♦️79の1『自然と人間の歴史・世界編』ローマの改革(グラックス兄弟)

2018-06-16 21:55:48 | Weblog

79の1『自然と人間の歴史・世界編』ローマの改革(グラックス兄弟)

 共和制のローマは、次々と勢力図を拡大していった。紀元前146年にはカルタゴやギリシアなどを属州に組み入れ、ほぼ地中海全域を掌握した。征服に成功した地域からは、戦利品などの莫大な金品がもたらされた。征服した地にローマの公有地を設定する際には、植民という形で市民が赴任するとともに、そこでの指導者層は彼らの中でも裕福な者たちが占めていく。
 そればかりか、対外戦争で多くの捕虜が奴隷として安価な労働力を提供するようになっていく。そうなると、富裕層は没落した市民などから土地を買い集め、奴隷を使って農場や牧場を経営したり、市民たる者を小作人とする契約関係に縛りつけたりするのに精出すようになっていく。こうした富める者の動きは、一般的な農民の没落を促進するのであった。 
 そして迎えた紀元前133年、名門貴族の出ながら、こうした社会の不平等の拡大を問題にしていた護民官(トリブヌスプレビス)ディベリウス・グラックスは、没落した、あるいはそうなりつつある中小農民の救済に動く。
 大規模土地所有者が不法、不当に占有していた元はといえば公有地を返還させるなりしたうえで、かかる農民たちに分配しようとした。ディベリウスは、民会を拠点に市民大衆に呼びかける際、農民の疲弊は軍隊の動員に支障をきたすことでローマの軍事力を弱めるとも言ったという。しかし、ローマ市民権をもつ、大方の商工業者らの理解はなかなか進まなかったようだ。かれが提案したこの法案は、元老院の大方の反対にあい、賛成派と反対派が揉み合う中、ディベリウスは暗殺されてしまう。
 この兄の無念に触発されてであろうか、紀元前123年には弟のガイウスが、護民官に当選する。彼は、兄の法案に示された政策理念を引き継ぎ、広げようとする。独自の工夫を加えながら、はるかに多くの改革をめざす。例えば、常設法廷の審判人を元老院議員から騎士身分に代える法、同盟市の市民にローマ市民権を付与する法、安価で穀物を分配するための法などを実現しようと奔走するのであった。だが、ローマ市民の支持は彼とその同志が考えたようには拡大せず、やがてその彼も暗殺され、改革は挫折してしまう。

続く

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♦️471『自然と人間の歴史・世界篇』ギニア・ピサウ

2018-06-16 21:49:05 | Weblog

471『自然と人間の歴史・世界篇』ギニア・ピサウ

 ギニア・ピサウ共和国(1973年9月24日に独立、旧宗主国はポルトガル)は、西アフリカに位置する。北にセネガルと、南と南東にギニアと国境を接し、西は大西洋に面する。首都はビサウだ。
 1446年、ポルトガル人が初めて上陸する。1687年、ピサウにポルトガルの貿易基地が設けられる。現地のアフリカ人の抵抗を抑え、ポルトガルがこの地を植民地とする。南北アメリカ大陸への奴隷貿易の中継地となっていく。これは、19世紀半ばまで続く。1879年にベルデ岬諸島と統治状は分離される。1886年、フランス領アフリカとの境界線が確定し、ポルトガルのこの地での覇権が確立したといえよう。
 アジア・アフリカ会議の翌年の1956年、ギニア・ピサウ・カボベルデ・アフリカ独立党(PAIGC)がポルトガル領アフリカのギニア・ピサウで創立となる。なお、同じポルトガル領のアンゴラにおいては、アンゴラ解放人民運動(MPLA)が始動するのであった。
 続いての1959年、ピサウの造船労働者のストライキに、ポルトガル軍が発砲する。PAIGCは武装闘争に切り替える。1965年、アフリカ統一機構がPAIGCを承認する。PAIGCは、1972年にはこの地の4分の3程度を支配するにいたる。
 そして迎えた1973年9月、民族人民議会の第1回大会が開催され、ポルトガルよりの独立を宣言する。同年11月の国連総会において、ギニア・ピサウとして独立が承認される。翌1974年には、国連に加盟を果たす。一方のポルトガルだが、「衆寡敵せず」を悟るほかなく、1974年ついにギニア・ピサウの独立を承認する。
 その国旗は、元はPAIGCの党旗であったが、星印しの下にあったPAIGCの文字が消えることで生まれた。興味深いのは国歌であって、「ラララ」といったスキャットで始まる。歌詞の途中の「われらの血の華から、われら手から生まれた果実、ここはわれらがアイする祖国」とあるのが、いかにもアフリカらしい。
 1980年11月、ヴィエイラ首相がクーデターで政権を奪取し、革命評議会が設置される。1984年4月の総選挙では、PAIGCのみが政党であるため、事実上の信認投票となる。5月に再開の国会においては新憲法か制定される。首相職は廃止となる。国家革命評議会にかわって国会が選んだ15人からなる国家評議会が設置される。
 1994年8月、大統領選挙があり、ヴィエイラが大統領に当選する。1998年6月には、一部軍人による反乱がある。1999年5月、ヴィエイラ大統領亡命、サーニャ国民議会議長が暫定国家の元首に就任する。2000年1月、大統領選挙、クンバ・ヤラ大統領選出。2003年クーデターが発生する。
 2003年10月、暫定政権が発足し、ローザが臨時大統領に就任する。2005年6~7月、大統領選挙でヴィエイラが当選する。2009年3月、ヴィエイラ大統領が殺害されたのを受け、ぺレイラ国民議会議長が暫定大統領に就任する。2009年9月、大統領選挙があり、サーニャが大統領に当選するが、12年に死去する。
 2012年4月、大統領選挙中に一部軍人によるクーデターの動きが発覚し、国連がクーデター首謀者らに制裁を課す。2012年5月、ヌハマジョが暫定大統領に就任する。2014年5月、大統領選挙でヴァス大統領が選出される。2016年10月、 コナクリ合意に全関係政党が署名する。

(続く)

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