私の霊的感性による、今のビジョンは、
神々の大海原というようなイメージが見えています。
それは、
約5年ほどの神々の系譜を調べているうち、
ふと気が付いたことでした。
あるチャクラ覚醒の本でしたが、
非常にかんたんな方法を説いていて、
それはヨガの行法を基にしたものでした。
そこで気が付いたのは、
仏教もまたヨガから出たものでしたね。
ヨガはインドにおいて、普遍的な広がりをもって
民間の宗教として定着しています。
一方、密教の作法を改めてみますと、
これまたヨガから出ていることが分かります。
で、ヨガは実は神界の法なんですね。
インドは神々の住む地であり、神界そのものなんです。
そこから、
人類の知性は、神々の世界より生まれたものであると言えるでしょう。
そうすると、
あらゆる文明もまた、
神々の世界から生まれたものであるといるでしょう。
改めて、
私たちは神界の人間であることを自覚しています。
私たちは神々の末裔!
その私たちが今、
成仏法に出会い、
その成仏法を体得すべき場にいる。
それは神々から見るとき、
大いなる期待と希望、
そして未来そのものです。
仏教の方で、“梵天勧請”というお話があります。
お釈迦様が菩提樹の下で長い瞑想の後、
深い悟りを得られた。
そして、ニルバーナを体得された。
お釈迦様は、その悟りの内容を、深く味わわれていたのですが、
あまりに難解なその悟りの内容に、
その法をどうやって人々に伝えるべきか、
悩まれていたのですね。
これはむずかしいので、
もう人々に説くのはダメかもしれない。
そう思っていたとき、
この世界の創造主である梵天が、
お釈迦様の下に舞い降りてきて、
お釈迦様に、その法を我々に説いて下さるよう懇願した。
これが《梵天勧請》というものです。
簡単に言うと、
そういうことなのですが、
この話は実に重要な意味を持っている話です。
その当時、
世界の創造主であるとされた梵天は、
いうならば、世界の王ですよ。
その世界の王が、
お釈迦様の下に直々に降臨して、
断ってのお願いであるとして、
「どうか私たちにもその悟りの内容を伝えていただきたい」
と、懇願された。
どんなにか神々も、その悟りを欲したことか。
その神々の代表である梵天の思いが伝わるようですね。
お釈迦様はその創造の最高峰から、
悟ると同時に、飛翔してしまわれたのです。
創造は行為です。カルマのそのものです。
しかし、
悟りは、カルマの消滅です。
業の消滅です。
そこに、大変な意味がある。
神々も自らが犯した悪業、
その悪業を消すことができない。
その自らが犯した悪業によって、
神々もまた滅び、
その報いを受けて苦しまなければならない。
どんなにかその法を神々は望んだことでしょうか。
神々も望んだ貴重な法を、
今、私たちは修めようとしている。
少なくとも、
修めるご縁と機会に恵まれている。
どんなに稀有なことであるだろうか。
私たちは当たり前のように、成仏法の利益を受けている。
法のありがたみを味わっている。
だが、
感謝する気持ちが少ないのは、
それほどに御法のありがたみをわかっていないからではないか?
どれほどに、神々がその法を望んだことの結果であるか。
今、私たちの間の前に提示されているのは、
神々が望んだことなのだ。
その結果、
私たちに成仏法が示されているのだ。
このことをどう考えますか?
動かないことは不徳です。
実践しないことは罪です。
過ぎた人生において、
後悔は取り戻せない。
悔やんでも、その涙はふき取ることはできない。
私たちが受け負っている荷物は、
下ろすことができない。
約束を果たすまで、
その荷物を下ろすことはできなのです。<font>
※
今世紀の人間性における臨界点?
神々の大海原というようなイメージが見えています。
それは、
約5年ほどの神々の系譜を調べているうち、
ふと気が付いたことでした。
あるチャクラ覚醒の本でしたが、
非常にかんたんな方法を説いていて、
それはヨガの行法を基にしたものでした。
そこで気が付いたのは、
仏教もまたヨガから出たものでしたね。
ヨガはインドにおいて、普遍的な広がりをもって
民間の宗教として定着しています。
一方、密教の作法を改めてみますと、
これまたヨガから出ていることが分かります。
で、ヨガは実は神界の法なんですね。
インドは神々の住む地であり、神界そのものなんです。
そこから、
人類の知性は、神々の世界より生まれたものであると言えるでしょう。
そうすると、
あらゆる文明もまた、
神々の世界から生まれたものであるといるでしょう。
改めて、
私たちは神界の人間であることを自覚しています。
私たちは神々の末裔!
その私たちが今、
成仏法に出会い、
その成仏法を体得すべき場にいる。
それは神々から見るとき、
大いなる期待と希望、
そして未来そのものです。
仏教の方で、“梵天勧請”というお話があります。
お釈迦様が菩提樹の下で長い瞑想の後、
深い悟りを得られた。
そして、ニルバーナを体得された。
お釈迦様は、その悟りの内容を、深く味わわれていたのですが、
あまりに難解なその悟りの内容に、
その法をどうやって人々に伝えるべきか、
悩まれていたのですね。
これはむずかしいので、
もう人々に説くのはダメかもしれない。
そう思っていたとき、
この世界の創造主である梵天が、
お釈迦様の下に舞い降りてきて、
お釈迦様に、その法を我々に説いて下さるよう懇願した。
これが《梵天勧請》というものです。
簡単に言うと、
そういうことなのですが、
この話は実に重要な意味を持っている話です。
その当時、
世界の創造主であるとされた梵天は、
いうならば、世界の王ですよ。
その世界の王が、
お釈迦様の下に直々に降臨して、
断ってのお願いであるとして、
「どうか私たちにもその悟りの内容を伝えていただきたい」
と、懇願された。
どんなにか神々も、その悟りを欲したことか。
その神々の代表である梵天の思いが伝わるようですね。
お釈迦様はその創造の最高峰から、
悟ると同時に、飛翔してしまわれたのです。
創造は行為です。カルマのそのものです。
しかし、
悟りは、カルマの消滅です。
業の消滅です。
そこに、大変な意味がある。
神々も自らが犯した悪業、
その悪業を消すことができない。
その自らが犯した悪業によって、
神々もまた滅び、
その報いを受けて苦しまなければならない。
どんなにかその法を神々は望んだことでしょうか。
神々も望んだ貴重な法を、
今、私たちは修めようとしている。
少なくとも、
修めるご縁と機会に恵まれている。
どんなに稀有なことであるだろうか。
私たちは当たり前のように、成仏法の利益を受けている。
法のありがたみを味わっている。
だが、
感謝する気持ちが少ないのは、
それほどに御法のありがたみをわかっていないからではないか?
どれほどに、神々がその法を望んだことの結果であるか。
今、私たちの間の前に提示されているのは、
神々が望んだことなのだ。
その結果、
私たちに成仏法が示されているのだ。
このことをどう考えますか?
動かないことは不徳です。
実践しないことは罪です。
過ぎた人生において、
後悔は取り戻せない。
悔やんでも、その涙はふき取ることはできない。
私たちが受け負っている荷物は、
下ろすことができない。
約束を果たすまで、
その荷物を下ろすことはできなのです。<font>
※
今世紀の人間性における臨界点?
そんな感覚を今、私は感じています。
私たちがこれまで歩んできて、そして築き上げて来た人間の知性。
そういうものに対する限界レベル。
私たちがこれまで歩んできて、そして築き上げて来た人間の知性。
そういうものに対する限界レベル。
上手く言えないのですが、
此処を超えないといけないんだという感覚。
あらゆる宗教が到達した時点で、みんなこのレベルに到達して行き詰まった状態。
しかしながら、
ここまで来ているという実感。
しかしながら、
ここまで来ているという実感。
そして、このレベルを超えることが、
私たち人類の課題なんだという実感と確信。
それを胸に、
私たちは前進しなといけない。
私たち人類の課題なんだという実感と確信。
それを胸に、
私たちは前進しなといけない。