○○87『自然と人間の歴史・日本篇』鎮護国家(行基と土木事業)

2018-06-26 20:41:21 | Weblog

87『自然と人間の歴史・日本篇』鎮護国家(行基と土木事業)

 こうした仏教を精神的中核とする鎮護国家の体制づくりに関わった者に、行基(ぎょうき)がいる。彼は、この時代の朝廷と民衆との間を行き来しつつ、それまでの日本史で比類のないような土木事業に才能を発揮した。その行基は、668年(天智大王7年)に河内国(現在の大阪府堺市)に生まれた。父母に両方とも百済からの渡来の士族であって、特に、父は高志氏(和泉の国)は王仁(わに)の後裔とされる西文(かわちのあや)氏の一族であったという。
 15歳にして出家し、道昭を師として法相宗に帰依する。24歳のときに受戒し、はじめ法興寺に住し、のち薬師寺に移る。それでも飽きたらずやがて山林修行に入り、一般の僧とは別の道を歩んでいく。37歳の時、思うところあったのか、山を出て民間布教を始めたとことになっている。どこぞの寺にこもって修行したり、檀家の人達へ仏事を与えたりするよりも、弟子たちを率いて、諸所の要害の地に橋を造り、場防を築くなどの社会事業にこそいそしんだ。人々は、進んで彼の元にやってきて仕事に協力したので、大いに事業が進んだらしく、人心掌握は並外れていたらしい。
 けれども仏教界の中では異端視され、長らく不遇の時を過ごした。710年(和銅3年)の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発した。行基はこれら逃亡民に救済の手をさしのべ、行基の下で私度僧となることで食べていけることになっていたらしい。
 717年(霊亀3年)になると、元正天皇の時の朝廷から、「小僧行基」と名指しで非難され、その布教活動を禁圧される。この時の詔は、こう伝わる。
 「いま小僧の行基とその弟子たちは、道路に散らばって、みだりに罪業と福徳のこと(輪廻説に基づく因果応報の説)を説き、徒党を組んで、よくないことを構え、(中略)家々をめぐり、いい加減なことを説き(中略)人民を惑わしている。(中略)今後このようなことがあってはならない。このことを村里に布告し、つとめてこれを禁止せよ」(『続日本紀』)。
 こうした弾圧にもかかわらず行基集団は、主として畿内の人民大衆と結びつきを強めることで、生き延びていく。723年(養老7年)に三世一身法に発布されると、彼とその技術集団は、各地の土豪や農民などによって招かれるようになっていく。731年(天平3年)、朝廷は61歳以上の優婆塞と55歳以上の優婆夷の得度を許す。
 続いての740年(天平12年)頃までに、行基は薬師寺の師位僧(五位以上の官人と同等の上級官僧)として認められる。それからの彼らは、恭仁京の造営から東大寺の大仏建立に至るまでの、数多くの政府事業の担い手となっていく。
 745年(天平17年)には、聖武天皇が紫香楽宮において行基を大僧正に任じた。747年(天平19年)には、光明皇后が天皇の眼病平癒を祈り、行基らに新薬師寺の建立を命じる(『東大寺要録』)。その2年後の749年(天平21年・天平勝宝元年)旧暦1月、行基は聖武天皇に戒を授けるのだった。その2月、菅原寺(喜光寺)東南院で世を去る。釈迦死去の時と同じく右脇を下にしながら、眠るが如き平凡な様子で逝ったと伝わっている。鎌倉時代に、行基の骨壺が発見され、これを保護した胴筒の側面に一代記が記されてあったことが伝わっている。
 そのことが『大僧正舎利瓶紀』(唐招提寺蔵)にまとめられていて、当該の全文も収録されているのだ。奇遇というべきだろうか、この胴筒の破片のみが現存している。この部分は「行基墓誌残欠」(749年(天平21年))として、旧法の「重要美術品」のままで伝わっている。
 その形が不自然なことから((朝日新聞、2015年2月28日付けに写真が掲載)、原文本来の当該箇所である「聖朝崇敬法侶歸服天平十七【年別】授大僧正之任竝施百戸之封于【時僧綱已備特居其上雖】然不以在懐勤苦彌【まだれに萬】寿八十二廿【一年二月二日丁】酉之夜右脇而臥正念如常奄終」のうち、「年別」、「時僧綱已備特居其上雖」そして「一年二月二日丁」のみしか読み取れない。ちなみに、行基の没した年は東大寺大仏の開眼会の3年前のことで、鋳造の佳境を迎えていたことだろう。

(続く)

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○○85の2『自然と人間の歴史・日本篇』鎮護国家(大仏の造営、)

2018-06-26 20:39:39 | Weblog

85の2『自然と人間の歴史・日本篇』鎮護国家(大仏の造営、743)

 そして迎えた743年(天平15年)、聖武天皇が『盧舎那仏造顕の詔』を発布した。
 「朕(ちん)薄徳(はくとく)を以(もち)て、恭(うやうや)しく大位を承(う)く。志(こころざし)兼済に存して勤(つと)めて人物を撫(ぶ)す。率土(そつと)の濱(ひん)、既に仁恕(じんじょ)に霑(うるお)うと雖(いえど)も、而(しか)も普天(ふてん)之下(もと)未だ法恩に洽(あまね)からず。
 誠(まこと)に三寶之威霊に頼りて、乾坤(けんこん)相泰(やすら)かに、萬代之福業を修めて、動植咸(ことごと)く栄えんことを欲す。粤(ここ)に天平十五年歳次癸(みずのえ)未十月十五日を以て、菩薩の大願を發(おこ)して、盧舎那佛金銅の像一躯(いっく)を造り奉(たてまつ)る。國銅を盡(つく)して象(かた)を鎔(と)かし、大山を削りて以て堂を構え、廣く法界に及(およぼ)して、朕が知識と為し、遂に同じく利益(りやく)を蒙(こうむ)りて、共に菩提を到さしめん。夫れ天下の富(とみ)を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢(いきおい)を有つ者は朕なり。此の富勢を以て、此の尊像を造ること、事の成り易(やす)くして、心は至り難し。
 但し恐らくは徒(いたずら)に人を労(つから)することありて、能く聖を感(かまく)ること無く、或いは誹謗(ひぼう)を生(おこ)して、反(かえ)って罪辜(ざいこ)に堕せんことを。是の故に、知識に預(あずか)かる者は、懇(ねんご)ろに至誠を發っして、各(おのおの)介福(おおいなるふく)を招き、宜(よろ)しく日毎に盧舎那佛を三拝し、自(おのずか)ら當(まさ)に念を存し、各(おのおの)盧舎那佛を造るべし。
 如(も)し更(さら)に、人の、一枝(ひとえだ)の草(くさ)、一把(ひとにぎり)の土(ひじ)を持(もち)て、像を助け造らんことを請願するものあらば、恣(ほしいまま)に之を聴(ゆる)せ。国郡等の司、此の事に因(よ)って、百姓(ひゃくせい)を侵(おか)し擾(みだ)して、強(し)いて収斂(しゅうれん)せしむること莫(なか)れ。遐迩(かに)に布告して、朕が意(こころ)を知らしめよ。」
 彼がこれを発表した地は、当時都であった山背国の恭仁宮(くにきょう)ではなく、紫香楽宮(しがらきのみや)であった。当時は天変地異による凶作や伝染病の蔓延などが相次いでいた。これらが天皇を憂えさせ、大仏造営を決意させる。とはいえ、詔の後段に「夫(そ)れ天下の富を有(たも)つ者は朕(われ)なり。天下の勢(せい)を有(たも)つ者も朕なり」とあるのは、いかにも傲慢に過ぎる。
 7世紀まで重きをなしていたであろう「和を以て尊しとなす」の政治方針からも、大きく乖離している。文字通り、権力者の上から目線の言葉と受け取れる。むろん、処々の工事を請負い、また労働に従事させられたのは臣民に他ならなかった。大仏が完成したのは752年、孝謙天皇の治世のことであった。
 造立されたのは盧舎那仏(るしゃなぶつ)といい、大乗仏教経典『華厳経』に出てくる、あの太陽の化身にして、宇宙大のスケールを持つ。一説には、座った高さが釈尊の身長の10倍することを見込んでいたことから、15メートルもの巨人に仕立て上げられたのだとも伝えられる。
 国家の事業面では、752年(天平勝宝4年)、聖武天皇の発願(ほつがん)から約9年の後、東大寺の大仏が出来上がる。大仏に塗るための黄金が陸奥国(むつのくに)から朝廷に貢納され、これを施して光り輝いたことだろう。この「盧舎那大仏の開眼供養」、つまり開眼会(かいがんえ)の模様が、『続日本紀』の「天平勝宝四年夏四月乙酉」の条に、こう見える。
 「盧舎那大仏の像も成りて始て開眼す。この日東大寺に行幸す。天皇みずから文武百官を率い、斎を設けておおいに会せしむ。その儀もはら元日に同じ。(中略)僧一万を請ず。すでにして雅楽寮及び諸寺より種々の音楽並びにことごとく来集す。また王臣諸氏の五節、久米舞、楯伏、踏歌、袍袴等の歌舞、東西より声を発し、庭を分ちて奏す。作す所の奇偉あげて記すべからず。仏法東帰より、斎会の儀いまだかって批の如くの盛なること有らざるなり。」

(続く)

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○48の1『自然と人間の歴史・日本篇』鎮護国家と地方(国分寺・国分尼寺建立へ)

2018-06-26 20:38:12 | Weblog

48の1『自然と人間の歴史・日本篇』鎮護国家と地方(国分寺・国分尼寺建立へ)

 さて、美作から歩いて2泊程度旅したところに出雲があるのではないか。『出雲風土記』には、出雲の土地とか川とか、産物とかが詳しく述べられている。その出雲の、八雲山(やぐもやま、同記には「須賀山、御室山」として登場する)を背にした辺りには出雲大社が建てられている。
 『古事記』のすさのおの命の歌「八雲立つ出雲八重垣つくるその八重垣を」の最初の和歌を詠んだ、という伝承にあやかり、『古今集』の仮名序にこうある。
「ちはやぶる神世には歌の文字も定まらず、すなほにして、言の心わきがたかりけらし。人の世となりて、すさのをの命よりぞ、三十文字余り一文字は詠みける。」
(大意)神代には歌の字数も一定せず、心のままに歌ったので、歌の意味も理解しにくいものであったらしい。人の世になって、スサノオの命から短歌は三一文字に詠むようになったのである」(織田正吉『「古今和歌集」の謎を解く』講談社選書メチエ、2000)と。なお、『万葉集』や『古事記』など当時の大和朝廷肝いりの文書が漢文で書かれたのは、今日の日本語の骨格がこの頃までに基本的に定まったことを示唆している。
 733年(天平5年)には『出雲風土記』の編纂がなり、朝廷に提出された。大和朝廷から命じられたのは713年(和銅6年)とされる)であった。この時点では、新羅や唐との緊迫した外交関係の成行きが定まっておらず、その後の成り行き次第では本土に攻め込まれることをも視野に入れなければならず、ついては朝鮮半島と対峙する北九州や山陰諸国の地勢、各地との里程などを正確に把握しておくことが求められたのではなかったのか。
 こうした時代背景からは、一度完成した『出雲風土記』が手直しを要求され、姑息ながら、軍事目的を満たすよう編纂し直した可能性も出てくる。その風土記が733年(天平5年)に提出され、その写本が現代に残ったということも、あり得ないことではないように思われる。ともかくも、ヤマト政権にとって、新羅が油断ならざる敵国であったと考えれば、出雲の勢力としては、中央政府に配慮して一字一句を慎重に吟味しながらの編纂であったことが想像できる。


 おりしも、720年(養老4年)、元正天皇の治世において、朝廷の大立て者の藤原不比等が死ぬと、長屋王が政治の空白に乗じて政権の中心に座る。これに、不比等の遺児である藤原四兄弟らは不満を露わにする。729年(神亀6年)、宮廷に長屋王が国家転覆を謀っているとの密告があった。これに乗じた藤原一門の一部が長屋王の館を取り囲み、彼を自殺に追い込んだ。この事件は、後にえん罪であったことの記述が『続日本紀』にある。
 このような中央政界の不安定な中、政権にとって地方の豪族の懐柔は、統治への組み込みに欠かせない。稲作と鉄製器具の力をもってやがて東へ西へ、そして北へと、その支配の網を広げていく。


 741年(天平13年)、聖武天皇の詔(みことのり)により「国分寺・国分尼寺建立の詔」が出された。『続日本書紀』に、こう紹介される。
 「・・・・・宜(よろ)しく天下諸国をして各敬(おのおのつつし)みて七重塔一区(ななじゅうとういっく)を造り、あわせて金光明最勝勝王経(こんこうめいさいしょうおうきょう)、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)各一部を写さしむべし。・・・・・僧寺には必ず廿僧有(にじゅうそうあ)らしめ、其の寺の名を金光明四天王護国之寺(こんこうしてんのうごこくのてら)と為し、尼寺(にじ)には一十尼(いちじゅうに)ありて、其の寺の名を法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)・・・・・」(『続日本紀』)


 この「金光明四天王護国之寺」は国分寺のことで、僧を20名入れる。本尊は、『華厳経』に出てくる毘盧遮那仏(るびしゃなぶつ)とされる。奈良東大寺に総本山をおく。この寺はその後二度焼け落ちた。現在の建物は、1709年(宝永6年)に再建された三代目のものだ。
 一方、国分尼寺(こくくぶんにじ)は、「法華滅罪之寺」(ほっけめつざいのてら)と称し、10名の僧をおく。こちらの総本山は法華寺である。寺建立発願の理由は、仏教神の加護による五穀豊穣(ごこくほうじょう)と国家の繁栄なのであった。
 かかる詔が全国に下された後の744年(天平16年)には、国分寺・国分尼寺建立の督促、756年(天平勝宝8年)には同天皇の一周忌に間に合にあわせるため再度の督促が行われた。759年(天平宝字3年)にも、寺図面の配布を行うなどして、諸国の国司に建立の念押しがなされた。


 これにあるのは、朝廷が前面に立っての鎮護国家の体制づくりであって、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇の3人は、東大寺に設けた戒壇(かいだん)において、中国の唐(とう、中国読みでは「タン」)から招聘(しょうへい)した鑑真(がんじん)から戒を受けている。その後には、当時の知識階級の代表格としての僧侶が、かかる戒律を修得することによりし公の地位を与えていく、そうした上での、全国津々浦々にまで国家権力を及ぼしでいくことを意図していた。


 こうした朝廷からの度重なる命令を受け、地方も重い腰を上げざるを得なくなっていく。8世紀後半、旧吉備の国のうち備中において国分寺と国分尼寺が建立される。それは、現在のJR伯備線総社駅から徒歩で約30分のところに立てられた。これらの建物は、鎌倉末期から南北朝時代の初めにかけて、兵火または落雷による火災で焼失した。その後、江戸期の1710年(宝永7年)になって、日照山国分寺として再興され、現在に至っている。2014年現在、数在った伽藍の中でも、五重塔が再建されており、国の重要文化財となっており、往時を偲ばせている。

(続く)

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○○84『自然と人間の歴史・日本篇』奈良・天平の政治(対外政策)

2018-06-26 20:37:04 | Weblog

84『自然と人間の歴史・日本篇』奈良・天平の政治(対外政策)

 対外政策では、相変わらず不安定な政治状況の中の754年(天平勝宝6年)、朝廷は全国の国司の監察を名目に、諸国に巡察使(じゅんさつし)を派遣した。『続日本紀』の同年の条には、「従五位下阿部朝臣毛人を山陽道使となす」との記述が見える。朝廷は又、海の向こうからの勢力に対しても、朝廷は警戒を怠らなかった。
 755年(天平勝宝7年)の朝廷は、太宰府管内の諸国の郡家に対し、兵衛一人と采女(うねめ)一人を供出するよう命じている。これは、孝謙天皇が唐や新羅からの侵略を意識しての防備固めであったのではないか。757年(天平宝字(ほうじ)元年)になると、太宰府の防人に板東に代え、西海道から派遣された兵士を充てる兵制改革を行っている。
 おりしも、百済の滅亡から数十年の後、新羅の金相貞の使節が、平城京にやってきていた。新羅とは、かつて敵対していた我が国であったが、この頃には、中国の唐との国交とともに、朝鮮との交通復活していたのだと考えられる。この時代の大陸との窓口は、九州の太宰府であった。遣唐使は、702年(大宝2年)に再開されていた。
 その後も、717年(養老元年)、733年(天平5年)と続けられる。8世紀前半の遣唐使は、太宰府から五島列島を経て東シナ海を横断するルートがとられていたと伝えられる。加えるに、養老年代に入ってからの日本と渤海(ぼっかい)との間で、交易や交流が盛んに行われていく。
 この時代の日本は、現在よりもっともっと朝鮮半島との関係が密であった。現在の天皇家も朝鮮半島の当時の王朝や豪族たちとの関係も、戦後の韓国側の発掘によっても徐々に明らかになってきている。だから、天皇家の系譜は何らかの形で「朝鮮とゆかりがある」と考えるのが自然である。天皇陵の造営には、当時の人民がこれらの造営に労役にかり出されている。
 それらのことは、メソポタミア、エジプト、インダス及び中国の四大文明の古さと人類史に与えた影響には遠く及ばない。それでも、私たち日本人にとっての古代史、その国家設立のルーツを正しく伝えることが重要である。

(続く)

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○○83『自然と人間の歴史・日本篇』奈良・天平の政治(相次ぐ争乱、722~764)

2018-06-26 20:34:19 | Weblog

83『自然と人間の歴史・日本篇』奈良・天平の政治(相次ぐ争乱、722~764)

 奈良・天平の頃の国内は、律令制度の下ではあったが体制は安定しておらず、そのため何かと政情が不安であった。主な政治上の変事だけでも、かなりを数える。まずは722年(養老6年)の多治比三宅麻呂謀反誣告事件が起こる。天皇に対する謀反を誣告したとして斬刑に処せられることになったものの、首皇子(のち聖武天皇)の奏請によって減刑されて伊豆への流罪で済んだ。
 続く729年(神亀6年、8月5日に改元して天平元年)旧暦2月に起こったのが、「長屋王の変(ながやおうのへん)」である。これは、聖武天皇への謀反の疑いあるとして当時政権を牛耳っていた皇族の長屋王(天武天皇の子である高市皇子の子、彼は天武天皇と後の持統天皇との子である草壁皇子の娘・吉備内親王を妻としていた。
 なお、草壁皇子が28歳で亡くなったため、草壁の母が即位して持統天皇となり、やがて孫の文武天皇の即位を実現することになっていく)が訴えられた。同夜には、藤原氏の息のかかった兵が長屋王の館を囲んだ。
 不意を突かれた格好の長屋王は、なすすべがなかったのだろうか。翌11日には、舎人(とねり)・新田部の両親王、大納言の多治比真人池守(たじひのまひといけもり)、中納言の藤原朝臣武智麻呂らの面々が王を糾問し、12日には自刃が勧告されるという慌ただしさであった。内室の吉備内親王や、その腹に生まれた嫡子の膳夫王(かしわでおう)も、本人に殉じた。これは、藤原氏の四人の兄弟が自分達の手に権力を奪う目的で計画した陰謀事件であるというのが定説となっている。
 ここに藤原四兄弟とは、藤原不比等(ふじわらのふひと、729年(養老4年)に死去)の息子の藤原武智麻呂(ふじわらむちまろ)、藤原房前、藤原宇合(ふじわらうまかい)及び藤原麻呂(ふじわらまろ)のことをいい、朝廷の政道を担う9人の公卿の内の4人を占め、藤原四子政権を確立した。
 彼らが推した藤原宮子(ふじわらみやこ))なる女性は藤原不比等の娘にして、後に天皇になる文武(もんむ)に嫁ぎ、この二人の間に生まれたのが首(おびと)皇子こと、後の聖武天皇である。そしてこの天武・草壁系の聖武が天皇に即位するまでは、病弱であった文武の跡、文武の母である元明天皇、次いで文武の姉の元正天皇と、女帝が続くのであった。
 さて政治経済面で、彼らが取り組んだものにいわゆる「班田再分割」があるが、これは、従前全戸毎に前回の班田合計額との差額だけを国家財政に収受していたのを止め、全ての口分田を全て収納の後に改めて全人民には配給し直すことが目指された。ところが、彼らが主導する朝廷立て直しを目指した政治の道半ばにして、737年(天平9年)に相次いで病死してしまった。
 その4人ともに、当時流行していた天然痘にかかり、命を失ったものと見られる。この藤原四兄弟の突然の死後は、737年(天平10年)に藤原氏に敵対する皇族の橘諸兄(たちばなのもろえ、732~779)が右大臣に就任して国政を担うに至る。
 740年(天平12年)旧暦9月には、藤原広嗣(ふじわらひろつぐ、藤原宇合の長子)が九州の太宰府(だざいふ)で挙兵する。彼が立ち上がったのは、橘諸兄の下で吉備真備(きびのまきび)や僧の玄○(げんぼう)などの新興勢力が台頭しつつあったのを取り除こうとした。兵を挙げたのはまだしも、その先をよく考えていなかったのが災いしたのか、大した戦果がないまま追い詰められて敗死した。その乱が終息に向かうのを見越した聖武天皇は、740年(天平12年)に東国への「行幸(ぎょうこう)」に出る。ところが、帰還の際は平城京に戻ることなく、都を恭仁京(くにきょう、現在の奈良県木津川市加茂町付近)に移してしまうのだった。
 とはいえ、742年(天平14年)の塩焼王配流事件、744年(天平16年)の安積親王暗殺事件と続く、暗い世相であった。あるいは国家の災いをそこで絶とうとしたのかも知れないが、こうして聖武天皇が政治向きから遠ざかっている間に光明皇后の甥である藤原仲麻呂(ふじわらなかまろ)が、橘諸兄(たちばなのもろえ)にかわり権勢をふるうようになる。仲麻呂は、橘諸兄が死んだ後の757年(天平宝字元年)には橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱を平定、淳仁(じゅんにん)天皇(天武天皇の子舎人(とねり)親王の子)を擁立するに至る。
 この仲麻呂は朝廷から恵美押勝(えみのおしかつ)の名を貰い受け藤原恵美朝臣押勝となるのだが、孝謙(太上)天皇(女帝、のち再び即位して称德天皇となる人物)の下、僧の道鏡(どうきょう)が彼女の寵愛をほしいままにするに及んで、藤原仲麻呂の支援で孝謙天皇(女帝)の後継者となりえた淳仁天皇・仲麻呂ラインとの間で政治的対立が生まれていた。仲麻呂はこれに対抗して764年(天平宝寺8年)に挙兵(藤原仲麻呂の乱)するも、敗走して死んだ。

(続く)

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