398『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツ、日本、イタリアの三国軍事同盟
1940年9月には、ファシスト国家のドイツ、日本そしてイタリアの三国が集まって調印、彼らの同盟関係を構築するにいたる。
その条文(日本側)には、こうある。
「日本国、ドイツ国及イチリア国政府は万邦をして各其の所を得しむる以て恒久平和の先決要件なりと認めたるに依り、大東亜及欧州の地域に於て各其の地域に於ける当該民族の共存共栄の実を挙けるに足るへき新秩序を建設し且之を維持せんことを根本義と為し、右地域に於て此の趣旨に拠る努力に付相互に提携し且協力することに決意せり。
而して三国政府は更に世界到る所に於て同様の努力を為さんとする諸国に対し協力を吝まさるものにして斯くして世界平和に対する三国終局の抱負を実現せんことを欲す。
依て日本国政府独逸国政府及伊太利国政府は左の通協定せり。
第一条、日本国は、ドイツ国及イタリア国の欧州に於ける新秩序建設に関し、指導 的地位を認め且之を尊重す。
第二条、ドイツ国及イタリア国は、日本の大東亜に於ける新秩序建設に関し、指導 的地位を認め且之を尊重す。
第三条、日本国、ドイツ国及イタリア国は、前記の方針に基く努力に付相互に協力 すへきことを約す。更に三締約国中何れか一国か、現に欧州戦争又は 日支紛争に参入し居らさる一国に依て攻撃せられたるときは、三国は 有らゆる政治的、経済的及軍事的方法に依り相互に援助すへきことを 約す。
(中略)
第五条、日本国、ドイツ国及イタリア国は前記諸条項か三締約国の各と『ソヴィエ ト』聯邦との間に現存する政治的状態に何等の影響をも及ほささるも のなることを確認す。
1940年(昭和十五年)九月二十七日」(「日本外交年表並主要文書」)
これにより力を得たのは、ヨーロッパとアジアとで、連合国の兵力を分断し、軍事作戦を有利に導くことができると考えたのであろう。
当時は、ドイツがヨーロッパ戦線で破竹の勢いで進軍していたから、アジア・太平洋で侵略活動を行っていた日本軍は、中国戦線の国民政府軍の支援ルートを遮断したり、戦争の長期化に備えた資源確保などをねらい、ベトナム北部(当時はフランス領への進駐を行いつつあった。三者で国際新秩序をつくろうという意味ではまず自国の権益を増大させるのが先決であったろうし、そのためには「渡りに船」の選択であると考えていたに違いあるまい。
(続く)
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397『自然と人間の歴史・世界篇』日本・ドイツの防共協定(1936)
「大日本帝国政府及ドイツ国政府は共産「インタ-ナショナル」(所謂「コミンテルン」)の目的が其の執り得る有らゆる手段に依る現存国家の破壊及暴圧に在ることを認め、共産「インタ-ナショナル」の諸国の国内関係に対する干渉を看過することは其の国内の安寧及社会の福祉を危殆ならしむるのみならず、世界平和全般を脅すものなることを確信し、共産主義的破壊に対する防衛の為協力せんことを欲し左の通り協定せり。(中略)
その「秘密付属協定」というのもあって、それにはこうある。
「第一条、締約国の一方が「ソヴィエト」社会主義共和国連邦より挑発に因らざ る攻撃を受け、又は挑発に因らざる攻撃の脅威を受くる場合には、他の締約国は「ソヴィエト」社会主義共和国連邦の地位に付、負担を軽からしむるが如き効果を生ずる一切の措置を講ぜざることを約す。(中略)
1936年(昭和十一年)十一月二十五日」(「日本外交年表並主要文書」)
要するにこれは、当時、荒れ狂うファシズムに対する統一戦線戦術を採用し、これを世界の進歩勢力の第一義的課題としていた中心、コンテルンへの対抗を目していた。
おりしも、アジア・太平洋戦線の中国では、これに対抗すべく、1937年9月に第二次国共合作(国民党と共産党との対日統一戦線を意味する)が準備されていくのであった。これに対抗する日本のファシズム政権としては、「防共」とは日本が中国を侵略する中での当初の大義名分であったものが、この後の1939年には、ドイツとソ連との間で電撃的なドイツ・ソ連不可侵条約が結ばれるに及んで維持できなくなる流れにあった。
(続く)
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396『自然と人間の歴史・3世界篇』ドイツ、日本、イタリアの国際連盟脱退
せっかく設立された国際連盟後なのだが、1930年代に入ってからは、しだいに有名無実の状態へと変化していく。中でも、ファシズムに傾いた日本、ドイツ、イタリアが脱退する。さらにソ連も除名されるなどして有名無実となっていく。
これらのうちドイツは、1926年に際連盟への加盟を認められていたものの、1933年10月にのヒトラー政権は、軍縮会議に組みせずに、再軍備を目指した独自の道を歩むべく、脱退してしまう。また、イタリアは、1937年にエチオピアへ進攻したのを同連盟に咎められたのを契機に、これまた脱退を通告するのであった
さらに、1933年の日本の国際連盟脱退については、「満州事変」絡みのものであったことが、判明している。
「本年二月二十四日臨時総会の採択せる報告書は、帝国か東洋の平和を確保せんとする外何等意図なきの精神を顧みさると同時に、事実の認定及之に基く論断に於て甚しき誤謬に陥り、就中九月十八日事件当時及其の後に於ける日本軍の行動を以て自衛権の発動に非すと臆断し、又同事件前の緊張及事件後に於ける事態の悪化か支那側の全責任に属するを看過し、為に東洋の政局に新なる紛糾の因をつくれる一方、満州国成立の真相を無視し、且同国を承認せる帝国の立場を否認し、東洋に於ける事態安定の基礎を破壊せんとするものなり。(中略)
帝国政府は平和維持の方策殊に東洋平和確立の根本方針に付、連盟と全然其の所信を異にすることを確認せり。 仍て帝国政府は此の上連盟と協力するの余地なきを信し、連盟規約第一条第三項に基き帝国か国際連盟より、脱退することを通告するものなり」(「日本外交年表並主要文書」)
これの手続き面では、同年3月24日の国際連盟総会において、中国の国民政府の統治権を承認し、日本軍の撤退を求める報告案に対して、賛成42、反対1、棄権1で可決したのであった。これに反対票を投じた日本代表が、案の定、同議場から退場する。日本側に一切の反省はなく、3月27日には国際連盟脱退に関する「詔書」を発表し、連盟に脱退を通告するという体(てい)たらくであった。
(続く)
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372『自然と人間の歴史・世界篇』世界恐慌からの回復過程(アメリカのニューディール政策)
アメリカにおいては、1933年にローズヴェルト政権が発足するや、内外の耳目がその動向に注目する。
新政権は、さっそく特別会期の議会に、数々の法案を提案し、成立させてゆく。
農業調整法(1933年5月12日)の第1条には、こうある。
「農産物商品と他の商品との間の価格の不均衡が農民の工業製品に対する購買力をいちじるしく減退させ、正常な商品の取引を阻害し、国家の信用機構の支柱である農業生産に重大な損害を与えており、そうした不均衡が現在の緊迫した経済の非常事態の原因の一部となっているので、(中略)ここに本法の第一部をただちに制定する必要があることを宣言する。」((大下尚一ほか編「史料が語るアメリカーメイフラワーから包括通商法まで、1584~1988」有斐閣、1989)
続いてのTVA法(1933年5月18日)の第1条には、こうある。
「本法により、国防および農工業の振興のために現在アラバマ州マスショールズ一帯にある合衆国政府所有の資産を維持・運用し、またテネシー川の水運の改善、テネシー川流域及びミシシッピー川流域の破壊的洪水の防止を行うことを目的として、「テネシー川流域開発会社」と称する法人を設立する。」(同)
また、全国産業復興法(1933年6月16日)の第1条には、こうある。
「ここに州際ならびに対外通商を阻害し、公共の福祉に影響し、アメリカ国民の生活水準を引き下げる広範な失業と産業界の混乱とをひき起こした国家非常事態が存在すると宣言する。
したがって、州際ならびに対外通商の自由な流れを妨げその量を減少させる傾向にある障害の除去、企業団体間の協力活動のために産業の組織化を促進することによる一般の福祉の増進、政府の適切な認可と監督の下における労使双方の協同行動の導入と維持、不正競争行為の排除、産業の現存生産能力の最大限の利用の促進、不当な生産制限の回避、購買力の増大による工業と農業生産物の消費の増加、失業の減少と救済、労働水準の改善、その他の方法による産業の復興と自然資源の保全、を図ることが連邦議会の政策であることを宣言する。」(同)
それらに、「ニューディール立法」(1935年)と総称される立法などが加わるのだが、まずはその一つ、「雇用促進局設立に関する行政命令」(1935年5月6日)には、こうある。
「1935年4月8日に承認された「緊急救済支出法」の下で私に付与されているほかのすべての権限により、ここに以下のように指令する。
1.私はそれにより政府内に若干の機関を設立し、それらの機能と責務をそれぞれ以下のように規定する。(中略)
(c)雇用促進局は大統領に対し、雇用救済計画全体を誠実、能率的、かつ迅速に調整を図りながら実施し、また可能な限り短時間に最大限の人びとを救済受給名簿からそうした事業計画あるいは民間の雇用に移すようなやり方でこの政策を実施する責任を有している。」(同)
(続く)
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