午前中 曇っていたのに
お昼頃には お日様も出たよ
先週 岐阜のおばちゃん(酵素風呂のおばちゃん)から届いた
本屋さんでは 売っていないと言い
送ってくれました
懐かしい 飛騨の味
ハルメクの中の記事に
中村久子さんの生涯を
小さい頃から知っていて 最期もおそばで看病させて頂いた おばちゃんがお話しし
ハルメクの編集部の方がまとめて下さったもの
特発性脱疽になり 翌年 両手足を相次いで切断
お父さんを亡くし
両目を失明 幸いにも1年後に光を取り戻したそうです
その後 お母さんは厳しくしつけを
まずは 仕立て替えをする着物をほどくこと
「出来ません」と音を上げると
「出来ないと言ってやめてしまったら 人間何も出来ません
やらねばとならんという一心になったら やれるものです
出来ないのは 横着だからです」と言われ
冷たい母を恨んだことも
その後 見世物小屋に入り転々とし
結婚をし 子供さんも生まれましたが
ご主人も亡くし 再婚へ
そして もう一人子供さんを
このご主人も亡くし 3度目の結婚
子供を出産 翌年はしかで亡くしています
口に針をくわえて縫物をしている姿
縫い目も揃っているでしょう
食事姿と作っている様子
編み物をしている姿と字を書いている姿
編み物の作品
残り糸も無駄にしないで 自分で編んだ巾着にきちんと
綺麗にそろえてしまってある 裁縫道具
久子さんが書いた字
ヘレン・ケラーさんに差し上げた
自分で作ったお人形
ヘレン・ケラーさんは 久子さんを抱きしめて
「私より不幸な人 そして偉大な人」と熱い涙を流したそうです
苦しみながら もがきながらの人生
親鸞の教えを記した 歎異抄を心の拠り所にし
岐阜県 高山市 国分寺に
子を思う母の心を託した悲母観音像を建立
37歳の時 4番目のご主人 中村敏夫さんと結婚
最後のページに この写真があました
とても辛い人生 この1枚の写真が
久子さんもだったのでしょうが
ワタシの心を ホッとさせてくれました
おばちゃんは 自分だけしかもう伝えられないので
中村久子さんのことを
なんとか 伝えて行きたいと言っていました
(以前 お借りて読んだ本)
何不自由ない 五体満足なワタシ
出来ない! と言っていては いけないのですね
新しい春 活動しないとね
不自由な身体にもかかわらず、4回もの結婚が出来るのは、
生き方も含めて、きっと魅力的な女性だったのでしょうね。
左手足が不自由なだけでも鬱になりそうになる私は、
見習わないといけないですね。
素晴らしいお話し、もっと多くの人に知って欲しいですね。
けど、ここまで完璧になさる方だったとは、
感動です。そして私ももっとできるはず、文句なんか言えないはず^^;
苦しみながら もがきながらの人生>
熟読しませんのですが・・現代のサイクルのなかで
不自由な母体の苦しさ等々よく理解できない
物語・・まして結婚も数回の別れ・・どん底な人生
今のわれわれには想像もできません。
むかしの方の辛抱強くつらぬいて生きる
すばらしいストーリーですね。
まりもさま・・佳作の書物を手にされて
今の幸せを一層感じられておられますね‼
今度見てみますね
私は高山市の別院で(たしか)
展示されている中村久子さんの色々を拝見しました
立派なお母さんだったのですね
針目も編んだ目も立派なものですね
おばちゃん長生きなさって伝えてほしいですね
あげづけも中華そばも大好きです
すごい人ですね。
今のように障害者支援が充実していたわけではありません。。
そんな時代にたくましく強く生きた女性に感動します。
改めて感動です。
不自由な身体になっても 自分をしっかり見つめて生きていたのでしょうね
人は 少し病気をしたり 怪我をしたら 落ち込んだりしますものね
こんな風に強く生きられると 良いですね
そして もっと知ってもらい 皆強く生きていけると良いでね
こんなに 完璧に何もかもやられて
ワタシには とても出来そうも有りません
お母さんも 一人になった時に困ると 心を鬼にして育てたのでしょうね
この様な壮絶な人生 ワタシには背負いきれなく
泣いて 恨んで過ごすと思います
五体満足なワタシ なんてもこなせる久子さんに
1歩でも 近づけるようにしたいですね
病気から 手と足を失っても 何でも出来る久子さん
おばちゃんには これからも 多く方に知って欲しいので 活躍してほしいです
飛騨の味 美味しかったですよ~
そうですね
まだまだとは言え 今は色々な支援が有りますものね
でも 久子さんは 金銭的な支援を始め
お世話にはならなかったと おばちゃんから聞いていますよ
自分より 困っている方の事を考えての事
寄付して頂いたお金で 悲母観音像を建立したそうです
そんな 凛とした強い生き方をしたいですね