豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

俺! 俺!? 俺?俺?俺?俺?

2014-12-10 13:25:17 | 読者に人気の記事
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連続投稿ですみません。

どうも僕の書いた文章だと誰も信じてくれないので、本家本元、史上初の悟りを開かれたお釈迦様が、言ったとされている阿含経に書かれていた言葉を書いてみます。

極端に端折りますが「色受想行識は我ではない」と正しく見て、と仰っております。


色とは、まあ、色のあるもののことでしょう。

対象のことですね。

物質界、霊界、神界、○○界、まあ、ありとあらゆる形あるもののことでしょう。


受とは感覚受容のことですね。



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舌とか鼻とか耳とか目とか肌とか心とかが色を受け取る活動をしていることでしょう。


想は(表象)とか書かれていますが、僕はアホなので表象なんていう言葉はわかりません。

これは、現れのことでしょう、まあ、意識の内容のことででしょう。

想いは、色と受が内容ですが、それは想いとなって表れている。


行は意志のことです。

これをしようとか、あれをしようとか、まあ行いのことですね。

字のとおり、この行(意志)があって、人間は行動するわけです。

女の子と仲良くなろうとかね、笑


識とは、識別能力なので、まあ単純に意識のことでしょう。


まあ定義は間違っているかもしれませんが、こういったものは、我ではないと、間違いなく、お釈迦様、自身がおっしゃっているのです。

僕ではありませんよ!!!!(笑い)


どうも人は、僕からではなく、だれか高貴なる身分の方の話だと真摯になるというw

あたりまえか!


で、どうして我ではないのかというと、それは無常だからと言われているのです。

どのようにしたいと思っても、それは、自然に起こっている現象なので、どうしようもない。

そこに「わがもの」であると、執着して苦しんでいる。

だから、あなたたち、この活動は、自己ではないと正しく見て、厭い、離れていなさいとまで言っています。


しかし、僕は思うのですが、こう努力を誘う言葉は逆効果ではないかなと思います。

自然現象である、この、生きている自然である我々は、差別なく、一体で、それは、分断されていない。

つまり私が生きているのではなく、自然があるのであって、その働きが、いま、この自分として表れてきているということなのです。

ですから、願ってもないのに生まれて、思うように生きられないのは、その願ったり、思ったりしている「我」が、実は、分析する能力というか機能だからです。

この「我」は人間にある、成長してきた、機能なのです。

もちろん超絶、たいせつな機能であるには違いないのですが、それが、「俺! 俺! 俺俺俺俺、あーあー」

と言い出し、その「俺」という思いが故に、苦しんでいるわけです。


ここでまた、もうひとつ、こう書くと突っ込まれるので、あとひとつ!

ここで問題になっているのは、色受想行識は我ではないという真実のことなのです。

ぜんぶ自然の活動なのです。

生かされているのであって、人格(知識)が、それを振り回していかなければ、みんな自然に大切なのです。

どうして、そうなっていくかというと、人格(知識)が落ちて、自然の一部に自我が落ちていったときに、私は、思いの中にしかないと気が付き、この私が出しゃばらなくなると、なにもかもが、自己と対象の縁によってあるのだと気が付くからなのです!


これもお釈迦様が、仰ったとされていることですが、このことを悟れば、悟ったという知恵が生まれるのです。

この智慧は全体意識のことですが、そこに、我がないのです。

悟った私は、どこにもいないのです。

つまり私は、悟ることなどできないのです。


「心身脱落いたしました」と報告する道元さんに「心身脱落、脱落心身」と言い直した師匠。

心身が脱落したのではない、もともと脱落しているのが心身だとなぜ言い直したのか!

心身が脱落したのは「我」「俺」が、そこにいるからです。

我が「心身脱落」したのではない。

「脱落した心身である」


とか、まあ、この手の話題は、もちろん、僕の個人的見解ですので、くれぐれもご注意ください……orz

「あるがまま」は無分別

2014-12-10 12:26:37 | 読者に人気の記事
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こんにちは!

今朝は7時ごろに就寝したと思うのですが、記憶が定かではありませんw

気が付いたら布団にいて千鶴さんが悠聖に付き添ってタブレットを見ている。

この因縁のタブレット端末は、何か月も画面が割れたままになっていましたが、ようやく先日、修理が終わって帰ってきたのであります。

「お父さんくるよ」(千鶴)

「え!」

早く起きたからFF14の木工師やって楽しめたのに……。



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息子が発熱しているというのに、そう思ってしまう僕なのであります。

そうして母親に連絡しておこうと電話すると、

「もしもし」

「もしもし!!」(母親)

「もしもーし」

もしもし! もしもし!!  もしもし!!」(母親)

もしもーーーーーーーーし!!!!

耳悪いんか!!!!

と切れてしまうというw


朝からどうも調子くるうと思いながら食事して、久しぶりにブログをPCから覗きました。

案の定、来てくれる人は激減しております(笑い)

更新しても、そんなに、たくさんの人が来てくれるわけじゃないけど、気になるんですよねー。


で、何があるわけでもないですが、やることもないので更新です。


いろいろ、気になることがあるのですが「あるがまま」についてのブログ記事を読んだので、それに関して思ったことを書いてみようと思います。


息子が発熱しているのにFF14をしたいと思ったことは、後から、生まれてきたのです。

事実は、流れるように起きてきて、ああ何か気分が悪い、なぜだ、ああFF14がしたいのだと認識しますw

これは自分でしょうか?

自己の行い(意志)でしょうか?

この自己というやつは、自己の指令を待たずに、待ったなしでFF14がしたいと状況を考えずに思っている。

これは!?

気分が悪いと思った後に考えてみたらFF14がしたいと思ったわけです。

そんな気がします。

もちろん、僕が、そう思っているだけですので、勘違いのないようにお願いします。


どうでもいいわい! と言われる皆様、ごめんなさい。

この「あるがまま」という言葉は、到達するものではないのです。

つまり、僕は「あるがまま」だけど、君はまだ練習が足りないから「あるがまま」じゃないねーとか言えないんです。

だって「あるがまま」じゃないときなんて、生まれてから一回もないんですもん。

よーく考えてみたら、当たり前です。

それを、君も頑張って「あるがまま」に成りなよとか言う場合の心理には興味が沸きますね?

この根底には何があるでしょう?


そう!

かの有名なる分別さんです。

そして「あるがまま」は無分別なのです。

その違いがあってもなくても、あるがままは、あるがままでしかない。

だから「あるがまま」である人に「あるがままに」と言う人の心理を想像するとどうなりますか?

つまり現状に抵抗をする人に、また分別する人に、それはそれでOKですぜー(心配しなさんな)

と、いうことが言いたいだけなのですね。

たぶん……、たぶんね……、そのはず。