おはようございます。
本日も追い込まれておりますが、ブログ更新ですw
毎日、毎日、過ごしていく中で、迷いや疑いが、思いの中に現れて、撹乱されていくわけですが、その度に、この事実の生命の流れに、帰る。
例えば、内面世界にさ迷い出て、腹が立つということは普通にあります。
その腹が立ったのを捉えて、ああ、怒ってしまった。
怒ってしまったという事に、あれこれ、言っている時には、この事実の今が、見失われてしまっています。
怒ってしまった自分というのは、そういう風に、あったのであり、最早、それは失われているわけですが、そこに「思い」が継続することによって、いつまでたっても、同じ「怒り」が続いてしまうわけです。
知らぬが仏と言いますが、そんなことは知らぬと、流してしまう。
どこに流れていくかと言うと、この、目の前の事実の人生であります。
事実の人生とは、諸行無常に変幻していくわけですが、しかし、当の今、その夢幻の如くの変幻の一片が常にあり続けるわけです。
思いが持ち運ばれなければ、そこには、事実の、この発現だけがある。
その中に煩悩もあり、また、仏もあり、その両方が常に活動しているわけです。
そうして、この、迷っては引き戻すという活動が、延々と続いていくところが、修行が悟りである。
もともと悟っているということがあるのであります。
何やら深遠な考えがあって、それに則って、信じて行ずると言うわけではありません。
ただ、目の前に在る事実が、その通り、自己であり、その自己と事実の縁起している中に、禅生命があるのだと確認すること、確認したら、そのままでいることが、何もしないことであり、それが、悟りであり、修行であるわけです。
ですから、全く難しいことではないし、自分をどうにかする必要も無いのです。
色があるから識がある、識があるから色がある。
この不二の全一の自己の、ありのままの、姿に、ただ、帰る、帰る。
思いをなくそうとするのでもなく、有る思い、煩悩、これらを、ただ、流していくのである。
仏典にも涅槃に触れていないと書いてあります。
涅槃に身が触れているわけではない、そこを、智慧によって悟ったのである。
この智慧とは、現在に、ただ、帰っていることの繰り返しのことである。
事実への気づきの力。
つまり注意している力のことを言っているのである。
常に抵抗があって、それは煩悩であったり、迷いであったり、怒り、欲であったりするのであるが、それが、気がついて、また、現在自己に帰ってくる。
その個人と世界の行ったり来たり。
しかし、そのような中に、実際の事実は、見失われずに常にあるわけです。
涅槃とは、これらの諸活動の中に「我と言う思い」がなくなった状態であるわけですが、そのなくなったということは、実際には、有るのだが、自己が見て、それを有るということがないと言う意味なのです。
それが有るけど無い。
有るけど無い、無いけど有るというのは、この現在の、来るままの事実。
在るがままの事実のことなのです!
本日も追い込まれておりますが、ブログ更新ですw
毎日、毎日、過ごしていく中で、迷いや疑いが、思いの中に現れて、撹乱されていくわけですが、その度に、この事実の生命の流れに、帰る。
例えば、内面世界にさ迷い出て、腹が立つということは普通にあります。
その腹が立ったのを捉えて、ああ、怒ってしまった。
怒ってしまったという事に、あれこれ、言っている時には、この事実の今が、見失われてしまっています。
怒ってしまった自分というのは、そういう風に、あったのであり、最早、それは失われているわけですが、そこに「思い」が継続することによって、いつまでたっても、同じ「怒り」が続いてしまうわけです。
知らぬが仏と言いますが、そんなことは知らぬと、流してしまう。
どこに流れていくかと言うと、この、目の前の事実の人生であります。
事実の人生とは、諸行無常に変幻していくわけですが、しかし、当の今、その夢幻の如くの変幻の一片が常にあり続けるわけです。
思いが持ち運ばれなければ、そこには、事実の、この発現だけがある。
その中に煩悩もあり、また、仏もあり、その両方が常に活動しているわけです。
そうして、この、迷っては引き戻すという活動が、延々と続いていくところが、修行が悟りである。
もともと悟っているということがあるのであります。
何やら深遠な考えがあって、それに則って、信じて行ずると言うわけではありません。
ただ、目の前に在る事実が、その通り、自己であり、その自己と事実の縁起している中に、禅生命があるのだと確認すること、確認したら、そのままでいることが、何もしないことであり、それが、悟りであり、修行であるわけです。
ですから、全く難しいことではないし、自分をどうにかする必要も無いのです。
色があるから識がある、識があるから色がある。
この不二の全一の自己の、ありのままの、姿に、ただ、帰る、帰る。
思いをなくそうとするのでもなく、有る思い、煩悩、これらを、ただ、流していくのである。
仏典にも涅槃に触れていないと書いてあります。
涅槃に身が触れているわけではない、そこを、智慧によって悟ったのである。
この智慧とは、現在に、ただ、帰っていることの繰り返しのことである。
事実への気づきの力。
つまり注意している力のことを言っているのである。
常に抵抗があって、それは煩悩であったり、迷いであったり、怒り、欲であったりするのであるが、それが、気がついて、また、現在自己に帰ってくる。
その個人と世界の行ったり来たり。
しかし、そのような中に、実際の事実は、見失われずに常にあるわけです。
涅槃とは、これらの諸活動の中に「我と言う思い」がなくなった状態であるわけですが、そのなくなったということは、実際には、有るのだが、自己が見て、それを有るということがないと言う意味なのです。
それが有るけど無い。
有るけど無い、無いけど有るというのは、この現在の、来るままの事実。
在るがままの事実のことなのです!