579『自然と人間の歴史・世界篇』オリバー・ブラウン対カンザス州トピカ教育委員会裁判(アメリカ)
1954年5月17日、最高裁判所による公立学校への入学に際し、人種差別をしたことに対し違憲の判断を下した。具体的には、カンザス州トピーカに住む黒人少女リンダ・ブラウンが近くの小学校に入学しようとしたところ、市教育委員会により拒否された事件でした。最高裁判決では、隔離教育を禁止、可及的速やかに(with all deliberated speed)に「人種統合教育」を進めるようにとのことであった。
この裁判のフル名称としては「オリバー・ブラウン対カンザス州トピカ教育委員会裁判」と称され、1951年に、カンザス州の小学生リンダ・ブラウンの父親オリバー・ブラウンが州の教育委員会を相手取って訴訟を起こしたものだ。訴状内容としては、リンダは自宅からわずか7ブロック先の公立小学校に受けいれられず、約1.5キロメートル離れた別の小学校に通うことを強いられたことから、これが教育の機会の平等を奪うものであると主張した。
裁判は最高裁まで争われ、その間にアメリカ中に反響を呼び起こしていく。1954年5月17日の最高裁判決により、それより約70年前の1886年に、白人と黒人の利用できる鉄道やバスの席が分けられていることを合法とした「プレッシー対ファーガソン裁判」の最高裁判決が覆され、「環境が同じなら白人のための公立施設と黒人の公立施設は「分離すれども平等」という法的判断を否定し、分離そのものが差別であるという判断を示すものとなった。
そこで、もう一度振り返ってみたい。この裁判の最大の論点としては、公立学校における分離教育が黒人子弟にどんような影響を与えるかであった。その筋の社会的・心理的意味あいを中心に、専門家を呼んだりしての集中審議をおこなっての判決は、全員一致で、人種を唯一の理由の理由として黒人子弟を差別することは、彼らに劣等感を植え付ける。のみならずそれは、彼らの精神・勉強意欲を損なう。ひいては、憲法が保証する教育の平等な機会を奪うことになるとした。
「われわれは次のように結論する。公立教育の分野では、「分離すれど平等」の原則は受け入れる余地はない。分離した教育施設は本質的に不平等である。したがってわれわれは、原告および原告と同様な状況にあり、その人びとのために訴訟が行われている人びとは、訴えている分離のために憲法修正第14条によって保証されている法の平等な保護を奪われていると判決する。」(大下尚一外編著「史料が語るアメリカ」有斐閣、1989)
このような判決が下されたからには、「われわれは憲法修正条項(第14条が採択された1868年へ、あるいは「プレッシー対ファーグソン」判決が書かれた1896年へさえ、時計の針を戻すことはできない」ことになり、公立教育かぎりの狭い分野ながら、過去の正しからざる教育政策との決別がなされた意味合いは大きい。
(続く)
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5『自然と人間の歴史・日本篇』日本列島の形成と変化(大陸からの分離)
もう一度、振り返っておこう。今からおよそ1900~1500万年前、一説には、この後日本列島になる部分が、大陸から分離し始めたのではないかと考えられている。この有力説によると、日本列島は今からおよそ2500万年前(新生代古第三期漸進世というのは、3390万年前~2303万年前)までは、まだアジア大陸の東の端にあったという。
その後、新生代中新世に入ると大陸の端が裂けて日本列島は少しずつ大陸から離れていったのではないかと。
そして今から約1700万年前頃になると、この裂け目に海が入って日本海が誕生したのではないか。「島弧」としての日本列島が誕生した。このとき、日本海の開口に関係してグリーンタフ変動とよばれる広域的な火成・堆積活動が発生したのではないかと考えられている。
それから更に、大いなる時間が経過していった。今から600万年前頃までの間にも、日本列島の周りからには3つものプレートが地球内部へと沈み続けて来たのであろう。その地球内部への沈降しているところで、海面下の火山活動が盛んになる。そのことで火山が沢山できて、溶岩や火山灰などが沢山降り積もり、地質学の用語で「付加体」を形成していた。そのことにより、日本列島になってからも、その土台は形成され続けているとみられてよい。
ちなみに、その時の有様を現代に伝える地層としては、例えば、中国地方においては山口県に秋芳洞があって、その洞窟内で珊瑚礁の化石が発見されている。つまりは、石灰岩の厚い地層をつくっていった。生物化石が含まれるということは、この地においてその生物たちが生きて活動していた「地質時代」を示しうる。地質学では、それを特定する石を見出して、それに「示準化石」(しじゅんかせき)の名を付けているところだ。
私たちの日本列島のそれからについては、どうなっていったのであろうか。これについては、2017年6月、独立行政法人産業技術総合研究所の地質研究チーム(高橋雅紀・主幹)による新説が発表された。『日本列島の成り立ちから見た関東平野の基盤構造』(インターネットで配信のもの)に、研究の要約がある。
それには、大雑把に、1900~1500万年前に、日本海が拡大したことで、日本列島がユーラシア大陸から分離した。1900万年前には、今度はフィリピン海プレートの沈込みにより、日本列島を形づくる岩盤に「強い圧縮変形」が生じる。後者は日本列島の南にあって、当時から年3~4センチメートル北西に動いていた。
そこで、この両者の動きの方向の違いにより地層・地殻の「ずれ」が発生したのを、この「ずれ」を埋めるため、日本列島の東側にある日本海溝が年1~2センチメートルずつ陸側に動いたのだという。もっとも、これは地質模型を使っての推論であるようで、自然の中からの確たる証拠はまだ提出されていないように感じられる。
それから1000万年以上にわたって、地殻の沈降それから隆起が発生した。これにより陸からの土砂などが浅海域に堆積していくことで、後期中新世になると新たな陸地が広がった。さらに今から300万年前には、強い東西からの圧縮応力が加わり、それが逆断層運動に連なることで従前からの山地は隆起する一方、山間盆地や海岸平野は沈降していった。
その結果として、全体的に起伏に富んだ地形が広がった模様。先の阪神淡路大震災や新潟県中越地震を引き起こした地殻変動を巡って、その原因が従来考えられていた太平洋プレートではなく、南海トラフを形成するフィリピン海プレートの動きにあるとしている点でも、目新しい。
(続く)
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3『自然と人間の歴史・日本篇』日本列島の形成と変化(中生代白亜紀)
その中生代白亜紀(今からおよそ1億4500年前~6600万年前)の前期というの時代は、今からおよそ1億2000万年前までであった。その頃の日本列島福井地方の地層からは、イチョウやシダ、ソテツなどの植物化石が発見されている。それでも、少なくとも比較的気候が温暖湿潤な陸地のあちらこちらでは、植物たちが生い茂っていたのだと言われる。のみならず、この時代にはまだ地球上のそこかしこで恐竜などが闊歩していたことがわかっている。とはいえ、彼らが生息していくためには、おのずから自然の制約があったのであって、それは次のように言われる。
「生息密度が高すぎると食物資源を食べ尽くしてしまうし、低すぎると繁殖できずに絶滅してしまうから、陸生大型哺乳動物の最大サイズは、これを回避できるバランスの取れた生息密度を反映している。結局、大型脊椎動物の最大サイズと多様性は、生理学的要素(代謝率が高いほど多くの食物摂取が必要)と摂取可能な食物の量、陸地面積によって制約されることになる。概して面積が広いほど、多くの種類の大型動物を養える。
この関係は、大型の肉食動物に最も厳しい要求を突きつける。生態系全体のエネルギー収支のなかで、食物連鎖の頂点に立つ動物が摂取できるのはわずかな部分でしかないため、大型肉食動物は草食動物よりも広い行動領域を維持しなければならないからだ。」(S・D・サンプソン「失われた大陸、ララミディアの恐竜」:「日経サイエンス」2012年6月号所収)
この彼らは、今の日本列島のあるところにも、彼らは素足でやってきたことがわかっている。というのは、1982年(昭和62年)からの発掘で、列島の他の場所では合計で10体程度の恐竜の化石が見つかっていた。それなのに、ここでは短期間の集中調査で50もの恐竜化石のかけらが発見された(2015年7月22日のNHKの番組「歴史ヒストリア」で放映された)。さらに、今からおよそ1億1200万~9360万年前になると、被子動物が繁栄してくるのであった。
ここから中生代白亜紀の後期(今からおよそ1億2000万年前~6600万年前)に入っていく。その頃の地球はかなり温暖になっていた。難局にも北極にも冠氷(かんぴょう)はなく、世界の海水面はかなり高かったと考えられている。その最初のセノマン期(9360万~9350万年前)になると、ハドロサウルス類が繁栄を迎える。次のチューロン期(9350万~8803万年前)には、ローラシア東西での生物たちの交流が活発化する。コニアク期(8803万~8660万年前)には、恐竜たちの多様化がピークを迎える。
さらにサントン期(8660万~8350万年前)になると、地峡上から恐竜が絶滅したと考えられている。その理由としては、この頃、地球に惑星が衝突し、気候が大いに変わり、恐竜が絶滅したというのが、有力な見方となっている。続いて、白亜紀のカンパニア期(8350万~7060万年前)に入っていく。その中のおよそ7400年前頃になると、諸大陸の配置が現在の姿に近づいてくる。マーストリヒト期(7060万~6550万年前)になると、哺乳類の種としての発達と分岐が盛んになり、多種多様な進化を遂げていったと考えられる。
(続く)
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2『自然と人間の歴史・日本篇』日本列島の形成と変化(陸化)
おそらくは、中生代ジュラ紀(2億130万年前~1億4500万年前)末頃までには陸化したであろう日本列島は、その前の古生代の昔から、その後の新生代新第三期中新世(2303万年前~533.3万年前)頃になって日本海ができるまで、長らく東アジア大陸の一部を成していたのではないかと考えられている。したがって、厳密にいうと、「列島」ということではなかった。とはいえ、他にこれに代わる名称も想いつかないことから、以下、このままで話を進めることにしたい。
この間の列島の変化については、興味深いことが色々とわかってきている。ここではその中から一つ、現在の岡山県西部、川上郡の町であるところの大賀(たいが)地区の地層が語る、当時の物語を紹介したい。
このあたりでは、日本列島全体でも珍しい、古代の地形が見られる。その名を「大賀デッケン」というが、地質学では、地層が切れた際の衝上面と水平面との角度が40度以上である場合を押し被せ断層と呼び、それ以下の低角度をデッケン(Decken)あるいはナッペ(Nappe)と呼ぶ。
ここに大賀という土地名は、地名で滝がある「大竹」と、「仁賀」とを併せた由来となっているらしい。その大賀から徒歩2~3分の距離で仁賀の家並みがある。道は、岡山県道294号線を辿って現地にさしかかる。この場所には、領家川が流れている。この川は成羽川の支流であって、領家川流域の吉備高原に位置するところだ。
現地の案内板には、こう記されている。
「天然記念物 大賀の押(お)し被(かぶ)せ(大賀デッケン)、昭和12年6月15日国指定海流や河川流によって運搬された土砂などは、その運搬作用が止むとき堆積し、地層を形成する。一般に地層が上下に積み重なるとき、上に重なった地層は下にある地層よりも新しい。
ところがこの大賀地区では中生代の三畳紀(約2億年前)に堆積した新しい地層(成羽層群)の泥岩・砂岩の上に古生代の石炭紀・二畳紀(約三億年前)に堆積した古い時代の石灰岩層(秩父古生層)が重なり、新旧の地層が逆転した「押し被せ構造」となっている。
このめずらしい地質構造は中生代の白亜紀(1億年前)に起こった大規模な地殻変動によってできたものである。このとき地層は横からの大きな力で押されて、上にふくらみ、さらにふくらんだ部分が倒れこんだり(横臥褶曲)、ずれたり(衝上断層)し、そのあと上部の地層が削られ、その結果残った部分が現在の姿となっているのである。
現在も、この石灰岩層と泥岩層との境界部は河床に明瞭に見られる。この露頭は大正12年東京大学の小澤儀明博士によって発見された。
なお、以上の説明とは別に、秩父古生層は隆起して浸食を受けさらに沈降し、その後この地層の上に成羽層群が堆積したという考えもある。
文部省 岡山県教育委員会 川上町教育委員会」(現地案内板より)
ここにあるように、中生代三畳紀(その中の、いまからおよそ2億年前と見られる地層)の泥岩、砂岩の地層(成羽層群(なるわそうぐん)といって、現在の川上町)の上に、古生代石炭紀ペルム期(およそ3億年前)、二畳紀の石灰岩の地層(秩父古生層)が覆いかぶさって、地層の逆転がおこっている。
「このとき地層は横からの大きな力で押されて、上にふくらみ、さらにふくらんだ部分が倒れこんだり(横臥褶曲)、ずれたり(衝上断層)し、そのあと上部の地層が削られ、その結果残った部分が現在の姿となっている」というのであるから、その原因となった中生代の白亜紀中(今からおよそ1億年前)に起こった大規模な地殻変動の、より詳しい解明が期待される。
ここに中生代の三畳紀(2億5190万年前~2億130万年前)といわれるのは、中生代を三つに分けたうちの第一の時代をいう。英語名がTriassic systemといって、現在からおよそ3億4800万年前に始まり、およそ2億1300万年前に終わる約3500万年の期間を数える。1834年に、F.A.vonアルベルティが南ドイツで三つの堆積条件の異なる地層群が重畳していることから、こう名づけられた。
続いての中生代のジュラ紀(2億130万年前~1億4500万年前)においても、こうした地層の大いなる変化が続いていく。
(続く)
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1『自然と人間の歴史・日本篇』日本列島の形成と変化(土台の形成)
日本列島は、いつ頃、どのようにして形成されたのであろうか。この大いなる問いに対しては、れには、これまで幾つかの仮説が提出されているものの、いずれも定説となるまでには至っていないようである。
まずは、2015年1月2日NHKテレビで放送の「生放送!日本列島誕生世界初の超低空撮影で迫る日本列島3億年の謎/日本縦断・奇跡の絶景/冒険!絶海の西之島火山誕生現場に肉薄/鍾乳洞内を空中撮影/潜行!海底大探検へ」から紹介したい。
この番組によれば、今からおよそ3億年前には、日本列島は存在しなかった。3億年前といえば、古生代の石炭紀(今からおよそ3億5890万年前~2億9890万年前)に当たる。それらのことは、恐竜の時代よりさらに遡る。
そこでの有力説によると、その頃から中生代のジュラ紀末(今からおよそ1億4500万年)まで、日本列島の大半はアジア大陸の東の海底にあったのではないかと考えられる。
その土台としての形ができていったのは、主に火成活動による地質形成によるものであったと考えられている。なにしろ、4つのプレートがぶつかり合う世界で最も活動的な場所なのである。そのために、今でも地震や火山活動が頻発している場所なのだ。
では、現在の日本列島の形から一つを選んで、その元々の形成を推測してみよう。北海道の辺りの土台は、海底そして地上の某かにおいて、どのようにしてできていったのだろうか。これを説明するものに、プレートテクニクスの理論がある。
これらの中で、4つのプレートのうち、ユーラシアプレートと北米プレートの境界は、現在は日本海の東側に列島に沿ってある。けれども、かつては今の北海道を縦断する位置にあった。それが、両プレートの衝突によって北海道の土台がつくられたという。
それに至る仕組みは、こう考えられている。東側の北米プレートが、西側のユーラシアプレートに衝突して、めくれ上がるように乗り上げた。それでできたのが、現在の北海道の日高山脈である。その際、激しい衝撃がプレートの一番下にあったマントルの一部を地表に押し上げ、かんらん岩の山・アポイ岳をつくり上げたのではないかと。
もう一つの地殻変動の原理が、「付加体」と呼ばれるものだ。再び、プレートに登場してもらおう。ハワイ諸島に見られるマグマが地表近くに浮き上がってきているところ、ホットスポット上につくられた火山島のまわりには、次から次へとサンゴ礁が発達していった。それらの死骸の殻などが海底に降り積もっていった。これらは、太平洋プレートに乗って年に10センチメートル位の速さで西へと移動していく。ハワイからミッドウェー、カムチャツカまで一列につながるサンゴ礁や海山の列は、そうしてできた。
これらの岩石は、海洋プレートに乗って次々と北上しつつ、海洋プレートが海溝から沈み込むところに次から次へと到達していく。されらの岩石がぶつかる時にその一部がはぎとられて、大陸から供給された泥や砂とともに、次々と大陸側に付け加わっていった。このようにしてできた地質体を、付加体と呼んでいる。およこのようにして、今からおよそ1億4000万年前頃のジュラ紀の終わりになると、これらの大陸に付け加わった地層は、プレートに押されながら隆起し、陸地となった。地質学では、このときの変動を「ジュラ紀変動」と呼んでいる。
岩石がプレートに乗って大陸近海まで来るのに、どのくらいの時間が掛かったのかと言うと、ざっとハワイと日本との距離は約6400キロメートルを年間移動距離の約10センチメートルで除して太平洋プレートの大雑把な移動速度を割り出す。すると、ハワイのサンゴが石灰岩となったものや、「チャート」といって石灰岩と同様、「放散虫」(ほうさんちゅう)と呼ばれる生物の殻などが堆積したものが日本列島までに来るには、約6400万年かかる計算だ。
そこで付加体とは、海洋プレートに運ばれてきた石灰岩やチャートが大陸プレートの下にもぐり込むとき、その表面の層がはぎとられて大陸プレート上に押し付けられたものだ。これができる海溝では、大陸側から流れ落ちてきた砂岩や泥岩とごちゃまぜになり層として連続しないばらばらの地層をつくっていく。これは、「メランジュ」と呼ばれる。
ちなみに、アポイ岳ジオパークの石灰岩は、岩石中に含まれている放散虫の化石から、約2億2000万年前にできた。つまりは、海洋プレートが沈み込む日本列島は、付加体によってその土台がつくられたというのだ。
(続く)
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