誰を師とするか?
これは非常に大切なことです。
師は師でも、落語の師匠ではないんですよね。
落語の師匠でさえ、
弟子となったら師匠のお家に住み込んで、
師匠のあらゆるお世話をして、
噺家としての芸を仕込んでいただくわけです。
ましてや、
魂を預けるような面での師匠となると、
これはいい加減なことでは選べませんよね。
私もこれまで、
立派な人だなあと思う人に出合って来ましたが、
知れば知るほど素晴らしいと思える人には、
なかなか出会えるものではありません。
結局、
凡人の域を越える人ではなかったように思います。
(ただ一人を除いてです。)
みんな自分の立場や損得から離れられない。
だから、
誰かのために親身になって動くということが難しくなるのでしょう。
数年前にミャンマーに行ったことがありますが、
台湾で仕事をしている知人が、
ミャンマーの人は台湾人よりも純粋だと言っていたのを思い出すんですよね。
自己と他者を分け隔てなく接するんでしょうね。
大きい器の人間は,
そういう枠を超えているのではないかと思います。
私は年齢を重ねた今、
そう思うのです。
そして、
偉大なる師匠というのは、
そんな小さな自己を超えた方になるのではないかと思います。
そして、
私はまれなことに、
そういう素晴らしい師匠に出逢いました。
そして、
私はその師匠の生き様をず〜っと見てきて、
同じように生きたいとしているんですよね。
ある時、
師匠はこう言われました。
「やらねばならないことに、損得勘定を容れてはいけない。」
「やらねばならないと思ったことに対しては、
自分の利益を考えてはいけない。」
なぜだろうかと考えました。
自分の損得を入れると、
やらねばならないことが行えなくなるからです。
そうでしょう、
こうすべきだということに対して、
でもこれやると損するなとか金がかかるとか、
そう考えると、
行動がとれなくなるからですよね。
おのれの立場とか地位とかを考えると、
それが出来なくなると考えると、
行動できなくなる、正しいことがやれなくなる。
だから、
正義を実践する場合には、
己を度外視することが大切なんですね。
犠牲の精神を抜きにして、良いことは行えないのです。
私はこの言葉を聞いて、
本当に師匠は偉いなあと感心しました。
そうやって、
これまでも行動されてきたのですから。
それが宗教であるならばなおさらでしょう。
本尊の問題がそうなんですね。
本尊をどれにするか、
これが一番重要でしょう。
本尊は輪が魂を預けるだけでなく、
自分自身の魂を磨いていただける存在です。
だから、
一番素晴らしい本尊を選ぶ必要があるのです。
誰でもいいわけじゃない、
その本尊のレベルによって、
自分自身の魂も決まる。
自分自身をどうするかは、
本尊の持つ力や徳しだいですよね。
でも、
本尊との縁は前世の関係によって決まるわけですから、
結局、
一番素晴らしい本尊と縁を結びたいと考えても、
そうはいかないんですねえ。
仕方ないか?
それでも、
一番素晴らしい本尊と縁を結びましょうというのは、
道理から言っても当選のことですよね。
一番素晴らしい御本尊に出会えることをお祈りします。
では、
今年も残り少なくなってきました。
良い新年を迎えていただきたいと思います。