活躍した時代には、貴族たちの肖像画を描いていたが、聴力を失ってからは、不気味な絵を描くようになる。
(評価が高く、見て面白いのは、後期のグロテスクになってからの作品であるといわれる)
スペイン最大の画家と呼ばれるのは、質の高さもさることながら、量的にも膨大な数の作品を遺したからであろう。現存する作品には約700点といわれている。
本名は長く、フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスという。1746年にスペイン北東部で生まれた。1774年にマドリードに出て、十数年にわたり、タペストリー工場で下絵の仕事をする。
1780年、34歳でスペインのアカデミーの会員になり、ようやく画家として認められる。1786年、国王カルロス3世付の画家に、そして1789年にはその後を継いだカルロス4世の宮廷画家になる。画家としてのスタートは遅れたが、順調に出世した。
ところが、1792年に大病のため聴覚を失ってしまう。それでも、宮廷画家として制作を続け、1799年には首席宮廷画家となる。53歳にしてスペインの画家として最高の地位を得た。
だが、スペインという国家そのものが危機を迎える。ナポレオン率いるフランスに征服されてしまう。それに反発する市民たちの叛乱も相次ぎ、スペインは混乱に陥る。
代表作≪裸のマハ≫は、1798年から1805年(ママ、1797年~1800年頃)にかけての作品である。モデルとなった女性が誰かは分からず、レオナルド・ダ・ヴィンチの≪モナ・リザ≫と並ぶ、謎の女性であるとされた。「マハ」というのは、人名ではなく、スペイン語で「小粋な女」という意味の言葉である。
この絵は、現実に存在する女性を描いたものである点で、ヌード画史上、革命的なものだった。≪裸のマハ≫以前の絵画にも、裸の女性は数多く登場しているが、それは神話の世界の女神や、その時代の女性であっても、あくまで想像上の女性であった。だから、そのからだは理想化された美しいものだった。しかし、≪裸のマハ≫は、きわめてリアルな女性像である。
マハが誰なのかは分からないが、ゴヤが現実にいる女性をモデルにして描いたのは、明らかである。スペインはカトリックの国なので、性的なことには厳しいタブーがあり、神話の世界のものでもヌードは禁止されていたそうだ。
そのような「問題作」だったので、描かれてから15年近く過ぎた1815年に、ゴヤは猥褻容疑で異端審問を受け、誰の依頼でこの絵を描いたのか追及された。しかし、ゴヤは口を割らなかった。
(この絵が見つかったのは、当時のスペインの首相の邸宅で、ゴヤのパトロンのひとりだった。そのため、首相の愛人がモデルではないかとか、あるいはゴヤの愛人だったとされるアルバ公爵夫人ではないかとか、諸説があるという)
また、同じ構図で、服を着ているだけの≪着衣のマハ≫もあるのはなぜかなど、謎に満ちた作品である。
ゴヤのグロテスク系の作品の代表作が≪巨人≫である。1808年から1812年頃の作品である。
暗雲たちこめるなか、画面の上3分の2ほどは、後ろを向いた巨人が描かれ、下には逃げまどう人や馬が描かれている。幻想的だが、不気味な絵である。
これは、ナポレオン軍によってスペインが戦争に巻き込まれていく様子を表現したものだと解釈されている。
(「巨人」はナポレオンというよりも、「戦争」そのものの象徴だとされる)
1824年にはスペインの混乱を避けるためにフランスに亡命し、1828年、82歳でフランスのボルドーで亡くなった。
(中川右介『教養のツボが線でつながる クラシック音楽と西洋美術』青春出版社、2008年、119頁~122頁)
【中川右介『クラシック音楽と西洋美術』はこちらから】
教養のツボが線でつながるクラシック音楽と西洋美術 (青春文庫)
フランス語で読むゴヤの解説文
さて、ここでルーヴル美術館所蔵のゴヤの絵画についての解説文を読んでみよう。
PEINTURE ESPAGNOLE
〇Francisco José de Goya y Lucientes,
Portrait de la comtesse del Carpio, marquise de la Solana,
1794-1795, huile sur toile, 181×122㎝
« Le monde est une mascarade ; le visage, la mise et la voix, tout
est mensonge. Chaqun veut sembler ce qu’il n’est pas, tous
trompent et personne ne se connaît soi-même. » Ainsi par-
lait Goya, qui a pourtant su redonner ici la force de carac-
tère de cette femme cultivée et charitable, encore jeune mais
très malade, et qui, se sachant condamnée, voulut sans doute
laisser à sa fille ce portrait. Sortant à peine d’une longue
maladie qui l’a laissé sourd, Goya adopte désormais une
touche vive et spontanée, comme pour une esquisse, ce
que les tenants d’une peinture lisse lui reprocheront.
(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001, pp.86-87.)
≪訳文≫
スペイン絵画
〇フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス
「カルピオ女伯爵(ラ・ソラーナ侯爵夫人)の肖像」:
1794~1795年、油彩・カンバス、181×122㎝
「この世は仮面舞踏会。顔も身なりも声も、すべてがまやかし。誰もが自分を自分以外の者に見せようとして騙し合っているが、誰一人として自分自身のことを知っている者はいない。」
このようにゴヤは語っているが、この作品では、教養があり、思いやりも深く、まだ若いが不治の病におかされたこの女性の精神力の強さが巧みに描かれている。死期の近いことを知った彼女は、おそらく娘にこの肖像画を残そうとしたのだろう。
耳が聞こえないという長患いがやっと治り、もとの体に戻ったゴヤは、それ以後まるで素描を描くように、生き生きとした衝動的なタッチを用いるようになるが、これはなめらかなタッチの絵画の支持者たちには不評だった。
(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年、87頁)
【語句】
Le monde est <êtreである(be)の直説法現在
une mascarade [女性名詞]仮面舞踏会(masquerade)
la mise [女性名詞]身なり、服装(attire, dress)
mensonge [男性名詞]うそ(lie)、虚構(illusion)
Chaqun veut sembler <vouloir~したい(want)の直説法現在
sembler ~のように思われる、~のように見える(seem)
ce qu’il n’est pas <êtreである(be)の直説法現在の否定形
tous trompent <tromperだます(deceive)の直説法現在
personne ne se connaît <代名動詞se connaître自分を知る(know oneself)の
直説法現在の否定形
parlait <parler話す(speak)の直説法半過去
qui a pourtant su redonner <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(savoir)+不定法 直説法複合過去
savoir+不定法~することができる、~するすべを知っている(know how to do, be able to do)
redonner 再び与える、返してやる(give again)
pourtant [副詞]それでも、しかし(yet, however)
caractère [男性名詞]性格、毅然とした性格、気骨(character)
cultivé(e) (←cultiverの過去分詞)[形容詞]耕された、教養のある(cultivated)
charitable [形容詞]慈悲深い、情け深い(charitable)
se sachant condamnée <代名動詞 se savoir+属詞 自分が~であることを知っている 分詞法現在
condamné(e) (←condamnerの過去分詞)[形容詞]有罪の宣告を受けた(condemned)、病人が医者に見放された(fated, doomed)
<例文>
Le malade se sait condamné. その病人は医者に見放されたことを知っている。
voulut sans doute laisser <vouloir+不定法 ~したい(want)の直説法単純過去
laisser 残す(leave)
Sortant à peine <sortir外へ出る(go out)、(de, から)(ある状態から)抜け出す、~を脱する(come out of, get rid of)の分詞法現在
qui l’a laissé sourd <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(laisser) 直説法複合過去
laisser ~のままにしておく(leave, keep)
sourd [形容詞]耳が聞こえない(deaf)
Goya adopte <adopter取り入れる、採用する(take up, adopt)の直説法現在
spontané(e) [形容詞]ごく自然な、飾らない、率直な(spontaneous)
une esquisse [女性名詞]素描、スケッチ(sketch)
tenant(e) [男性名詞、女性名詞](意見の)擁護者(defender)
lisse [形容詞](肌などが)滑らかな、すべすべした(smooth, sleek)
(cf.) matière [peinture] lisse <絵画>絵具を薄く滑らかに塗った画肌(絵画)
lui reprocheront <reprocher非難する(reproach)の直説法単純未来
【Françoise Bayle, Louvre(フランソワーズ・ベイル『ルーヴル見学ガイド』)はこちらから】
Louvre: Visitor's Guide: Francoise Bayle
コローの絵にみえる詩情
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー(1796~1875)は、19世紀における風景画と肖像画の発達において、クールベ以前に重要な足跡を残した画家である。
クールベとコローは、対照的な性格の画家として、高階秀爾氏は理解している。
コローは、何事につけても控え目で、従順で、かぎりなく善良な性格であったそうだ。
コローの父親はパリで流行の洋装店を経営していて、息子にも自分の跡を継がせたいと望んでいた。コローは正面切ってさからうことができず、ようやく26歳になってから、絵画に身を捧げる決心を固める。
したがって、画家としての出発は比較的遅く、その活躍の時期は、ほとんど一世代年少のクールベと、かなりの部分で重なり合う。
コローが最初からほとんど風景画ばかりに専心するようになるのは、生まれつき自然を愛する抒情詩人的であったことにもよるが、それと同時に、伝統的なアカデミックな訓練を受ける修業期間を持たなかったことも影響しているようだ。
画家を志したコローは、すでに20代の半ばを過ぎてから、まずミシャロン(1796~1822)のもとで学んだ。ミシャロンは、ごく短期間だけコローの師だったが、豊かな才能に恵まれていた画家である。ローマ賞「歴史的風景画」部門の第一回受賞者として1817年以来ローマに学んだ後、ちょうど帰国したばかりのところであった。
コローと同い年でありながら、すでに名声を得ていた。しかし、ミシャロンは、コローが弟子になった年に惜しくも若くして世を去ってしまう。長く生き続けたら、フランス風景画の歴史に、もうひとりの優れた画家を持つことができたといわれている。
その後、コローは、一時ベルタンのアトリエに学んだ。ただ、コローの絵画を本当に養ったのは、パリや、ルーアンや、フォンテーヌブローで試みた自然と対話であったと高階氏はみている。
本質的に抒情詩人の魂を持っていたコローは、ミシャロンの教えにしたがって、「自分の前に見えるものをできるだけ丹念に描き出す」ことを目ざした。
そして、1825年から28年にかけて最初のイタリア旅行をし、続いてフランス各地を巡遊し、その後再び1834年、1843年にイタリアへ旅をする。こうした旅は、自然とコローのつながりを一層強めたようだ。
コローは鋭敏な感受性により、風景作品において、空間がひとつの統一ある奥行のなかにしっかり把握している。そして人物は、≪ティヴォリ眺望≫や≪モルトフォンテーヌの想い出≫(ともにルーヴル美術館蔵)に見られるように、周囲の風景から切り離すことのできない渾然一体の要素となっている。
晩年になってから急速に増えてくる独立した人物像においても、コローのこの独特の詩情は失われていないようだ。
描かれているのは、ほとんどの場合若い女性で、それも半ば放心状態で物想いにふけっているところが、しばしばテーマとなる。
コローは、衣裳の飾りなどに華やかな色彩を効果的に用いながら、ほとんど動きのない静かなポーズを丹念にカンヴァスの上に写し出し、その姿を通して静謐な抒情の歌を響かせる。
リオネルロ・ヴェントゥーリは、コローの名作≪真珠の女≫(ルーヴル美術館蔵)について、次のように評している。
「その画面構成は、新古典主義的で、主題はロマン主義的、目的は写実主義的で、描法は印象主義的である」
この指摘は、そのままコローのほとんどの人物画に、そしてさらにはその風景画にも、多かれ少なかれあてはまると高階氏はいう。つまり、事実、富も名誉も求めず、ただひたすら自然の歌を歌い続けたコローは、その長い生涯の間に、フランス絵画を新古典派から印象派の入口まで、いつの間にか持ってきてしまったと捉えている。
ルーヴル美術館所蔵のコローの風景画と人物画の傑作として、次の2作品を挙げておく。
〇コロー≪モルトフォンテーヌの想い出≫(1864年 65×89㎝ ルーヴル美術館)
この作品は、外界の自然と画家の内面の詩的感覚を結びあわせた、銀白色のヴェールのかかった詩的風景画の代表作である。コローの風景画の中で、最も詩情あふれる作品とされる。サロンに出品し大好評を博した。
モルトフォンテーヌは、パリの東北60キロにあるオワーズ川支流に沿った景勝地である。池や森がいくつもあって、いつも霧が立ちこめている。ヴァトーが約150年前に滞在し、≪シテール島の巡礼≫(1717年 ルーヴル美術館)の着想を得たところである。
また、ジェラール・ド・ネルヴァルが幼年期を過ごした地であり、小説にも書いている。
この≪モルトフォンテーヌの想い出≫は、同時代の詩人ネルヴァルの初恋の思い出を綴った小説に感動したコローが、そのイメージをこの風景に託して描いたものとされる。いわば、詩人と画家のイメージが結晶して生まれた作品である。
コローの芸術を称える詩人ボードレールはコローについて次のように書いている。
「明らかにこの画家は心をこめて自然を愛し、愛情と同じ程度の知性でもって自然を見つめる術(すべ)を知っている」
〇コロー≪真珠の女≫(1868~70年 70×55㎝ ルーヴル美術館)
≪真珠の女≫は、コローの人物画の中で最も有名な作品である。
コローは死ぬまでこの絵を手放さず、その客間に飾っていた。
当時16歳の近所の古織物商人の娘、ベルト・ゴールドシュミットがモデルである。コローのイタリアみやげの民族衣装を着ている。
小さな葉の冠をつけ、そのひとつの葉が額に落とした影を人々が真珠だと思い、1889年の初公開以来、「真珠の女」と呼ばれている。コローの描いた影は銀白色の真珠色だったからである。
腕を組んだゆったりとしたポーズは古典的で、レオナルドの≪モナ・リザ≫を想わせるポーズと印象をもっている。ただ、謎めいた≪モナ・リザ≫に比して、親密でモデルの内面性をうかがわせ、コロー自身の永遠のミューズといえるようだ。
(エックス線を使った研究によると、モデルの顔は何回となく描き直され、実際のモデルとは異なる古典的な顔立ちになっているという。コローは、モナ・リザに対抗して、ひそかに永遠なる女性を模索していたのか?)
(高階秀爾『近代絵画史(上)』中公新書、1975年[1998年版]、55頁~58頁。風景画と人物画については、高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年、74頁~81頁を参照のこと)
【高階秀爾『近代絵画史(上)』はこちらから】
近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (上) (中公新書 (385))
フランス語で読むコローの解説文
さて、ここでルーヴル美術館所蔵のコローの絵画「青衣の婦人」についての解説文を読んでみよう。
PEINTURE FRANÇAISE
〇Jean-Baptiste Corot, La Dame en bleu,
1874, huile sur toile, 80×50.5㎝
« Il peignait un arbre mieux que quiconque, il
est encore meilleur dans ses figures », affirmait
Degas. Pourtant, les contemporains de Corot le
considéraient surtout comme un paysagistes, et
ils ignorèrent qu’il peignit des figures durant
toute sa vie, avec une prédilection pour les jeunes
femmes à la fin de sa carrière. Cette Dame en
bleu, exécutée une année avant la mort du peinture,
a le regard un peu perdu : vers qui, vers quoi
tourne-t-elle la tête ? « Les créatures étaient faites
par l’artiste à son image : douces, tendres et
rêveuses, occupées de fleurs et de musiques »,
affirmait Moreau-Nélaton, grand connaisseur et
grand collectionneur de celui que les autres
peintres avaient baptisé « papa Corot », tant sa
bonté était grande.
(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001, p.52.)
≪訳文≫
フランス絵画
ジャン・バティスト・コロー「青衣の婦人」:1874年、油彩・カンバス、80×50.5㎝
「コローは誰よりもうまく木を描き、しかも人物画はもっとうまい」とドガは断言した。
しかし、コローと同時代の人々はむしろコローを風景画家と考えており、彼が生涯にわたって人物画を描き続けたことや、特に晩年には若い女性を好んで描いたことは知られていなかった。
画家の死の1年前に制作されたこの「青衣の婦人」の眼差しは何となくはかない。彼女は誰を、あるいは何を見つけているのだろうか?
優しさ故に他の画家から『パパ・コロー』と呼ばれたコロー、そのコローの作品の収集家であり、偉大な美術鑑定家であるモロー・ネラトンは次のように言っている。
「女性たちは芸術家によってそのイメージどおりに作られた。おだやかで、優しく、夢見がちで、花や音楽に心奪われるものとして。」
(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年、52頁)
【語句】
Il peignait <peindre描く(paint)の直説法半過去
quiconque [代名詞](不定代名詞)いかなる人、だれでも(anyone, anybody)
il est <êtreである(be)の直説法現在
meilleur [形容詞](bonの優等比較級)(que,よりも)よりよい(better [than])
affirmait <affirmer断言する(affirm)の直説法半過去
Degas [固有名詞]ドガ(Edgar Degas, 1834~1917)フランスの画家
Pourtant [副詞]しかし、それでも(yet, however)
(対立はmaisより弱く、cependantより強い)
considéraient <considérer(comme, と)みなす(consider)の直説法半過去
ils ignorèrent <ignorer知らない(be ignorant of, know nothing about)の直説法単純過去
qu’il peignit <peindre描く(paint)の直説法単純過去
une prédilection [女性名詞]偏愛、ひいき(predilection)
exécutée <exécuter(作品などを)制作する(execute, make)の過去分詞
a le regard un peu perdu <avoir持つ(have)の直説法現在
le regard [男性名詞]視線、まなざし、目つき(look, gaze, glance)
(cf.) avoir le regard noyé ぼんやりした目つきをしている
un peu perdu (←perdreの過去分詞)[形容詞]失われた(lost)、途方にくれた、すっかり混乱した(lost, mixed-up)
quoi [代名詞](疑問代名詞)<前置詞+quoi>何(what)
tourne-t-elle la tête ? <tourner回す(turn)の直説法現在
(cf.) tourner la tête à qn (人)をふらふら(混乱)させる、(人)にほれて夢中になる
(turn s.o.’s head)
Les créatures [女性名詞]創造されたもの、人間、女(creature)
étaient faites par <助動詞êtreの直説法半過去+過去分詞(faire) 受動態の直説法半過去7
rêveur(se) [形容詞]夢見るような、夢見がちな(dreamy)
occupé(es) (←occuperの過去分詞)[形容詞]忙しい(busy)、ふさがっている(engaged)、占拠された(occupied)
(cf.) occupé de qn/qc (ある考えなど)のとりこになった、~に気を取られた
affirmait 既出
connaisseur(se) [男性名詞、女性名詞](女性形はまれ)目きき、鑑定家(connoisseur)
avaient baptisé <助動詞avoirの直説法半過去+過去分詞(baptiser) 直説法大過去
baptiser 洗礼を授ける(baptize)、あだ名で呼ぶ(nickname)
tant [副詞](接続詞的に)あれほど(so much)、それほどまでに(so, to such a degree)
<例文>
Il ne peut pas venir ici, tant il est fatigué.
彼はここに来られません、それほど疲れているのです(He cannot come here, he is so tired.)
sa bonté [女性名詞]善良さ(goodness)、優しさ(kindness)
était <êtreである(be)の直説法半過去
【Françoise Bayle, Louvre(フランソワーズ・ベイル『ルーヴル見学ガイド』)はこちらから】
Louvre: Visitor's Guide: Francoise Bayle
【補足】ドラクロワのショパンの肖像画
ドラクロワ(Delacroix, 1798~1863)が残した数少ない肖像画の中に『ショパンの肖像』と『ジョルジュ・サンドの肖像』がある。
現在、『ショパン』の方はパリで、『サンド』はコペンハーゲンで、それぞれ独立した肖像画として公開されている。
〇ドラクロワ『ショパンの肖像』
1838年 油彩 45×38㎝ ルーヴル美術館
〇ドラクロワ『ジョルジュ・サンドの肖像』
1838年 油彩 79×57㎝ コペンハーゲン オードロップゴー美術館
【ルーヴル美術館所蔵のドラクロワ『ショパンの肖像』の写真】(2004年5月筆者撮影)
私も、この肖像画をルーヴル美術館で見たことがある
この『ショパンの肖像』の制作年は1838年である。
この年の夏、画家のアトリエに28歳のショパンがよく訪れてはピアノを弾いたそうだ。楽器にむかうショパンの背後には、彼のミューズである小説家ジョルジュ・サンドが座っていた。画家は二人の姿を半身の肖像画にとどめ終生手もとに置いたが、没後作品は分断された。
一方、ドラクロワ自身も『自画像』を、1837年(39歳)頃に描いている。画家がショパンとジョルジュ・サンドの肖像を描く1年ほど前であり、彼らとの親交が深まっていた時期である。
ところが、この二枚の肖像画は、もともと同じ一枚の画布に描かれたのだといわれる。
制作は1838年、ショパンがサンドから「あなたを熱愛する人がおります。ジョルジュ」という短い恋文を受け取った頃である。
ポーランド生まれの音楽家フレデリック・ショパンは28歳である。ピアニストとしても作曲家としてもすでに名高く、パリ社交界の寵児となっていた。
一方、『愛の妖精』の作者ジョルジュ・サンドは34歳である。女権拡張を唱えて、男装をして葉巻を吹かしたり、当時としては型破りの女性だった。
二人はこの年の冬、サンドの息子、娘とともに、地中海のマヨルカ島(スペイン)に旅をする。『雨だれ』を含む24の前奏曲が、そこで完成する。そして次の年からは毎夏のようにパリを離れ、中仏ノアンにあるサンドの館で生活を共にするようになった。有名な恋の物語である。
ドラクロワは、恋人たちの共通の友人であった。「彼はまれに見る高貴な人間だ。私が会った最も純粋な芸術家だ」と記すほど、ドラクロワはショパンの人格を愛した。ドラクロワは、おそらく創作意欲の赴くままに肖像画の絵筆をとったことであろう。ピアノを弾くショパンと、その背後で演奏に聴き入るサンドとを、一つの構図の中に描いたとされている。
今日、とりわけ『ショパンの肖像』は、モデルの内面の個性をとらえた肖像画として、傑作の一つに数えられている。
楽想を追っているのか、憑かれたように宙を見つめる目である。引き締まった口もとで、みけんのあたりに、深々とした苦悩を漂わせている。
ドラクロワは、病弱で孤独でもあった音楽家の、鋭い感性とほの暗い情念を浮かび上がらせていると評されている。
ドラクロワは、恋人たちの肖像画を、なぜか未完成、未公表のまま、ずっと手元に置き続けた。そして画家が亡くなったとき、絵は元の形のままでアトリエに残されていた。
では、その後、いつ、だれが、なにゆえに、一枚の絵を二つに切り裂いたのか。
この点、主に次の三つの説があるようだ。
① デュティーユ家の相続争いの結果だという説
② サンドの息子モーリスが切らせたという説(ショパンを嫌っていたサンドの息子モーリスが母親に迫り、デュティーユ家に絵を切断させるように仕向けたとする)
③ 相続争いはなくても二枚にした方がお金になると考えたからだという説
ドラクロワ研究の第一人者もモーリス・セリュラス氏も、絵の切断の謎については、一切の推測を避けているそうだ。
二つに切られたこの絵の運命が、ショパンとサンドの悲しい破局を象徴しているのかもしれない。
(朝日新聞日曜版「世界名画の旅」取材班『世界名画の旅1 フランス編1』朝日新聞社、1989年、105頁~115頁。高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年、62頁~63頁)
【『世界名画の旅1 フランス編1』朝日新聞社はこちらから】
世界名画の旅〈1〉フランス編 1 (朝日文庫)
【補足】ジョットの≪聖痕をうけるアッシジの聖フランチェスコ≫
〇ジョットの≪聖痕をうけるアッシジの聖フランチェスコ≫
(1300年頃 板 313×163㎝ ルーヴル美術館 1814年に購入)
この絵については小暮満寿雄氏も取り上げていた(小暮、2003年、41頁~45頁)。
1300年頃、ジョットは中部イタリアのアッシジにあるサン・フランチェスコ聖堂に祭壇画を描くことになる。30年前、師のチマブーエがここに、天使たちに囲まれた≪荘厳の聖母子≫(1270年代 板絵 427×280㎝ ルーヴル美術館 1811年に購入)を描いている。
ジョットの方は、聖フランチェスコの生涯を綴ることになった。二人の絵を比べてみると、その間30年、大きな変化が起こっているとロビンソン氏はいう。
ジョットの方は、背景の木立と家のある丘を描いている。自然描写というには、単純で素朴ではあるが、自然が絵画の中に入りこんできた。
そして、地面に跪く一人の男、これも画期的であったようだ。聖職者の平服スータンを纏い、髪を円形に刈り、頭髪をつけたこの男こそ、アッシジの聖フランチェスコであり、実在の人物が絵画に登場してきたからである。
聖フランチェスコは、光輪をつき、鳥の姿をした人物の方に顔をあげている。これはイエス・キリストである。
キリストと聖フランチェスコの間には、何本かの線が走り、掌、足、胸を繋いでいる。この線は「奇跡」を描いているといわれる。
キリストの身体には、「スティグマータ(聖痕[せいこん])」と呼ばれる、磔の刑にあったとき受けた傷跡がある。
この絵では、キリストが聖フランチェスコにこの聖なる傷を移しているところであり、二人を結ぶ線は、その瞬間に結ばれた絆を象徴しているそうだ。
そしてキリストは熾(し)天使(セラフィム)の姿で、聖フランチェスコの前に顕れた。熾天使は格の高い天使であり、6枚の翼をもつ。この絵でも、キリストにも、6枚の翼が描かれている。
ところで、ジョットは早い時期から、「ほんとうらしく描きたい」と思っていた。人々の行動を観察し、動物をみつめ、自分をとりまく世界を研究した。
「ジョットは自然の弟子であり、人間の弟子ではない」と、16世紀の美術史家ジョルジオ・ヴァザーリは記している。
次のようなエピソードが、ジョットのエピソードとして伝えられている。
ある日、ジョットはチマブーエが描いた肖像の鼻にハエを描き足した。それが、実に本物そっくりだったので、仕事をつづけるようとしたチマブーエは、何度もそのハエを追い払おうとしたという。
とはいえ、ジョットはまだまだ現実から遠いところにいた。14世紀の画家はまだ、それほど空間をうまく構築することができなかった。
(アネッテ・ロビンソン(小池寿子・伊藤已令訳)『絵画の見方 ルーヴル美術館』福武書店、1991年、22頁~23頁、28頁~33頁)
【ロビンソン『絵画の見方 ルーヴル美術館』福武書店はこちらから】
絵画の見方・ルーヴル美術館