199『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの清教徒革命(1648~1649)
ところが、これではおさまらなかった。1648年3~8月、第2次内戦が戦われる。7月、反乱がイングランド南東部で起こり、スコットランド長老派がこれを支援したため、イングランド議会軍が立ち上がった。この内戦は、8月にスコットランド軍を破って終結した。第二次内戦後も、長老派は国王との関係修復に動いた。独立派からなる軍幹部は、これに反発し、11月には、国王を内戦の責任者として処刑するべし、と唱え始める。
そして迎えた1649年1月には、議会を長老派が追われた。議会勢力として残ったのは、独立派と、より民衆に近いレヴェラーズ(平等派)らであった。その時、議員たちにはどんな思いが突き動かしたのだろうか、独立派が主導権を握った後の議会は、国王チャールズ1世の処刑を決め、刑が執行される。「恣意によって絶対的専制的に支配する権力をうちたて維持し、国民の権利と自由をくつがえそうとし」たのが罪状とされる。3~5月にかけて、上院を廃止し、王制を廃止したことで、5月には共和政府が成立する。
一方、スコットランドとアイルランドでチャールズ1世の子をチャールズ2世として迎えたとの報せが議会に入った。クロムウェルらはアイルランドに上陸して、これを一掃しようと考える。しかし、レヴェラーズは国内の改革をすりかえるものと反対にまわる。かれらは、先の「人民協定」の採択を要求する。5月になると、レヴェラーズの影響下にある兵士達が各地で蜂起した。このままでは危ないと、独立派のクロムウェル、フェアファックスに率いられる軍によって、結局、レヴェラーズの軍は鎮圧され、首謀者は処刑された。
(続く)
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198『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの清教徒革命(1637~1647)
イングランドの17世紀は、既に政治的隘路(あいろ)にさしかかっていた。この世紀の初め、子供のいなかったエリザベス1世が亡くなり、代わってスコットランド王のジェームス6世が王位につく。ヘンリー8世の血を引くジェームスがイギリスの王も兼任することになったのである。ちなみに、両者の連合で成り立つイギリス王は、ジェームス1世を名乗る。
時は移っての1637年、チャールズ1世は、スコットランドにカトリック的な国教会祈祷書をつくって強制しようとしたものの、反発が強く実現できなかった。翌年のスコットランド教会会議は、ジェームズ1世に強制されて以来続いていた主教制の廃止を決議した。1638年、チャールズ1世は、軍を派遣してこの決議を無効ならしめようとした。これを「第一次主教戦争」という。鎮圧は失敗し、翌年スコットランド教会会議と和議を結ぶ。この後、同会議は再度の決議を行う。王は、再度の遠征費を調達するべく、11年の間沙汰やみとなっていた議会の力を借りなければならない。そう考え、1640年4月に議会を招集する。しかし、議会は王と鋭く対立する。扱いに窮した王は、たった3週間で議会を解散した。このため、「短期議会」と呼ばれる。
1640年7月、国王はスコットランドへ遠征軍をおこした。けれども、スコットランド軍に逆襲され、10月には和約を結ぶ。その条件として、イングランドはスコットランドに、一日850ポンドずつ2か月間(つごう5万ポンド)にわたる賠償金を支払う。仕方なく、チャールズ1世は、賠償金支払いの算段のため、再度議会を招集する。10月に選挙をし、11月には議会が召集された。この議会は、後の1653年まで解散されることなく存続し、機能し続けたことから、「長期議会」と呼ばれる。
1641年2月、国王の召集がなくても3年に1回は議会は開かれるべきと定めた三年議会法が成立する。5月、会の解散は議会自身の決定のみに基づくとする法が成立する。
1641年11月、オリバー・クロムウェルが長期議会に、国民に訴える内容の「大抗議書文」を提出する。国王、カトリック教徒、堕落したカトリック主教の不正や堕落を責めた。この文は、議会で賛成159、反対148の僅差で可決された。これ以後、長期議会は王党派と議会派に分裂していっく。また、アイルランドでカトリック教徒の反乱があり、数千人のイングランド人ピューリタンが殺害もしくは傷つけられた。議会は、これに国王の許可を得ることなく、鎮圧のための軍隊派遣を決めた。
1642年3月、王党派はヨークシャーに移った国王を追ってイングランド北部に本拠を移す。かれらは、ロンドンに本拠をおく議会派と戦いを交える構えを見せる。どうすればこの戦いを避けられるかは、顧慮されなかったようだ。7月~8月には、国王チャールズ1世は、挙兵した王党軍を率いて議会に戦線布告し、内戦が勃発した。10月には、エッジヒルの戦いがあった。立ち後れた議会軍であるが、1643年9月、スコットランドとの間に「厳粛な同盟と契約」を約す。これに力を得た議会軍が、1644年7月のマーストン・ムーアの会戦に勝利する。議会軍の士気は、クロムウェルの発案で、従来の出身社会階層による差別を否定したことで高まったと考えられている。
1645年6月のネーズビーの戦いで、議会軍の勝利は確定的となる。国王は変装してスコットランド軍に投降し、翌年6月には王党軍の主力も降伏した。これまでを「第一次内戦」という。1647年1月には、スコットランド軍より国王の身柄引渡しが行われる。
ここで、当時の議会勢力の中身を覗いておきたい。この段階で、長老派と独立派が議会内に明確に現れるのは、1645年以後のことであった。そればかりではない、議会内ではレヴェラーズ(平等派もしくは水平派、Levellers)、議会外では軍の存在があった。1747年5月、軍はクロムウェルの指揮命令で、国王チャールズ1世を軍本部に連行した。長老派と結託して、国王が革命を阻止することを警戒したのだ。
同時に、軍は「軍の主張」を発表し、その中で「軍は全国民のための共通で平等な権利・自由・安全の確立をめざす」(古賀秀男「西洋近代史像ー市民革命と産業革命」明玄書房、1969)とある。軍は、世の常で信じようと信じまいと独自の意思と主張を持っていたようである。ところが、独立派が支配権を握っていた議会の中で、1647年には下層の兵士の中でレヴェラーズ(平等派)が勢力を増しつつあった。そして、当時のレヴェラーズとこれに同調する軍の一部の主張としては、レヴェラーズが取りまとめた「人民協定」(The Agreement of the People)がある。それには、人民主権で、21歳以上の全自由人が選挙権を持つことでの普通選挙、それに十分の一税の廃止要求が含まれていた。
(続く)
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60『自然と人間の歴史・日本篇』大和朝廷をめぐって(外交政策の確立)
606年、倭の朝廷は、大陸との間で緊密な外交をとり結ぼうと、遣隋使を中国に派遣した。これより前の603年(推古大王16年)には、中国の隋の使節であるところの裵世清(はいせいせい)が倭にやって来て、小墾田宮に於いて皇帝煬帝の国書を奏した。これが、隋からの朝貢せよとのメッセージであったことは、想像に難くない。
607年の第二次遣隋使に小野妹子(おののいもこ)や鞍作福利(くらづくりのふくり)らを送り込んだのだが、その時持参した随(ずい、中国読みではスイ)の皇帝・煬帝(ようだい)に宛てた倭の「国書」の内容が奮っていた。その冒頭は、小国が大国に送るのに一見、似つかわしくないものであった。すなわち、「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す、恙なきや」(『隋書』倭国伝)としたためられていた。
当時の倭国(そのブレーンとして既に595年に倭にやって来ていた高句麗の僧である慧慈(えじ)がいた)としては、隋と高句麗との間で倭国の舵取りをどうするかが問われていたのではないか。それから608年(推古16年)に第三次遣隋使として小野妹子らが派遣された時、その帰路にあたり、前述の裵世清を伴って倭国に帰ってきた。
倭国側は、彼の一行を歓待したのが今に伝わる。ともあれ、隋からの国使いなのであるから、その後にはきっと倭の大王の謁見と国書の手渡しがあったと見てよい。この出来事の意味するところなどについては、千田稔氏がこう述べておられる。
「隋使がたずさえてきた皇帝からの国書が裵世清によって読み上げられ、倭国側の臣によって「大門の前の机の上に置きて奏す」とある。形式的には倭国の天皇(当時は大王であろう)に奏上したとあるから、推古女帝が、この儀礼に出御したのだろうか。隋の皇帝煬帝の国書を携えた使節は天皇に謁見する儀礼がなされたのは、当然である。だが、いささか疑問はある。
『隋書』倭国伝の開皇二十年(文帝・推古天皇八年(600))に倭王の姓(せい)は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(タリシヒコ、たらしひこ)とあり、「タリ(ラ)シヒコ」は「ヒコ」とあるので、男性の名である。推古天皇は女性である。この儀礼の場には『日本書紀』によると、皇子(みこたち)・諸王(もろもろのおおきみ)・諸臣(もろもろのおみ)が出席したと記す。隋が倭国についてもつ情報は、倭の大王は男性である。想像の域を出ないが、隋使は、聖徳太子に謁見したということではなかったであろうか。」(千田稔「聖徳太子と斑鳩三寺」吉川弘文館、2016)
果たせるかな、その大国の隋が612年、613年、614年と高句麗遠征に出るも、国内での氾濫の続発もあって攻めあぐねていた。そのことを承知の上で、先に紹介したような対等を旨とする国書を隋に送ったのだとすれば、さすが剛胆だと言わざるを得ない。隋としては、倭国が高句麗と結びつくのを阻止することが必要であった。そこで、皇帝が気分を損ねたくらいで済まし、その後も倭国との間が敵対もしくは疎遠にならないよう配慮したのではないか。
一方、朝鮮半島で力を付けてきていた新羅との関係はどのようなものであったのだろうか。推古大王の治世5年(597年)にして、倭は「吉士磐金」(きしいわかね)という者を新羅に使いを出した。これは、『日本書紀』に「五年夏四月丁丑朔、百濟王遣王子阿佐、朝貢。冬十一月癸酉朔甲子、遣吉士磐金於新羅」(『日本書紀』推古紀五年(597年)十一月条)と見える。
これに彼女の4代前の欽明大王の治世にある「廿三年春正月、新羅打滅任那官家。一本云、廿一年、任那滅焉。總言任那、別言加羅國・安羅國・斯二岐國・多羅國・卒麻國・古嗟國・子他國・散半下國・乞飡國・稔禮國、合十國。」(『日本書紀』欽明紀二十三年(562年)春正月条)、それから彼女のすぐ前の代の崇峻大王の治世にあるところの「秋八月庚戌朔、天皇詔群臣曰「朕思欲建任那、卿等何如。」群臣奏言「可建任那官家、皆同陛下所詔。」などと併せ考えてみる。
すると、任那(みまな)に関わる問題の所在が明らかになって来る。そもそもこの任那なる地は、朝鮮半島の南端に位置する加耶地方を指すのだが、倭の領土ではなかったものの、562年に新羅(しらぎ、朝鮮語ではシルラ)がここに攻め入り、領有するに至っていた。これに反対して、それは我が領土だと主張していたのが百済(くだら、朝鮮語ではペクチェ)であって、当時百済と同盟関係にあった倭は任那をあたかも自分の領土であるかのような書きぶりとなるのではないか。
百済と対立する新羅はそこで苦肉の策として、倭国に名目的な任那の領有権を与えることにし、倭に「任那の調(ちょう)」を貢献するとしていたのか、そうではなく無視していたのかははっきりしない。ともあれ、倭の敏達大王から崇峻大王の治世に至るまで、「任那の調」を復活させるための交渉に精出していたのかもしれない。
(続く)
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59『自然と人間の歴史・日本篇』大和朝廷を巡って(仏教による国造り)
さらに606年(推古大王14年)には、聖徳太子なる人物が勝鬘教と法華経(妙法蓮華経の通称)とを講じたことになっている。そこでだが、仮に彼の生まれた年を574年とすると、33歳の時のことになる。したがって、太子が実在したとしても、その講義が本当に行われたかどうかは確かでない。
ここに法華経というのは大乗仏典の一つで、日本に輸入された経の中では、釈尊が最晩年に近い時期の説法の記録であるとの理由から、最高位に祭り上げられているようだ。その中で特徴的なのは、釈尊が、なんと「釈迦牟尼如来」という永遠の命を持つ「生き仏」に祭り上げられている。
その彼が、数千人もの如来や如来の手前まで修行を積んでいる人々の前で、手を替え品を替えて説法しているのに他ならない。なお如来とは、すでに悟りを開いた仏のことで、通常は極楽浄土に住み、大乗仏教密教系の大日如来を除いては装身具を付けていない、とされる。
それらの如来たちは悟りを得、みな神格化の所産にほかならない。彼らこそは、人として世の中に出ていた釈迦牟尼如来をモデルにして空想化したものだともいえる。内容的にも、この経は、歴代の在家衆から、仏法を生き生きと体系化しているとの評判を勝ち得てきた。
中でも、「十九、法師功徳品」の最後には、「法華経をいちずに信じさえすれば、その人は、希有な境地に安住して、生きとし生けるものがすべてから歓喜をもって迎え入れられるのです。そして、千にも万にもおよぶ巧みな言葉や表現を駆使して、思うがままに説法できるのです。これもまた、法華経をいちずに信じつづける功徳にほかなりません」(正木晃「現代日本語訳・法華経」春秋社、2015、239ページ)と諭す場面が収録されている。
インド西北部でこの法華経が成立したのが、紀元1~2世紀頃とみられている。その頃はまだ、主流派としての、釈尊の教えに忠実な「小乗仏教」(これは大乗仏教派からいう名であり、彼らがそう名乗っている訳ではなく、正確に言う場合には「原始仏教」といわれる場合がある)の勢力の方が圧倒的に強く、「大乗仏教」の側はごく小さな影響力しか持たなかった。法華経の説法の場設定は、北インドのガンジス川下流域(現在のインドのビハール州)にあったマガタ国、その首都だった王舎城(ラージャグリハ)の郊外、霊鷲山(グリドラクータ山)となっている。
その弟子達とのやりとりの模様が抑揚のついた言葉、つまり経に写された。初めは、「口伝」による教典となって受け継がれていた。まず長老が「師はこう述べられた」とその一節を述べ、次に会する一同が声を合わせて反芻(はんすう)するのだ。こうして次へ次へと口授がなされていったのだと推察される。
その教典の文句がサンスクリット語、インド系中国人の鳩摩羅什(くまらじゅう)により、これを「妙法蓮華経」7巻として、他の「坐禅三昧経」3巻、「阿弥陀経」1巻、「大品般若経」24巻、「維摩経」3巻、「大智度論」100巻、「中論」4巻などとともに翻訳したのは、鳩摩羅什 (くまらじゅう、350年頃~409年の中国南北朝初期に生きた、「羅什」とも略称される)であった。彼は、インドの貴族の血を引く父と、亀茲(キジ)国の王族の母との間に生れた。7歳のとき母とともに出家したと言われる。彼が翻訳する時には、すでにサンスクリット語の原典からの写本であったのだろうか。
この翻訳版が日本に輸入されたのが、606年(推古大王14年)までということなら、かの玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が、インドから唐へ多くの教典を持ち帰った年代から、さらに遡る。それにしても、現在、「鳩摩羅什が翻訳した時期のヴァージョンすら、のこっていません」(正木晃「現代日本語訳・法華経」春秋社、2015)と言われる。だとすると、彼が翻訳に当たって腐心したであろう、詳しい環境条件は今となっては確かめるすべがあるまい。
さて、倭(わ、この段階では「日本」という国名はまだ存在していない)の新たな国造りは、仏教の理念にも基づいていた。そのことは、この時代の代表的な仏教建築である法隆寺に色濃く出ている。この寺の造営は、607年(推古大王15年)と伝わる。この寺が造営されたのは、一代前の用明大王の病気治癒を祈ってのものだと伝わる。
その五重塔は、下から宇宙をつくる五大要素と伝わる地水火風空の屋根が重なる。そして最後の塔から突き出た金属部分である相輪(そうりん)には、元々は仏舎利(釈迦)を納めるものとも説明される。
ここから、大野玄妙・法隆寺管長の説明によると、五重塔自身は、即ち「お釈迦様」なのだとも解釈できるというから、驚きだ(2016年1月16日TBSで放映の「ママと私の奈良物語」などから教わった)。なお、この寺は創建から64年後の670年に火災に遭い、かなりの伽藍が失われたことになっている。672年(天武元年)から689年には、崩れかけ始めていた王朝の再建が始まる。
その太子は、622年(推古大王30年)に「世間虚仮、唯仏是真」という謎の言葉とともに政治の表舞台を退いたことになっている。この日本稀代の才能の持ち主は、その年のうちに死んで、彼の仏教国家建設の夢半ばで潰えたのだと伝わる。
こうした太子像の微妙さの由来について、色々と解釈される、例えば、澤田洋太郎氏は次のように述べておられる。
「もう一つ、倭国に仏教を広めた第一人者は聖徳太子であるとされているが、「十七条の憲法」には中国の文献など彼の死後の制度や思想が含められているし、彼の著書とされる『三経義疏(さんきょうぎしょ)』の内容が西域僧の研究と酷似していることなど、「聖徳太子不実在説」の証拠が次々と挙げられるようになってきた。
ここでは、一種の国民的信仰の対象である聖徳太子像は「法隆寺をめぐる太子信仰集団が創りあげた虚像である」とする考えが有力となりつつあることだけを付記しておく。」(澤田洋太郎『教科書が教えない日韓関係2000年、地域史としての日本と朝鮮』」彩流社、2002)
なお、ここに「三経義疏(さんきょうぎしょ)」というのは、単独の著作ではなく、「法華義疏」(全4巻)、「維摩経義疏(ゆいまぎょうぎしょ)」(全3巻)、「勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)」(1巻) の総称である。ここに義疏とは、経文に込められる趣意を解説した注釈書のことである。
(続く)
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