469『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治(植民地支配と侵略への謝罪)
1995年8月15日には、遅ればせながら、「村山談話」と呼ばれる首相談話が公にされた。閣議決定に基づいたものであって、それなりの重みを伴っていた。
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道が進んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略とによって、多くの国々、とりわけアジアの人びとに対して多大な損害と苦痛を与えました。
私は、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からお詫びの気持ちを表明いたします。」
それにしても、この当たり前のことをいうのに、かれこれ50年もの歳月がかかった訳である。
惜しむらくは、この中に、日本国憲法下での平和の理念がどうなっているかについて、憲法第9条をしっかりと守っていく、という決意表明は見当たらない。
(続く)
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468『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治(小選挙区の導入)
次なる政治改革については、これも、社会党が右傾化することにより実現の運びとなっていく。
政治改革関連法のうち、小選挙区比例代表並立制の導入に伴ういわゆる区割り法が1994年11月21日に可決成立、同25日の公布となる。
それから、すでに成立を見ていた他の関連法とともに1か月の周知期間を経て1994年12月25日に施行される。これ以後公示される衆議院総選挙に際しては、1917年(大正14年)以来続いてきたいわゆる中選挙区制から小選挙区制に選挙制度ががらりと変わった。
これによると、投票方法も記号式二票式になり、国民と選挙の現場に大いなる驚き、怒り、とまどいが生まれたのは、否めない。また同時に、1995年1月1日から改正政治資金規制法と政党助成法が施行された。
これにより、「企業、労働組合等の団体の寄付が大幅に制限されるとともに、政治資金は政党が中心になって集めるようにして透明性を高め、同時に法人格を有する政党に対しては国から交付金が公布されるようになります」(総理府広報室「家庭版、今週の日本、94年12月19日付け」)とある。
かくして、選挙にカネがかかりすぎる、という反省から導入したと、推進勢力によって自認される制度が、ここに実現した。それは、政治資金規制法、政党助成法と法人格付与法、公職選挙法など広範囲に跨り、国民生活の前途に大いなる網をめぐらすものだといえよう。
その不当性は、一口にいうならば民主主義の否定であり、なかんづく少数勢力が多数勢力になっていくことを拒もうとすることにほかならない。
(続く)
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467『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治(社会党の平和政策の転換)
これらのうち、社会党が大きく政策転換したのは周知のことであるが、政治面で安全保障政策とこれに関連する憲法条項(憲法第9条)、そして小選挙区制導入如何が、のっぴきならぬ命題として提出されるに至る。
我が国の安全保障からいうと、なかなかに電撃的な展開が見られた。時は1994年7月20日の衆議院本会議、出典は『日米関係資料集』(1945-97の1268-1269頁及び『朝日新聞』1994年7月21日朝刊)、村山富市首相の国会答弁には、こうある。
「冷戦の終結後も国際社会が依然、不安定要因を内包している中で、わが国が引き続き安全を確保していくためには、日米安保条約が必要だ。日米安保体制は、国際社会における広範な日米協力関係の政治的基盤となっており、さらにアジア・太平洋地域の安定要因としての米国の存在を確保し、この地域の平和と繁栄を促進するために不可欠となっている。
維持と言おうが堅持と言おうが、このような日米安保体制の意義と重要性についての認識は、私の政権でも基本的に変わることはなく、先のナポリ・サミットでの日米首脳会談では、私からこのような認識を踏まえて、日米安保体制についてのわが国の立場を改めて明確に表明した。
私の政権の下では、今後とも日米安保条約、関連取り決め上の義務を履行するとともに、日米安保体制の円滑かつ効果的運用を確保する。在日米軍駐留経費特別協定の有効期間の終了後については、日米安保体制の円滑かつ効果的運用を図る必要があるとの観点から自主的判断に基き、適切に対応したい。その具体的内容は米側との協議を待って判断したい。」 「私としては専守防衛に徹し、自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は、憲法の認めるものであると認識する。同時に、日本国憲法の精神と理念の実現できる世界を目指し、国際情勢の変化を踏まえながら、国際協調体制の確立と軍縮の推進を図りつつ、国際社会で名誉ある地位を占めることができるよう全力を傾ける。
本来、国家にとって最も基本的な問題である防衛問題で、主要政党間で大きな意見の相違があったのは好ましいことではない。戦後、社会党は平和憲法の精神を具体化するための粘り強い努力を続け、国民の間に、文民統制、専守防衛、徴兵制の不採用、自衛隊の海外派兵の禁止、集団自衛権の不行使、非核三原則の順守、核・化学・生物兵器など大量破壊兵器の不保持、武器輸出禁止などの原則を確立しながら、必要最小限の自衛力の存在を容認するという、穏健でバランスのとれた国民意識を形成したものであろうと思う。
国際的には冷戦構造が崩壊し、国内的にも大きな政治変革が起きている今日こそ、こうした歴史と現実認識のもと、世界第二位の経済力を持った平和憲法国家日本が、将来どのようにして国際平和の維持に貢献し、併せてどのように自国の安全を図るのかという点で、より良い具体的な政策を提示し合う、未来志向の発想が最も求められている。社会党においてもこうした認識を踏まえて、新しい時代の変化に対応する合意が図られることを期待する。」
(続く)
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466『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治(その流れ)
1990年代の始めから半ばまでの政治経済状況については、「錯綜重ねる政界図」というのがふさわしい。
政治面では、1992年10月に金丸信議員が東京佐川急便事件の責任をとって議員辞職、竹下派会長も辞任した。その後任には、小渕恵三が就任した。「天下、国家のために働いている」と公言してはばからなかったその前議員が、後に自宅で75キログラムの金塊を抱いていた(実のところは冷蔵庫にあったとか)ことが判明した。長らく権力の中枢にある人が、一皮剥けば実はカネまみれであったことは、驚きであった。
1992年12月になると自民党の最大派閥の竹下派が分裂する。その一部は羽田派を結成、また小渕派はあっけなく党内第4派閥に転落してしまう。政局は麻のごとくに乱れて変動がやまず、1993年6月内閣不信任案に対し、自民党の小沢・羽田グループが合流して可決するのであった。衆議院は解散し、小沢・羽田グループは新生党を結成する。
1993年8月には細川・非自民党内閣が成立した。新保守三党を含む七党一会派による連立政権という寄り合い所帯の誕生であった。
その後の1994年4月の羽田内閣を経て、翌1994年6月には今度は自民党も賛成して自社さまがけ連立の村山社会党首班の内閣が発足する。当時の社会党は、衆議院で74議席を占めていた。自民党は在野に下り、主流派は「経世会」を「平成政治研究会」に改称し、返り咲きの機を窺う。
一方、1994年12月には新進党が結成され、海部党首、小沢幹事長が就任する。この間に民主主義に逆行する小選挙区制が創設される。貧富の差をさらに広げる年金改悪や消費税増税も行われたり、決まる。
さらに、いわゆる「1955年体制」で40年近くの歳月名を成してきた日本社会党は、この両方の関係をどうするかの政治課題(選択というべきか)に労働者と勤労国民の代表の立場を貫けず、この頃から「現実色」をとみに強め、体制内勢力の一部へと組み込まれていく。
(続く)
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399『自然と人間の歴史・日本篇』日韓国交正常化(1965)
言うなれば、直ぐ近くの海をへだてて隣接する関係にある、朝鮮半島の二つの国と一日も早く国交を回復することは、第二次大戦後の日本にとって大いなる願いであったにほかならない。これにいたる流れとしては、まで「カイロ宣言」(1943年)において、「前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」となっていた。
それを今度は「ポツダム宣言」(1945年)が援用(第8項)し、本宣言を受託後の日本の領土を、本州、北海道、九州それに四国に限るという。さらに第13項において、日本の軍事力を最終的に破壊する用意があることを表明したのであった。
それからの大いなる契機となったのは、前述のとおり、サンフランシスコ平和条約による、いわゆる韓国との「片面講和」なのであった。そして、この条約の第2条において、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵(うつりょう)島を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する」とあるのが、当時この条約に参加していなかった韓国との間で、戦後の国交関係を打ち立てるには避けては通れないことになるのである。
この後、別項で述べたような4年半の中断を経て、双方は話し合うことになるのだが、日本側はここでもこれまでの主張を繰り返し、曖昧な態度で責任をとりたくない姿勢をとりつづける。その後、この困難な局面を打開したのは韓国側の譲歩であって、これにより日本がパク・チョンヒ政権に韓国の経済開発のために合計8億ドルを提供する見返りに、韓国は日本の戦争および植民地支配により被った被害を一切問わないことにすることでの政治的な妥協が成立した。両国による基本条約の締結は1965年(昭和40年)6月22日になされる。およそこのような経緯によって、日本は韓国と韓国人民に対しはっきりとした謝罪をすることなく、国交の約束を結んでいくのである。
そして迎えた1965年12月18日付けで、韓国との間に、「日本と大韓民国の基本関係に関する条約」が結ばれる。その第2条には、こうある。
「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」(朝日新聞戦後補償問題取材班「戦後補償とは何か」朝日新聞社、1994に掲載のものから引用)
また、同日付けで、それまでの戦時賠償などに関する両国間の協定「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」も結ばれる。
その第1条には、こうある。
「日本国は、大韓民国に対し、
(a)現在において1080億円に換算される3億合衆国ドルに等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から10年の期間にわたって無償で供与するものとする。
各年における生産物及び日本人の役務は、現在において108億円に換算される3000万合衆国ドルに等しい円の額を限度とし、各年における供与がこの額に達しなかったときは、その残額は、次年以降の供与額に加算されるものとする。ただし、各年の供与額の限度は、両締約国政府の合意により増額されることができる。
(b)現在において720億円に換算される2億合衆国ドルに等しい円の額に達するまでの長期金利の貸付けで、大韓民国政府が要請し、かつ、3の規定に基づいて締結される取極に従って決定される事業の実施に必要な日本国の生産物及び日本人の役務の大韓民国による調達に充てられるものをこの協定の効力発生の日から10年の期間にわたって行うものとする。(中略)
2両締約国政府は、この条の規定の実施に関する事項について勧告を行う権限を有する両政府間の協議機関として、両政府の代表者で構成される合同委員会を設置する。
3両締約国政府は、この条の規定の実施のため、必要な取極を締結するものとする。」
これにあるよう韓国政府が、日本政府に対する賠償金請求を取り下げた結果、日本側の脳裏にはあたかも「経済協力」だけが約定されたかのように論じる向きが多い。しかしながら、これに至る紆余曲折の経過に鑑みると、日本側に著しい不誠実の態度があったことで手間取ったのは否めない。この点、戦後のドイツが、官民挙げて第二次世界大戦を引き起こしたことに対する大いなる反省と謝罪の上に、真摯な気持ちで再出発していこうと心がけたのとは大きく異なる。
(続く)
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