おはようございます。
11日ぶりに妻子が帰ってきて、やっと通常の生活がもどってきました。
この間の自分の崩壊ぶりを思い返すに、やはり、人間として、問題がありすぎるように思いますね、笑
久しぶりに座禅をして気分がよく、ブログを書く気になりました。
しかし、まあ、仕事前なので、あまり時間がありません。
本日は皇太子様の誕生日であり、また、我が、母の誕生日でもあります。
このところ右手が痛くて、あまり動かせないそうでありますが、この我が、母親の偉大なるところは日常生活に闘魂しているところであろうと息子は思いますww
何しろ、まあ、その、単純な必要性のあることに動く、ということができる。
そういう人はたくさんいるのでしょうが、いろいろと、そこに工夫をしたりしながら、より快適な日常の向上に資する活動をわたくしめ、等は、ぜんっぜんできない。
その意味では、そういうところが、真似できないが、凄いなと思うわけであります。
一方で、この悟り系のお話になると、これも、ただいま、ここで必要とされる、そのまんんまの生を生きている、生きているところに、ただ帰っているということであります。
そこに迷いがあるか、ないかだけが違うわけでありますね。
沢木興道という人が「始め無き悟り、終わりなき修行だ」と言ったそうですが、この日々毎日を生きている、そこのところで、座禅しているわけです。
ただ座っているのが、ただ歩いているになり、またただ仕事している。
目の前にある、この生の瞬間瞬間において、目覚めているということであります。
それはグルジェフワークなんかでも同じですが、そこには得るものはないのであります。
得るためにしているのではなく、もう十分に与えられているところを、与えられたままに、虚心にいる、目覚めている。
それが中々できずに煩悩の迷いの中へ入ってしまいますから、常に引き戻していくわけですね。
その引き戻ってきた、ただ今、は、もう、それは法の働きです。
その法の働きは、私だけではなく、世界中の、また、それ以外の、想像も及ばぬようなところからある神の働きなわけです。
そこに祈る。
祈るというのは、この、いまここに、心が接しているということであります。
心の底から、ここに在り、そういて只管に在ることが、そのまま悟りであり、しかも修行もしていることになるのです。
ただ、なにもしていないことなのです(爆笑)
今、ここで、何をしていようが、すべてが、あるがままにあり、あるがままにある、それをあるがままに生きていく。
そこに心が開いて、目覚めているのが、救いであり、悟りであり、祈りであり、感謝なのであります。
決して、思念的創作の中には、ないのであります。
迷わないことが、迷わないこととは、このことであり、ただ生きているところに、死んでいるところに、この瞬間の諸行無常に、直に、心身が触れていることなのです。
迷い無く!!!!
11日ぶりに妻子が帰ってきて、やっと通常の生活がもどってきました。
この間の自分の崩壊ぶりを思い返すに、やはり、人間として、問題がありすぎるように思いますね、笑
久しぶりに座禅をして気分がよく、ブログを書く気になりました。
しかし、まあ、仕事前なので、あまり時間がありません。
本日は皇太子様の誕生日であり、また、我が、母の誕生日でもあります。
このところ右手が痛くて、あまり動かせないそうでありますが、この我が、母親の偉大なるところは日常生活に闘魂しているところであろうと息子は思いますww
何しろ、まあ、その、単純な必要性のあることに動く、ということができる。
そういう人はたくさんいるのでしょうが、いろいろと、そこに工夫をしたりしながら、より快適な日常の向上に資する活動をわたくしめ、等は、ぜんっぜんできない。
その意味では、そういうところが、真似できないが、凄いなと思うわけであります。
一方で、この悟り系のお話になると、これも、ただいま、ここで必要とされる、そのまんんまの生を生きている、生きているところに、ただ帰っているということであります。
そこに迷いがあるか、ないかだけが違うわけでありますね。
沢木興道という人が「始め無き悟り、終わりなき修行だ」と言ったそうですが、この日々毎日を生きている、そこのところで、座禅しているわけです。
ただ座っているのが、ただ歩いているになり、またただ仕事している。
目の前にある、この生の瞬間瞬間において、目覚めているということであります。
それはグルジェフワークなんかでも同じですが、そこには得るものはないのであります。
得るためにしているのではなく、もう十分に与えられているところを、与えられたままに、虚心にいる、目覚めている。
それが中々できずに煩悩の迷いの中へ入ってしまいますから、常に引き戻していくわけですね。
その引き戻ってきた、ただ今、は、もう、それは法の働きです。
その法の働きは、私だけではなく、世界中の、また、それ以外の、想像も及ばぬようなところからある神の働きなわけです。
そこに祈る。
祈るというのは、この、いまここに、心が接しているということであります。
心の底から、ここに在り、そういて只管に在ることが、そのまま悟りであり、しかも修行もしていることになるのです。
ただ、なにもしていないことなのです(爆笑)
今、ここで、何をしていようが、すべてが、あるがままにあり、あるがままにある、それをあるがままに生きていく。
そこに心が開いて、目覚めているのが、救いであり、悟りであり、祈りであり、感謝なのであります。
決して、思念的創作の中には、ないのであります。
迷わないことが、迷わないこととは、このことであり、ただ生きているところに、死んでいるところに、この瞬間の諸行無常に、直に、心身が触れていることなのです。
迷い無く!!!!