♦️703『自然と人間の歴史・世界篇』米ソの核軍縮(1980年代)

2018-06-23 22:06:00 | Weblog

703『自然と人間の歴史・世界篇』米ソの核軍縮(1980年代)

1985年秋、ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連の核廃絶に方向チェンジするとともに、一方的に核実験の敗死を宣言する。1986年1月、ゴルバチョフは、ヨーロッパに配備されている米ソの中距離核戦力(INF)の全廃を提案する。
 1987年11月19日、議会は米ソ首脳会談を約3週間後に控え、SDI(宇宙での核戦争をも視野に入れる)予算を政府要求額の約3分の2に圧縮した。1987年12月、米ソ首脳(レーガンとゴルバチョフ)がINF全廃条約に署名した。
 ミサイルの撤去のみならず、双方の査察を規定した。寄せては返すであろう、軍備拡張の競争には、果てしがないのだ。その時、廃棄の対象となるミサイルの数は、アメリカが859、ソ連が1836とされた。
 この条約では、射程距離が500キロメートルから550キロメートルまでの、地上発射型の弾道ミサイルと巡航ミサイルの廃棄を規定した。廃棄の期限とされる1991年6月までに、米国側は846基、ソ連側は1846基のINFミサイルを廃棄するということで、両国は条約の規定に従って廃棄後、互いの軍事施設を査察し、相手側が条約内容を遵守しているかを検証したという。
 1988年5~6月、アメリカノレーガン大統領がソ連を訪問した。では、なぜこの時期、かくも大胆なミサイル廃棄劇が実現したのだろうか。経済的には、ソ連側が国力(単に経済力の疲弊というレベルを超えつつあったという意味で)の疲弊の見通しを持っていたことが容易に想像できる。
 翻ると、そうした国力の低下には、アフガニスタンへの軍事介入の失敗も糸を引いていた。この介入の始まりは、こうである。1978年4月の軍事クーデタでアフガニスタンに非共産主義政権が立ち上がる。南の隣国であるソ連は、その影響を受けることを怖れた。アミン新政権がアメリカとの協力関係でこの地に前線基地を設けるかも知れないとの懸念もあっただろうし、この動きの東側同盟国への波及を怖れたのかもしれない。
 ソ連のこの介入は、アフガニスタンの内戦を引き起こしていく。ソ連軍は、アメリカに支援されたイスラム原理主義勢力とも戦わねばならなかった。ほぼ10年に及ぶ介入により、ソ連軍の被害は1万4千人余の使者を数えたと伝えられる。
 だが、そればかりではなかった。それとともに、ソ連側に大きな軍縮への意思形成を与えたのはチェルノブイリ原子力発電所の事故であった。そのことを窺わせる後年のゴルバチョフとの一問一答が紹介されている。
 「米国には、INF全廃条約を可能にしたのは、米国がSDIを推し進めたためとの意見がある。米国は何でも自分が勝利者でないと気がすまないようだ。決して、SDIのおかげで実現したわけではない。ソ連は、SDIへの対抗手段を持っていた。詳細は公表できないが、レイキャビクでのレーガン大統領との首脳会談でも、そのことははっきりと伝えた。それに、SDIはいずれ下火になるだろうと考えていた。そこで、SDIの宇宙実験を禁止するABM制限条約を7~10年間、お互いに遵守するよう調整を試みた。予想通り、この間にSDIは失速した。」
 では、何がソ連指導部を軍縮に向かわせたのかの問いに対し、こう答えたという。
 「1986年に起きたチェルノブイリ原発事故だ。私は、チェルノブイリ事故前の世界と以後の世界を分けて考えている。あの事故で、制御を失った核エネルギーが、どのような惨状を生み出すかを実感させられた。ソ連という核大国が大変な苦労をして、やっとのことで、たった一基の原発の核エネルギーの制御を取り戻すことができた。もし戦争で核兵器の制御を失い、チェルノブイリのような汚染が蔓延したら、もう手に負えない。チェルノブイリ原発事故は、核軍縮に取り組む私にとって、大きな教訓となった。」(吉田文彦「核のアメリカートルーマンからオバマまでー」岩波書店、2009、151~152ページよりゴルバチョフの発言を引用)
 1989年12月、レイキャビクでの米ソ首脳会談において、「冷戦の終結」が確認される。翌1990年には、東ドイツが西ドイツに併呑される形でドイツ統一が為された。

(続く)

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○○454『自然と人間の歴史・日本篇』人物往来(神谷美恵子)

2018-06-23 21:33:21 | Weblog

454『自然と人間の歴史・日本篇』人物往来(神谷美恵子)

 神谷美恵子(かみやみえこ、1914~1979)は、精神科医にして、宗教的な哲学者といおうか、そして類稀な程の謙虚、かつ日頃苦しい思いをしている他人への献身性を備えていた。若くして、病を得て大変なのにもかかわらず、長島愛生園で患者に寄り添う毎日を選び、送る。
 やがて、次の言葉が出てくるのだが、深い人間性に裏打ちされている。
 「こころとからだを病んで、やっとあなたたちの列に加わった気がする。島の人たちよ、精神病の人たちよ。どうぞ、同志として、うけ入れて下さい。あなたと私のあいだに、もう壁はないものとして。」(「神谷美恵子の世界」)
 その体験を元にして、いやが上にも宗教的な感性を研いていく。
「変革体験はただ歓喜と肯定意識への陶酔を意味しているのではなく、多かれ少なかれ使命感を伴っている。つまり生かされていることへの責任感である。
 小さな自己、みにくい自己にすぎなくとも、その自己の生が何か大きなものとに、天に、神に、宇宙に、人生に必要とされているのだ、それに対して忠実に生き抜く責任があるのだという責任感である。」(神谷美恵子「生きがいについて」)
要は、困難に直面しても、たじろがない勇気のことなのだろうか。現実の問題に関わる中では、大いなる見地に立つべきだともいう。
 「現実の問題は解決しなくとも、それにたちむかう新しい力が湧きあがってくる。現実の世界は苦悩にみちいていも、それはもっと大きな世界の一部にすぎず、そこに身をおいて眺めれば、現世でたどる人生のもろもろのいきさつは、影のように見えてくる。
 重要なのは、今自分のうちにあり、自分をとりまくこの大きな力のなかで生きていることなのだ。その方が宇宙万物を支えているのだ。」(同)
 より普遍的なものへの思いは、この哲学者にとっては、既成の宗教のみに帰納すべきものではない。もっと人間に根源的なところに根ざした宗教性に至るのだと説くあたり、宗教以前の世界観に思いを馳せているようである。
 「そのように精神化された宗教、内面的な宗教は必ずしも既成宗教の形態と必然的な関係はなく、むしろ宗教という形をとる以前の心のありかたを意味するのではないかと思われる。
 結局、宗教的な世界というものは表現困難なもので、一定の教義や社会的慣用の形では到底あらわせぬもの、固定されえぬ生きたものであるからである。」(同)

(続く)

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○○275『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など・葛飾北斎)

2018-06-23 20:52:44 | Weblog

275『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など・葛飾北斎)

 江戸後期の浮世絵作家の中で、一際異彩を放っているのが葛飾北斎(かつしかほくさい、1760~1849)と歌川広重(本名は安藤広重、1797~1858)という。彼らには、いうなれば、ずば抜けた個性があった。
 まずは葛飾北斎であって、彼は今や世界で「最も有名な日本人」なのだと聞く。現在の東京都墨田区(すみだく)の庶民の家に生まれた。幼い頃から手先が器用だということを自覚していたのではないか。6歳位からは絵に親しんでいたらしい。
 12歳頃には貸本屋で働く。その頃の作品も伝わっていて、もうかなりの腕前に達していたとも記される。14歳頃になると、版木彫りの仕事に従事する。もう、おのが一生を浮世絵の世界に託すということで、業界に足を踏み入れていたのかもしれない。
 1778年(安永7年)になると、役者絵で人気を博していた勝川春章の門下に入り、画業を志す。始は、兄弟子から絵をけなされたりで、随分悔しい思いを重ねていたらしい。それでも、歯を食いしばり、たゆまぬ努力で腕を磨いていく。
 やがて師匠の勝章が死ぬと、北斎は勝川派を去るのであった。古巣を離れて、自分の途というものを模索していく。1794年(寛政6年)には、「宗理」の画号を名乗り、江戸琳派の頭領になる。狂歌の絵本の挿絵もかなり多く手掛けるようになる。仕事が舞い込んでくる位になっていたらしい。
 1798年(寛政10年)になると、今度は「北斎辰政」(ほくさいたつまさ)と号して琳派(りんぱ)から独立するといい放ち、自前の途を歩み始める。続いて1801~1804年位の作であったろうか、「風流なくてななくせ遠眼鏡」と名づけられた大判錦絵(おおばんにしきえ)を制作している。人は誰でも何かしらの癖をもっているらしく、ほほえましいものもあろう。そこでの婦人の一人は、右目に遠眼鏡を当て、何やら覗いている。どうやら、物見遊山癖をいいたいらしい。
 1804年から1818年にかけての文化年間に入ると、読本挿絵(よみほんさしえ)の制作を精力的に進めていく。俗的に、1804年(文化元年)から1811年(文化8年)までは、「読本挿絵の時代ー人気イラストレーターとして」(葛飾北斎美術館)と位置づけられる。その間、江戸琳派への傾倒があったりもしたという。需要はそれなりにあって、江戸の庶民にとっては、これを読みふけるのが随分の楽しみであったとか。
 2018年早々に会館の成った北斎美術館にて数多く並んでいたのを観覧した限りでは、どれもこれもというべきか、かなり「きめ」の細かな人物、文物そして自然の描写となっていた。
 1813年(文化1年)作の「潮干狩図」(しおひがりず)では、母とその子たちが中心に描かれ、干潟(ひがた)で貝拾いをしている。場所は、江戸湾か相模湾あたりであろうか、はっきりしない。遠くに低い山並み、さらにその上に雲が見える。常に新しい技法を探求していた、そのことが窺えるのだと評される。横長の構図には開放感が溢れていて、眺めているうちに気分が晴れ晴れしてくるではないか。まだ干潮が続くと見てか、皆ゆっくりした仕草で作業を楽しんでいるらしい。
 70歳を迎えた頃には、大いなる境地に達しつつあったのか、意味深長な言葉を発している。
 「七十歳前に描いたものは取るに足りない。七十三歳にしてようやく生き物や植物の形を少し描けるようになった。九十歳で奥義を極め、百歳にして精緻の極みに達し百数十歳で、まさに生けるがごとく描けるだろう。」
 1830年(天保元年)~1833年(天保4年)は、「錦絵の時代」(葛飾北斎美術館)だとされる。続いての1834年(天保5年)、注目の作品「富岳百景」(ふがくひゃっけい)が刊行されると、市井(しせい)において大いなる人気を博す。人々は、次から次へとこれが摺られ、売り出されるのを、首を長くして待ったのではないか。
 そんな中では、「山下白雨(さんかはくう)」や「凱風快晴(がいふうかいせい)」、それに「神奈川沖浪裏」が有名だ。このうち(「神奈川沖」とは、現在の横浜市神奈川区の沖合)が迫力さで群を抜くといわれるのだが。東海道の宿場町・神奈川が舞台とされるものの、陸から描くことができるものなのだろうか。
 この絵の波間に見えるのは、押送船(おしおくりぶね)といって、房総や伊豆で穫れた鮮魚を江戸へと運んでいたという。船員達は、この世のものかとも感じられる、力強く立ち上がる大波に翻弄される中、船縁を必至でつかんでいるようだ。そんな中で微動だにしないのが富士であって、その静かなること人間の営みなどは眼中にないかの如くだ。
 このシリーズ中には、他にも「御厩川岸(おんまやがし)より両国橋夕陽見(りょうごくばしゆうようみ)」や「隅田川関屋の里」、「本所立川」といった作者の住まいに程近い空間の描写があって、いずれも当時の庶民の暮らしぶりが塊間見える空間構成となっている。
 そんな北斎の最晩年の作といわれるのが、1849年(嘉永2年)1月11日ないし23日に描かれたとされるところの「富士越龍」(ふじこしりゅう)である。この絵は、まるで彼自身が龍となって天に昇っているかのようにも感じられる。龍とは、中国で考案された想像上の生き物であり、不死でなおかつ躍動的だというのが特徴的だ。人間界に現れる時には、人民救済、雨乞(あまご)い、魔除け、鎮火などの「御利益」があるとされる。実際にこの絵の前に立って、富士をも越えていく姿を見ていると、「ジワリジワリ」と鳥肌が立つような、作者の凄まじいまでの気迫さえもが感じられる。 
 なにしろ、一説によると、その生涯に2万点以上の絵を紙の上に、神社伽藍の天井などにも描いたといわれる稀有(けう)の人にして、しかもそれらのすべてに惜しみない情熱を注いだ。九十歳で亡くなるまでずっと隅田川界隈に暮らし、90回からの引っ越しをしたという。晩年になってからも、娘でこれまた画家のお栄に色々助けられながら、誠に狭苦しい住まいをなにものともせず、おのが画業に邁進した。そんな気まぐれさはベートーヴェン以上かとも思わせる、何しろ破格づくめの天才的画工なのであった。

(続く)

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