豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

迷いなし

2015-02-23 07:29:18 | 読者に人気の記事
おはようございます。

11日ぶりに妻子が帰ってきて、やっと通常の生活がもどってきました。

この間の自分の崩壊ぶりを思い返すに、やはり、人間として、問題がありすぎるように思いますね、笑

久しぶりに座禅をして気分がよく、ブログを書く気になりました。

しかし、まあ、仕事前なので、あまり時間がありません。

本日は皇太子様の誕生日であり、また、我が、母の誕生日でもあります。

このところ右手が痛くて、あまり動かせないそうでありますが、この我が、母親の偉大なるところは日常生活に闘魂しているところであろうと息子は思いますww

何しろ、まあ、その、単純な必要性のあることに動く、ということができる。

そういう人はたくさんいるのでしょうが、いろいろと、そこに工夫をしたりしながら、より快適な日常の向上に資する活動をわたくしめ、等は、ぜんっぜんできない。

その意味では、そういうところが、真似できないが、凄いなと思うわけであります。


一方で、この悟り系のお話になると、これも、ただいま、ここで必要とされる、そのまんんまの生を生きている、生きているところに、ただ帰っているということであります。

そこに迷いがあるか、ないかだけが違うわけでありますね。

沢木興道という人が「始め無き悟り、終わりなき修行だ」と言ったそうですが、この日々毎日を生きている、そこのところで、座禅しているわけです。

ただ座っているのが、ただ歩いているになり、またただ仕事している。

目の前にある、この生の瞬間瞬間において、目覚めているということであります。

それはグルジェフワークなんかでも同じですが、そこには得るものはないのであります。

得るためにしているのではなく、もう十分に与えられているところを、与えられたままに、虚心にいる、目覚めている。

それが中々できずに煩悩の迷いの中へ入ってしまいますから、常に引き戻していくわけですね。

その引き戻ってきた、ただ今、は、もう、それは法の働きです。

その法の働きは、私だけではなく、世界中の、また、それ以外の、想像も及ばぬようなところからある神の働きなわけです。

そこに祈る。

祈るというのは、この、いまここに、心が接しているということであります。

心の底から、ここに在り、そういて只管に在ることが、そのまま悟りであり、しかも修行もしていることになるのです。

ただ、なにもしていないことなのです(爆笑)

今、ここで、何をしていようが、すべてが、あるがままにあり、あるがままにある、それをあるがままに生きていく。

そこに心が開いて、目覚めているのが、救いであり、悟りであり、祈りであり、感謝なのであります。

決して、思念的創作の中には、ないのであります。

迷わないことが、迷わないこととは、このことであり、ただ生きているところに、死んでいるところに、この瞬間の諸行無常に、直に、心身が触れていることなのです。

迷い無く!!!!

だめ人間の、悟りの境地ってなんだろなw

2015-02-19 04:21:50 | 読者に人気の記事
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おはようございます!

今年に入って3回しか記事更新していない豊田です。

以前は毎日、書いていたのに計画生活やめたらこの体です。

先程、超久しぶりにブログを書こうという気になり、アクセス状況を見ていたら、たまに覗きに来てくれる人もいるではないですか!

たぶん記事数が多くなっているのでヒットすることが、あるようです。

しかし期待とは違うものを眼にしてしまう可能性がありますね・・・・・・すいません、笑


今は仕事から帰って手を洗って、コーヒー入れて、煙草プカプカしとります。



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さて、前回更新から、何があったかというと、特に変わったことはないのです。

嫁様に怒られながら、仕事をして、南くんと遊び、あとは読書やらゲーム、DVD観賞などを楽しんでますね。

PCはブログや掲示板を覗いたりしてます。

妹が子供連れて遊びに来たりもしていたかな・・・・・・確か。

まあ相変わらず、自己管理が疎かなところがありますので、嫁様が実家へ休養に出かけられると、生活が崩壊していますww


悟り関係のお話は、いろいろ想念の中にあることと、現実に触れることの、違いが、全部認識の中で、触れては起こってきているということであります。

まあ自然な流れの中で、喜怒哀楽、成長、などなど、あるわけですが、それらが、まあ、つまり、そのままで、未知の顕現であるわけであります。

なんのこっちゃら、書いている自分が分からなくなりますが(爆笑)

この手の話題は、いろいろと読んだり、学んできたので思うのですが、明らかな商売根性を発揮している書籍と、本当に、直にリアルに触れるものとがあります。

あなたが、これこれ、こうなんだから、未知の力とか、なにか特殊な状態に導かれるお話がありますが、あれは、本当に有る話ですが、それと、これとは違うのです。

どこまでいっても認識と対象、想念と現実、といったように2分化されているのです。

色があるから識がある、識があるから色がある。

この縁起している、つまり2つがあってひとつであるということが、現在進行形で巻き起こっている諸行無常であります。

これが永遠の今だとか、こことかそれとか抽象的な表現をされていることです。

でも実際は、目の前にある、この、単純な日常のことなのですwwwww

だから、オレは凄い能力があるとか、凄い状態だとか、救われたとか、そうしておいて、何やら馬に人参でも見せるように、こっちへおいでをしているような、お話には要注意でありますよ。

成ることはできないからです。

現実リアルに、今、そうであることを言っているからです。

そのことが、誰も差別無く、実際に、そのようになっているだけのことを、気がついたと、それだけのことなのであります。

じゃあ、お釈迦様は解脱したとか、超越的な話があるじゃないかとか。

空に浮かび上がって消えたチベット僧侶がいたではないかとか。

奇跡が世界中で起こっているではないかと言われるかもしれませんね!

そうなんですよ。

そういうことはあるのであります。

いや、実際見たわけではないので、知らないですが、あってもおかしくないと考えるのであります。


解脱というのは、このように毎日、巻き起こっている諸行無常、永遠の今、たちが、私とは離れたところで縁起していると気がつき、それの中に、我という思いを完全に消失しましたよという意味です。

それは、つまり、まあ、僕には無理です、笑

心や体、また、それと縁起した想念や、諸世界が、我と離れてあり、その我とは、実際には、空なのであって、実体がない。

実体はないが、確かに有る。

しかし、この有るは、無いなのですwwww

もはや言葉ではないですね・・・・・・。

無いけどある、あるけど無い。

その無い我が、なんらかの対象に「わがもの」であると執着するわけです。

これはオレのもの!

そうなると、それは当然、実体がないので失われます。

失われると苦しい。

だから、失われないものを求めて、人は彷徨うわけです。


永遠の愛とか!


しかし実際に失われないであろうものは、この、未知の現実である諸行無常の空であるわけですね。

それは理解不能なものなのです。

つまり、オレはわかった! というものは偽者だということです。

自分で書いておきながら、なんですが、つまり、これが、難しいことですが、まあ仮に、この永遠の未知の力を神と名づけるとすると、つまり、神こそが自己の本体であるということになりますが、その自己を形成している神は、自己でありながら、分裂した「わたしとあなた」のような自己意識ではないわけですね!

うーん、余計に支離滅裂になってきたな・・・・・・。

こういう風に書いていくと現実から、ドンドン遠ざかって、思念的な世界に迷い込み、そうして延々と頭の中で、空想が膨らんでいくのでしょう・・・・・・。

しかし、今、書こうとしていることは、想念とか現実の、この2分化した世界における、第三の世界、未知の働き、自然の力のことです。

実際に、今、ここで、誰が、何をしていようが、絶対に流れ続ける、この未知の力、働きが無ければ、私は存在しないのであります。

ですから空、こそが己でありながら、これは己ではないのですwww

あかん!

もう、またまた、表現不可能であるということはハッキリとしてきました。


つまり、もう、結局のところ、あるがままでOK、あるがままでしかない、もう、何もかもが、全体としては完璧であるということです。

しかし人格レベルで、これを見ると、何もかもが完璧なはずもなく、日々、嫁様に怒られたり、ご飯食べるために働いたり、できるわけです(爆笑)

というわけで、言いたい放題、書いて、スッキリしましたので、このあたりで!

スピリチュアルと誇大妄想

2015-02-07 16:38:23 | 読者に人気の記事
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スピリチュアルと誇大妄想について書いておきたいと思います。

高次のエネルギーという言葉、また、波動とか霊気とか様々なスピリチュアル用語があります。

またチャクラとか、丹田がどうのとか、生命の樹の意味とか、まあ、ありとあらゆる言葉があるのですが、この言葉のさす意味が、正確に把握されず、流されていくので、誇大妄想が生まれていきます。

言葉に、自分独特の意味を持たせていくのです。

高次のエネルギーというのは単純に、心が解放されたときに、胸いっぱいに広がる、あの快感のことです。

それが体中に充満することが、高次エネルギーの循環とされているのです。

ですから、単に、みんながいつも触れているものなのです。



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例えば、登山が好きな人が山頂から下界の風景を眺めたときに流れている。

普段から、ネガティブでないとき、意識的に生きているときには高次のエネルギーに触れているわけです。

しかし、こういったことを明確に定義していないので、混乱が起きてきます。

いったいこの言葉でさしているのは、どういう状態なのかということが、実地に体験されないといけないわけです。

肉体、アストラル体、メンタル体、神体という言葉があります。

この場合も、アルトラル体(感情体)、メンタル体(精神体)、神体(原因体)などと説明があります。

これは瞑想によって生まれる世界、外界、内界を指しているに過ぎないのです。

原因体とは瞑想によって導かれるところの無、もしくは、色即是空の生まれる、流れるところ、自己の本体です。

メンタル体とは、いろいろと活動している思考(精神)の基盤としてある意識の光体です。

アストラル体とは、感情の流れの中で発生している、心と空間の連絡・形成体のことであります。

これは3つの三位一体にして、人間を形成している根本の状況であるわけですが、ここでも実地に体験したことと、定義された言葉が結びつかないと誇大妄想が生まれていきます。

ですから、こういった用語が現実離れした感覚を付与するというスピリチュアル病は、非常に、難しい場所に人を導いてしまう可能性があります。

色々な言葉が出てくる背景には、普段の言葉では、意識の流れの中で、勝手なイメージが既に張り付いているので、まだ触れられていない新しい言葉で定義しなければならない事情があっただけなのだろうと思います。

これらの独特の言葉、抽象的な意味の分からない言葉は、実際に単純な現実としてあることです。

ですから、現実を離れて、脳内に形成された未知の力でも、それらは、全部、実際に確認可能なものであって、探す必要も本来は、ないわけです。

理解することだけが必要なのであって、見つけたり、身に着けたりすることではない。

今ある、事実。

この事実を理解してくために、いろいろと言葉を駆使して説いているわけです。

なぜ、ここに拘るのかというと、僕が、気が付いたときに、この、言葉の意味が、単純な日常生活の中にある、普通のことを指しているということが、やっとわかったからです。

それまでは現実離れして、遠いものにして、妄想、誇大妄想の病に浸っていたのです。

1月の感じ

2015-02-02 18:36:10 | 日記
こんばんは!

久しぶりに更新しようと思います。

毎日更新と書いた気がしますが、全くで、すいません、笑

1月は嫁様が悠聖と17日まで、帰省していました。

僕は送り迎えをして短時間ですが、彼女のご両親と会話したり、夕食のすき焼きを貰ったりした。

その間には南くんと飲みに出たり、会社の新年会があったりで、様々な人と会いましたねー。

僕の話は全く嫌がられますが、爆笑。

グダグダと愚痴る癖とか、調子に乗るとか。

えーっと、その他にも、知人の先輩に頼まれた手伝いをしました。

これもまた新鮮でした。

地区でのお神酒や総会で近所の人たちと会う。

妹と姪っ子が帰省していたので、少し遊んだり旦那さんとも久しぶりに挨拶を交わしたりしました。

インターネットでチャットやら掲示板での交流で、様々な人と会話する。

なんか羅列的になってるなあ。

他には何があるか。

ああ、FF14は連休中にクリアしたけど、その先にやる気がなくなりました。

好い人ばっかだけど、いちいち決められた方法で動かないといけないので、おもしろくない。

昨日、龍が如くのゾンビと戦うゲーム買ってもらって楽しんでいる。

嫁様は、三代目J-SOUL brothers好きの友達ができたらしく喜んでいた。

アルバム新しいの買ってニコニコだった。

とにかく先月は忙しくバタバタしてました。

皆様、元気にしてますでしょうか?