六枚目のコイン

つぶやき、趣味,占星術,

昨年はお世話になりました!

2018年12月31日 22時33分34秒 | つぶやき
ひと足早いのですが、新年あけましておめでとう御座います。

そう言える年にしたいものですね(^-^) 頑張りましょう。
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生死の彼方に(二)

2018年12月30日 16時46分31秒 | つぶやき
息も絶え絶えに、やっとのことで賽の河原に着いたのはいいが、
そこにはもう大変な数の亡者がひしめいている。
中には、何ごとか叫んでいる者もいる。

老若男女、あらゆる年齢、あらゆる階層の人々であった。
衣服をまとっている者もいるし、半裸全裸の者もいる。
力尽きたようにそこに倒れ臥した者も無数にいる。

そういう者たちは、ただ透明な寒天状の肉体の輪郭が見えるだけだ。
骸骨も見えない。
大群集は声を限りになにか怒号し喚いている。
多くは口々に念仏をとなえ、
題目をとなえ、
あるいは読経、真言を唱えている。

群集の叫喚は天地に轟くほどのどよめきなのだが、
不思議なことにそれらの音響は、
虚空に吸い取られたように消え、
全く反響を起こさない。

この断層を、娑婆世界では、葬頭河、
または三途の川と呼んでいるが、
死者たちは地獄谷と呼んでいる。
死者たちはこの断層を飛び越えなければならないのである。

この断層を越えた対岸に、冥界がある。

『君は誰の輪廻転生か』(桐山靖雄氏著)より参考する

(途中です)
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生死の彼方に!(一)

2018年12月29日 13時20分45秒 | つぶやき
人はこの世に生まれて、やがて老いて、そして病に臥して死を迎える。
人はそれが人生だと思っている。
死を迎えたらそこでお終いだと考える。

ところが、死を迎えた後もまた人生が続くことを私たちは知らねばならない。
肉体を亡くしても、以前として自我意識を保って生きている。
そう、
確かに「生きている」その意識がある。

純粋な意識となって、
行くべき所へ行かねばならぬという思いを持つのだが、
如何せん、家を出たのはいいが、
そこは身もきるような冷たい風が吹きすさぶ通りに出るのだ。

「阿鼻野街道」と呼ばれる通り。
阿鼻叫喚と言うように、阿鼻と言うのは八大地獄の中の一番苦しい所、
つまり、無間地獄のことを言う。

そういう苦しい通りを歩きながら、目指す賽の河原を向かう。
賽の河原を越えた向こう側に、心からやすむことの出来る場所がある。
彼らは本能的に直感する。
そこが行くべき場所だと。

そこに行けば魂の安息が得られることを。

(続く)
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新しき時代の福音

2018年12月27日 18時49分01秒 | 未来
アクエリアスという新しき時代に、
私はあなたに福音を述べていきたいと思うんです。

混乱と変動の時代に、
私達は何某かの福音を求める気持ちが生まれている。
これからどうなるんだろうかという不安、
未来はあるのだろうかという絶望的な気持ち、
これ以上生きていたって、なんの楽しみがあるの?という
さまざまなネガティブ思考に走りがちな日々。

私だって、Facebookなんかで、みんなの送る写真を見てみても、
楽しそうな反面、
こんな写真を送って、心からよろこんでいるのだろうか?と、
皮肉な思いを持つことがある。

さりげない日常の場面を、写真に送って楽しんでいると考えるのは許せる。
率直に言おう、
そんなことやっていて、みんなは楽しいのかい?
そんな個人の生活を充実した人生だと思っているのかい?

世界は深刻な情報に満ち満ちているんじゃない?
そんなことやっていて良いと思うのかい?
そう考える自分がいる。

だから、そんな退屈な日常を超える、
もっと別な価値観に気が付きたいと思うだろう?
そうなんだよ、
あまりに見飽きたいつものニュース、
どれもこれも同じパターンのTV番組、
何を見ても、これは今までとは違うと感じられるものはない。
だから、何かを変えることが大事。
何かが変わることが大事。
あるいは、
あなた自身が感覚的に変わることが求められている。

それが今なのだ。
そして、
もうすぐやってくる。いや、それはすでにやってきている。
見ていても、見えていないだけ。
私達の心に認識されていないから。

私達はもうすぐ別な世界に移っていこうとしていつのだ。
今いる世界に留まっていても、見る感覚が変われば、
それはもう別の次元に移動しているのと同じなのだから。

かわろう!
自らの価値観を変えよう!
何かを変えることで、新しい明日が生まれるのではないか。
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一陽来復!

2018年12月26日 11時53分42秒 | 運命学+占星術
クリスマスのお祝いをする光景は相変わらずに見られました。
これはキリストの誕生を祝う行事と言われています。
12月25日に生まれたとされていますが、実際の生誕はどうも違うようです。

では、何故25日に祝うのかと言うと、
計算間違いから冬至の日を25日としてしまったことにあります。
これは前時代に行われていた冬至の行事を、
そのままキリスト教が受け継いだからです。

今年の冬至は12月21日でした。
時によっては、22日になることもありますけどね。
そもそも、冬至は“陰極まって陽に転ずる” と言うように、
その日を境に太陽の昇る時間がだんだんと早くなる。

太陽は生命の源ですから、とてもありがたく貴重な存在です。
だから、
一陽来復と言って、
古来から祝うべきものとして行事が行われてきたのです。

そこに、キリストを太陽に見立てて,キリストの生誕祭として重ね合わせて祝ってきた。
それがクリスマスということなんですね。
 
いつやったって、キリストの誕生日を祝うのはかまわないのですが、
学者の計算間違いが元で25日にクリスマスを行うとわかれば、
なんだ?ということになって、気分が下がりますね。

キリスト教は過ぎ去りし「ピッセス時代」のシンボルでありますから、
やがて過去の遺物扱いされた挙げ句、
新しい信仰に人々の目が移っていくのでありましょう。

嗚呼、良き時代だったなあなんて嘆息するのも、以外早かったりしてね。
アクエリアスの波動に翻弄されつつある私たちですね~! 
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