103『自然と人間の歴史・世界篇』オリエントの「四強分立時代」)
紀元前609年、オリエントにおいて一世を風靡(ふうび)したアッシリア帝国(紀元前2500年前~前605)が亡び去る。
その後、全オリエントの新たな統治者としてのペルシア帝国(アケメネス朝)が登場するまでの約半世紀の間、オリエント世界には、新バビロニア、エジプト(サイス朝)、リュディアそれにメディア王国という、四つの国が並立することになった。
まずは新バビロニア帝国(前625~前539)であった。建国当初から、なかなかに抜け目がなかった国にほかならない。メディア王国と語らって、アッシリア帝国の遺領を折半し、その半分、すなわち「肥沃な三日月地帯」の大部分を手に入れる。首都はバビロンに定める。この国の支配者がアラム人の一部族カルド族から出たことから、カルデア王国とも呼ばれる。
その初代のナボポラッサル(在位は前626~前605)は、元はアッシリア軍の一部将ながら、メディア王国と気脈を通じて、弱体化著しかったアッシリア帝国を滅亡に追い込んだ人物だ。
次いで、ネブカドネザル王(前605~前562)の治世において、新バビロニア王国は黄金期をむかえる。紀元前604年には、再興の成ったエジプト王ネコの軍がカルケシュに侵入とたのに対し、反撃しエジプトの北上に歯止めをかける。これに力を得たネブカドネザルは軍を地中海に進める。そして、カルデア、アッシリアはおろか、シリアからパレスティナまでを支配するにいたる。これに関連して、有名な「バビロニア捕囚」と呼ばれる。
紀元前650年、エジプトの諸侯たちとその軍隊は、アッシリア帝国の軍を国外へと追い出すのに成功する。サイス侯ブサメティク1世(前663~前609)の下に、デルタ中のサイスを首都に、第26王朝を建設する。ブサメティクの子ネコ2世(前609~前594)は、新バビロニアに対抗してカルケミシュの合戦を行うものの、アジア進出への夢を絶たれる。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆