♦️446『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮戦争(泥沼化~停戦)

2018-06-12 21:08:11 | Weblog

446『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮戦争(泥沼化~停戦)

 このままでは戦況が劣勢になる。そう考えたアメリカ政府は1950年12月15日には、国家非常事態宣言をし、それまで150万であった兵力を350万人に増やす。
 ここでトルーマンは、戦況の立て直しをはかるためには原爆投下も辞さずの態度をほのめかし、またマッカーサーは中国東北部への爆撃を主張する。ここで、事態が大規模化するのを恐れたイギリス首相クレメント・R・アトリーが朝鮮に限定すべきだとアメリカに進言する。
 折しも、アメリカ自身も局地戦争から広範囲への戦争拡大への懸念が増してくる。ここに及んで、中国側への大規模攻撃を思いとどまる。それとともに、1951年4月11日には強硬派のマッカーサーを解任する。
 1951年6月23日になって、ソ連のマリク国連代表による停戦案が出される。これを国連軍側が受け入れる形で、7月10日には停戦交渉が始まる。しかし、これに手間取り、1953年7月27日になってようやく停戦交渉の妥結にこぎ着ける。この間、アメリカの連邦予算に占める軍事費は「1940年代後半の45.5%から1950年代前半には62.2%に増加した。この戦争でのアメリカ軍の死者は約3万3千人と伝えられる。
 果たして、中国軍が北朝鮮を支援して参戦してからの戦局は、膠着状態になっていく。1953年に、北緯38度線で双方による休戦協定が成立した。
 約4年にわたる民族内戦争で、全国の国土、生産設備は焦土と化した。その後のことだが、1961年末頃までの韓国経済は、まだ経済後進国に過ぎなかった。天然資源に乏しく、国民生活に必要な物資はもとより、さまざまな一次産品も輸入に頼っていた。

(続く)

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♦️446『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮戦争(発端)

2018-06-12 21:06:49 | Weblog

446『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮戦争(発端)

 第二次世界大戦後、朝鮮半島は南北に分断される。1948年8月、南に位置する大韓民国で憲法が制定された。これから李承晩(イ・スンマン)政権が倒壊するまでを第一共和制(1948年~1960年)と呼ぶ。
 1950年1月末、アメリカと大韓民国(韓国)とは米韓相互防衛援助協定を締結した。
これより前の1948年12月、国際連合(国連)の第三回総会で世界人権宣言を採択したばかりの出来事であった。
 この軍事同盟に勢いを得たアメリカのトルーマン政権は、1950年1月30日に全面的な軍事介入を指令した。
 そのアメリカの参戦理由については、トルーマン大統領の弁(その一部)にこうある。
 「韓国への攻撃は、共産勢力が独立国家を征服するために転覆工作以上の手段にまで踏み込み、軍事侵略や戦争に訴えるのも辞さないことを疑う余地のないほど明確に示した。
 共産勢力は、国際平和と安全を確保するための国連安全保障理事会が発した命令に挑戦してきたのである。
 このような状況の下では、共産軍による台湾の占領も、太平洋地域の安全とこの地域で合法的かつ不可欠な任務を果たしている合衆国軍に対して、直接的な脅威になるものである。」(トルーマンの挑戦戦争介入についての声明(1950年):大下尚一ほか編「史料が語るアメリカーメイフラワーから包括通商法まで、1584~1988」有斐閣、1989)
 そして迎えた1950年6月25日、北朝鮮軍が南朝鮮に進攻し、同8月には釜山周辺以外の地域が北側の支配下に入れる。同6月26日、国連が緊急安全保障理事会を開いて、北朝鮮軍の攻撃即時停止を求める決議案を、これに反対するソ連の欠席のうちに9対0で採択した。
 この年の10月7日には、国連が朝鮮半島の武力統一のため38度線以北への軍の進攻を容認した。10月1日、「国連軍」は中国からの警告を無視して38度線を突破した。中国はこれに対抗するべく義勇軍を派遣し、国連軍の動きを牽制する。そらに11月末の中国軍総攻撃で、「国連軍」は38度線以南に退却を余儀なくされていく。

(続く)

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♦️200『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの清教徒革命(ミルトンの場合)

2018-06-12 20:29:30 | Weblog

200『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの清教徒革命(ミルトンの場合)

 想い起こしてみると、イギリスの清教徒革命期のことであった。詩人として名を馳せたジョン・ミルトン(1608~1674)は、革命に尽力することと、自らの芸術の遂行との関係を、あたかも表裏一体のものとして考えていたのかもしれない。少なくとも、私たちにそう考えさせるような生き方であった。
 イギリス社会を揺るがすその時期に、彼は革命の言動力の一つとなっていた。共和派のオリバー・クロムウェルの陣営に属し、果敢な政治活動を行う。彼の詩は格調が高くして、しかも覇気に満ちている。それが、大衆を勇気付けたのは間違いあるまい。
 しかも、その間の彼は、昼夜を分かたず、集会へ抗議や某へと、寸暇を惜しんで出掛けていった。自宅に帰ると、自らの陣営のために明日への仕事を行う。体調は、決してかんばしくない。それなのに、そういう不規則、かつ苛酷な生活をしていると、体の方が悲鳴を上げるものだ。
 その最中であったろうか。ついに、彼は失明する。後にその時を振り返り、次のような詩(日本語訳)をものにしている。
 「人生の道半ばにも達せずして、この暗き世界でわが明(めい)を失い、
隠匿(いんとく)するにはその罪万死に値すといわれるわがータレントの才を
内に蔵したまま無に帰せしむるのではないか、と思い、
しかも、かつては全身全霊をあげてこの才を用い、主に仕え、
主の再臨に際しては、その成果を正直に申告し、
主の叱責を免れたい覚悟であったことを思うとき、
私は愚かにも呟く、ー光を奪われた者からでさえも、
主は終日の激しき労働を求め給うのであろうか、と。
すると、「忍耐」は忽(たちま)ち私の泣言を遮って言う、ー
主は与えた賜物(たまもの)の返却も人間の業(わざ)も求められはしない、
やさしき軛(くびき)をよく負う者こそ主によく仕える者なのだ。
 主の御国(みくに)は勢威に富み、主の命ひとたび下れば、
数万の天子の大軍休むことなく陸と海を超えて駆けてゆく。
ただ佇立(ちょりつ)し、ただ持つ者もまた主に仕えている者なのだ、と。」(ジョン・ジョン・ミルトン「わが失明について想う」:平井正穂編「イギリス名詩選」岩波文庫、1990より転載)
 その実、ミルトンの人間観には厳しいものがあることを、西脇順三郎氏は、こう指摘しておられる。
 「Miltonはクロムウェル政府の代弁者としてPuritanの思想をその文学の中に残している。彼は英国の詩に伝統を残したのみならず、当時のPuritan派の論客として、種々の方面で種々の説を唱えている。彼の詩に表されている思想は、悪の問題であった。(中略)
 そうした悪と人間との関係において人間を見るのであって、神はMiltonにとっては正義の根元であった。彼にとっては理想化された人間のみが人間である。Shakespeareの如く人間性を広くみなかった。
 Shakespeareの文学になると人間の悪の方面をもそのままにありのままに見てゆき、むしろ悪を気の毒に感じ、人情をもってできるだけ人間を抱擁しようとするのである。Miltonになるとそういう不合理な悪の人間はこれを排斥するのである。ここにMiltonがPuritanの説教家といわれる誘因がある。」(西脇順三郎(安藤伸介・改訂)「近世英文学史」慶応義塾大学通信教育教材、1977)

(続く)

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♦️357『自然と人間の歴史・世界篇』九か国条約(1922)

2018-06-12 10:46:55 | Weblog

357『自然と人間の歴史・世界篇』九か国条約(1922)

1922年には、いわゆる「九か国条約」が締結される。これより前の1921年11月より開催されていたワシントン会議において、翌年2月にアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル及び中国との間で話し合いがまとまる。
 その第1条の文頭には、こうある。
「中国以外の締約国は如何にと同意する。」
 続いての、(2)~(4)項には、こう記される。
 「(2)中国の主権、独立、領土的および行政的保全を村長すること。
(3)中国に対し、独力で効果的かつ安定した政府を発展・維持させるためのもっとも十分かつ支障のない機会を提供すること。
(4)友好国の臣民あるいは市民の権利を減殺(げんさい)するような特別な権利ないし特権を求めるために、中国における情勢を利用したり、友好国の安全に有害な行動を是認したりすることを差し控えること。」(大下尚一ほか編「史料が語るアメリカーメイフラワーから包括通商法まで、1584~1988」有斐閣、1989)
 これからも窺えるように、中国以外の当事者による眼目であったのは、中国の主権を尊重しながらも、これまで築いてきた権益は継承・発展させていく。その上で、互いに抜け駆けをしないよう、くれぐれも念押しする条項がこの後続く。
 イギリスや日本といった、当時の中国に特別の権益を維持していた国が張り合う中での、このような合意がなされたのには、アメリカの新外交があったとみられている。
 そもそもアメリカは、19世紀の後半から、それまでの「モンロー・ドクトリン」(1823)を改める対外積極策に打って出ていた。その「成果」としては、通常次の流れがあるとされる。
 1867年には、ロシアからアラスカを購入する。また、ミッドウェー島を手に入れる。1898年にはフィリピン諸島とグアァム島、それにハワイ諸島を、1899年にはウェーク島をそれぞれ手に入れる。また、サモア諸島については1889年にアメリカとイギリスそれにドイツの三国共同支配としていたのを、1899年には分割領有へと進む。さらに、カリブ海上のプエルトリコを1898年に手に入れる。
 それからは20世紀に入って、1903年にはパナマ運河地帯の永久租借を、1917年にはカリブ海上のヴァージン諸島という具合に、海外領土の拡大に努めてきた。 

(続く)

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♦️262『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのモンロー主義(1823)

2018-06-12 10:45:58 | Weblog

262『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのモンロー主義(1823)

 1823年12月、アメリカの第5第代大統領モンローは、その教書の中で、次のように述べる。
 「われわれは、率直に、また合衆国とこれらの諸国との間に存在する友好関係のために、次のように宣言する義務があります。
すなわち、われわれはヨーロッパの政治組織をこの西半球に拡張しようとするヨーロッパ諸国側の企ては、それが西半球のいかなる部分であれ、われわれの平和と安全にとって危険なものとみなさねばならない、と。
 われわれは、いかなるヨーロッパ諸国の現在の植民地や従属地にも干渉したことはなかったし、今後も干渉するつもりはありません。
 しかし、すでに独立を宣言し維持している政府、しかもその独立をわれわれが十分な検討を加え正当な原則にもとづいて承認した政府の場合には、これを抑圧することを目的としたり、ほかのやり方でその運命を支配することを目的とするヨーロッパ諸国による介入は、どのようなものであっても、合衆国に対する非友好的な意向の表明としか見ることはできません。」(富田虎男訳「史料が語るアメリカ」有斐閣)
 これにより、ヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱する。その背景には、特にラテンアメリカにおいて、ナポレオン戦争後に本国スペインなどの束縛を破って独立を達成しようとの動きが出て来ていた、ウィーン会議(1814~1815年に、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された国際会議)後のヨーロッパ列強はこれを押さえようとしたことがある。これは、アメリカ独立の理念の理念と衝突するものであったから。
 それに加えて、アメリカは、自らにほど近い場所での列強の活動に脅威を覚えたのであろうか。むしろ考えられるのは、それから前に向かってのアメリカの国の在り方をめぐらしている中での、より積極的な出来事であったのではないか。
 その後、ラテンアメリカ諸国はこの宣言の力もあって、ブラジルなどが独立に成功していく。ところが、その間に、アメリカはこの地域に新たな権益を獲得し、それを拡大していくことになっていく。

(続く)

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♦️201『自然と人間の歴史・世界篇』17世紀オランダの絵画(フェルメール)

2018-06-12 09:20:28 | Weblog

201『自然と人間の歴史・世界篇』17世紀オランダの絵画(フェルメール)

 ヨハネス・フェルメール(1632~1675)は、17世紀のオランダを代表する、独特の画風をものにしていた。
 1647年頃には、画家になろうと修行を始める。デルフトを出て誰かに師事することもあったのかもしれない。1653年末、親方画家として聖ルカ組合に加入をはたす。この年の春に結婚していたことから、生活の安定をも求めたのだろう。初めは、宗教などをテーマに「物語画家」を目指したものの、25歳頃には、次に繋いでいくため、より需要の見込める「風俗画家」への転身を図る。
 やがて一閃のような心境の変化があったのかもしれない。画業が本格化するのは、1650年代後半からであった。「眠る女」(1656~57)や「窓辺で手紙を読む女」(1658~59)、それに「士官と笑う女」(同)や「牛乳を注ぐ女」といった作品群では、光がじんわり射し込む室内での、庶民らの仕草とか、語らいとかが描かれる。特に、「牛乳を注ぐ女」では、壺に注がれる牛乳のしたたりに見入ってしまう。
 これらにあるのは、作家の目の前で繰り広げられる、庶民の日常の姿だ。迫真というのではないものの、じっくり眺めているうち、なぜだか、自分もその中に吸い込まれてゆく。
 1660年には、「デルフト眺望」を発表する。南側のスヒー港から眺めた姿であり、陽がまだ明け切らない、しばしの朝の風景をとらえたものだろうか。著名な画家となってからの彼は、ちょっとした外出はあったものの、終生この町を離れることはなかったようだ。
1663年以後は、「手紙を書く女と召使」や「ギターを弾く女」などをものにしていく。優しいタッチにして、慎ましやか、当時の人びとの精神生活の一端が窺えるのである。調度品や登場人物の衣服など、それらへの光の当たり具合などからは、超人的かとも思われる、細部への拘りが窺える。
 1668年には「天文学者」を、翌1669年には「地理学者」を描いた。この二つは「寓意画」と呼ばれるものであって、当時の新鋭オランダの意気込みを感じさせる。1670~72年には、聖ルカ組合の理事に選ばれており、その画業で地方の名士に叙せられていたのかもしれない。
 まだ43歳の若くにして死んだのには、貧窮によるものがあったのだろうか。その死の4か月後に、妻カタリーナが自己破産を申請し、デルフト市が認可している。これだと、晩年は蓄えの乏しい生活であったのではないか、と推察される。その頃、絵画に対する需要が急に冷え込んだともされる。それにいたる原因まではよくわからない。
 参考までに、小林賴子氏は「力をつけてきた周囲の列強諸国が祖国の脅威となるや、フェルメールの周囲にも波風が立ち始める」(小林賴子「フェルメール、生涯と作品、改訂版」東京美術、2007)とされる。

(続く)

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