♦️144『自然と人間の歴史・世界篇』アヴィニョンの捕囚

2018-06-01 09:04:20 | Weblog

144『自然と人間の歴史・世界篇』アヴィニョンの捕囚

 1309年、新教皇になったクレメンス5世が、南フランスのプルヴァンヌにある、教皇領アヴィニョンに居を移す。
 これには、フランス王フィリップ4世の政治的圧力があった。それは、1296年に遡る。まずはこの年、ローマ教皇のボニファチウス8世は、僧侶に対する課税禁止の教勅を発す。それは、「僧侶に対して俗人を」という言葉で始まり、聖職者への王権による課税には、あらかじめ法王庁の許可が必要だと諭すものであった。
 これに対するフィリップの反応は、フランス国内のいっさいの貴金属の国外持ち出しを禁じるというものだった。まさに、全面対立を策した訳だ。さほどの覚悟のなかったボニファチウスは、踵(くびす)を転じ、禁止規定を緩和し、妥協してしまう。
 2回目の衝突は、ほどなく起こった。フィリップが、ナルボンヌ司教の知行(ちぎょう)を削って、臣下のナルボンヌ伯に与えたのだ。司教はさっそく教皇に訴えた。教皇は王に使節を派遣し、善処するように求めるのだが。フィリップは応じず、かえってその司教の罷免を要求した。
 これに対し、教皇はさぞかし慌てたのであろうか、「聴け、最愛の子ら」という教勅を発し、法王権力の絶対性をいう。そして迎えた1302年、フィリップはノートルダムに三部会を招集し、法王庁を弾劾する決議を行う。それに対する教皇の回答へと、事態は複雑化し、のっぴきならぬものになっていくのだが。
 一連のつばぜり合いに疲れたのか、教皇ボニファチウスは病に倒れ、死ぬ。とりあえず後継となったのは、ベネディクト11世だが、もはやローマ教会にはフランスの強圧を跳ね返す力はなかった。ベネディクトの後の教皇に就任した、ボルドーの大司教であったクレメンス5世の時代になると、前述のとおり、今度はローヌ川に沿った教皇領アヴィニョンがローマに事実上とって代わる。
 これにより、かつての「カノッサの屈辱」にみるような、教皇の権力の誇示はなくなる。それからの約70年間というもの、法王権はフランスに閉じこめられ、細々と生きるのを余儀なくされるのである。

(続く)

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