♦️324『自然と人間の歴史・世界篇』ダーウィンの「種の起源」(1836)

2018-06-21 22:28:20 | Weblog

324『自然と人間の歴史・世界篇』ダーウィンの「種の起源」(1836)

 チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809~1882)は、イギリスの博物学者にして生物学者。1931年12月~1836年10月まで、海軍の「ビーグル」号に博物学者として乗り組み、太平洋、大西洋の島々、南アメリカ沿岸、それにガラパゴス諸島などを訪れる。行く先々で、動植物相の観察や化石の採集,地質の研究などを行なう。彼は航海中に行なった諸観察から、種が変化する可能性を考えるようになり,1839年に、著作「ピーグル号航海記」(初版)を発表する。
 例えば、フォークランド諸島に立ち寄った際、この地の地質について、こういう。
 「この群島の地質構造は大体において簡単である。低地は粘板岩と砂岩とで化石を含み、ヨーロッパのシルリア紀に極めてよく似ているが、それと等しいものではない。丘は白い粒状の石英岩である。石英岩の層は往々完全な相称のアーチ形に彎曲(わんきょく)して、従って、集塊の若干のものは極めて奇異な外観を呈する。(中略)この石英岩が断片に砕けずにこれほど轡曲(「ひきょく」と読み、さるぐつわをはめた時の形:引用者)したことを見れば、相当に粘性を持ったものであったに相違ない。
 この石英岩は境界が判然とせずに砂岩に移っていることを見ると、前者は砂岩がその起原であって、砂岩が熱せられて粘性となり、次に冷却して結品性のものとなったのは確からしい。まだ柔かな状態の時に、その上にあった地層をつき抜いて、押し上げられたものに相違ない。」
 あるいは南アフリカで見つけたある小鳥について、こういう。
 「ティノコルス・ミキヴォルスというはなはだ妙な小鳥がここには普通である。その習性や概形はうづらともしぎとも違っているが、双方の性質を等分にとり入れている。この鳥は南アメリカの南部全体にわたって、不毛の平野あるいは開潤した乾草原ならばいたる所に見られ、他の生物のほとんどいない所にも、小さな群をなしている。人が近づけば、かたまってうずくまり、地面との見分けが困難となる。
 餌をあさる時は、脚を広く拡げておもむろに歩む。道路や砂の多い場所で砂浴をする。特定の揚所にはよくやって来て、何日間も見かけることがある。やまうづらのように群をなしてとぶ。筋肉性のそ嚢が植物性の食餌に適応していること、曲がったくちばしや肉質の鼻孔、短い脚と足の形、そうした種々の点でこの鳥はうづらと密接な関係があるが、しかしとんでいる様子を見ると、全体の感じが一変して、長くとがった翼は、鶉鶏目(じゅんけいもく)のものとははなはだしく異っており、とび方の不定なことと、上昇の時に発する訴えるような叫び声とはしぎの感じをさせる。」(チャールズ・ダーウィン著(1836)・島地威雄訳「ビーグル号航海記(全3巻、(上)、148~149)」岩波文庫、1994)
 いずれも、ここには豪快な好奇心ばかりか、筆のタッチとしては、地質と博物の学者ならではの、超微細な観察眼が光っているのが窺える。
 それからも研鑽が続いた後の1959年、代表作の「種の起源」が世に出る。その一説には、こうある。
 「何百世代ものあいだ失われていたと思われる形質が再出現するというのは、間違いなく驚くべき事実である。ところが、ただ一度だけ他の品種と交雑させただけなのに、その子孫が交雑相手の形質に戻る傾向を一〇世代とか二〇世代にもわたって示すことがままある。一二世代を経た時点での、いわゆる祖先との血の濃さは、わずか二〇四八分の一でしかない。ところが、先祖返りの傾向は、別の品種の血がたったこれだけ入っていることによって保持されていると、一般には信じられているのである。
 交雑がおこなわれたことのない品種で、しかも両親ともが祖先の形質を一部失っている場合、失った形質を再現する傾向は、強いか弱いかは別にして、すでに見たように大方の予想に反してほとんど何世代でも伝わっていく。その品種がとうに失ったはずの形質が多くの世代を経た後に再び出現する場合の最も納得のいく仮説は、子孫が突如として何百世代も前の祖先をまねたのではなく、問題の形質を再現する傾向は世代更新の間もずっと存在していて、それが未知の好条件を受けてついに日の目を見たというものである。」(チャールズ・ダーウィン著(1836)・渡辺政隆訳「種の起源」(上)、光文社古典新訳文庫、2009)
 みられるように、この部分は、ある属の種が共通の祖先に由来するという仮説の傍証とされる。圧巻なのは、後段の「その品種がとうに失ったはずの形質が多くの世代を経た後に再び出現する場合の最も納得のいく仮説は、子孫が突如として何百世代も前の祖先をまねたのではなく、問題の形質を再現する傾向は世代更新の間もずっと存在していて、それが未知の好条件を受けてついに日の目を見たというもの」との下りだ。
 すなわち、何百世代が経過しても、種というものには、元の形質を再現する傾向があるのだから、それらの種は個別に創造されたのではなく、共通の祖先から変化してきたのだ、という文脈である。これが、当時のキリスト教社会において、大いなる物議を招き、その是非を巡って激しい論争を巻き起こしたのは、当然のことであった。
 加えるに、ここでの生物進化の考え方に、これまで人間社会の常であり続けている「優勝劣敗」、すなわち「優れた性質をもつ者がそれの劣った者をけちらし、け落として、富や名誉といった人びとが望むものを手に入れるのは当然だ」という考えとを結びつけて捉えることもなされてきた。
 このことに関連して、「適者生存」という差別化著しい言葉が、イギリスの哲学者ハーバード・スペンサー「社会進化論」などで使われている。とはいうものの、ダーウィンのいう「自然淘汰」とは、その時々の環境変化に適応できるかどうかが、その種としての生存と繁殖とに関わるということであって、いわゆる優勝劣敗を推奨しかねない前者の言説と混同すべきではあるまい。ちなみに、「ダーウィン自身はこの言葉が気に入らず、使いませんでした」(長谷川眞理子(進化生物学者)「種の起源、ダーウィン」:NHK放映の「100分de名著」でのテキスト)とされている。

(続く)

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『美作の野は晴れて』、『自然と人間の歴史・世界篇』、『自然と人間の歴史・日本篇』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』へようこそ(2018.11.10時点)

2018-06-21 22:11:08 | Weblog

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『美作の野は晴れて』、『自然と人間の歴史・世界篇』、『自然と人間の歴史・日本篇』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』へようこそ
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訪問者のみなさま

 ようこそ、美作(みまさか)から小川町へ、わたしの故郷ページへ
 わたしのブログ『美作の野は晴れて』、『自然と人間の歴史・世界篇』、『自然と人間の歴史・日本篇』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』(全てが未定稿)を訪れていただいて光栄です。
 一つは、「美作の野は晴れて」です。第一部は私の小学校まで、第二部は中学校から高専までです。そして第三部は、それから現在までの私の歩みです。
 二つ目は、『自然と人間の歴史・世界篇』です。これは、宇宙の開闢(かいびゃく)以来の自然と人間の歴史を世界的視野で通覧するものです。主立った歴史史料の紹介を兼ねていまして、その分だけ分量がかさみます(現在の見積もりでは、1000項目程度)。
 三つ目は、『自然と人間の歴史・日本篇』です。これは、日本列島ができて以来の日本の自然と倭人・日本人の歴史を通覧するものです。こちらも、主立った歴史史料の紹介を兼ねていまして、その分だけ分量がかさみます(現在の見積もりでは、700項目程度)。
 四つめは、「岡山(美作・備前・備中)の今昔」です。これは、岡山の郷土史です。だんだんに足で出向いてつくってくつもりでおります。
 これから、全体として徐々になりますが、新しいものに改訂していく予定でおりますので、ご理解をお願いいたします。中でも、新訂のものは、見出しにそれなりの識別を付けます。こちらも、主立った歴史史料の紹介を兼ねていまして、その分だけ分量がかさみます(現在の見積もりでは、200項目程度)。
 恐れ入りますがお時間をいただいてご一読の後、よろしかったら、ご感想をお寄せください。これからの紙面づくりに参考にさせて頂きます。
 なお、現在までのところ、内容の未熟さ、誤り、表現のまずさ、誤字脱字なども非常に沢山あって、お読み苦しいことと察します。でしょうが、だんだんに訂正していくつもりでおります。なにとぞよろしくお願いします。
 それから、このブログの記述が、何らかのことに利用されることから生まれる損害等につきましては、当管理者は責任を負いかねますので、念のため申し添えます。学習会などで使われたりする場合には、その旨を事前にお知らせ戴けるとありがたいです。
 以上
2018年6月20日更新、丸尾泰司(在・日本国埼玉県比企郡小川町)

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(参考)
『自然と人間の歴史』(世界と日本の2篇)を記入するに当たって留意したい事項(2018年11月10日時点でのもの、自身への覚書)


1.自然の辿ってきた「歴史」についても、人間の歴史の理解を助ける範囲で入れる。これをもって「歴史」といえるのかどうかは、未だに知らないが、あえて試みたい。
1.歴史的真実かどうかが確かめられない、神話や伝説の中にも、某か学ぶものがあると考えている。宗教は、今日まで文化の中の大いなる要素の一つとなってきたのに鑑み、なるべくわかりやすくその動きを記したい。
1.その時々の世界の動きと、日本を含む各国・各地域の動きを関連して理解するよう努めたい。世界篇においては、すべての国・地域の歴史を概観するものにしたい。
1.現代史は、21世紀現在までとして扱うことにする。ただし、歴史はイコール過去(人間自身でいうと、個体としての死の積重ね)であって勝手に変えることはできない。
1.史料の引用に当たっては、ある程度詳しく、丁寧、わかりやすい紹介を加えたい。
1.現在進行中の事象についての評価は、一日経つ毎に、改ざんすることのできない過去へと変化して止まない。この観点から、ぎりぎりの線まで紹介したい。
1.年の記述の中心を、西暦もしくは西暦中心のものにしたい。西暦を先ず入れ、必要ならその後にくる括弧内に、その国内の暦を入れておくのを基本としたい。
1.国語辞書や漢和辞書の類をほとんど引くことなしに読んでもらいたい。そのため、やや難しいと思われる漢字には、「現代かな」をふっておく。「旧かな」は、追々「現代かな」に改めたい。
1.歴史史料の紹介は、できるだけ、ある程度まとまった、一区切りとして行いたい。また、その出所をできるだけ記入すること。
1.特に、漢文での紹介は、おりにふれ、書き下し文や現代語訳を添付すること。
1.歴史上の人物がどのように生き、何をもたらしたかを簡単に紹介する記事を、織り込んでいくこと。人物紹介には、上から目線で人物を選択することはしたくない。
1.歴史事象をどう認識するかについて、説の分かれるところでは、なるべく2説くらいは紹介したい。その際は、筆者の立場がわかるようにしたい。
                     2018年11月10日現在でのもの、以上
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 早いもので、このブログを始めた2004年から数えて10余年になります。日本国内、岡山県内でまだ行っていないところが無数といっても良い程に、実に多く、(自分と家族の健康上のことや、こちらでの用事もかなりあるので当面は無理かもしれませんが)いつか機会を得て、愛用のリュックサックを背中に担ぎ、県内などを巡り歩いてみたいです。
 定年退職後の要諦は体を大事にしていくことにあるようで、「日々是好日」のつもりで気持ちはできるだけ明るく、いまの体で自分のできることを精一杯取り組んでいます。

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 世界の、この100年間から200年くらいの政治経済社会の歩みを、15本のホームページで概観しています。建設中です。こちらも、ご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

中国の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo9

韓国の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo10

ソ連・ロシアの政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo11

アメリカの政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo12

ヨーロッパ連合の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo13

日本の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo14

ASEAN(アセアン)政治経済社会の歩み
http://www3.hp-ez.com/hp/maruo15/page1

インドの政治経済社会の歩み
http://www4.hp-ez.com/hp/india/page1

ブラジルと中南米諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo17/page1

アフリカ諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo18/page1

中東・アラブ諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo19/page1

カナダ、オセアニア及び太平洋諸国の政治経済社会の歩み
(準備中)

東欧・北欧諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo20/page1

中央アジアとその周辺国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo23/page1

世界の政治経済社会の歩み
(準備中)

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♦️321『自然と人間の歴史・世界篇』エンゲルスの歴史観察(「家族・私有財産・国家の起源」)

2018-06-21 21:56:03 | Weblog

321『自然と人間の歴史・世界篇』エンゲルスの歴史観察(「家族・私有財産・国家の起源」)

 フリードリヒ・エンゲルス(1820~1895)の著した「家族・私有財産および国家の起源」(1884年刊)には、2つの本による示唆があったという。その一つは、アメリカの人類学者ルイス・ヘンリー・モルガン(1818~1881)の「古代社会」であった。そしてもう一つは、それを読んで盟友のカール・マルクス(1818~1883)の後年「古代社会ノート」との題にて出版されることになる遺稿なのであった。
 エンゲルスは、この二つの研究を役立てながら調査を行うなどして、歴史上の家族の成立と発展を調べ追求していく。種々の婚姻の形を調べていく過程では、なぜその社会においてはそうなったのだろうか。この問いに対するモルガン説においては、古代社会のそもそも初めは母権制が支配的な時代だったというのが、出発点だと単純化されているように見受けられるのだが。
 そして、国家・私有財産が登場してくると、それからは女性の世界史的敗北が始まったという。もう少しいうと、つまりは武装権力としての国家ができていく。そして、それにつれて男性が戦士として活躍するようになる。その分、男性が社会の中心になり、かれらによる支配が家庭などに持ち込まれることで母権制が倒れ、父権制の時代が始まったのだと。
 そうなると、近親相姦が許される家族形態となっていくとの道筋であろうか。このように直線的に物事を捉えようとするのが「歴史的・論理的」ということなのだろうか、判然とはなっていないきらいが残る。
 さて、それからも家族の基本的な在り方の変化は続いた。この説に沿ってざっと述べれば、モルガンのいう「プナルア家族」へ、そして一夫一婦制度への移行へとつながっていく。ここでのエンゲルスは、種々の婚姻の形を調べ、群婚・集団婚を経て単婚(一夫一婦制)へ発達したとしている。同時に、近い血筋の婚姻が排除され、血縁の遠い人々どうしが婚姻を結ぶようになっていく。
 この単婚時代への移行なのだが、その初期においてはどのようであったのだろうか。ともあれ、これについてエンゲルスは、古代ギリシア時代の結婚を取り上げ、こう指摘している。
 「家族内での夫の支配と、彼の子であることに疑いがなくて、彼の富の相続者に定められている子を生ませることーーーこれだけが、ギリシャ人があからさまに公言した一夫一婦制の唯一の目的であった。それ以外では、一夫一婦制は彼らにとって一つの重荷であり、神々と国家と自分たちの祖先とにたいして、それだけは果たさなければならない義務であった。アテナイでは、結婚だけでなく、夫のがわでの最小限のいわゆる婚姻上の義務の遂行もまた、法律によって強制されていた。
 このように、一夫一婦制が歴史に登場するのは、けっして男女の和合としてではなく、いわんやその和合の最高形態としてではない。その反対である。それが登場するのは、一方の性による他方の性の圧政としてであり、それまで先史の全期をつうじて知られることのなかった両性の抗争の宣言としてである。」(フリードリヒ・エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」)
 このような単婚による家族から大家族共同体へ、氏族制度への発展があったのではないかという。それらの過程においては、農業や牧畜それに手工業といった諸々の産業の発展や、それに伴う奴隷と市民、それに貴族・王侯の誕生などへとつながっていく、あたかも車の両輪であるかのようにして。
 そして私有財産を保持できる時代が訪れ、富を蓄積した資本階級とそれを持たない労働階級の形成へとつながっていく。それから、単婚の在り方も変わり、家族はしだいに核家族化し、その支配者としての国家が誕生しあるいはその役割が集合し強まるなど、封建社会の枠組みの中に家族が組み込まれていくのであった。
 さらに資本主義にいたると、それに伴うプロレタリート(労働者階級)とブルジョア(資本家階級)の産出へとつづく。このようなエンゲルスによる話の持って行き方については、人類文化の進化の側からも、政治経済の歴史から紐解こうとする側からの異論なしとしないものの、当時としては、斬新な見解の一つを提起したことでの波紋には大きいものがあったであろう。

(続く)

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♦️23『世界と人間の歴史・世界篇』大山脈の形成

2018-06-21 21:11:26 | Weblog

23『世界と人間の歴史・世界篇』大山脈の形成

 今からおよそ2億5000~4000万年前の地球では、世界中の大陸が一か所に集まっていた、史上最大の超大陸パンゲアがあった。あえていうなら、北半球をすっぽりおおう形のそのパンゲア大陸は、先に出来ていたゴンドワナに、ユーラシア部分が少しずつ合体し、つくられていったという考え方がある。
 「パンゲアの中央部分は少しくびれており、北半分は「ローラシア大陸」、南半分は「ゴンドワナ大陸」とよばれ、そして、この二つの大陸の間の大きな入り江状の海洋は「テチス海」とよばれている。」(「ヒマラヤ山脈」:雑誌「ニュートン」2013年12月号)
 およそこのような配置でのパンゲア大陸は、およそ2億年前まであったとみられている。
 それからも、この地球の大陸の在り方は移りゆく。1億2000万年前の地球では、およそ次の配置になっていたと考えられている。なお一説には、この同時期に、南極大陸からインド亜(あ)大陸が分離したのではないかとも推測されているところだ。
 「1億2000万年前、ジュラ期の後の時代、ちょうど白亜紀にこの東ゴンドワナ大陸が分裂を始めた。パノチア超大陸以来、少なくとも9億年間分裂しなかった東ゴンドワナ大陸が、この時三つに分裂したのである。
 同時に南米、アフリカも分裂した。つまり、ゴンドワナ大陸の五大陸分裂は、およそ10億年に一度あるかないかの大きな大陸分裂だったのだ。」(玉木賢策「生命進化の駆動力ー大陸の分裂と移動」:NHK「地球大進化」プロジェクト編「地球大進化ー46億年・人類への旅5大陸大分裂」NHKブックス、2004)
 それからまた、かなりの時が経過していった。5500万前の大陸配置図(アメリカ・北アリゾナ大学ロナルド・ブレーキ博士監修のもの)では、こうなっている。
 「ツルガイ海峡によってヨーロッパとアジアが離れている以外にも、細かなところがいくつか違う。目のつくところでは、アフリカ大陸はヨーロッパ大陸から離れ、孤立している。その東にはテチス海という大海がひろがり、アジア大陸にぶつかる前のインド亜大陸がぽっかりと浮かんでいる。
 南極大陸には南アメリカ、オーストラリアが陸続きにつながっている。そして南アメリカと北アメリカをつなぐパナマ陸橋はなく、両大陸は分断されている。いまの大陸配置より少しバラバラだということができよう。」(NHK「地球大進化」プロジェクト編「地球大進化ー46億年・人類への旅5大陸大分裂」NHKブックス、2004)
 そこでのインド亜大陸が、その後4500万年前までの間に北上を遂げ、アジア大陸に衝突したと考えられている。その北上の距離たるや、6000キロメートル以上にも及んだらしい。
 インド亜大陸は、アジア大陸に衝突した後も北上を止めなかった。そのことにより、海底の堆積物が押し上げられ、隆起していく。その時の地球表面の全体の様子は、次の如く推移したのではないかと考えられている。
 「インドの北上がつづいた白亜紀(1億4450万~6550万年前)のころは、世界中で火山活動がさかんになり、大気や海水の温度が上昇したと考えられている。そのため海にすむ生物の数も増え、その結果、死骸や排泄物などの大量の有機物が海底に堆積することとなった。」(「ヒマラヤ山脈」:雑誌「ニュートン」2013年12月号)
 それからまた大いなる時が経過しての5500年前にさしかかる頃、インドア大陸の北西部はアジア大陸に衝突した。そのことにより、生物たちの「楽園」であったろうテチス海は、4000万年前までに消滅してしまう。
 今度は、今日知られるヒマラヤの山脈が徐々に高さを増していく。一説によると、2000万~1500万年前には高さ3000~4000メートル級の、屏風のような峰峰へと成長する。やがて1400万~1000万年前にさしかかると、それまで緩やかに高さを増してきていたところに、標高8000メートルクラスのヒマラヤ山脈が出現したというのだ。
 同じくおよそ5000万年前頃、アフリカ大陸が直ぐ北のヨーロッパに接近し、衝突し始めた。この衝突により、やがてヨーロッパに4000~5000メートルクラスのアルプス山脈を形成するのであった。

(続く)

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♦️22『世界と人間の歴史・世界篇』大陸変遷の過程(プレートテクニクス)

2018-06-21 21:09:51 | Weblog

22『世界と人間の歴史・世界篇』大陸変遷の過程(プレートテクニクス)
 
 ドイツの地球物理学者のアルフレート・ウェーゲナー(1880~1930)は、大陸の移動ということを考えた。はじめは一つしかなかった大陸が、その後分裂し、移動していく。その頃には、そのことの意味を深く考える生物はいなかったらしい。そうしていって、現在私たちが見知っている諸大陸ができたのであると。彼は、こういう。
 「南アメリカはかつてアフリカに隣接して、一つの接合した大きな大陸塊をつくっていたが、白亜紀(はくあき)に二つに分裂したにちがいない。(中略)
 同様に、かつて北アメリカはヨーロッパと隣接して、それらとグリーンランドとがいっしょになった一つの大陸塊をつくっていた。少なくともニューファンドランドとアイルランドより北の部分は合体していた。この大陸塊の分裂は第三期の後期に始まり、北部では第四期に始まった。(中略)
 南極大陸と、オーストラリアとインドとは、ジュラ紀の始めまではアフリカの南部に接していて、さらに南アメリカをも合体して一つの巨大な大陸塊をつくり、その一部分は浅い海に覆われていた。この巨大な大陸塊は、ジュラ紀、白亜紀および第三期の間にもっと小さな個々の大陸塊に分裂しそれぞれ違った方向に漂っていった。(中略)
 インドの場合には、過程は他の場合とやや違っていた。最初はアジア大陸から長く突出した陸塊があって、その先端にインドが付いていた。そのころ、そのアジアとインドをつなぐ土地の大部分は浅い海に覆われていた。そのインド陸塊はジュラ紀前期にオーストラリアから分裂し、また白亜紀から第三期に移る頃にマダガスカルから分離した。
 そして現在のインドがアジアに近づくにつれて、インドとアジアとの長い連結部分は次第に褶曲(しゅうきょく)の程度をましていった。この地域が今日地球上の最も大規模な褶曲山脈(すなわちヒマラヤ山脈とその他のアジアの高地の褶曲山脈)になっている。」(アルフレッド・ウェーゲナー著、都城秋穂・紫藤文子訳「大陸と海洋の起源」岩波文庫、1981)
 それらの大陸の上で、やがて私たち人類の祖先が発生し、育まれ、いうなれば進化を遂げていったのであろうが、この彼の大陸移動説は、大陸とその底にある「根(ね)」との関係についても、こう説いている。
 「容易にわかるように、大陸移動説は、深海底と大陸とは異なった物質からできており、地球の成層構造の中の異なった層を表わしているという推定から出発する。大陸地塊は、地球の一番外側の層を表わすものであるが、地球全体を覆ってはいない(たぶんむかしは覆っていたが、今ではもう覆っていないという方が正しいのかも知れない)。
 海洋底は、その下にある層の表面が露出しているのであって、この層は大陸塊の下方にものびていると考えられる。これが大陸移動説の地球物理学的な側面である。(中略)地球上の個々の海洋や大陸がそのままで不変に存続したのではなくて、現在分離している二つの大陸塊が直接に接触していたのである。」(同) 
 この彼の大陸移動説は、今日「プレートテクニクス」と呼ばれ、大方の地質学者の支持を得ている。これに基づくと、現代に私たちが生き、この地上を中心にあれこれしているうちにも、この大地は動いている。地球に大陸と海ができてからというもの、その在り方は、色々と変わってきた。
 例えば、アフリカ大陸を見よう。エチオピア北部からモザンビークにかけては、ほぼ南北に約4500キロメートルにわたり大地の裂け目、アフリカ大地溝帯が確認される。その中でも、この溝帯の北部ダナキル砂漠付近では、アフリカプレートの一部としての、ヌビアプレートとソマリアプレート、アラビアプレートという3つのプレートが分裂中であるとのこと。この場所は、人類発祥の一つでもある(「ダナキル砂漠、裂けゆく灼熱の地」:雑誌「ニュートン」2013年6月号など)。
 とはいえ、アフリカ東部でのような分離力としては働いていないので、肉眼で見ることはできにくいという。
 次に、日本周辺に目を向けてみよう。驚くことに、この列島をぐるりと囲む形で、実に4枚のプレートがひしめき、せめぎ合うようにして存在している。これを短的にいうと、ユーラシア大陸に対して、弓の弦を張ったように日本列島が張り出している。その西側からはユーラシアプレートが、その北側からは北アメリカプレートが、東側からは太平洋プレートが、南からはフィリピン海プレートが押し寄せている。これらのうち、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界は、はっきりとはわかっていないようだ。

 北アメリカプレートを基準にした場合の各プレートの移動は、どれくらいになっているだろうか。これまでの計測では、1年間で、ユーラシアプレートは東の方向へ数ミリメートル、フィリピン海プレートは北北西から北西方向へ3~4センチメートル、太平洋プレートはほぼ西方向へ約10センチメートルといわれる(「活断層とは何か」:雑誌「ニュートン」2013年3月号)。

 


(続く)

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