豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

悟りに囚われている

2017-06-10 17:56:56 | 日記
こんばんは。

本日も何とかブログ更新の時間がもてそうです。

ここで書くことができる時間と環境があるということは有り難いことなのだなと、このごろ感じます。

ほとんど更新してませんでしたが、書くことで気持ちが整理されたりしている。

いつもの如く母親の家での更新。

母はベッドで寝ておりますが寝息がぜんぜんしないww

まあ大丈夫だろうけど子供の頃に両親と一緒に寝てた頃、死んでないか不安で確認してたのを思い出す。

死の認識が始まる時の、その不可解さに対する怯えようは酷かった。

時計はジジジジ、トットッと2つがなっています。

爽やかな微風が窓から入って顔に当たり、気持ちがいい。

口の中にさっきたべた『かりかり梅』の後味が残っている。

カタンと外から物音がしたが、何の音か分からない。

鳥がぴよぴよと可愛げに鳴いている。

ピヨヨンというときもあるw


さて本日は14時ごろに目が覚めました。

スマホを見ると着信とライントークが複数残っている。

とりあえず煙草を吸ってボケーっとしてから電話を返します。

南大先生が嫁様と蛍を見に行きたいらしい。

どこにいるのか分からないので、きれいな川沿いにいそうじゃないかと話す。

他にもまあ様々なる冗談含む会話。

夜の蛍が群れている風景とか幻想的で、かなりよさそうですね。

まあ僕は一緒に行ける人がいませんが(笑)


それからラインの返信もして坐禅40分へ。

なんか過去の記憶がフラッシュバックしまくったり、音楽が頭の中を占拠したりしていた。

モンストのゲーム曲ww

それらの中を掻い潜って、できるだけリラックスできるようにしてました。

なんか重たいものが抜けていく前に、表面化する過程があり、その時は、より悪くなったように感じるのです。

そして、その時に地味に断続的に、きちんと続けていると、いきなりポンッと気が付かず調子よくなったりもする。

まあ人間の知性なんか通用しない世界だろう。


で、座禅を終えてスマホを見ると『モンスト』の誘いがある。

連絡を返すとトークしながらやっているみたいなので、参加してゲームをします。

途中で、再び、南くんから連絡があり、K先輩からもありました。

みんなでゲームしてると楽しい。

子供みたいな話だけど、人と絡んでいると、なんでも楽しくなる。

まあ、いいことばかりじゃないけどね。

世の中には、様々な人がいるので、すべての人を平等に見るのは問題が発生します。

もちろん大きな意味では本質的に人は同じなのですが、そうは言っても、この世界では様々な現れがある。

そして一緒にいる人や出会う人が人生を形作っていく。


で、ゲームの途中で誘いがあったのでゲームは途中で抜けます。


それから読書ですね。

『ベルゼバブの孫への話』は芸術の章まで来ました。

7重性の法則を伝達するために、日常の中に、不規則性のある芸術を導入していく。

しかし、その本来の意味を見失った人類は、単なる『模倣』から楽しみとしてそれを伝えていくようになる。


で、読書を終えてからブログ更新へきておるわけです。


さてさて宗教トークですが、この現実の目の前も、心の内側の動きも、それがあったら、それだけというのが迷いのない状態です。

例えば、今、パソコンを打ちながら、この画面なんかを見たり、指を動かしたりしてますが、今、その注意を向けた、その先にあるものだけが、あり、その体験が直に自己に直面していることで、分離が無い、それが悟りなのです。

しかし例えば、なんらかの神秘的な体験をして、それを認識の中で持ち運んで、それが悟りだとする傾向があります。

そのように書いている人がたくさんいます。

たしかに世界も自分も消えるとか、対象だけがあるとか、眠っているとか目覚めているとか、そういう話は本当なのです。

しかし、それですら無常に消えていきます。

そこで、その『悟り』に囚われているという感覚がどうしてもない。

その認識が破壊された時に、何も残るものがなく、この確かではない流れの動き、そのひとつひとつになっている。

2枚のシールが張られてひとつになるようにして、ピターッとそこにいる。

それが、その状態が迷いなしなのです。

例えば、迷いがあれば、迷いがあるだけ。

音に注意が向けば音があるのみ。

その2つに境が無いのです。

ですから、これは完全なる受容でもありますが、その受容しているものもないのです。


そこで生きている日常の様々に、なっている。

なっていく。

それらは悟りの中で行われる修行なのです。


というわけで本日は、この辺りで!

またねー


あ、ランキングクリックしてくれると嬉しいです(すいませんw

とにかくお幸せに

2017-06-09 18:40:51 | 日記
こんばんわー

本日もブログ更新ができそうです。

このブログというものは普段会うことの出来ない人にも届くのでいいなと思ってます。

またまた離れから書いています。

この離れのプレハブの家は妹の長女のYちゃんが生まれる時に両親が建てたのです。

昔の家の真横にある。

寝室と居間と台所、洗面所、お風呂、トイレという小さなお家ですね。

さて、そこの居間で、パソコンが壊れたので更新しているのです。

父親は台所でテレビを見ていて「おい、久子」とさっき喋っていました。

母親は何やら外で畑を見ながら考え事をしていましたね。

両親とも善人であると僕は思うのだけど、人によっては印象は様々なので酷く言う人なんかもいます。

扇風機の音がしているけど体にあたってないw

髪の毛に微かに触れてます。

喉が今日もイガイガしています。

風邪になったら嫌だなあ。

みなさんも体調管理には十分ご注意くださいませ!


さてさて、本日6月9日は射手座の満月らしいですね。

占星術的な意味は分かりませんが、なかなか、キレイなお月様が見れるといいですねー。

曇ってなければ空を見上げてみようかなとか思います。

空というのは、まあ、宇宙との境にあるようですが、この空(大気圏)は、なんとまあ、全員繋がっている。

よく歌謡曲なんかの歌詞にもありますが、みんな空の下です。

どんな人と別れても、その人は空へ帰ったなどとも言われるように、この天空は昔から人々の繋がりの象徴だったのかもしれません。

そういうことを考えていると、誰もが、ひとりではない。

どこかで繋がっているのだと感じることができて嬉しくなってきます。

このハート、つまり胸の奥と、空、その二つが、共鳴して、時空を超えて出会うことも可能かもしれません。

インターネットのようにして、その時に繋ぐものは、人それぞれの『深い想い』でしょう。


あ、今日は坐禅も読書もしましたよ。

坐禅40分と読書はベルゼバブの孫への話という小難しい本のギリシア・ローマ文明の章です。

どちらもマニアックだけど、そのしていること、語っていることの内容は、そうでもない。

うーん、まあ、変な人になってると思われてるのかなとは感じますが(笑)

別に生きているそれと離れて空想の世界に飛んでいくわけではありませんので、その辺は書いておこう。

坐禅は最初は瞑想的に坐ってたけど、それから身体サーチの方法に切り替わってます。

いろいろ学ばせていただいた人たちがいるのです。

それから、開くということに関して、いろいろ繋がっていってます。

って、こう書くと自分の理解の範囲からの意味が言葉に入って伝わりにくいですよね。

うん。

ああ、本の方は、空想と性的満足の追求というものが、人間の弊害になっているというお話。

まあでも、これは際どい問題です。

僕たちの、その欲求自体が苦しみなのですが、その欲求の原因、つまり求めているものの『質』は本物の安楽なんです。

ただ、そこには、つまり空想と性的満足の追求という姿勢では、その『質』へ届かないので苦しくなるわけですね。



えーっと宗教の話へ行きますw

この自分自身というものが泣いたり笑ったり感情的にいろいろ表現されていますが、それが、このまあ、何といったらいいのか種類の一つなのです。

その色んな表現を『世界ボール』がやっているとしますね。

その世界ボールを創造してください。

それは『宇宙の果てと心の果て』の限界点まで拡大して、すべてを包んでいるボールで、水でできています。

その中には、あなたの大切な、体も、心もあるし、両親も友達も仕事もあるし、森もビルも、つまり、神羅万象すべてあります。

この水は透明で見えませんし、ずっと水なので、それ以外の感覚を味わったことが無く、そういう意味で普通のことなので、感じることもありません。


その、そこに気が付くことが悟りなのです。

その世界ボールの内容物は、水のいろいろな形での表現なので、いろいろ移り変わるけれども、その本質は同じなのです。


そこが自分自身なんですね。

それに気が付く方法は、見ることです。

どのように見るかというと、世界の側から自己だと思っている、その思考、動作、感情を見る。

それは、それが自己のコントロール下にはなく、その活動も、その水の千変の表現だと知るためなのです。

その奥にある、それらを体感している『透き通った光』であるあなた。

あなたは、不滅です。

その基礎に触れた時に、愛に溶けている感覚が、開放させてくれるのです。

その愛は、仏とか神とか言われてますが、それらは、あなたを安楽にさせます。

安穏になります。


だから、あなたを苦しめるものが、あなたの中にあるのを見たら、偽者かもしれません。


まあ、とにかくお幸せに!


時間が無いので、このへんで仕事へ行ってきますwwwwwwww

またね。

己の本性なのです

2017-06-08 18:39:28 | 日記
こんばんは。

本日も無事ブログ更新できそうです。

いつもの如く離れでパソコンを借りて書いています。

父親が「うーん!」と唸っている。

時計がハーモニーを奏でているチコチコチコチコ、ドッドッドッ。

音を言葉にすると、その本来性は損なわれる。

窓から射す光は今日は明るく、それを見ると自己の照らされてある姿を感ずる。

体は疲れているが精気の通りは感じる。

静かな中にブーンと言う音も交じっているのだが、これは冷蔵庫の音だろうか。

パソコンに置いている手首が汗でジトッとしている。

額にも同じような汗を感じる。

父親がおならした(笑)

妹の結婚式や姪っ子が友達と映る写真が置かれている。

いきなり鳥がギィーギィーと鳴き、同時にピピピピと違う鳥のような声もする。

喉がイガイガしている。

下腹が微かに重く感じる。

頭の麻痺に注意が向き、バランスの悪さも同時に感じている。


さて、というわけで本日は16時ごろに目覚めました。

洗面と歯磨きをして坐禅を40分行います。

和室に籠って、扉はすべて閉めて、昔教わった下腹の据え方の動作から入る。

坐っていると母親が起こしに来たらしく何度か名前を呼び、襖を開けて、無言でどこかへ消えた(笑)

坐っている最中もずっと思念的な流れが続いているが、そこに、注意を割って入らせていく。

今現在、ここにある、リアルな感覚、五感の開放である。

その五感の味わいを楽しむのが目的ではなく、その味わいが、真の自在へと導くことが目的である。

が、頭脳も心理も、静かにしていくのが、その方法である。

言葉と想念と動作と感覚をすべて止めていく、止めてみる。

その中で現れてくる、それ以前のもの、自然なるもの、対象ではなくもの、そういうものと繋がっていく。


で、座禅を終えると読書ですね。

煙草を吸いながらコーヒーです。

マイルドセブンのエクストラライトとAGFのインスタントコーヒー。

読むのは『ベルゼバブの孫への話』

今回はアシアタシーマッシュの聖なる仕事がすべて破壊されていく流れです。

ある両親の『かわいこちゃん』レントロハムサニンは「自由」を叫んで、統治を破壊する扇動を行います。

それに敏感に反応する『新型の知識人』

この知識人というのが、いつも、破壊の原因へと人を導いていくようです。

そして、その知識人が、お金と権威が原因となる信頼性によって、得た、その独創的アイデアを広める。

遂に派が形成され、守旧と革新の相互の憎悪が高まり。

得意の、自分と同類の者の頭を叩き割り、殺害しようという、どうしようもない衝動から、相互破壊が始まり、同時に、すべての善きものを一掃するのであった。


で、読書を終えてから、母親の家で食事です。

テレビで虐待を受けた子供たちの自立支援の特集をしていた。

食べたのは、ハンバーグとコロッケとサラダ、味噌汁、ご飯でした。

父親が「ズボン穿かないと寒いぞ」と言っていた。

母親はスーパーで、まったく商品とまったく違う金額を取られていたことに憤慨していた。


それからブログ更新ですね。


さて宗教の話題ですが、今日も短くいきます。

見たなら、見られたものだけがある。

聞いたなら、聞かれたものだけがある。

これが悟りの様子です。

そこの間に自己が挟まっているのが分離です。

じつは、この自己と、その見る聞くは同じなのです。

その透明の中にすべてがあるときに、透明は認知できないがために消える。

すると『コレしかない』というあの地平に達するのです。

そこには悟りはありません。

その行っていく、その生きていく、その無常、千変の日常、その、時々の在り様が、あるだけなのです。

つまり特別性はまったくありません。

にもかかわらず、ここで迷いが晴れているのは自己を見たからなのです。

その自己を見る事が、宗教の目的です。

それは何よりも近くにあるものなのです。

なにしろ己の本性なのですから(笑)


ほいでわ、またねー!

胸の奥の矢を抜く

2017-06-07 18:46:00 | 日記
こんばんは。

日を経るに従って時間が無い状況に追い込まれていますが、今日も更新します。

だいたい、いつも、このパターンw

今日は10分程度しかないので短めにしようかな。

いつもどおりの母親の家、リビングでの更新であります。

梅雨入りしたらしく空が暗くてよろしくない。

いつもにはないブーンという音がしているのだが、テレビの一時停止の音だろうか。

よくわからない。

時計の音は今日もしている。

父親は、すでに眠っている様子である。

疲れるのだろう。

珍しく母親も静かな様子で、台所からも物音がしない。

体は相変わらず疲れている。

精神的な重みは背中に来るが、その、重みからの突発的行動はさけねばならない。

下腹が微かに痛い。

なにやら、風のような機械音のようなものがしているが、わからない。

左の鼻の孔が感覚が戻る時特有のツンとした感じになった。


というわけで、本日は16時半過ぎに起きてきました。

母親から携帯に電話があり「車のキーは?」

玄関の鍵を閉めていたので取に来れないということだった。

ああ、今日も眠りすぎたと、そこで思う。

まあ7時間程度だから睡眠時間としては普通だろうが……。

母親の家にキーを届けて戻り、スマホを眺めながら煙草を一服。

あ、昆布茶も飲みました。

梅昆布茶の方が好きかもしれないが、昆布茶もなかなかおいしい。

いろんな宗教情報が書かれたサイトをめぐり、想像をたくましくする(笑)


それから坐禅40分ですね。

今日も不調ですが、じわじわと落ち着かせていき、終わりのころには質が変わりました。

こう、ポンっといきなり深くなりますね。

意識の中であれこれしてたのが、意識の外側から、そこへ割り込んでくるようにして、静けさに、深みに触れだす。

向こうからやってきているのだが、それは、こちら側の目覚めている意識が静まるからかもしれない。


で、座禅を終えて、読書です。

煙草とコーヒーも、もちろん、味わわせていただきます。

時間が無かったので焦り気味。

今日は僕の一番好きなアシアタシーマッシュの章。

『病気明日』出てきましたwwwwww

やらなければならないことを明日に引き伸ばし、そのうち老年の疾患がとか、恐ろしいことを書くw

で、ここでの話は、この『目覚めた意識』なるものが、どれだけ欺瞞に満ちており、潜在意識に沈静化した『良心』が目覚める事を抹殺し続けているかというところであります。

この2つの意識の内、感情の奥にある良心が主導権を取るようになればいいのです。

しかし、これは罪悪感とかではないです。

まあ、もちろん、そのように反省をすることは必要でしょうが、それをもとにして、また目覚めた意識さんが、自己攻撃、他者攻撃へと赴く。

そのようなものではなくて、もっと温かなものなのです。

その温かな良心が、目の前の出来事に、感応して、必要なことを努力するようになるのが理想なのかもしれません。


それから母親の家で食事をしてブログ更新をしていたのでした。

ご飯と味噌汁と鮭とサラダだったかな。

あせって放り込んでいた(笑)


さて宗教トークは今日も一言で!

意識の向こうに潜在した、その意識は自己の物ではなく、その明るさが、胸の奥の矢を抜く時、心身脱落である。


ほいでわ!

何もせずともそこにいる

2017-06-06 18:41:04 | 日記
こんばんは。

本日はかなり出勤時間が迫っているので短くなるかもしれませんが、更新します。

母親の家で焦り気味にキーボードを叩いている。

テレビで「シートベルト」の重要性を語る声がしている。

交通事故は悲惨なのにルールを守る人は少なかったりすると思うが「なんとなく」っていうのがあるだろうな。

みんなしてるとかね。

母親が「あ、味噌汁、真大、あんに」と言っている。

もはや飲んでいる時間は無い。

「あんた車のキーは?」と不機嫌そうにつぶやく。

この不平不満とヒステリック傾向は、もう30年以上前から同じだろうと想像するw

今日は時計の音がしている。

ジジジジジとトンッ、トンッ、トンッ。

体が疲れていてだるさを感じる。

喉に痰が絡んでいるような感じで調子が悪い。

光は夕方らしいが、寂し気で暗く感じる。

雄大な夕陽の時と、この薄暗い時とあるが、なにか灰色を感じるのは好きではない。


さて本日は16時半ごろにО先輩の電話で起きました。

手伝ってほしいことがあるのですが、僕は、仕事が被っているので難しそうです。

とりあえず電話を終えて「眠りすぎた」と考えながら煙草を吸い、スマホをのぞく。

それから坐禅40分です。

今日はちょっと精神的に安定していなかったのですが、落ち着けようとがんばっていたので、マシでした。

いつもの延々と続く他者への批判や、心配事への対応はあとでいっぱいさせてあげるからと、頭さんに語るのであります。

それでまあ、粘っていたので、まあまあでしたね。

このときに、リラックスできないのであれば、普段は、もっと難しい。

それが、なぜか、できていると錯覚するのだから人間は怖い生き物である。

自分の小指が負傷していても、まったく気が付かず、どこでしたかすら分からない。

そういう中でも「注意深く自己を思い起こしている」と頭は思い込んでいるというザマである(笑)

昨日の僕の実話ですw


ほんで、読書ですね。

ベルゼバブの孫への話ですが、バビロニアの知識人の話から遂にアシアタシーマッシュの登場までやってきました。

非常に聖なる個人。

バビロンで魂があるかないかの議論が絶頂に達している話。

一方は『二元論』であり、魂はあり死後は形態が変わるがある。

一方は『無神論』であり、魂などはなく「ひとつの法則」があるだけである。


これは現代でも宗教間の対立で鋭く現れている問題ですね。

まあ天国と地獄があり、その生前の行いにしたがって、神がしかるべき場所へ送るみたいなのと、そんなものはなく因果があるのみっての?

これは、まあグルジェフさんなら「魂は完成する可能性が与えられているが、そうでないものは無に帰すだろう」とか言いそうだな。


しかし、この辺りの理論に空想をたくましくした結果、数々の真理が生まれ、その『真理』なるものがバビロンを永久に破壊するのであった。

ここでの要点は、人間の理性は、どんなものでも真理と納得してしまうと言うことである。

トウモロコシが世界だと言われても証明されうるwwwwwwww


で、そのあとで母親の家で食事を済ませ、ブログ更新しているのでした。

山芋とマグロの丼、めちゃうまかった!



て、ことで、もう1分くらいしか猶予がありませんので、いつもの宗教トークは一言でw

その認知の先にあるのではなく、認知される以前に在るもの、なにもせずとも、そこにいる、そこが、人間の本性である。


ほいでわー、また!