六枚目のコイン

つぶやき、趣味,占星術,

準提観音さまの功徳(Ⅴ)

2019年05月22日 14時24分19秒 | つぶやき
最近、拝み屋さんとか占い師さんの本を何冊か読みました。
感心したり、驚いたり、改めて認識したり・・・。


そこでは共通することがありました。
それは、
相談に来た人の問題が解決されるように「祈る」ことでした。
そして、親身になってその相談を乗り、相談を受けることでした。

もちろん、
問題にはそのトラブルの原因があるわけですから、
原因を運命鑑定によって調べて、問題点とかを教えてあげたりするわけですが。


だから、
昔から、共通のやり方があったんだろうと、
それらの方々の本を読んで理解したわけです。
密教で言うところの、
“上求菩提下化衆生”という修行ですよね。

考えてみると、
このことはどういう行者がやっても、どういう宗教が行っても、
同じことなんじゃないでしょうか。

信仰の方法は大きく言うと同じなんだと、
そう思います。
人を助けて、その功徳によって自分もまた救われるのだという。

そこで拝まれる仏様や神様は、いろいろ違います。
古来より霊験あらたかな仏様や神様に、一心に信仰するならば、
それぞれに功徳はあるようです。

そこで初めて、
改めて信仰する理由が分かるように思ったわけですね。

つまり、
人間の力を超えたものを、仏さまや神様の力で解決する。
それが基本的にいう、《信仰》というものであると感じました。

つまり、『ご利益』ですよね。
人はみななにかしらの御利益を得ようとする。
それが人間の力では得られないものであるほど、
神や仏の持つところの力を戴きたいと願うわけですよね。

戦国時代の武将などは、自分の命を懸ける戦いに、
神仏に、必勝祈願の助けを戴くように信心しましたよね。

だから、
困っている人、助けを求めている人、自分をさらに向上させたい人、
そういうような人以外は、
あまり信仰に関心を持たないように感じられますね。

私は信仰を必要とする人間であり、
また人間に信仰は必要不可欠だと考える者ですから、
いろんな信仰の形態があって良いと思うのですが、

仏教でいう『本尊』がどういう存在であるかということは、
とても大事だと考えます。
本尊の内容ですね。

本尊の持つ徳であり力です。
それが大事だと思います。
昔から拝まれている神や仏には、それなりに徳や力が備わっているから、
いろいろと信仰の対象になるんですが、

こと、
この準提観音さまだけは他の存在とは趣が違っているんです。
普通の神さまや仏さまは、
その備えているところの力を与えることができるわけです。

つまり、それがご利益ですが、
準提観音さまは、そういうご利益でも、
悪い星を消すご利益を備えていらっしゃるんですよ。

それはどういうことかというと、
人には良い徳とそれから良くない徳=不徳を持っています。

普通、良い徳を伸ばすことや、悪い徳を消すなんてことはできません。
本尊の持っている徳を与えたり、災難を除けたりすることで、
拝む人を助けるわけです。

ですが、
準提観音さまはそれだけでなく、
拝む人の持っている才能をさらに輝かせたり、
悪い徳を消したりする力を持っていらっしゃるわけです。
これを《因縁解脱力》といいます。



これは他の神や仏にはない力=徳なんです。
いくら人のうらやむような素晴らしい能力や才能があっても、
その人に悪い徳がひとつあれば、すべては帳消しになります。

帳消しになるだけじゃない、
逆にその良い能力や才能が、自分を苦しめる元になるんですよ。
ここが一番重要なんです。
悪い徳がひとつあるために、
自分の長所や能力が、逆に自分を苦しめてしまう原因となる。

これって大変でしょう?
そういうことは、世の中に山ほど見受けられますよ。
もう腐るほどあるわけです。

例えば、ずば抜けた能力を持ったために、
人から妬まれたり嫉妬されたり。
また、
何億というお金を宝くじで当てたがために、
人生を狂わせてしまったり。
本当にそんなことばかりではないですか。

多くの人は快いご利益をいただくことばかり考える。
そうでしょう?
良い就職先を見つけたいと、
縁故者を探して、愛想のよい態度を見せる。

いろんなことで、プラスになるように心の中で期待して、
笑顔を振りまくわけです。
それはまあ当然のことですね。

それは欲なんです。己の欲なんです。
そんなことしなくったって、
準提観音さまは自分の悪い部分を消すことで、
自ずと才能や能力を引き出せるようにしてくださる。

ここが他の神様や仏さまにはないお力なんです。
だから、稀有の仏さまなんですね、準提観音様は。
このことを分かれば、
ほしいほしいなんてことばかり考えないでも、
堂々と人生を生きていけるわけです。

多くの人は、欲しがるんです、むさぼるんです。
そればかりを求める。
そうではないんですね、
まず自分のマイナス部分の不徳を消すことが優先されるんです。

そうしないと、いくら得ても得た先から、
あなたの開いた笊のように、こぼしていく、失くしてしまう。

そういうことを知ることも、また信仰の長所ですよね。
正しい価値観とでも言えましょうか。
間違った価値観は、不幸な人生を生み出しますから。
本末顛倒という言葉があるでしょう。
元と末を間違うと、こりゃまずいわけです。

だから、
私たちは正しい智慧を身に着けるためにも、
正しい信仰を身に着けることが大事なんですね。

信仰なしに人は向上しないんです。
それを私は,自分の家庭から思い知らされました。
以上です。

上目線からか書きまくったと思いますが、
読んでいただいてありがとう!
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新時代の守護仏!

2019年05月16日 07時52分21秒 | 未来
color="orange">>div>準提尊はアクエリアス時代の守護仏です/font>。
 

何度も書いていますが、
アクエリアスという新しい時代に入って、
価値観とか、
すべてのものが新時代に相応しいものに取り換えられていきます。

どうしてか?というと、
一言で言うならば、
宇宙の波動が変化したからだということですね。


そして、
時代を決定する守護星にも、それが言えるわけです。
牡羊座の時代には、
火星が重要な役割を果たしました。

うお座の時代は、
木星と海王星がその役割を果たしました。

そして、
みずがめ座(宮)の時代は、
天王星と土星が守護星として祀られています。
それらの星が時代を形成してくわけです。

同時に、水がめ座(宮)は水がシンボルです。
水はいろいろな暗示を与えてくれます。

例えば、代表的には、水そのもの。
流れるもの、器の形に順って一定の形を持たず、自らの姿を変える。
また、水は清浄なるものを表します。
浄化です。
そして、カルマの汚れを洗い流します。

また、乾いた喉を潤します。
そして、
視床下部の智慧を暗示します。

それらのことから、
お釈迦様の悟りの智慧と、
カルマ(悪業)を洗い流す清浄力をも意味します。
それが《準提尊》という仏様なのですね。

ところで、
大乗仏教の一派である密教には、
金剛界曼荼羅の外延部に、千体の仏さまが祀られています。
その仏さまは、
『三千仏名経』に説くところの、
「過去荘厳刧一千仏」、「現在賢刧一千仏」、「未来星宿刧一千仏」
の合計三千仏を包含しているのです。

そして、「刧」というのは非常に長い時間を意味する言葉ですが、
現在賢刧というのは、今世紀という意味なんだと、
我が偉大なる師はおっしゃいます。
ですが、
それをもっと長いスパンでとらえると、
アクエリアスの時代の期間ととらえるのが適切であろうと、
私は考えます。

そして今こそ、智慧が必要な時代なのであると、
我が偉大なる師は言われます。
それこそが、
この智慧を代表とするみずがめ座(宮)=アクエリアスの時代だと。
金剛界曼荼羅に描かれている思想・原理は、
まさに、
これからのアクエリアスの時代をあらわしているのです。
いつかの時代ではないのですね。

それは今なのです!

そして、
その神仏の偉大なる智慧が、今こそ必要とされているときだと。
その知恵は人間の浅はかな智慧ではありません。
人を超えた智慧でなくてはなりません。

それを獲得することで、
この新しいアクエリアスの時代が、
輝かしくも飛躍できる時代になれるのだというのですね。

キリスト教の概念では、プレミアムという言葉があります。
「至福千年紀」と言われます。
危機的な状況を乗り越えることで、
人類は至福の千年間を迎えることができるのだという思想です。

それは大いなる福音でありますが、
同時に、
この人類の危機を乗り越えられなければ、
それは再び人類の滅亡を繰り返すことになるわけですね。
人類は何度も滅亡を繰り返してきた。
そのたびに、
原始的な生活を繰り返してきたのですね。

縄文人の典型的なスタイルは、
動物の皮をまとって、手に棍棒をもって動物を狩猟するイメージです。
それは、
人類が高度な文明を破壊的兵器で、対立する民族を滅亡させ、
同時に世界人類を滅亡に至らせた結果の姿なのですね。

その元にあるのは、人間の本来有る愚かさです。
人間が動物から進化する際に、持ってきたところの動物の心。
つまり、
むさぼりの心、瞋りの心、愚痴・自己愛に基づく愚かさという心。

それらは代表的な三つの煩悩と、仏教では言われています。
人を成り立たせているところの三つの煩悩を断ち、
悪いカルマを断ち、
私たち愚かな人間が、神の智慧、仏の智慧を持つに至った時、
初めて、私たちの未来は、
今の限界を超えて、
新たな展開をしていくことが可能となるでしょう。

それを為すのが、
覚醒への自覚を持った、
私たちの使命なのではないでしょうか。
その神仏の智慧を獲得する方法が、
わが偉大なる師の教えの中にあります。

それが仏になる方法=求聞持聡明法であり、
そこから飛躍するべく仏陀の智慧獲得法=釈迦の成仏法。

それが、
今、私たちの目の前に提示されている。
その方法を実践して、
私たち自らが賢刧の千仏一人一人になることが、
これからの時代を打開する方法であり、可能性となるわけです。


その具体的な形として、
私たち自らが、時代を切り開く戦士となることなのです。
それが時代のメッセージとして、

今人類に提示されているのではないでしょうか。



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ユタボンは10歳ユーチューバー!

2019年05月15日 10時12分47秒 | つぶやき
最近、小学校に行かない10歳の男の子のユーチューバーの話が話題になっていますね~。
その男の子の両親も分かりの良い人たちのようで、息子の理由を聞くとそうだなあと同意出来るので、無理に学校にいくようには強制しないと言うのです。
まことに、寛容な家族だと思いますね。
ですが、
これなんかは新しい時代の波動をもろに受けた生き方を示しているように感じられますね。
アクエリアスの時代の特徴は、
自主独立的、個性的、他人にむやみに同調しない、既成の枠からはみ出す、
平等、公平、博愛、先進技術、中性的、波動、水、予測不可能、無愛想、など。

思いつくままに挙げてみました。
彼は10歳にしてユーチューバーだそうです。
一人前にユーチューブで持論を展開しているんですよ。
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東洋と西洋の融合!

2019年05月15日 08時21分58秒 | 未来

ご無沙汰してます。
かなり前に載せようと思っていた『unity』=統一!

これは運命学を読んでいたとき、
ふと分かったことがこれなんですが、
私たちはもうすでに、
アクエリアスの時代を迎えています。

アクエリアスの時代は,統一の時代でもあるのだと言われています。
それは、ゲリーボーネル氏の本を読んでいた時、
人々の心が共鳴して、
一つになるのだという文章が書かれていた。

それぞれの孤独な心が、お互いに理解できて、
共鳴現象が起きるのだというのです。
これは、
まだアクエリアスの時代がやってきていない時期に、
私が読んだ内容なので、
どういう状態なのか、
早くそんな時代がくれば好いなあと、
少しわくわくしながら、期待していたのでした。

それがいよいよアクエリアスの時代にはいって、
「共鳴する」ことが具体的にどういう状態なのか、
それが、人々のコミュニケーション
(SNSやLINEやそのほかの通信手段を使った交流)
で分かったのですね。

それが、実際の共鳴現象だったのです。

これがゲリーの言っていた共鳴するということかと、
一応納得したのですが。
それがどうして共鳴をもたらすのか?
という疑問が、私の頭の隅に残っていたんですね。

それがこの間、ぱっと分かったわけです。
そうか!と。
つまり、陰陽の理論なんです。

易の方では、陽はーです。横一です。
そして、
陰は横二です。二は- -ですね。

つまり、アクエリアスは陽のーなんです。
前の時代のピッセスは横の- -になります。
ピッセス時代の前の牡羊は陽の一です。
十二星座=十二宮が陰陽理論で配置されているわけです。

そこに気が付いた。
なるほど、そういうことだったんだ。
そして、UNITY(統一)は、
さらに大きな周期での統一現象が起きます。
多分、
そちらの方のÚNITYを、
ゲリーさんは言っているように思うんですけどね。

しかし、
これは大きな発見でした。
運命学は宇宙の法則にのっとった学問だったわけです。
それがじかに使用されているのが、
陰陽理論だというわけです。

運命学の原理は分かるのですが、
それがどいうう根拠において成り立っているのか、
実際のところ、ほとんどの人は分かっていない。
分かっていないけど利用している。

分かっていないけど、使うとそのように使える。
面白いですね!

本題になりますが、
新しい時代のアクエリアスには、
統一現象の具体的なあらわれとして、
「西洋」と「東洋」の融合が行われる。

それが運命学の原理にのっとって始まるのだと言えるわけです。

それは具体的にどのような現象として出てくるのか?

それぞればらばらに有った真理が、一つにまとまる。
西洋と東洋で違っていた歴史観がひとつにまとまる。
男性と女性の価値観が同化する。
西洋と東洋とにおける差別が解消する。

そういうひとつになるものが下地に形成されて、
大きな統一現象が展開される。

ですが、もっというならば、
それらの西洋と東洋の違いは、
牡羊座の時代にはなかった区別・差別なんですね。

これが大事なんです。
西洋と東洋の違いは、ピッセス(うお座)の時代に作られた違いなんです。
これが大事!
運命学には西洋占星術とか、東洋占術とかの使い分けをします。
いかにも、ルーツが違うのだというような考えが元にあります。
ですが、本来は元は一つだったのです。
例えば、今言った『陰陽理論』、または『陰陽五行理論』。

これは東洋だけに存在していたのではなく、
本来が一つの文明であったはずの、
地球人類が広く共有していた知識だったのです。

前から、元は一つだったという考えが私の頭にありました。
九星気学にしても、これはユダヤにも有ったんだという思い。
ユダヤ占いにしても、九つの分類法があるわけですからね。

だから、
現在では見当たらないが、
これは古代においては広く世界に使われていた占い方法だという確信。

それを証明したのが、
水上薫さんの書いた『聖書と易学』ですね。
彼は聖書を易の理論にのっとって書かれたものだと、
その本の中で解説し明らかにされています。
イエスの出現と切キリスト教が、
歴史の必然として発生した宗教だということを正当化するために、
書かれたのだというのです。

驚天動地という言葉がありますが、
つまり、
びっくり仰天!

見事な解説です。
一度読まれることおすすめします。

そういうことで、
これからの時代は、
大きく私たちの常識とか価値観を変えていくのだということです。

だから、
私たちはいつまでも今までの既成概念にとらわれるのは無駄です。
無駄どころか、前に向いて進んでいくには、一番の害悪です。
私たちを生かしているのは、概念です、思想です、イメージです。
それをリセットすることが、
今一番大事なことなんですね。

生まれ変わりましょう!
新しい人生を生きてために。
再スタートしましょう!
次の時代を創造するために。
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不惑

2019年05月05日 19時59分35秒 | つぶやき
つい最近、

「不惑」という言葉が心に浮かびました。

ああ、俺も六十にして迷わなくなったなあ!

なんて、思ったのでした。



ところが、

「不惑」って、四十歳を意味する言葉だそうですね。

あれ?と拍子抜けしてしまいました。



なんだ、「不惑」って40歳を意味するのか?

俺は六十歳を過ぎて体験したんだぞ。

そう、少々憤慨気味に思ったものですが、

しかし、

さすが孔子ですね、

四十歳で迷わなくなったというのですから。



念のために、論語の文句を載せてみましょう。



“吾、(わたし)は15歳にして学問を志した。30歳にして独立した。

40歳にして迷わなくなった。50歳にして天命を知った。

60歳にして人の言葉に耳を傾けられるようになった。

70歳にして心のままにふるまっても道を踏み外すことがなくなった。”



だいたい、

そんな意味のことを孔子は弟子に向かって言ったと言われています。

私も孔子の言葉が味わえる年齢になったのかと、

人生を感慨深く感じれるように思ったのですが。



やはり、そこは孔子、私とはものが違う。

ですが、

独白している内容を見てみるとそうでもない。

15歳にして志すというのは、昔の人ならば半ば当たり前。

30歳にして独立するというのは、

今ならばIT企業などで社長業をしていてもおかしくない。



40歳にして不惑というのは、これは少し考えてもいいように思うんですね。

やはり、

自分の道を見つけることが一番大事なんでしょうね。

己の生きる道を見つけることが大事なんだなあと思います。

そして、

その方向性を見誤らないこと。

そうすると、

他の「天命を知る」、「耳に順ふ」とか「矩を超えず」とか、

その条件がクリアできるように思うのです。



ちなみに、

私は独立したのは18歳で決めた生き方があありました。

ですが、

それは心から決めた自分の人生ではなかった。

改めて、こうしたいと思ったのは30歳でした。

これは同じですねえ。



「天命」は24歳の時に認識しましたからね。

知ったというよりも、ふっと浮かんだというのが自然です。

また、

天命を知ったのは、

これも同じような感じで37歳のときでしょうか。

これを不惑と言えるのかどうか?

60歳にして耳に順うというのは、本当です。



私もやっと我を張らずに、

人の言葉に素直に傾けられるようになった、かな?

自分自身を客観的に見れるようになったかと思える。



一度自分を捨ててみる、あるいは滅多めったにやられてみる。

もう問答無用で、一方的にやられてしまう。

もう、自我をめちゃくちゃに否定されたことがありました。



そういう体験があって、

自分自身を謙虚に見ることができるようになったように思いますね。

そして、

一度自分自身の人生をあきらめるように、

放ってみたら、

自分を冷静に見れるようになったのかも?



そこから、

私は再度人生を考えて、

自分自身がなすべき果たすべきことを考え直したわけです。

そうすれば、

忘れていた「天命」=「使命」を思いだしたんです。

普通ならば、

これで終わってしまうところを、私は再出発できた。





60歳すぎて、普通のパターンならばもう隠居でしょうね。

それが、それで終われなかった。

なぜって、私は何にも成し遂げていなかったんだから。

何にも実現していなかった。



これでは、人生を終えることができないじゃないですか。

くそ、なんで俺はこんな人生を送らなきゃならないんだ。

もう自分の人生を嘆くよりほかないのですが、

そんな弱音を吐いたってしようがないんだから。





そこから、

遭いあがることにしたわけです。

晩年運とは、60歳を過ぎてからの運気だと思い知らされた。

うかつだった、これが晩年運だとは・・・。



そこで、「不惑」まさにそうですね。

人生の目標ができたわけです。

それまで、人間っていろいろと迷いますよね。

なるほど、

人間って俗人ですから、いろいろと煩悩のために迷うものですよ。

人生諦めきれないんでしょうね、欲に目がくらんで迷う。



これが一番いけないんです。

どこかでがけっぷちに立たされる体験が必要なんです。

そして、

いろいろと迷いに迷って、踏みだせない不断な面を断ち切ること。



これが大事だと思うんです。

これができないと、

どんどん時間は過ぎさっていく。

そして、臨終の間際に後悔が残っていく。



こうなると、

その人生は「後悔」の一文字になってしまうわけです。

どこかでけじめをつけないといけない。



つまり、人生をあきらめてひとつのことに目標を決める。

自己の甘い部分、もっといい目を見たいとか。

そんなことに目を向けない。

そのほかは求めないという一点に目標をつける。



そうすると、

「矩を超えない」という状態になれるのです。

欲がないから他のタブーに触れる必要がなくなるのです。



つまり、

一途に生きる!

こういうことだと思うのです。

それが私たちの人生を最高に、

そして、

ピュアに、充実して、後悔のない、最高の人生を送る秘訣ではないか。

そう思うのです。



孔子が言った「不惑」から、

こんなことを思ってみたりしました。



ありがとう!
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