まかろんのお茶会

日々の小さなことを詩モドキにしてます。
皆さまのお茶菓子代わりに楽しんでもらえたら嬉しいです。

「花と自分」 (# 76)

2011-10-03 22:03:33 | お茶菓詩 (読み切りサイズ♪)
お今晩は~。

10月ですっ。
10月ですよぉ~。
ハロウィーン月ですっ。

と言った先から何ですが、
10月初めの本日は、ハロウィーンとは全く関係ない内容から。

今これ書いてるのは2018年なんですが、
この茶菓詩作ったころは、
一本の桜の樹を見るにはどういう心持ちでいたらいいのか、
というようなことに興味がありました。

ほら、桜に限らずなんでもそうですが、ぱっと見たときは
わー綺麗だねー、と思うけど、数秒も見てればなんか惰性で見てる感じになる・・・

桜はこんなに綺麗なのに。
もったいないよー。

と思ってたんですね。

もっと純粋に桜を見ることできないのかな、無心に見られないのかな。
数秒で見た気になってる自分がなんか嫌・・・。

どうでもいい人にはどうでもいい話ですね。


まあ、興味ある方のためにちょっとだけ付け加えますと。

何かを「見る」には知識(と視点)が要る、ということかなと思います。

見る主体である、
あなたは何者なのか(何をしたい者なのか)、という立ち位置と
そこから積み上げた技術や知識があって初めて、
対象物のうち、「何を見るのか」が生まれるのでは、と思っています。

だって、どんなものでも含まれる情報は無限にあるから。

桜だって、花の色や形だけが着眼点じゃないでしょ?

草木染めにどれだけ適しているか、いや園芸用に移植に耐えられる植物なのか、虫や鳥の生態系にどう関わる木なのか、とか、いや木材としての特性は、いや細胞の・・遺伝子の特性は・・・

そんなん、ぜーんぶ、一人の人間が扱いきれることではないですよね。

だから人が桜を「見」たいなら、
まず人間として、自分が何者なのかを選ぶ必要があるし、
むしろ選んでいいのだと思うのです。


・・スピリチュアルではよく、「無」になれ、とか「自我」を消せ、なんて人々に教えます。
そうした話を聞いたことはおありでしょうか?

今でもきっとどこかのサイトや本や講演会でそうした考えが説かれ、
どうしたら無になれるのかと頭と心を悩ませている方もおいでかと思います。

自分はなんて「自我」に囚われたダメ人間なんだ、と。


でも・・・。

「無」になって「自我」を消して、それで?って思うのです。
それでアナタはナニするの?

何か、おかしくありませんか、その教え。

だって、貴方は生きているんですよ??

これは個人的な考えで、どこまで正しいか分からないけど。


「いのち」は絶対、何かを「したい」んです。


黙ってじっとしている「いのち」なんて在り得ない(植物だって活動してます)。

だからまかろんは・・スピリチュアルは、
貴方が「いきる」こと、
貴方の「いのち」がのびのびと本来の動きでいきること、
そのためにある、
と思っているのです。

「無になること」じゃなくて。


まあ、話が長くなってしまいましたが。
本日のお茶菓詩、どうぞご賞味下さい。


2011年10月3日 ブログ直接投稿 「花と自分」

花を見た

きれいだね と

見せる相手も

伝える相手もなく

誰もいない路上で

独りでぽつんと

だけど

誰かのためでなく

誰かの目を通してでもなく

自分のために

自分の目で

天と地の間に

花と自分

ただ揺るがぬ自由に包まれて

裸の心がしっかり立って

生まれたての手を伸ばし

ただある花を 見つめてた


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コメント (8)
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