(つづき)
では、
仏教は、人間の「なに」を、「どのように」改造するのであろうか?
『スッタ・ニパータ』では、人間をどのように改造しているのか?
改造されるべき素材としての人間を、
人間として成り立たせているものは、「業」だとしている。
世間は業によって存在し、人々は業によって存在する、という。
例えば、大天才に生まれついたことが、
彼を大天才にさせた最大の原因ではなくて、
最大の原因は「業」なのだという。
とすると、
人間の改造は、つまりは「業の改造」だというのだ。
業の改造こそ、人間の改造であり、
社会の改造なのだということになる。
では、
「業」とはなにか?
「業」とはカルマであり、果てしなく生死を繰り返してきたところの、
我々の行為である。
ところで、
「業」には三種類あるとされる。
一つには、思うこと(想念)、
二つには、言葉、
三には、行為(行動)である。
この三つが業なのだという。
これらの三つが果てしない前世の繰り返しの中で、
蓄積され、私たちの心の中にたくわえられている。
それが業である。
そして、
「業」には、善業と悪業、
そしてそのどちらでもない中立的な業の三つがある。
問題になるのは、「悪業」である。
密教では、この悪業を「悪因縁」として取り上げている。
そして、
悪因縁の消滅させることで、
業の内容を良い方に転換しようと考える。
かんたんに言えば、
凡夫の思考を仏の思考に変え、
凡夫の言葉を仏の言葉に変え、
凡夫の行為を仏の行為に変える、
という方法を取る。
それは理論であるが、
具体的にはどうすればよいのであろうか?
次に、
では、仏教の創始者であるブッダ釈迦は、
どう説かれているのだろうか?
人間存在の構造を変える仏陀の教法。
それを、「さとり」にいたる三十七の修行法。
と呼ぶ。
人間としての業と因縁をすべて解脱した究極の境地、
ニルバーナに入る唯一の方法として、
ブッダ釈迦は、この教法を説かれた。
(つづく)
(『人間の原理と改造』より引用)