豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

発熱

2014-12-08 17:33:36 | 読者に人気の記事
こんばんは!

子供が発熱して、大騒ぎしています。

昨日、買い物に連れていったからか、夜に布団かぶらずに寝ていたからか、どっちもが原因でしょう。

ぐずぐず泣き止まないので気になって体温計ったら39℃もある。

小児科予約して、近所の薬局で解熱剤など買ってきました。

いまは母親と一緒に寝ているので、しばらく注意して看病してあげないとです。

ああ、昨日、接客の記事を書いたけどチェーン店だからは関係ないですね。

あのあと買い物にでて思いましたが、要は、忙しすぎるお店は接客に手が回らないのと、人柄というか、仕事は仕事できちんと接客する気持ちがある人は違うんだろうなあと思います。

意外に世の中、親切な人が多いんだなあと感じます。

そうでない人が目立つだけなんですかね?

ゆったりした時間と、余裕があれば、だいたい、みんな親切なんだろうけど、忙しすぎたり、疲れているとなかなか、そうはいかないんだろうなあ。

でも、いろんな人がいるので、思い込みが強いときは難しいだろう。

こうあるべしとか、こうであってほしいとか、また、これは我が物であるとか、そういった思いは自然に沸いてきて、それは矯正する必要はない。

その沸いてくる思いを掴むことをやめて、ああ、いまはこう思えてるんだなあというんで、次には、そのことを持ち込まない。

自己が特別ではなくて、誰しもが、だいたいは同じようにできていて、そこで流すのがうまい人と、どうしても捕まってしまう人がいるんだろう。

ああ、だめだ、これがいいのだと、いい悪いと言い出すのが次の手で、それはもう過ぎている。

これもまた過ぎ去ると誰かが言いましたが、過ぎ去るのではなく、認識はもう、過ぎ去ったことでしかないんですね。

生きている瞬間は認識では追い付かない速度で、次々と流転して、ただ、それを自己の行為であると分別をたてるわけです。

その頭の世界から、動こうとすれば、思うようにならないことがたくさん出てきてしまって、なんで、こうなるんだと、笑

計算することがなければ、その行いは自己ではないわけです。

自然に、その場所で、怒ったり泣いたり、ぜんぶ自然に起こっている。

無明によって行があるとは、気付きがないことで、行いはあるというわけです。
この気付きが何かといえば、縁起、つまるは、これあってこれありです。

自己と世界、法と自己、心と外界、対象と認識には本来、まったく距離がなく、ふたつがあって、ひとつなのであります。

人という字は支えあっていると小学校の先生が言ってましたが、ふたつがあってひとつの、これは悟りとおんなじ話だ。

そのことは事実なので、悟りがあってもなくても、全員がそこにいるわけです。
僕の一番の勘違いは、悟りという凄いもの、超人的なものがあって、そこに到達する必要があると思っていたことです。

今ある事実を見る、正しく見て、思いを離れていることがお釈迦様の悟りであって、それは万物と自己に差別がなくなったこと、最初からなかったこと、命が永遠であるとは、自己を外れてはない。

自己と対象には差がない。