豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

ありとあらゆるものは水のようなもの

2017-06-05 18:20:16 | 日記
こんばんは。

本日も無事ブログ更新ができそうです。

いつもどおり時間は限られてますが、まあ、出来る範囲で書いていきます。

母親の家のパソコンの前に座って打っています。

丸椅子に座っている。

母親は台所で洗い物をしながらニュースを見ていて「なんなん」と言っている。

豊橋鉄道が3時間以上遅れたらしい。

非常ボタンのガラスが割れていたらしく「カラスか! カラスか!」と喋っている。

父親は「もう寝るぞ、ん?」と言い、立ちながらテレビを見ている。

窓が開いていて、風が入ってくる。

時計の音は、周りが騒々しいせいで、あまり聞こえてこない。

雑多なものがパソコンの周りに置かれている。

父親が歩行補助器を押しながら後ろを歩いていき扉を開き「おやすみ」

出来事の起こる前に注意を向けて見て、そのシンとした味わいを感じてみる。

なんとも言葉に出来ない深みを感じている。


さて本日は14時半ごろに起きてきました。

仕事が始まるということで、少しテンションが下がっていました。

スマホで気になるページを色々物色。

それからモンスターストライクをしたり煙草吸ってボケーっとしたりしてました。

15時過ぎからは坐禅40分。

今日は落ち着くことを念頭に、座る前から丁寧にやってましたので、なかなか深くなった。

ゆっくり確実に、焦らずに、気持ちを落ち着け、体を緩め、リラクゼーションへと誘われていく。

時間の経過が「あっ」という間に感じる。

胸が張れず、すぼんでいるのが、少しずつ開いてくるのも分かる。

なんだから温かな、包み込む、何かに触れているように、緊張や不安、焦りを手放していく。

魂のお風呂(笑)

そのようにして生きている実物、この感触に、ネガティブエモーションを流していくのだ。


で、座禅を終えると読書ですね。

今回はエジプトへの訪問と、バビロンの錬金術の話の序盤。

スフィンクスの像。

胴は雄牛であり、足はライオン、翼はワシであり、頭は乙女の乳房である。

これを常に思い起こす。

雄牛とは「たゆまぬ努力」の象徴であり、ライオンは「勇気と信頼」の徴である。

またワシの翼は「日常に直に必要でないことでも生死に対する深い思いを常に起こしておく」

乙女の乳房は、何をするにしても常に『愛』がその行動を支配しなくてはならない。

あ、琥珀というのもありました。

その乳房が琥珀でとめられているのは『その愛はいつも公平無私でなければならない』ことの象徴である。

「自己愛」「自尊心」「虚栄心」からくるものではなく。


錬金術は面白そうなのでウィキペディアで見たけど、現代科学では『金』は作れることが証明されているそうです。

水銀に中性子を当てて核破壊? だったかな。

それをすれば微量の金ができるらしいが、経済的には大赤字らしいwwwwwww

で、昔の錬金術師たちも、分かってて、硫黄と水銀と塩を使って実験をしていたようです。

燃える炎と液体である銀色に塩(つまり苦悩)が混ぜ合わされることにより、この肯定と否定の融合、つまり世界と自己の融合が起こり、それが水銀、つまり否定性を一段高い段階へと導くのかもしれない。

ま、それは妄想ですがw


で、読書を終えてから母親の家で食事です。

麦飯と鮭とサラダと「さやえんどう」だったかな。

ああ、豆腐2個食べて、更に、チーズもいただきました。

鮭瓶で、ご飯お替りもしたなwwwww

いろいろ世界のきな臭いニュースを見ていました。

人類の革命やら、相互破壊の展開しているニュース。

遥かな古代から、この競争が続いていて、いつまでたっても収まる気配はないようだ。


それからブログ更新をしているのでした。


んーと、今日は何かあるでしょうか。

この本来の面目というのか、悟りの内容と言うのはですね。

目には見えないし、感覚で感じることもできませんが、知ることはできます。

まあ昨日、分からないのが悟りと書いて矛盾してるかもしれませんが……。

その分からないところが、分からないままにされたときに、この神羅万象の起点である自己そのものの、本来の場、つまり不生不滅のものが現れるのですね。

それは、なんとも言い難いものであるのですが、まあ、なんだろう「透明なガラス」のようなものです。

その透明なガラスはすべての境にあるのですが、そのガラスの中に全てがあるのです。

ところが、そのガラス自体は存在していないがために、なくなることはなく、そのガラスから、常に、物事の神羅万象が、内面的にしろ外面的にしろ様々に発光して、動いていくのであります。

しかし、それは、自己の意志とは無関係に、まあ、花が自然に成長するように、無意識的に起っているのです。

この働きの根本に散らばった時に、この働きは、すべて表現であると知ります。

つまりガラスの上に描かれた模様のようなものが、種々様々あるのですね。

そして、その生命の混沌、つまりありとあらゆるものは、ひとつのまあ、水のようなものであると知るのです。


それで、その水のようなものが苦しみも快楽も、その一部として現したりしているのですが、それが、この透明ガラスが起動したときに、この透明の中に吸収され、また吐き出されしているのです。


それこそ、すべてが起こる前にある「悟り」の地点で在ります。

ですから、そこは知ることができないので、正確に言えば「わしゃ知らん」

「悟りなんぞない」

ということが、よりきちんとして誠実な表明なのです。


しかしながら、この豊田、つまりダメ人間ダメマと、その昔呼ばれた男は、正統なる僧でもなければ、立派な社会人でもなく、お金もなく地位もなく、それでいて『力』もないので、この「正統なる悟り」に対して『個人の受けた印象』という点から語ることも許される。

許されているという特別に、素晴らしい環境にあるのであります。


つまり、なんの社会的規制も、集団の力学も、宗教的な理解を個人的に語ると言う点において、影響を与えられないようなところに、たまたま私という理解者が置かれていると言う素晴らしく、楽し気なところにいるのです。


というわけで、ちょっと極端な表現をとってみました。

この透明な〇は、自身の体よりも五感よりも近くにあって、今まで一度も離れたこともなく、これからも永遠に、そこに住するであろう、不滅の、安心なのです。

それを見れば、動の中の静、静の中の動が、ひとつであることがわかるのです。


つまり、違いがあってそれでいい。

その、それぞれの様々な、表現が違う中での統一。

それが一番重要なことなのかもしれません。


というわけで、今日は、表現が曖昧すぎましたが、この辺りで!

またねーー♪