歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪石川九楊『中国書史』を読んで その3≫

2023-02-12 18:00:07 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その3≫
(2023年2月12日投稿)

【はじめに】


 今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、本論の次の各章の内容である。
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。

 



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の七五0年――王羲之の「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘稿」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇本論 第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
・正書体としての列国正体金文

〇第3章 象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
・中国書史のまとめ
・篆書

〇第4章 波磔、内なる筆触の発見――隷書論
・波磔の発見
・隷書中の隷書と隷書の意味
・「焚書坑儒」と「簡」

〇第5章 石への挑戦――「簡隷」と「八分」
・八分体
・古隷進化論
・「天発神讖碑」
・「刻る時代」から「書く時代」へ
・【補足】近代日本の書の歴史と六朝書の「発見」







本論 第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論


正書体としての列国正体金文


中国書史の正書体の歴史を振り返ってみると、正書体として挙げられるのは、まず第一に甲骨文がある。
甲骨文を正書体として金文が存在し、第二に戦国時代の列国正体金文(いわゆる鳥虫書)を嚆矢とする第二次正書体である。その第二の正書体運動の仕上げが小篆(篆書)である。
漢代に入ると、垂直に疎外されなかったという意味で、むしろ反正書体とも呼ぶべき正書体として八分(隷書)体が生まれ、そして現在までのところ最後の正書体が初唐代の楷書体である。
書史上の正書体は、甲骨文、列国正体金文=篆書、隷書、楷書の四つである。

もっとも甲骨文は、いわば天から授けられたと言ってもいい文字であるから正書体ではないとも記している。
また、通常は甲骨文の次なる正書体を秦始皇帝時代の小篆と考えるのが普通である。そのように考えてもよいが、文字そのものから言えば、縦に長く伸びた極限の垂直体たる列国正体金文の正書体の中で、最も垂直性が弱く正書性の弱い秦国が、いわば最も遅れて、始皇帝時代に、春秋戦国期の正書体を整理し長く育成してきた字画を武器に、いっきに垂直性を高めて次代の典型(モデル)となる小篆体を産んだ。この意味において、秦始皇帝は文字の統一を果たした、と石川氏は説明している。

石川氏が言う垂直に伸びた列国正体金文とは、斉国や越国や中山国の正書体である。甲骨文的金文的神授文字、つまり「神文字」を逆転して、垂直に天を疎外したがゆえに、もともと天の神々を司る存在であった帝が地上に引きずり下ろされ、この種の極端な垂直文字が正書体として生まれ、いわばそのような時空を背景に、孔子などの諸子百家の運動が整理統合されて、小篆を生み、真に地上の王たる皇帝をはじめて生んだといえるとする。
(孔子の思想の背景には、正書体としては、(本人が書いたということではなく)ここで言う列国正体金文のような文字が聳え立っていたはずであるという)

ところで、甲骨文は地中深くに埋められ、金属器もまた埋められた。地中に埋められた事実は、地下がすなわち「天」に逆説的に通ずる道であったからであり、古代宗教国家=文字の原像を保有していたからである、と石川氏は考えている。
大篆「石鼓文」の文章はいまだ、半宗教、半政治的な狩猟に関する韻文であった。李斯が刻した「瑯邪台刻石」において、真の意味での地上の正書体が生まれた、と石川氏は捉えている。甲骨文や金文を神授文字=神文字と考えれば、神文字を改造して、はじめての言葉の文字が地上に誕生した。文字は言葉に対して開かれた。

いわば殷周の古代宗教国家的安定を過ぎ、春秋戦国時代は古代宗教国家から、古代政治国家へのシフト期である。書の観点から言えば、正書体である甲骨文、殷周金文に代わる政治的新正書体創出戦争期である、と石川氏はみている。

垂直に生まれた文字の宇宙化に対し、それを生きた言葉の側から日々微動させ、人間の生や生活からの乖離を阻み、言葉の側に引きとどめようとして下降させ、また上昇させる運動が書字という運動であるという。

こうして、最も遅れて正書体化し、それゆえ、これらの字画の成立と、字画の一般性の成立および構成単位の一般性の成立を、最も根柢的(ラジカル)に実現したのが、秦始皇帝時代の李斯が書いたと言われる「泰山刻石」であり、「瑯邪台刻石」である。
まさに秦王政は、新たな政治的「天」を疎外し、「帝」を「天」から引きずり下ろした「始皇帝」であった。新生正書体「小篆」の姿がそれを証している。
(石川、1996年、53頁~56頁、60頁)

第3章 象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論


中国書史のまとめ


ところで明の董其昌は「晋韻、唐法、宋意」と言った。
これになぞらえて、中国書史を石川九楊氏自身、結論づけて、次のようにまとめている。
甲骨文、金文の殷周と春秋戦国は「神=宗教」、春秋戦国を経て篆書体の秦は「国家」、隷書体の漢は「文明」、草書の晋は「韻」、楷書の唐代は「法」、宋は「意」、元明は「態」、筆蝕から言えば「戦」、清は「擬」、筆蝕からは「震」と言えるとする。
「殷周は神を尚(たっと)び、秦は国家を尚び、漢は文明を尚び、晋は韻を尚び、唐は法を尚び、宋は意を尚び、元明は態を尚び、清は擬を尚ぶ」というのが、書的表出の史的構造の擬古的結語であるという。
そして殷周は文字、秦漢は字画、六朝・初唐は筆触、初唐・宋は筆蝕、宋元明は角度、清は微粒子というのが書的表出の史的構造の真の結語であるという。
(石川、1996年、42頁)

字形や書画は角度(スタイル)をもち、筆蝕そのものが対象=世界との臨場の中でさまざまな角度(スタイル)をもつという段階(水準)に至ったのが、明代の祝允明であり、何よりも徐渭である。
書史の蓄積の中で字画は筆触と化し、筆触は筆蝕と化し、筆蝕は角度と化し、角度が明末には正書体と化した。
書の「戦筆」という用語こそ、筆蝕の角度化、角度筆蝕の別名といってもいい。この筆蝕の角度化によって書は、宋代の「意」の表現段階を超えて、世界を創出し、世界を創出すること(「態」)によって、自己を創出するという関係を築くのである。
宋代に始まり、明代以降、書は飛躍的な表現力を獲得する。
朱耷(しゅとう)を嚆矢とし、金農を祖とし、鄧石如以降のいわゆる碑学の諸家達を後継とする無限折法が誕生した。
(石川、1996年、37頁~41頁)

篆書


それにしても篆書というのは奇妙な文字である。ここでの篆書の例としては、春秋末期と言われる大篆「石鼓文」と秦の始皇帝時代の小篆「泰山刻石」や「瑯邪台刻石」を想定すればよい。
甲骨文や金文はとても率直なのに、篆書を構成する字画は、うねうねぐねぐねとねじ曲がっているように見える。物事は歴史的により簡潔へと向かいそうなのに(事実その後の歴史は簡略化、簡潔化へ向かっているように思える)、古文から篆書への道筋だけは逆のように思える。例えばその姿を、殷代末期と言われる「小臣艅犠尊」の金文と、大篆「石鼓文」と、完成した篆書(小篆)の「泰山刻石」(前219年)の三つの文字を見較べてみるとはっきりする。
「小臣艅犠尊」の「王」は言うまでもなく鉞を形どるように書かているが、「石鼓文」の王の第四画はもはや鉞の刃を象徴しているようには思えない(石川、1996年、62頁~64頁)。

また字画の成立が篆書の本質的な意味である。雑体書、つまり「正書体金文」は篆書の父である。「石鼓文」も「泰山刻石」も雑体書の子であるという。
(石川、1996年、66頁~67頁)

第4章 波磔、内なる筆触の発見――隷書論


波磔の発見


楚、秦、前漢代の竹簡や木簡上の隷書、これを仮に「簡隷」と、石川氏は称している。
この「簡隷」は愛くるしい文字である。
石に貼りついた正書体たる篆書体の通行本である「簡隷」が、石碑と化して、正書体の位置に攻め上る時代が後漢代である。
後漢代には、「礼器碑」(156年)、「孔彪碑」(171年)、「曹全碑」(185年)が見られる。いずれも、横画の波磔を聳え立たせた権威ある姿である。これを「八分」と呼ぶ。「簡隷」が正書体化するために自らの姿を変えたものが「八分体」である。
(現在、日本の紙幣が隷書体で成立しているのは、この「八分体」の権威性に拠っている)

毛筆が、浮沈、肥痩によって、字画を書きとどめる以上の何かを定着しているという意識を獲得することが、波磔の発見につながるようだ。
(波磔の発見は、文字を書きとどめることを超えた、芸術意識の発見に他ならないから、「居延漢簡」など波磔を練習した木簡や竹簡が多数発見されるわけである)

縦画の波磔は、いまだ内在的筆触発見の「はしり」であり、次いで横画の波磔を発見することになる。横画の波磔は、相当に人為的なものである。横画の波磔は、書字の際に、加える筆圧や反撥そして摩擦を自覚的に書字の中にとり込んでおり、内在的な筆触の発見である、と石川氏はみている。
この横画波磔の発見によって、木簡上に生まれた愛くるしい書体「簡隷」は、篆書にとって代わる、石の上の正書体「八分」と化した。その波磔を、誇張、拡大することによって、後漢代に入ると、隷書、八分体の碑が次々と建てられることになる。
その頂点の作として、「孔彪碑」と「曹全碑」を想定できる。

竹簡、木簡上の文字のプロセスについて、外圧的筆触を内在的筆触に高め、書を表現体へと高めていった、と石川氏は考えている。
① 竹理、木理に抵抗する横画主律型の文字と扁平化
② 横画終筆部での肥、墨だまり(収筆の発見)、ないし横画起筆部の肥(起筆の発見)
③ 縦画を長く太く伸ばす、縦の波磔
④ 横画の波磔、八分体の成立

唐代の楷書をモデルとするならば、いまだ十分なものではないが、表現筆記具としての毛筆の性質の基本部分は発見されたようだ。
初唐代に完璧に完成する「起筆、送筆、終筆、転折、撥ね、はらい」のうち、「送筆」は本体だから文字発生以来備わっているが、「起筆」と「はらい」と筆触の内在性は、確実に隷書と八分によって発見されたと、石川氏は理解している。
いわば、筆を簡(対象)の上を走らせる時の「ざらざら」とした抵抗と摩擦によって隷書体は生まれた。書の歴史上のいくつかの劇(ドラマ)のうち、その根幹である筆触の発見は、隷書体の時代になされた。
(石川、1996年、75頁~77頁)

隷書中の隷書と隷書の意味


横画主律の扁平体と波磔を極限まで見せる頂点の隷書の碑は、①「孔彪碑」(171年)と②「曹全碑」(185年)である。
隷書中の隷書はこの二つにある。隷書=八分体はいわば石を「簡」(竹簡や木簡)に変えたものである。竹簡や木簡上に誕生した隷書を「簡隷」と呼ぶなら、日常体として生まれた「簡隷」が篆書体の鎮座する正書体の座を奪おうとして、形を整えたものが八分体である。
しかし隷書の歴史は長くは続かなかった。この時、すでに「紙」が発見され、「紙」の上に草書体が躍りだしたからである。漢が滅び紀元200年を過ぎると、石碑上の隷書は波磔を急速に失っていくことになる。
隷書体は縦に理(め)の走る木簡や竹簡上に誕生した。この理との関係において外在的筆触を発見し、やがてその経験を蓄えて、縦の波磔、横の波磔を生み、内在的筆触を発見した。隷書体は篆書体から木簡上で発したという意味で、草書体と同根なのであるという。
(石川、1996年、78頁~79頁)

「焚書坑儒」と「簡」


なぜこのような隷書体が生まれたのであろうか。その謎を解く鍵は「簡」(竹簡、木簡[牘])にある。「簡」というのは、幅五分(指一本の幅である一寸の半分、1センチ前後)、長さ一尺(手を広げた時の親指から中指までの長さ、20数センチ)の細い竹や木の札、それが竹簡、木簡である。この簡を連ねて綴じ、巻いたものが書物であった。
秦の始皇帝の「焚書坑儒」というのは、和綴本のような紙の書物を燃やしたのではなく、この竹や木の束、あるいは帛の束を燃やしたものと考えられる。
(石川、1996年、72頁)

第5章 石への挑戦――「簡隷」と「八分」


八分体


八分体の典型としては、①「孔宙碑」(164年)、②「孔彪碑」(171年)、③「曹全碑」(185年)、とりわけ「孔彪碑」、「曹全碑」を思い浮かべればよい。
縦一、横二あるいはそれ以上の比率で極端に背を低め、扁平体の極をいく造形、主たる横画は、水平に長く伸び、その末尾は、華麗な青龍刀の刃のような、波うつ波勢である波磔を伴っている。八分体の完成の極である。
石=聖域においては、「孔彪碑」、「曹全碑」の170~190年あたりの時代が隷書・八分体の頂点であったと考えられる。
今仮に「孔彪碑」、「曹全碑」を八分体の完成ととらえるならば、八分体とは書史上の何の姿であったのだろうかと問いかける。竹簡や木簡、その類に書かれた隷書をいま仮に「簡隷」と呼ぶことにすると、竹簡や木簡に誕生した「簡隷」が石に貼りつき、さらには石を「簡」に変え、篆書体を完全に払拭して、正書体としての位置を奪った書体が八分体と言えるものとする。
八分体は、竹簡や木簡の上に誕生した隷書体「簡隷」を、石とせめぎあいながら、石にふさわしい書体にまで高めた書体である、と石川氏は考えている(石川、1996年、80頁)。

楷書の究極、楷法の極則と呼ばれる初唐代・欧陽詢の「九成宮醴泉銘」は、石の上に刻られてありながら、石をかぎりなく「紙」に近づけた書体であった。
そして褚遂良の「雁塔聖教序」こそは、石の上に刻られた書でありながら、紙の上の筆蝕をそのまま石に写し込み、石に刻られたとは思えぬ姿で聳えている。表現された世界の背景を完璧に紙に変えたのだ。その意味で、比喩的に言えば、「雁塔聖教序」は紙でできた碑、「紙碑」である。
同様に「孔彪碑」や「曹全碑」の八分隷は石でありながら表現された背景は、もはや石ではない。立ち上がった簡、竹簡や木簡などの「簡」でできた碑、「簡碑」だと言えよう。その点で、楷書の頂点が「九成宮醴泉銘」、「雁塔聖教序」であるように、隷書・八分体の頂点は「孔彪碑」「曹全碑」である、と石川氏は考えている。
そういえば、ただ「孔彪碑」の文字のたたずまいは、サヨリやダツにとてもよく似ている。サヨリやダツ、つまり「孔彪碑」や「曹全碑」は最尖端的ではあるが、次への可能性のもはや閉じられた一種の部分特化書体でもあった。
(石川、1996年、80頁、83頁)

古隷進化論


なぜ「開通褒斜道刻石」(66年)は身近な親しみを感じるのか。それは八分体が、隷書体としての特性(水平運動・扁平・波磔)を強調した、いわば特異な書体として磨き上げられた書体であるのに対して、古隷は八分体の基にあった書体であると同時に、現在の書体である楷・行・草体、とりわけ楷書体の祖としても存在するからではないだろうか、と石川氏はいう。
古隷は現行書体の「父体」であることによって、我々に親近感がある。もうひとつ、「開通褒斜道刻石」等の古隷が魅惑的である理由は、石の上の目に見えぬ篆書との関係のとり方にあろうという。
(石川、1996年、83頁)

「天発神讖碑」


篆書を篆額に祭り上げても、篆書の聖=正書体としての生命力は、「禅国山碑」(276年)、「天発神讖碑」(276年)のように、しばしば聖域では姿を現した。しかし、にもかかわらず、簡や帛に育まれた筆触は確実に篆書を払拭していく。
「天発神讖碑」は、筆蝕性の強い篆書、つまり、これは形の上では篆書だが、筆蝕上は完全に隷書の筆触をもつものである。隷書を特徴づける波磔―それは筆を沈め放すことの自覚的な繰り返しである。それを通じて書史は、真の意味で毛筆を発見し、そしてその波磔の跡を石に刻り込むことを通して、波磔が秘めている筆触の深度と速度の構造を自覚したのである。筆触の自覚的発見のためには、「刻る」こととの出会い、「刻る」ことの発見がどうしても必要であった。
(石川、1996年、87頁)

「刻る時代」から「書く時代」へ


甲骨文、金文、列国正書体金文、篆書、隷書までの、殷代から漢代までは基本的に刻る文字の時代である。なるほど隷書は、木簡の理(め)と毛筆の接触に起因する筆触によって生まれた書体であるが、隷書の美は石碑の上に宿った。しかし、隷書は筆触を生み落とすことによって、木簡や帛(はく、しろぎぬ)に代わる紙を発明した。「隷書が紙を発明した」という。
このようにして隷書は、「刻る時代」に代わって「書く時代」、甲骨や金文も含めて、硬質の物質性の強く、それゆえ宗教性や政治性の保存度の高い被書字体を「石」と総称すれば、「石」の時代に代わる、「紙」の時代をもたらすことになった。
しかし皮肉なことには、木簡の理に生まれた水平画つまり、横画主導の偏平体である隷書体は、紙の上では場違いで、書の歴史上の主役の位置を下り、木簡上に生まれた兄弟体たる草書体にその地位を明け渡した、と石川氏は捉えている。
(石川、1996年、89頁)

【補足】近代日本の書の歴史と六朝書の「発見」


日中国交回復後、中国での発掘、新出土に呼応して、書壇もまた、近年は木簡、肉筆の隷書に視線を注いでいる。作品の中に「簡隷」をとり入れた作品も多くなった。近代日本の書の歴史が清朝碑学を背景とした漢魏六朝の石碑の書を「発見」して、開始された。
ただ、「簡隷」の流行を追うよりは、「古隷」の美とじっくり対話することの方が、書としてははるかに稔りがある、と石川氏は批判している。「木簡」に追従するよりは、石碑、拓本の美をかみしめる方がよいとする。
(石川、1996年、87頁、89頁)