「無明」について、その後も考えてみました。
無明の存在は、
十二支因縁の中において、
その意味が出てくるわけです。
多くの方々の説明においても、
その十二支因縁において説明されていますから。
ところが、
理論的な説明においては通じるかもしれない無明が、
?という疑問をもたらすのは私だけなのだろうか。
そう思ったものですから、
ちょっと考えてみたいと思ったのです。
これは密教の理論において、決定的な問題なんです。
「無明」は仏の智慧において消滅させることができると、
一般的には考えられます。
無明を無くすことによって、
生死の輪廻を断つことが可能となるというのです。
ですから、
この無明を断ち切るにはどうすれば良いかという
問題が出てきます。
ですから、
仏の智慧を得ることで、
解脱が可能だという理屈が生まれるのですね。
例えば、
天眼通、宿明通、漏尽通などの仏の智慧。
これを得ることによって無明がなくなって、
そして、解脱を得るのだという。
理論的にはそうなんです。
だから、
観自在菩薩が智慧の深まりにおいて、
全てを見極めたという。
金剛界の蓮華部において、
主催神である観自在菩薩が
その実相を見るという知恵を司っておられる。
そしてその知恵を得て悟られるわけです。
だから、
金剛界の仏を拝む、
拝んでその力を得ようとするのですね。
実相を見ることで、
悟りを得るという徳を持っておられるのが、
蓮華部の観自在菩薩様なんですね。
すると、
実相を見切って悟りを得ると、
そこで成仏するのか、解脱をするのかというと、
それはまた別の問題なんですよ。
つまり、
見切っただけでは解脱は出来ない。
今の不幸が、前世における原因にあるのを見たからと言って、
借金がなくなるわけではない。
借金取りは相変わらず追いかけてくるのです。
そこに、
十二支因縁の縁起瞑想法の致命傷がある?
のではないか。
そう感じるのです。
(つづく)