・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
連続投稿ですみません。
どうも僕の書いた文章だと誰も信じてくれないので、本家本元、史上初の悟りを開かれたお釈迦様が、言ったとされている阿含経に書かれていた言葉を書いてみます。
極端に端折りますが「色受想行識は我ではない」と正しく見て、と仰っております。
色とは、まあ、色のあるもののことでしょう。
対象のことですね。
物質界、霊界、神界、○○界、まあ、ありとあらゆる形あるもののことでしょう。
受とは感覚受容のことですね。
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舌とか鼻とか耳とか目とか肌とか心とかが色を受け取る活動をしていることでしょう。
想は(表象)とか書かれていますが、僕はアホなので表象なんていう言葉はわかりません。
これは、現れのことでしょう、まあ、意識の内容のことででしょう。
想いは、色と受が内容ですが、それは想いとなって表れている。
行は意志のことです。
これをしようとか、あれをしようとか、まあ行いのことですね。
字のとおり、この行(意志)があって、人間は行動するわけです。
女の子と仲良くなろうとかね、笑
識とは、識別能力なので、まあ単純に意識のことでしょう。
まあ定義は間違っているかもしれませんが、こういったものは、我ではないと、間違いなく、お釈迦様、自身がおっしゃっているのです。
僕ではありませんよ!!!!(笑い)
どうも人は、僕からではなく、だれか高貴なる身分の方の話だと真摯になるというw
あたりまえか!
で、どうして我ではないのかというと、それは無常だからと言われているのです。
どのようにしたいと思っても、それは、自然に起こっている現象なので、どうしようもない。
そこに「わがもの」であると、執着して苦しんでいる。
だから、あなたたち、この活動は、自己ではないと正しく見て、厭い、離れていなさいとまで言っています。
しかし、僕は思うのですが、こう努力を誘う言葉は逆効果ではないかなと思います。
自然現象である、この、生きている自然である我々は、差別なく、一体で、それは、分断されていない。
つまり私が生きているのではなく、自然があるのであって、その働きが、いま、この自分として表れてきているということなのです。
ですから、願ってもないのに生まれて、思うように生きられないのは、その願ったり、思ったりしている「我」が、実は、分析する能力というか機能だからです。
この「我」は人間にある、成長してきた、機能なのです。
もちろん超絶、たいせつな機能であるには違いないのですが、それが、「俺! 俺! 俺俺俺俺、あーあー」
と言い出し、その「俺」という思いが故に、苦しんでいるわけです。
ここでまた、もうひとつ、こう書くと突っ込まれるので、あとひとつ!
ここで問題になっているのは、色受想行識は我ではないという真実のことなのです。
ぜんぶ自然の活動なのです。
生かされているのであって、人格(知識)が、それを振り回していかなければ、みんな自然に大切なのです。
どうして、そうなっていくかというと、人格(知識)が落ちて、自然の一部に自我が落ちていったときに、私は、思いの中にしかないと気が付き、この私が出しゃばらなくなると、なにもかもが、自己と対象の縁によってあるのだと気が付くからなのです!
これもお釈迦様が、仰ったとされていることですが、このことを悟れば、悟ったという知恵が生まれるのです。
この智慧は全体意識のことですが、そこに、我がないのです。
悟った私は、どこにもいないのです。
つまり私は、悟ることなどできないのです。
「心身脱落いたしました」と報告する道元さんに「心身脱落、脱落心身」と言い直した師匠。
心身が脱落したのではない、もともと脱落しているのが心身だとなぜ言い直したのか!
心身が脱落したのは「我」「俺」が、そこにいるからです。
我が「心身脱落」したのではない。
「脱落した心身である」
とか、まあ、この手の話題は、もちろん、僕の個人的見解ですので、くれぐれもご注意ください……orz
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どうも僕の書いた文章だと誰も信じてくれないので、本家本元、史上初の悟りを開かれたお釈迦様が、言ったとされている阿含経に書かれていた言葉を書いてみます。
極端に端折りますが「色受想行識は我ではない」と正しく見て、と仰っております。
色とは、まあ、色のあるもののことでしょう。
対象のことですね。
物質界、霊界、神界、○○界、まあ、ありとあらゆる形あるもののことでしょう。
受とは感覚受容のことですね。
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想は(表象)とか書かれていますが、僕はアホなので表象なんていう言葉はわかりません。
これは、現れのことでしょう、まあ、意識の内容のことででしょう。
想いは、色と受が内容ですが、それは想いとなって表れている。
行は意志のことです。
これをしようとか、あれをしようとか、まあ行いのことですね。
字のとおり、この行(意志)があって、人間は行動するわけです。
女の子と仲良くなろうとかね、笑
識とは、識別能力なので、まあ単純に意識のことでしょう。
まあ定義は間違っているかもしれませんが、こういったものは、我ではないと、間違いなく、お釈迦様、自身がおっしゃっているのです。
僕ではありませんよ!!!!(笑い)
どうも人は、僕からではなく、だれか高貴なる身分の方の話だと真摯になるというw
あたりまえか!
で、どうして我ではないのかというと、それは無常だからと言われているのです。
どのようにしたいと思っても、それは、自然に起こっている現象なので、どうしようもない。
そこに「わがもの」であると、執着して苦しんでいる。
だから、あなたたち、この活動は、自己ではないと正しく見て、厭い、離れていなさいとまで言っています。
しかし、僕は思うのですが、こう努力を誘う言葉は逆効果ではないかなと思います。
自然現象である、この、生きている自然である我々は、差別なく、一体で、それは、分断されていない。
つまり私が生きているのではなく、自然があるのであって、その働きが、いま、この自分として表れてきているということなのです。
ですから、願ってもないのに生まれて、思うように生きられないのは、その願ったり、思ったりしている「我」が、実は、分析する能力というか機能だからです。
この「我」は人間にある、成長してきた、機能なのです。
もちろん超絶、たいせつな機能であるには違いないのですが、それが、「俺! 俺! 俺俺俺俺、あーあー」
と言い出し、その「俺」という思いが故に、苦しんでいるわけです。
ここでまた、もうひとつ、こう書くと突っ込まれるので、あとひとつ!
ここで問題になっているのは、色受想行識は我ではないという真実のことなのです。
ぜんぶ自然の活動なのです。
生かされているのであって、人格(知識)が、それを振り回していかなければ、みんな自然に大切なのです。
どうして、そうなっていくかというと、人格(知識)が落ちて、自然の一部に自我が落ちていったときに、私は、思いの中にしかないと気が付き、この私が出しゃばらなくなると、なにもかもが、自己と対象の縁によってあるのだと気が付くからなのです!
これもお釈迦様が、仰ったとされていることですが、このことを悟れば、悟ったという知恵が生まれるのです。
この智慧は全体意識のことですが、そこに、我がないのです。
悟った私は、どこにもいないのです。
つまり私は、悟ることなどできないのです。
「心身脱落いたしました」と報告する道元さんに「心身脱落、脱落心身」と言い直した師匠。
心身が脱落したのではない、もともと脱落しているのが心身だとなぜ言い直したのか!
心身が脱落したのは「我」「俺」が、そこにいるからです。
我が「心身脱落」したのではない。
「脱落した心身である」
とか、まあ、この手の話題は、もちろん、僕の個人的見解ですので、くれぐれもご注意ください……orz