禅道場を出て仏像の間に戻ると、皆さん、拝佛をされてお経の本を手にされます。
そのあとで整列をして、読経。
僕は家が天台真盛宗なので、作法が、かなり違います。
周囲の人の真似をしながら、やっていく。
心が真摯な状態へと導かれていきます。
あ、般若心経の読経はあったので、これは同じだなあと思いました。
みなさん真剣で清々しいお姿に見えて神々しいです。
読経を終えると、お茶とお菓子をいただきながらのお話です。
何気ない会話の中にある、朗らかさ。
心が迷いの中にあらず、スッキリとしている様子がわかります。
僕も少し話しましたが、聞いているだけで、楽しめる。
ある年配の方は言いました。
「僕もね昔は悟りたいと思ってたよ」
自然に口をつく会話の流れの中の、その空気感がとても感じられる。
住職さんらしき方が「だんだん聞くことがなくなってくるんだよね」と言われました。
これという概念ではなく、そこにある、そのもの自体の流れが、ある。
あとで聞いた話では、この方は、老師の息子さんのようです。
石でもなんでもね。
人間の心が触れたら、意識があるとも言えるんだよね。
花でも、自動ドアでも、生きていても生きていなくても。
心が触れたら、そこに命が、触れ合いの中にあるんだよね。
可愛がってあげることだよ。
可愛がってあげることの中に、生命があるんですよ。
全体的に、そのようなお話しでした。
ある男性が「今日の話は深いねえ」と笑っていた。
このところ遠方からの参加者の方がくるようで、その人たちがお茶の時間の話は「雑談ばかりでつまらない」と言われるそうです。
確かに、普通の日常に有る会話ですが、その中にある、普遍的な触れ合い。
円と円で繋がった、この、人と人があって話しをする。
ただ一緒にいるだけで、ふと、会話を交わすだけで、内容は問題にされないのである。
思考の世界に入ると「それがどうした?」となってしまうだけで、本来は、どうしたも何も無く、ただ触れ合って生きている瞬間の楽しみなのだ。
そこしかない。
お茶の話が終わると散会となり、僕も部屋を出ました。
仏像の写真や、道元さんと如浄さんの出会いの像を撮る。
お寺の門を出ると地蔵さんが6体。
にこやかに
なごやかに
さわやかに
ゆるやかに
すこやかに
やすらかに
と、足元に刻まれている。
写真を撮って、嫁様に送信する、笑
お寺をあとにするとナビで銭湯を検索して入りに行きます。
千鶴さんに電話をして、衝動的な旅の全層を語るw
彼女は、基本的に優しいので、まあ、受け入れてくれることが多い。
そのあたりで負担をかけているのだろう。
お風呂に入ってコンビニで食事を買います。
車の中で、どうしようか考えてから、方向寺へと行くことにしました。
そこは17年前に、このような問題を考える契機となった場所ですし、この現在の、状況では丁度、行くのに良かったのです。
30分ほどで到着すると、お祭りがやっていました。
たまたま来たのが、お祭りの日というのも、いいなあと思います。
そのまま歩く。
500羅漢像というのがあって、山の中に、地蔵さんが無数にあります。
なんとなく神秘的なイメージ。
お寺へ着いて拝観料400円で中へ入ってみる。
達磨さんの像や、様々文化財の展示をしていました。
お釈迦様の像を間近に見られる特別拝観がされていて、近くからボーっと眺めていました。
歩く。
無言で歩いていると花火がドーンと鳴りました。
ドーンとなる、その音が、なにか祝福してくれているように感じてしまう。
スリランカから委譲された仏舎利が収められているようで、拝みます。
高きところから山を眺める。
朝から座禅等をしたからか、心が静まって、なにやら清々しい。
お祭りのために、お坊さんや、学生さんや、雅楽をされる方々など、たくさんの方がお寺に見えているようでした。
一通り、歩いて還る。
昔、セミナーを受けた研修センターがどうなっているかを見てみようと思い、階段を上ると、そこは!
更地だった!!!!
なんと、無くなっているのだ。
ああ、ここだったかな??
と思ったが、石垣だけが残っていて、それは、その昔、そこで瞑想した石垣ではないか。
石垣だけが残っていて、消失しているとは!
これを見たときの、もう、これで、恐らく、僕は、この疑念からほんとうに解放されるのではないかと思いました。
何かの縁の流れを感じてしまうのです。
黙々と考えながら山を降りて車へ向かいます。
<つづく>
そのあとで整列をして、読経。
僕は家が天台真盛宗なので、作法が、かなり違います。
周囲の人の真似をしながら、やっていく。
心が真摯な状態へと導かれていきます。
あ、般若心経の読経はあったので、これは同じだなあと思いました。
みなさん真剣で清々しいお姿に見えて神々しいです。
読経を終えると、お茶とお菓子をいただきながらのお話です。
何気ない会話の中にある、朗らかさ。
心が迷いの中にあらず、スッキリとしている様子がわかります。
僕も少し話しましたが、聞いているだけで、楽しめる。
ある年配の方は言いました。
「僕もね昔は悟りたいと思ってたよ」
自然に口をつく会話の流れの中の、その空気感がとても感じられる。
住職さんらしき方が「だんだん聞くことがなくなってくるんだよね」と言われました。
これという概念ではなく、そこにある、そのもの自体の流れが、ある。
あとで聞いた話では、この方は、老師の息子さんのようです。
石でもなんでもね。
人間の心が触れたら、意識があるとも言えるんだよね。
花でも、自動ドアでも、生きていても生きていなくても。
心が触れたら、そこに命が、触れ合いの中にあるんだよね。
可愛がってあげることだよ。
可愛がってあげることの中に、生命があるんですよ。
全体的に、そのようなお話しでした。
ある男性が「今日の話は深いねえ」と笑っていた。
このところ遠方からの参加者の方がくるようで、その人たちがお茶の時間の話は「雑談ばかりでつまらない」と言われるそうです。
確かに、普通の日常に有る会話ですが、その中にある、普遍的な触れ合い。
円と円で繋がった、この、人と人があって話しをする。
ただ一緒にいるだけで、ふと、会話を交わすだけで、内容は問題にされないのである。
思考の世界に入ると「それがどうした?」となってしまうだけで、本来は、どうしたも何も無く、ただ触れ合って生きている瞬間の楽しみなのだ。
そこしかない。
お茶の話が終わると散会となり、僕も部屋を出ました。
仏像の写真や、道元さんと如浄さんの出会いの像を撮る。
お寺の門を出ると地蔵さんが6体。
にこやかに
なごやかに
さわやかに
ゆるやかに
すこやかに
やすらかに
と、足元に刻まれている。
写真を撮って、嫁様に送信する、笑
お寺をあとにするとナビで銭湯を検索して入りに行きます。
千鶴さんに電話をして、衝動的な旅の全層を語るw
彼女は、基本的に優しいので、まあ、受け入れてくれることが多い。
そのあたりで負担をかけているのだろう。
お風呂に入ってコンビニで食事を買います。
車の中で、どうしようか考えてから、方向寺へと行くことにしました。
そこは17年前に、このような問題を考える契機となった場所ですし、この現在の、状況では丁度、行くのに良かったのです。
30分ほどで到着すると、お祭りがやっていました。
たまたま来たのが、お祭りの日というのも、いいなあと思います。
そのまま歩く。
500羅漢像というのがあって、山の中に、地蔵さんが無数にあります。
なんとなく神秘的なイメージ。
お寺へ着いて拝観料400円で中へ入ってみる。
達磨さんの像や、様々文化財の展示をしていました。
お釈迦様の像を間近に見られる特別拝観がされていて、近くからボーっと眺めていました。
歩く。
無言で歩いていると花火がドーンと鳴りました。
ドーンとなる、その音が、なにか祝福してくれているように感じてしまう。
スリランカから委譲された仏舎利が収められているようで、拝みます。
高きところから山を眺める。
朝から座禅等をしたからか、心が静まって、なにやら清々しい。
お祭りのために、お坊さんや、学生さんや、雅楽をされる方々など、たくさんの方がお寺に見えているようでした。
一通り、歩いて還る。
昔、セミナーを受けた研修センターがどうなっているかを見てみようと思い、階段を上ると、そこは!
更地だった!!!!
なんと、無くなっているのだ。
ああ、ここだったかな??
と思ったが、石垣だけが残っていて、それは、その昔、そこで瞑想した石垣ではないか。
石垣だけが残っていて、消失しているとは!
これを見たときの、もう、これで、恐らく、僕は、この疑念からほんとうに解放されるのではないかと思いました。
何かの縁の流れを感じてしまうのです。
黙々と考えながら山を降りて車へ向かいます。
<つづく>