豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

注目すべき老師との出会い

2014-10-04 15:27:26 | 小旅行
こんにちは。

久しぶりにブログの更新をします。

前回、9月24日に書いてからほうって置かれました、笑


この間に僕はいろいろと悩んだわけです。

何に悩んだかというと、体験を捕まえに行こうという行為です。

完璧な悟りの体験は、刻々とある、この生きることに、それだけであることです。

しかし僕は、その、端緒を掴んで、それを認識した瞬間のことを握り締めたのです。


そのあとで嫁様と喧嘩したり、まあ、様々なネット情報、本のぱらぱら読み、などをしておったわけですが、どうにも、近くにして、その、近くに行けないという苦しみが、ずっと続いていました。

今思えば、これは滅すべき自我を探している状態でしょう。

自我はないはずなのに、と頭では理解している状態でウロウロしていたのです。


ですから、いろんなお話を聞いたり、読んだりしても、その内容は、よく分かるのに、どうもシックリこないという状態です。

ここで僕は、またしても、いろいろと考え、悩み、やろうとする、苦笑

これは分かる自分が消失しないといけないのか。

無我に到達していないからではないのか。

修行を真剣にやったわけではないからではないのか。

実は大空との一体感が最終地点だったのではないか。

等々、そのほかにも、今までの知識がバーンとすべて起こってきます。


しかし、そういった諸々の活動が、自己の自然発生的な思考であるということも、同時に分かるので、何か、この認識が苦しめるわけです。

しっかりと、この自我は自然発生的に起こる、という認識、思いを掴んでいるw


ある高名な禅の老師が語っている動画を、仏教関連の動画を見まくっているときに、見つけた。

この方の話が、ほとんど、すべて腑に落ちる。

この人は、間違いなく、悟っている!


と、思ったが、会いたいという気持ちと、日常の生活との間でゆらゆらと揺れている。

悟っている人というのは、そうそう稀に現れるわけではない。

世間では、現代で悟っているとされる人の書籍が、たくさんあるわけであるが、その中でも、ほんとうに気がついた人は、少ないのです。

稀に、そういう人が、いたとして、残念ながら他界されていることが多い。

そういう、現に、ここで悟りの体現を、生で伝える人に会えるチャンスは、そうそうあるものではないだろう。

奇蹟だと言っても、いいくらいである。


10日金曜日には、仕事の後、Yくんと天の庭へ行く。

用事があるので、話しながらドライブしないかと誘われたので付いて行く。

鹿の剥製を見せてもらい、猪肉をいただいた。

会話しながらも概念としては分かる、この差別の無い世界のことが頭をよぎる。

どうしても、そこから見てしまうのである。

生のリアルの見るのではなく、その概念を通した世界、人々と、出会うのである。

しかし、この概念自体については、誤りが無いという核心もある。


11日土曜日にも状況は同じであった。

まあ9月の24日ごろの体験というか、気づきがあってから、ずっとそうだったわけだが、だんだんと煮詰まってくる。

やはり、あの禅の老師に会いに行こう。

丁度、13日にイベントがあるので、そこで法話をされるということだった。

台風がくるので、開催されるのか危ぶんで、イベントの開催されるカフェへ電話をした。

また明日の状況を見て、聞いてみるので、電話してくださいとのことでした。


まあ明日まで待つかと思い、法話の動画を見ていると、どうも確信が揺らがない。

これは間違いなく、ほんとうに、素晴らしいことだ。

人生で初めて、自らが意図して、そういう人に会えるチャンスなのだ。

まるで昔に、グルジェフさんの発言に始めて触れたときのような、新鮮な感動が沸々と沸き起こってくる。

同時に、この覚めた自己、客観視する自己が、無我の苦しみを自己に投げる。


であるからして、衝動的に旅に出ることにした。

差別が無いことに気がついたこと、嫁様が大喧嘩で悠聖を連れて出て行ったこと、禅の老師の動画を悩みの中で見たこと等々が機縁となって、若い頃のような日常からの旅にでかけたのだが、このようなことは、僕自身の最近の生活にはなかったと断言できます。


<つづく>