[書籍紹介]
二代目歌川国貞の人生を描いた「ヨイ豊」など、
浮世絵師を題材にした作品を書いている梶よう子の新作。
「小説新潮」に連載したものを単行本化。
今回の主人公は、
「東海道五拾三次」「名所江戸百景」などの名所絵で知られる歌川広重。
定火消(じょうびけし)同心の家に生まれた安藤重右衛門は、
少年時代から画を描くのが好きで、
町絵師を志して、歌川豊広の弟子になり、
「歌川広重」の名を与えられるが、
鳴かず飛ばずの貧乏暮らし。
当時、美人画は国貞、武者絵は国芳、
風景画は葛飾北斎が隆盛を極め、
広重の描く美人画は色気がない、
役者画は似てない、の散々の悪評だった。
そんな時、舶来の顔料「ベロ藍」の、
深く澄み切った色味を目にした広重は、
ベロ藍を活かせるのは景色、海や川、なによりも空、
つまり、このベロ藍を使えば、名所絵が必ず変わる、
「役者でも、女でもねえ。この色は、景色を彩る色だ」、
そう確信した広重は
この青でしか描けない画があると一念発起する。
自信作である「東都名所」を出したが、あまり売れなかった。
というのも、同時期に葛飾北斎が「富嶽三十六景」を版行していたからだ。
しかし、自分が描いた江戸の空の色に自信を持った広重は、
東海道の画題を依頼されて取り組む。
1833年(天保4年)、
「東海道五十三次」が版行され、
ベロ藍をたっぷり使ったこの作品は、
当時の行楽ブームも相まって大ヒット。
風景画家としての広重の名は北斎以上に評価されることになった。
天童藩からの依頼で200点以上に及ぶ肉筆の浮世絵を制作、
118枚の大作「名所江戸百景」、
種々の「東海道」シリーズを発表。
短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、
そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、
晩年には美人画3枚続も手掛けている。
さらに、肉筆画・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか
絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残している。
そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。
1858年、コレラの大流行に感染し62歳で他界。
という半生を、
版元(出版社)との確執や、
北斎とのライバル意識、
二度の結婚、
弟子に対する愛情、
義弟の娘を養女にして注ぐ愛、
などを交えて、ごく人間的に描く。
特に、 義弟の借金返済のために
それまで絶対手を出さなかった枕絵(春画、今でいうポルノ)を描く際、
女を描くのが不得手ときてはいかんともしがたく、
豊国の手ほどきを受ける場面などがおかしい。
当時、名所絵は美人絵や役者絵の下に見られる傾向があったという。
また、江戸を書いた名所画は、
地方から江戸に来た人が
みやげ物として買い求めた、というのも興味深い。
写真がなかった当時、
「江戸はこんな所だ」という説明に使ったのだろう。
また、東海道五十三次をはじめとする名所画は、
江戸庶民の旅行熱を刺激した、というのも面白い。
富士講、大山講、伊勢参り、善光寺参り──。
寺社参拝という理由であれば、
手形も容易に入手できるようになった。
街道も整備が進み、
難所はあっても歩いて行けなくはない。
江戸の庶民はますます旅に飢えている。
重右衛門の描く箱根、三島、蒲原などなど各宿場の風景は、
旅に憧れる江戸の町人たちの心を鷲掴みにしたのだ。
絵師にとっても、名所絵は魅力的だった。
初めての旅、初めての景色。
絵師の腕が疼くかないはずがない。
売れるようになった広重に対する
版元の手のひら返しの重用は、
今のベストセラー作家と出版社の関係のようだ。
美人画の変遷も興味深い。
女子はその時代時代で美人のあり方が変わる。
女子を描いて人気を博した最初の浮世絵師鈴木春信の頃は
可憐で純で、幼い肢体が好まれたが、
歌麿の頃は異なる。
瓜実顔に柳眉、細く釣り上がった眦(まなじり)。
その上、歌麿はそれぞれの女の特徴を捉えて、描き分けた。
それが歌麿の腕であり、
女を描く条件になった。
むろん、歌麿の枕絵は大人気だった。
次の記述もなかなかだ。
景色には、絶景、佳景、美景、奇観とある。
そして春夏秋冬の季節に、
晴天、曇天、豪雨、糠雨、雪、風といった天候。、
さらに、朝、昼、夜げも様相が変化する。
それを写し取り、何を省くか。
見る人が本当にその景色を目の前にしているかのように
紙上に表すのはどれほど難しいか。
広重は江戸の光景にほれ込んだ人物として描かれている。
おれはやはり江戸を描く。
東海道で日の目を見たが、
最後の画にするのは江戸の風景だ。
江戸を地震が襲って火事が起きた際、
昔の火消同心の血が騒ぎ、火消し作業に従事する。
そして、被災して落ち込んだ江戸の庶民の気持ちを向上させるために、
江戸を題材とした絵を沢山量産する、という心意気も描かれる。
今の被災地への復興につながる。
「五十三次で旅を夢見るよりも先に、
おれたちの江戸はこうだったんだ
という姿を見せたい。
江戸を元通りにしたいという気にもなりましょうし、
力も湧いてくる。
沈んだ江戸をおれの画で建て直してやりたいんですよ」
東海道五十三次は、
幕臣でもあった広重が、幕府の御馬進献の使に加わって京都まで旅をし、
実際の風景を目の当たりにする機会を得た、との伝承が伝わるが、
実際には旅行をしていないのではないかとする説もある。
本書では幕府の一行に加わったことになっているが、
その旅行についての記述は全くないから、
著者も実際は行ってなかったと思っているのかもしれない。
そのことは、近江と京の絵を
他人の描いた絵をもとに描いてくれ、
なにしろ旅費も時間もないから、
という版元との争いに反映されている。
昔の教科書には「安藤広重」という名前で記されていたが、
何時の間にか「歌川広重」になっていた。
安藤は本姓・広重は号で、
両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、
広重自身もそう名乗ったことはないので、
そうなったらしい。
友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」↑
(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)
に辞世の歌が遺る。
「東路(あずまぢ)へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん」
(「死んだら西方浄土の名所を見てまわりたい」の意)
(後代の広重の作ではないかとの見解もある。)
題名の「広重ブルー」とは、
歌川広重が多用した、
透明感のある鮮やかな青を指す言葉。
木版画の性質から、油彩よりも鮮やかな色を示す。
この美しい青の正体は、
海外からやってきた人工の顔料。
日本には延享4(1747)年に初めて輸入されたと伝えられている。
「プルシアンブルー」とも呼ばれるこの青色絵具は、
発見された地名をとって「ベルリン藍」、
省略して「ベロ藍」と呼ばれるようになった。
北斎をはじめ、広重と同時代に活躍した多くの絵師たちが「ベロ藍」を使用した。
広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、
大胆な構図などとともに、
青色、特に藍色の美しさで評価が高い。
欧米では「ジャパンブルー」、「ヒロシゲブルー」とも呼ばれる。
↓は、ゴッホが広重を模写した作品。(右側)
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