1『美作の野は晴れて』第一部の序、「「人生の楽園」に寄すーある凡人の記録」

2018-06-07 22:07:14 | Weblog
1『美作の野は晴れて』第一部の序、「「人生の楽園」に寄すーある凡人の記録」

(1)通勤
 東京には、摩天楼の「砂漠」というより、むしろ「海原」だというのが似つかわしい。田舎から出て都会に生活の糧を求めた私の目線でみると、まるで海にいるように「果てし」が感じられないからだ。この世界有数の都会には、世界に知られた人間社会の縮図がみられる。その中心部の一つに新宿のビル群が我が物顔にそびえ立つ。
 朝の新宿駅には、沢山の交通機関が寄り集まって来る。色とりどりの列車が行き交い、車が氾濫し、空には時々ながらヘリコプターのプロペラが舞い、おりを見て気球が浮かび、さらにはるか上空にはジェット機の白い航跡も見えている。人々は、仕事に、学校に、その他にもさまざまな用事があって、毎日、日々刻々、どこからともなく様々な装いの人々が無数といってもいい程にここに集まり、そして離散してゆく。
 そう、絶え間なく、その変化は続いていく。私たちは、このような巨大な摩天楼の下を動き回っている。そのことを当たり前のこととしていて、多くの人たちがそのことをなんら気にかけていない。そう、私たちは「現代」の「いま」、この瞬間をに生きているのだ。
 そのJR新宿駅を南口側に出ると、直ぐ脇に甲州街道が通る。その街道筋に沿ってビル群がつくる長い回廊を西へと進み、階段やエスカレーター、それにエレベーターを使い地下1階に下る。そこに京王帝都電鉄の京王新線新宿駅がある。私は、2013年3月まで、この線を通勤に利用していた。改札口を入って直ぐのところ、下りのエスカレーターの少し手前に、今はもう撤去されているが、「歴史を語る高尾杉」と銘打たれた高尾杉の切株の年輪部分がさりげなく展示されていた。
 それまで気にはなっていたのだが、普段は3時間近い通勤を慮って先を急いでいる。なので、私にはわざわざ立ち寄ることはなかった。ところが、ある日の帰り路、いつもと異なり、心の余裕があったのかもしれない。ひょっとしたらその日は「花の金曜日」で、明日はゆっくり休めるという安堵の気持ちがあったのかもしれない。おそらく私は、思い出すかのように、その古木の前でふと立ち止まった。
 これは、めずらしい。いつ伐採されたのだろうか、その経歴も添えられていた。興味を持った私は、その標本に目を凝らしてみた。透明なプラスチックのケースを被せられた年輪である。それをじっと眺めてみる。すると、不思議である。それが伐採されるまでのことはまるで知らない。それなのに、まるで「明晰夢」(めいせきむ)を観ているかのように、その年輪のたどってきた寒暖風水のおよそが脳裏に浮かんでくるではないか。
そのことは、私の頭の中での勝手な想像でつくりあげたものなのだが、かつて、山懐に抱かれた深い森にあってその命を宿し、水や太陽光などを消費して活動していた頃の姿を、もしかしたらこの木にも、「俺もそんな時期があったのだ」とこちらに伝えているような印象を持った。
 その日以来、幾歳月が慌ただしさの中に過ぎ去っていった。それでも、私は、勤務日の朝な夕なにその展示の前を通り過ぎる毎に、親しみを持ってその標本を観ていた。その間は、ずっと体の具合が重かったので、その前を通と清浄なものに触れるような爽やかさを感じていた。そのことで、何かしら励まされるようになっていたのかもしれない。
このもとの木は、江戸時代の文化文政期、田沼意次(たぬまおきつぐ)が老中になった1772年(安永元年)に、武藏の国、高尾山の森の奥に植えられた。樹齢が百年を越えた頃からは、人里離れた森閑の地において、他の友木とともにあったのだろう。
 その樹齢は、屋久島の縄文杉(放射性元素により測定される樹齢としては3000~4000年、あるいは2700年とか諸説がある)や羽黒山(山形県)にある大杉など、全国にあまた数えられるであろう樹齢が千年以上、高さも30メートルに及ぶような巨木には及ばないだろう。それでも、温暖かつ豊富な降雨があって、展示にあるような大木になることができたともいえる。
(2)大樹に学ぶ
 いま顧みると、私はその時、人生にあるだろう、宝物さがしの行程にかなり遅れてしまったことだろう。子どもの頃から顧みて、あれから数十年の時を経てなお、心に自分はどのようにして生きて行ったらよいかがわからないでいる。けれども、その試行錯誤の御陰で、人生ですごく大切な事にようやく気がつき始めたのかもしれない。かねがねゆったりした生き方に変えないといけないな、と感じていた。
 そんなところへ、その時期を知らせるシグナルがあった、ともいえる。それからは、できれば、その時点で職場をやめて、自分というものをみつめ直したい、と思うようになった。けれども、それはできる筈もなかった。それは、生活のため、家族のためにできなかったばかりではない。それと並んで若い頃から自分の未来図がほとんど何も描けていなかったことがあったに違いない。
 そんな心境の変化があってから、私は、周りの自然の風景や営み、その背景をなす地方の風土や歴史などにだんだんと魅せられるようになっていった。1996年(平成8年)の初めまでは、横浜の金沢区の、海岸近くの宿舎に住んでいた。
 初めは長屋の一区画、その後は全部で5階建てのコンクリートの建物、その1階にある48平米ばかりの3DKに家族4人で住んでいた。後者は、相当に窮屈な生活空間には違いなかったものの、新築できれい、かつ賃料も比較的安かった分、恵まれていたのかも知れない。
 その春には、あの国木田独歩や武者小路実篤がロマンを夢見て称えたことのある、武蔵野の北部にあたる、比企丘陵のとある田舎、小川町に移り住むことにしたて。ことさらに精神的に病気がちな子供達のために勉強部屋をつくってやりたかったので、やむに止まない気持ちからの移転であった。この地は、古くから「武蔵の国の小京都」と呼ばれ、豊かな自然に囲まれ、かつては林業や和紙の製造が盛んであった。今、ここにはベッドタウンや自動車製造工場(ホンダ)の進出などがある。我が町の西隣には秩父連山の麓に広がる東秩父村があり、東隣には風光明媚で知られる嵐山町がある。
 その嵐山町には、深山幽谷というほどの切り立った山や谷はない。精々、低き山か、丘陵というところか。そのほぼ平地に、気に入りの二本の木が聳える。一つは、嵐山渓谷の入口辺りに、「平成楼」という健康増進施設がある。そこは、こちらの土地の人々の安らぎの湯と入浴後の憩い、宿泊の場となっている。その建物の前に、一本の楠(くすのき)が立っている。この木の成長は遅いらしい。それでも、大人が3人寄らないと抱えられほどに堂々としている。高さは15メートルくらいだろうか、寺社建築の楼の高さにほど近い。根元に表識が備えてあって、この木の名の由来が南方であることが記されている。施主がこの施設を開設のとき、この大木を伐採をするには惜しいと、自然のままに残したに違いない。
 どこか静謐ささえ感じられる。この木にそっと寄り添い、両手を一杯に広げて体全体を預けてみると、ごわごわしているが、南国からの渡来の木らしく温かい。もう一つは、文部科学省関係の独立行政法人国立女性会館の玄関から間近に橡(くぬぎ)の木である。あの中国の古典『荘子』(そうじ)での逸話にあるように、柔らかくて家の柱に使えないし、家具にするにも変形してしまう。人間にとって特段の使い道のないことから、ともすれば「無用の大木」扱いされることが多い。それゆえ、この木は伐採を免れてきたという。
 こちらは、玄関に立って見て古代史に出てくる七支剣(しちしけん)のような出で立ちで、これも15メートルくらいの高きにまで聳えているではないか。幹は大人が手を広げて2人掛かりくらいで取り囲めるようで、枝振りの割にはやや細く感じられる。それでも枝の数々は各々の節で前後左右にほぼ均等な広がりを見せており、こちらは全体として威風堂々たる躍動感を感じさせる一木であって、少し離れたところからしばらく眺めていても飽きない。惜しいことに、このクヌギの大木は、2018年の初めであっただろうか、図書館を利用するため訪れた時には、大方伐採の状態に変じていた。
(3)人生の転機
 今こうしている間にも、あなたにとっても、わたしにとっても、時は流れている、滔々とたゆみなく。それにしても、人の一生は何に例えればよいのだろうか。航海だろうか、登りかかった坂道であろうか。そもそも、その冒頭からして、いつ頃から自我というものが芽生えるのだろうか。
 私の物心がついたのは精精4歳位だったのだろうか、その頃までのことは、ほとんど覚えていない。それらは、不透明な壁の向こうにあるのであって、こちら側からは観ることはできない。なおさら、何度問いかけても、特殊な何かの電気ショックでも加えない限り、残念ながら、さしたる返答を得ることは期待できないようだ。
 それから20歳代までは、夜間大学に通ったりしながら、7年くらいはあれこれ雑多な仕事に就いていた。その間は、いろいろと苦しいことにも出会った。どうしたらそれから逃れたり、それを克服できるかがわからないままだった。
 それでも、何かしら「負けるもんか」という生命力のようなものに満ちていて、自分の前には無限の可能性が広がっていると、心の底に「生きよう」と信じて疑わなかった。多くの人に助けられたのも事実だが、先祖から受け継いだ力が万事の支えとなっていたのかもしれない。
 30歳を迎える頃には、転機があった。家庭を持ったり、仕事の内容も変わってきたり、社会活動も盛んに行い始めた。その頃の生活の中には、主観としては、まるで「夜打ち朝駆け」のような意気軒昂な時もあったろう。あれやこれやで人生の複雑さが増した。とはいうものの、全体としては未来への漠然とした期待というか、希望もかなり残っていた。 30代半ばからは中年で、その1988年(昭和63年)2月、30代半ばの体に、突如、金沢八景から運河沿いの真っ直ぐに海の方向に伸びた歩道を歩いての帰り道、意識が何度か遠くようであった。何日かおいた宿舎の中で、夜遅くに心臓発作か何かの身体の異常が感じられ、翌日病院で診て貰ったところ、一過性の発作であったらしい。
 それからも、仕事面などの外向きでは、度重なる失敗や挫折、紆余曲折、試行錯誤、優柔不断、はては右往左往などから抜け出せなかった、といってもいい。自分には向いていないとは承知していたが、それでもこの仕事がある御陰で自分と家族を養って行ける。そんなせいか、それとも朝の出勤前に経済学の勉強と執筆(30代からはかなりの原稿依頼をいただくようになっていた)のせいなのか、おのが体は、日常いつでもといって差し支えないような、背中にごわごわした薪の束を背負っているような感覚に苦しんだ、それだから、針治療や病院の精神科に通院したりした。薬付けで、私の頭脳は、気張ったときのほかは、ずっとぼやけたままであったし、がんばったときにはその分大きく疲れた。
 しかし、そんな治療でもなかなか治らず、大海の中でもがいている気分であった。こうなると、呼吸のひと吐き、ひと吸いがいとおしく感じられる、なんとかして立ち直りたい、元気になってやり直したい。同時に、これからの自分は、何ができるのだろうかと、模索は毎日のように続いた。とはいえ、自分と社会をうまくつなぎ、自分の個性や思想というものを貫く生き方ができるのは、ほんの一握りの人たちに限られる。煎じ詰めれば、その頃は、私なりに自分らしい、もっといえば自分がこうだと信ずる、ありていにいえば「世直し人」としての生き方を懸命に探していたのだろう。
(4)自然と良き人々に励まされて
 それからさらに10余年の歳月が無情にもというか、暖簾に襷(たすき)というかに過ぎていった。私は、50代になっていた。その頃、人生の転機らしいものが訪れた。季節は、5月の連休のことであったろうか。相変わらず苦しくはあったものの、こんなことではいけない、失われかけている自分の時間を、これからの残された人生で少しでも取り戻さないといけない、もしくは、今からでもやればできる、まだ少しも取り組まないうちからがっかりすることはない、などとの気持ちから、第二次世界大戦後の日本経済と経済学入門の本を自分の目線で書くことを思い立った。私がこれまで勉強してきた経済学は、現代の諸問題を解決できるのだろうか、その仕事に私も及ばずながら挑戦してみるべきではないか。
 そう考えるようになってから、私は試行錯誤を始めていた。私の社会党は、爛熟期を迎えた日本経済が繰り広げる政治劇に翻弄され、しだいに自由闊達さを失っていっているようであった。それまでは、曲がりなりにも「我が生涯の闘い」と任じていた。
 それなので、政治戦線の右傾化は、相当身体にこたえた。そんな中で、自分なりに方向を見つけ出そうと、休日などを利用して、世界の総ての国の政治経済社会の近代の歩みをテーマにしたホームページづくりを始めた。
 どんなに儚く小さな存在でも、平たく言うと、かの伊能忠敬の「一身二生」の意気込みにあやかりたい。実際はどうあろうとも、志だけはこの宇宙を覆うほどに大きくありたいものだ。自分にとって、これほどの大それた試みは他にないと、「よしやろう」と、朝な夕なに考えるようになった。この仕事をやり始めると、これが結構楽しいのだ。そのうちに、少年期までの自分の小史に取り組んでみたい。
 ついては、その舞台を借りて、私という個体を育んでくれた故郷、美作、備前そして備中の三地域の今昔、その歳時記をまとめてみたい。これを定年後の励みの仕事の一つにしてみたい。ささやかながら、私の心の中にある故郷、そして日本という国への思いを、何かしら形あるものにしてみたいと考えている。
(5)生きとし生けるもの
 この地球上の生物たちのほぼすべては、意識と心をもっている。ここで意識とは、自分の周囲の「環境を評価する方法の集合体」(イサオ・カク・ニューヨーク州立大学シティカレッジ教授による「ニューヨーク白熱教室、最先端物理学が語る驚異の未来、「意識や心の未来」についての第3回講義から、「意識とはなにか」2015年4月)だと定義できる。それによると、1単位の「意識」は「」一つの環境を評価する方法」であり、植物も例外ではない。ましてや、「動物は数百単位の「意識」を持つといえる。花は動けないが、位置を認識する。(彼らは)進化する過程で温度や太陽光の強さだけでなく、空間における自分の位置についても評価できる力をもつようになったのだ」(同教授)といわれている。
 そうであれば、私もまたこのような「意識」を持って、これからもいろいろなことに遭遇して、自分を取り巻く世界を理解していくことだろう。この地球上の人間以外の動物は、人間以外のほ乳類は社会性を理解できるようになっている。しかし、彼らは、およそ時間の概念をもっていないとされる。
 それならば、人間はどうかというと、私たちは、過去や現在はもちろんだが、それだけに留まらない心の動き方をしている。つまり、未来に思考をつなぐことをしている。このように将来を見据える能力、これが、人間の人間たる所以なのだと教わった。そして、その時の未来も、やがては今となり、過去となっていく。
 30代だった頃、体調を崩して診てもらった医者に「あなたが死んで50年経った時を考えてみてください」と諭されたことがあった。私の肉体が朽ち果てた後には、いったい何が残るのだろうか。その忠告をもらった時からおよそ30年を経た今の自分は、とてもとても大好きなことをしている姿へと向かっている。それでこそ、本来の自分なのだと思うようになっている。
(6)ありのままの自分で良いのでは
 自分の場合、人生というものは、なかなかに楽ではないと想う。自らの非力を感じることが大きかった。だから、その分だけ楽しく振る舞うのがいい。今の自分にとって前向きなこと、また楽しいものがあるなら、「どうせ大したことはできないんだ」などと、心にあれこれと蓋をしないのがよいと思っている。
 幸い哉、無心にとはいかないまでも、やりたいことへの構想が湧いてきている。たとえ小さくてもいい、一つでも、二つでも、この世の中をよくすることにつながるものがいい。もはやどうにもならない過去に浸るのは、避けたい。これまでは、自分というものを活かせきれないところが、多々あった。人は、これからを生き生きと生きていくためにこそ過去を振り返るのであり、自分もまた、そこでの糧を携えながら、生き続けていこうとする者の一人でありたい。
 人生のどんな事象にも、それなりの意味が宿っているし、私のような一介の者でも、これからの人生で何かができるのではないだろうか。たとえどんなに小さなことにでも全力を傾注すれば何かができるのであって、私にもきっとそれができると信じたい。だから、煎じ詰めれば、ささやかな人生でよいのではないか。自分の人生の最後の審判者は自分自身なのではないか。事を行うに大切なのは、「ありがと、ありがと、ありがとさん」の気持ちで、自分なりに確かな手応えのある何か、できたら自分の得意としたり、楽しんですることのできることに取り組んでみたい。
 この世界で一番広い、大きな舞台というべきなのは、国境などには囚われないような意味での、この地球という一つの世界なのではないだろうか。これまでの念頭において鮮明に焼き付いているのは、土星からの写真に青い地球が写っていることだ。2017年の夏、武蔵嵐山の星空探検サークルの一般人向け見学会に出掛けた。御陰で、望遠鏡を覗いて土星を眺めさせてもらった。なんと、今この時、自分と土星とを遮るものとてないではないか、素晴らしい経験に違いない。
 この星においては、誕生から38億年からの命の繋がりが認められて、そこに人類が発生し、その進化の過程で私たち現代人の直接の祖先とされる「ホモ・サピエンス」(クロマニョン人などとされる)が現に生き残っている。我が祖先たちは、アフリカから全世界地域への旅の途上にあった。その一つに日本という小さな島国があり、その一地方たる岡山県、さらに歴史に分け入ると、備前、備中、美作の地がある。時代につれて人間社会のあり方も変化する。それに、自分や様々な階層の人々の暮らしぶりを重ねて色々と描いてみよう。一人でもお二人でも、これを読んでいただいて何か前向きなものを感じてくださる人がおられれば、望外の幸せだ。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

○○4『自然と人間の歴史・日本篇』日本列島の形成と変化(新生代へ)

2018-06-07 09:07:03 | Weblog

4『自然と人間の歴史・日本篇』日本列島の形成と変化(新生代へ)

 それからは、新生代(6600万年前~現在)に入っていく。新生代は三つの紀に分かれている。その最初の第三期は、古第三期(6600万~2303万年前)と新第三期(2303万~258万年前)の二つに分かれる。その新生代の始まりに近い、今からおよそ6550万年前頃の、中生代白亜紀末期とその後新生代古第三期との境目には、生物の大量絶滅があったと考えられている。
 ここで目を地球全体に転じると、そして今から約6500万年間前頃(これを含む新生代古第三期暁(ぎょう)新世は6600万年前~5600万年前)になると、アメリカのコロラド高原が隆起を始める。
 その隆起にともなって、原生代(5億4100万年前までの地球古代をいう場合の地質年代区分をいう)の前期の、今からおよそ18億年前の変成岩の上に、古生代、中生代、そして新生代の地層がほぼ水平に重なっているのが、地表に現れてきたのである。
 それからも、この地球の大陸の在り方は移りゆく。1億2000万年前の地球では、およそ次の配置になっていたと考えられている。なお一説には、この同時期に、南極大陸からインド亜(あ)大陸が分離したのではないかとも推測されている。
 「1億2000万年前、ジュラ期の後の時代、ちょうど白亜紀にこの東ゴンドワナ大陸が分裂を始めた。パノチア超大陸以来、少なくとも9億年間分裂しなかった東ゴンドワナ大陸が、この時三つに分裂したのである。
 同時に南米、アフリカも分裂した。つまり、ゴンドワナ大陸の五大陸分裂は、およそ10億年に一度あるかないかの大きな大陸分裂だったのだ。」(玉木賢策「生命進化の駆動力ー大陸の分裂と移動」:NHK「地球大進化」プロジェクト編「地球大進化ー46億年・人類への旅5大陸大分裂」NHKブックス、2004)
 それからも時は刻まれていく。新生代の古第三期(6600万年前~2303万年前)に入っての5500万年前になると、地球の大陸配置図(アメリカ・北アリゾナ大学ロナルド・ブレーキ博士監修のもの)では、こうなっていたと考えられている。
 「ツルガイ海峡によってヨーロッパとアジアが離れている以外にも、細かなところがいくつか違う。目のつくところでは、アフリカ大陸はヨーロッパ大陸から離れ、孤立している。その東にはテチス海という大海がひろがり、アジア大陸にぶつかる前のインド亜大陸がぽっかりと浮かんでいる。
 南極大陸には南アメリカ、オーストラリアが陸続きにつながっている。そして南アメリカと北アメリカをつなぐパナマ陸橋はなく、両大陸は分断されている。いまの大陸配置より少しバラバラだということができよう。」(NHK「地球大進化」プロジェクト編「地球大進化ー46億年・人類への旅5大陸大分裂」NHKブックス、2004)
 ちなみに、この図によると、今日「日本列島」と呼ばれる部分は、アジア大陸の東端にくっついている。
 さらに、今からおよそ1000万年間前(新生代新第三期中新世の間)の地球では、「世界の屋根」としてのヒマラヤ山脈の形成が始まる。これは、ユーラシア大陸にインド亜大陸(あたいりく)が衝突して、上昇を始めたものだと考えられる。
 新生代も、次の新第三期(2303万~258万年前)になると、ほ乳類の活動がさらに盛んになり、全地球に広がって、さらには、類人猿から原人への分岐があった。
 続いて、新生代の第四紀(258万年前~現在)に入る。この紀の最初の更新世の時代(258万年前~1万1700万年前)中、今からおよそ30万年前にはその頃まだ海に浮かぶ大陸の一つであったインドに、またもや小惑星が衝突したのではないかとも言われている。そしておよそ20万年前ともなると、いよいよ現代の私たちに直接繋がる人類、ホモ・サピエンスが登場してくる訳なのだ。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆☆