豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

認識よりも速き感応ーこころー

2014-10-13 23:22:08 | 日記
注意の働きは認識よりも速いです。

ですから、認識が起こる前に、もう、それは触れ合っている。

この5感と意識(心)の働きは仏心の中にあるのです。

この仏心、または神というのは概念化されないが、心の触れ合いの中にある。

これあって、これあり。

つまり縁起の世界ですね。

この縁起の世界は、自分だけでなりたっているものはひとつもありません。

また自分が欠けてしまうことでも成り立たなくなるのです。

しかし、ここに『思い』『煩悩』が沸き起こってくることで、あーでもない、こーでもないという苦しみがある。

本来は、誰一人として、完璧でない人はいないのです。

ただ、この、目の前の触れ合いの中に自己を投入しているかどうかだけです。

このことをマハルシは明け渡しと呼んだのです。

沈黙というのは、悩みが無いということです。

心の虚空の中に、対象があり、この対象がまた自己を生み、この諸行無常の変転の中で、瞬間の感応を生じていく。

その凄まじいスピードの中で、何もかもが、行われている。


それは、自分が何かする前に、もう、起こっているのです。

なので、その機能のままにしていることで、心がクリアになり、そのクリアになった心の触れ合い、鏡に映った自分自身が、その目の前の現実であるわけです。

だから対象と自己は同一である。

つまり不二であるということですね。


生じてくる出来事が、すべて自己に還るというのは、そこにあるものは、元々、自己の活動であるからです。

自己の心がハッキリとすれば、そこに、世界も有る。

そして他者と自己には、特別に、何の差異もないということがわかる。

差異を生むのは「思い」が沸き起こってくるからですね。

その沸き起こってきた思いを静かにさせておくことができれば、気がつくということですが、つまりそれは、何もしないということなのです。


何もしないのが、それで、何もかもが行われている。

そうして、その、心の接合点に、触れ合いの中に、投入された自己は、仏です。

つまり仏道とは自己なり。

この仏の心と自己の心とは不可分なのです。


ですから、心が、触れ合う一期一会だけがあって、それだけなのです。

何の問題もないのですが、そこに問題を作ったのが自我です。

この自我というのは「こうでなくてはならない」という思いのことです。

実際はすべてが、問題なく、あるということでしょう。


ですから仏心の復活こそが、様々な問題を解決する手段になりえます。

それは、この対象と自己は不可分のひとつであるという理解なのです。

注目すべき老師との出会い④

2014-10-13 12:47:51 | 小旅行
車へと戻る道で祭り神輿を担ぐ大人と子供、僧侶の方々。

笑顔で清めの塩をまく。

おそらく家族なのだろう、楽しそうに会話をして手を振る。

日常の一シーン。


車へと戻ってどうしようか考えた。

カフェに前日電話をしているので、翌日の法話があるか確認しよう。

母親が心配しているので家へ帰らなければならないが、この、時間は、自分の時間としてやらなければならないことがあるのだ。

またナビで、カフェへと向かいます。

丁度おなかも減っていたので食事をしようと思っていましたが、ケーキのカフェでした。

焼チーズケーキとホットコーヒーを注文する。

しばらく落ち着いてから「昨日電話したものですけど、明日の予定はどうですかね?」と聞いてみる。

「あ、今日こられたんですか?」

「ええ、今日は、あの、朝の座禅会に参加してきました」

「そうなんですね、明日はあると思いますが、一応、聞いて見ますね」

と言ってくれました。


老師の語録が本棚に置かれていたので、読んでみる。

どうも、老師のお父さんも有名な方らしく、その新聞記事か何かの切り抜きがファイリングされていた。

パラパラと眺めているとカフェの方が「これ、もらいました」と老師の言葉が書かれた小さなパンフレットのようなものを見せてくれた。

「いや、ないです」

「じゃあ、あげます」

「ありがとうございます」

と、いうことで、それを読みながら時間をすごす。


しばらくすると老師に聞いてくれたようで、今から会って来たらどうですかと言われました。

「え!? それは、ちょっと一体一は勇気が・・・・・・汗」

「そんな怖い人ではありませんから、大丈夫ですよ」ニコッと優しい。

「あ、じゃあ、行ってみます」

「そうしたら、明日も来てもらっても大丈夫ですし、台風が不安でしたら、帰ることもできますね」という、なんという親切心!

これぞ仏の心ではないのだろうか。


ということで、予想外の展開で、その日に会うことになりました。


またもやナビで設定して向かいます。

お寺へ着いて、お邪魔すると奥様が出て見えていたので「あの、老師が会ってくれると聞いたのですが・・・・・・」と超テンパッタ状態で、話します。

「ああ、そうですか」と言って「老師」と中へ入られます。

「どうぞ」と呼ばれたので、恐る恐る中へと入らせていただきます。

縁側にテーブルと椅子が2脚置かれており、そこに案内されました。

奥様がお茶を出してくれます。


「あの、悟りについてですが」と本題を切り出しました。

そのあとで2時間半くらいの会話で様々に教えてくださり、帰りには、DVDも貸してもらえるという恐れ多い、というか、めちゃめちゃ優しい人でした。

しかも車まで見送りに来てくださって「お気をつけて!」と言ってもらいました。

なんという親切心!

しかも突然、なんの約束も無く、ただカフェに現れた、この僕に、この心遣いと、しかも、僕の人生での最難関の疑問であった、真理についても諭してくれるという。

正に老師!

あまりの感動に、我を忘れてしまいましたw


要するにスッキリとして、問題が無く、特にやるべきこともなくなるという、ただ、この生かされている自己であるしか、元々ないのだという、そのところです。


僕が聞いた主なことは、

無我とは何か。

死の恐怖とは如何に克服すべきか。

この2点が個人的には主な疑問でしたが、もちろん会話の流れの中で、この問題を切り抜けていくことが、目的でした。

様々な話しをしていたので、正確な記憶はできていませんが、その話をしている時に、普通に話している、その話しているだけのときがあります。

あれ?

いま話しているだけですよね?

老師「そうだ」

僕「理解しようという働きがなければ、そこですよね」

老師「そうそう」

僕「てことは、何も問題はないということですか」

老師「そうそう、悟りだ、なんだって、全部、考え方の世界じゃない」


そういう認識が働く前に、もう、あるじゃない。

生まれてからずっと。


縁によってあるんですね?


そうそう、お釈迦様が言ったことは縁によってあるってそれだけじゃない。

縁起って言うけど、そこがね。


ということは認識がこけたらそこだけってことですね。


そうそう。

思いも、ただ起こっているんじゃない。


え? 思いもですか?


そうそう、それを自分の思いだと思ってる。

自分の思いだと思うから、良いとか悪いとか判断してるんじゃない。

ただそれだけのことじゃない。


じゃあ、この外の世界に証されるというだけではないのですか。


思いは難しいからね。

とりあえず、5感のことを言うわけで、最初はね。


思う前に思いがあるんじゃない。

それに対して、いいとかわるいとかやってるわけでしょう。


はい。


ということは、何もしないこと?


そうそう、この機能は機能のままにあるんだから、それに手を加えない。


なるほど!

腑に落ちましたw


めっちゃすっきり爽快です。


悟るも何も最初から悟ってる。

それが僕の最終回答です。

ああ、すっかり、その、解けましたw



<おわり>

注目すべき老師との出会い③

2014-10-13 11:53:16 | 小旅行
禅道場を出て仏像の間に戻ると、皆さん、拝佛をされてお経の本を手にされます。

そのあとで整列をして、読経。

僕は家が天台真盛宗なので、作法が、かなり違います。

周囲の人の真似をしながら、やっていく。

心が真摯な状態へと導かれていきます。

あ、般若心経の読経はあったので、これは同じだなあと思いました。


みなさん真剣で清々しいお姿に見えて神々しいです。


読経を終えると、お茶とお菓子をいただきながらのお話です。

何気ない会話の中にある、朗らかさ。

心が迷いの中にあらず、スッキリとしている様子がわかります。

僕も少し話しましたが、聞いているだけで、楽しめる。

ある年配の方は言いました。

「僕もね昔は悟りたいと思ってたよ」

自然に口をつく会話の流れの中の、その空気感がとても感じられる。

住職さんらしき方が「だんだん聞くことがなくなってくるんだよね」と言われました。

これという概念ではなく、そこにある、そのもの自体の流れが、ある。

あとで聞いた話では、この方は、老師の息子さんのようです。


石でもなんでもね。

人間の心が触れたら、意識があるとも言えるんだよね。

花でも、自動ドアでも、生きていても生きていなくても。

心が触れたら、そこに命が、触れ合いの中にあるんだよね。

可愛がってあげることだよ。

可愛がってあげることの中に、生命があるんですよ。


全体的に、そのようなお話しでした。

ある男性が「今日の話は深いねえ」と笑っていた。

このところ遠方からの参加者の方がくるようで、その人たちがお茶の時間の話は「雑談ばかりでつまらない」と言われるそうです。

確かに、普通の日常に有る会話ですが、その中にある、普遍的な触れ合い。

円と円で繋がった、この、人と人があって話しをする。

ただ一緒にいるだけで、ふと、会話を交わすだけで、内容は問題にされないのである。

思考の世界に入ると「それがどうした?」となってしまうだけで、本来は、どうしたも何も無く、ただ触れ合って生きている瞬間の楽しみなのだ。

そこしかない。


お茶の話が終わると散会となり、僕も部屋を出ました。

仏像の写真や、道元さんと如浄さんの出会いの像を撮る。

お寺の門を出ると地蔵さんが6体。

にこやかに

なごやかに

さわやかに

ゆるやかに

すこやかに

やすらかに

と、足元に刻まれている。

写真を撮って、嫁様に送信する、笑


お寺をあとにするとナビで銭湯を検索して入りに行きます。

千鶴さんに電話をして、衝動的な旅の全層を語るw

彼女は、基本的に優しいので、まあ、受け入れてくれることが多い。

そのあたりで負担をかけているのだろう。


お風呂に入ってコンビニで食事を買います。

車の中で、どうしようか考えてから、方向寺へと行くことにしました。

そこは17年前に、このような問題を考える契機となった場所ですし、この現在の、状況では丁度、行くのに良かったのです。


30分ほどで到着すると、お祭りがやっていました。

たまたま来たのが、お祭りの日というのも、いいなあと思います。

そのまま歩く。

500羅漢像というのがあって、山の中に、地蔵さんが無数にあります。

なんとなく神秘的なイメージ。

お寺へ着いて拝観料400円で中へ入ってみる。

達磨さんの像や、様々文化財の展示をしていました。

お釈迦様の像を間近に見られる特別拝観がされていて、近くからボーっと眺めていました。

歩く。

無言で歩いていると花火がドーンと鳴りました。

ドーンとなる、その音が、なにか祝福してくれているように感じてしまう。


スリランカから委譲された仏舎利が収められているようで、拝みます。

高きところから山を眺める。

朝から座禅等をしたからか、心が静まって、なにやら清々しい。

お祭りのために、お坊さんや、学生さんや、雅楽をされる方々など、たくさんの方がお寺に見えているようでした。

一通り、歩いて還る。

昔、セミナーを受けた研修センターがどうなっているかを見てみようと思い、階段を上ると、そこは!

更地だった!!!!

なんと、無くなっているのだ。

ああ、ここだったかな??

と思ったが、石垣だけが残っていて、それは、その昔、そこで瞑想した石垣ではないか。

石垣だけが残っていて、消失しているとは!


これを見たときの、もう、これで、恐らく、僕は、この疑念からほんとうに解放されるのではないかと思いました。

何かの縁の流れを感じてしまうのです。


黙々と考えながら山を降りて車へ向かいます。



<つづく>

注目すべき老師との出会い②

2014-10-13 10:51:30 | 小旅行
衝動的に家を飛び出すと、コンビニでお茶を買い、Yくんへ電話する。

時間があいていたら一緒に行こうと思ったのですが、大変忙しい状況です。

神事に関する仕事の準備で、いろいろとやることがある様子でした。

ガソリンを入れて、ナビで禅寺付近へ出発します。


10月12日、日曜日の朝に座禅会があるという情報を見たので、それに参加しようと思ったのです。


ドライブしていく間は、様々な、過去の出来事を追いながら、いい気分です。

ひとりだと寂しくなるかなと思っていましたが、案外、そういうこともない。

逆に構われなくなること、日常からの脱出感があって、楽しい、楽しい。


2時間半ほど走って、目的地周辺の市街地で食事を楽しんでから、深夜に寝ます。

車中泊ですね。

5時半ごろにおきてきて、お寺を目指しますが、ナビの設定を間違えて少し迷う。


お寺が見えてきて車を止めるが、朝早すぎて、ほんとうに座禅会が開催されるのかなとか、いきなり連絡もなしで行っていいものなのかとか、もしかして一般の人ではなく、その宗派の人しか参加できないのではないかとか、とにかくドキドキしてしまう。

一応、ここであっているのかを車を降りて見てくることにした。

入り口を見ると○○寺とあり、間違いない。

その横に『仏道とは自己なり』と刻まれている!

うわっ、きた、コレ。

かっこいいじゃないかああああああああと痺れてしまう(笑い)

しかし、入り口は工事中のように止めてある。

うーん、やっぱり開いてないのだろうか??


一度車に戻って、コンビニへ行き、トイレを済ませてコーヒーを買う。

座禅中にトイレに行きたくなったら不味いという恐怖心があったのであります。

とにかく、この時点で、半端ない緊張状態にありました、笑


お寺へ戻って恐る恐る、中へと歩いていく。

うーむ、不審者だと思われたらどうしよう・・・・・・。

一般人は参加不能だったり、連絡もなしはさすがに不味いよなあ。

と、横見ると、車が2台連れ立って走ってくる。

あ、これは、禅会に参加する人たちではないだろうか。

よく目の前を見ると、大きな駐車場があるではないですか。


どうも僕はお寺の裏に止めてしまったようで、入り口は別にあったのでした。

禅堂らしきところから、女性が歩いて見えたので「おはようございます」

「あの、座禅会に参加したいんですが・・・・・・」

この時点で凄まじく、挙動不審な僕(苦笑)

MAX緊張じょうたい突入中であります!

「あ、こちらですよ」と門の向こうを指してくれる。

「あの……一般でも大丈夫ですか??」

「大丈夫ですよ」と向こうへ歩いていかれます。


おお良かった!

お寺の禅堂の入り口に立って中を覗き込む僕。

誰も居ないのかな?

ガラガラと扉を開けて中へ入ると、仏像の間です。

右横の部屋の端のほうで、寝転んでリラックスしている男性の方が居る。

これは、もしかして、そんなに気を使わなくてもいいのかと思い、賽銭箱の横で胡坐をかいて座っていた。


すると!

あとから見える方々が、みなさん、礼儀正しく拝仏をして浄銭をする。

しまったと思ったが、まあ、あとからしましたw

次々と人が見えて、初めての女性2人も来て見えるようでした。

僕はなにをしたらいいのか分からず、ぼけっと座っている。

みなさん、歩いて奥のほうへ行っているが、トイレだろうかと思っていると、親切な男性の方が「はじめてですか?」と声をかけてくれた。

「あ、はい」

「僕が説明するので着いてきてください」

「ありがとうございます」

おお、救われたと思いましたw

で、拳とパーを胸の前で合わせてくださいと言われたので、そのようにして歩きます。

階段の前で「ここからは、しゃべれませんので」

「あ、はい」

これは、本格的な雰囲気になってきたなと思っている僕。


階段を下りて、禅道場が目に入ってくる。

うわっ、めっちゃ本格的な道場があるんだと思って、緊張します。

あの面壁して座る、よく映像でしか見たことがない、座禅場です。


前の男性の所作を真似して礼を尽くして、座る場所へと昇る。

座布団を2枚重ね合わせた上に、丸い枕のようなフワフワしたものがある。

その上に座るので、家で座布団を2つ折りにしてやっていたときよりも楽である。

楽というか、気持ちいいくらいだ。

「左足を右足に乗せて、左手を右手に乗せて、あと薄目で」と男性が教えてくれます。

家でやっているときは、目を瞑っていましたが、教えられたとおりに座ります。


朝の風と鳥の声が気持ちいい。

いつもは感覚に還るという循環リラックス法をしていましたが、ここでは、なにも考えずに、ボケーっと座っていました。

静けさが凄まじい。

静けさに触れるというのは、このことかという深まった静けさ。

何の人間の動きも無い。

自然、そのままの静けさが、心地いい。

心地いい。

その気持ちよさに触れながら、ボケーっとしていたら、鐘の音が鳴る。

ああ、ここに触れる。

この、ここに鐘の音が触れるのである。

静けさと鐘の音が触れあるこの己の、そこのそれ。


ふっと振り返ると、人数が凄く増えていて、こんなにたくさんの人がいて、あの静けさかと驚嘆する。


例によって、前の人(今度は女性だった)の真似をしながら道場を出ました。



<つづく>