95『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ帝国の分裂と衰退
293年、ディオクレティアヌス帝が、それまでの広大無辺なローマ帝国を4分割する。300年、ローマ帝国の影響下にある古代ギリシアにおいて、ギリシアの神々への信仰が禁止され、人々はキリスト教に改宗となってゆく。
313年、ミラノ勅令で、ローマがキリスト教を公認する。330年、コンスタンティヌス帝が、都をコンスタンティノープルに移す。391年、テオドシウス帝が、キリスト教を国教にすえる。なお、ローマ帝国の治世は、ディオクレティアヌス帝が帝国を東西に別けてそれぞれに正帝と副帝を立てて以降、途中でコンスタンティヌス帝やテオドシウス帝が東西を統一し単独皇帝となっていた時期を除くと、殆どの期間は西と東に皇帝がいる状態となってきていた。
376年には、大きな試練がやって来た。西に向かって大移動してくるフン族の圧力から逃れようと、ゲルマン人の一派である西ゴート族が、フリティゲルンに率いられドナウ川を渡ってヨーロッパに侵入してくる。
アラン族など他のゲルマン人も合流していく。これに始まる波状的な動きを「ゲルマン民族の大移動」と呼ぶ。
378年8月には、ファレンス(東の正帝)の率いる東ローマ部隊はアドリアノープの近郊にさしかかっていた。ティアヌス(西の副帝)に率いられた西ローマ軍も、援助のため東進してきていた。
そんなおり、かれらは西ゴートの軍隊と遭遇し、迎え撃ったものの敗れ、ウァレンスは戦死した。これを「アドリアノープルの戦い」という。これにより、トラキア地方(バルカン半島東部)はゴート族の支配領域になる。
これ以後のギリシアは、東ローマ帝国の辺境の地位に甘んじることになっていく。393年、それまでギリシア人の心を結びつける絆の一つであったオリュンピア競技は、ローマ帝国皇帝のテオドシウスによって廃止された。
東ローマについては、首都コンスタンティヌポリス(現在のイスタンブール)の古名にちなんでビザンチン帝国と呼ばれ、広い意味でのギリシア世界の後継者となっていく。
395年、ローマ帝国そのものが東西に分裂する。402年には、西ローマ帝国のホノリウス帝は、首都をローマからラヴェンナに移した。
410年には、ローマはアラリック率いる西ゴート族にあ日間にわたり略奪され、455年にはヴァンダル王ガイセリックがこの地を占拠する。
529~533年になると、「ローマ法大全」が編纂される。797年、初の女帝エイレーネが即位する。フランク王のカールが、西ローマ帝国の皇帝になる。
参考までに、それから数百年後の姿に敷衍(ふえん)するならば、1204年、十字軍によりコンスタンティノープルが占領され、東ローマ帝国が滅亡する。1261年、コンスタンティノープルが奪回され、東ローマ帝国が復活する。1453年、オスマン帝国に敗北を喫し、ローマ帝国という名のかぶせられている国のすべてが滅亡するに至る。
(続く)
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94『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの五賢帝
紀元後になってからのネルヴァ(在位96~98)齢60を過ぎてから皇帝になった。この時代には、貴族たちがその面目を取り戻す。皇帝は、5人の貴族による経済委員会を設ける。そこで国家財政の赤字の縮減に取り組む。貧民救済にも乗り出す。ローマに穀物倉庫を造ったり、水道建設に努力した。
後継者には、人物本位を貫く。自分と血縁関係のない、スペイン出の将軍トラヤヌスを養子にして、後事を託す。
そのトラヤヌス(在位98~117)は、ローマの領土の拡大に執着した。101年には、タキア(現在のルーマニアあたり)を征服する。114年、トラヤヌス帝が東方に遠征を開始する。これのきっかけとなったのは、アルメニアがその西のパルティア王国に攻められたことだった。これを「パルティア戦争」という。
これに勝利したローマは、116年には、メソポタミア全土をローマ帝国の支配下におく。彼の治世においては、地方の発言は増大し、元老院の構成にも、ギリシア人やアフリカの市民の実力者が入っている。派手な出費は少なく、商業や土木事業を進めた。その治世を通じて、財政は概ね健全であった。
ローマの領土を最大にしたトラヤヌスの後は、親戚筋のハドリアヌス(在位117~138)が継ぐ。彼は、財政の強化に努めた。それまで国境は地帯をなしていたのを、砦を築いて線にしていく。領土拡張路線をやめ、帝国の中により多くの目を向けていく。ローマに巨大な建築パンテノンを造らせた。貴族との関係は、あまりよろしいものではなかったという。
ハドリアヌスの後は、アントニヌス・ピウス(在位138~161)が継ぐ。彼こそは、「賢帝」の名をほしいままにした。派手好みではなく、堅実なやり方で国を導こうとした。倹約と貯蓄に努める。自身の財産を国庫に寄付したのでも知られる。さらに、法制面での仕事につき、近山金次氏はこう評価される。
「法制を強化し、奴隷を殺せば主人も罪に問われた。また奴隷を虐待した主人はその奴隷を解放せねばならなくされたりした。もちろん、被放民は保護され、解放撤回のごときは無効とされた。この時こそ帝国の勢威が最高潮の時代であったと見られている。」(近山金次「西洋史概説Ⅰ」慶応義塾大学通信教育教材、1972)
その後に登場したのが、マルクス・アウレリウス・アントニウス(在位161~180)であった。その時代は、軍事遠征続きであった。163~166年には、東方遠征の指揮を弟に行わせる。ローマ軍は凱旋したものの、どうやら伝染病のペストを持ち帰った。167~171年の間も多民族との戦いが続く。弟が命を落としたりの苦労続きであった。戦争172~175年には、ドナウ流域で彼自身が指揮をとって転戦する。
この時、彼は有名な「瞑想録」を書いた。彼自身は、その前からストア学派の哲人としても知られていた。昼間は戦いの指揮を、そして野営してからは著述にいそしんだねものであろうか。その語りは、独特に違いない。その文面からも、なかなかの禁欲主義で、ともすれば憂いを秘めているかのようだ。例えば「この世において君の肉体が力尽きないのに魂が先に力尽きるというのは、恥ずべきことではないか」と考えた。
(続く)
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92『自然と人間の歴史・世界篇』ローマは帝政へ(カエサルの暗殺まで)
紀元前60年には、カエサル、ポンペイウス、クラッススによる第一回三頭政治が成立する。紀元前58年、カエサルがガリアに遠征し、紀元前50年にこの地をローマが征服する。
紀元前44年、カエサルがガリアから反転してローマに向かう。元老院からは、カエサルの後任のガリア総督を任命し、コンスルに立候補したければローマに帰り届けるよう通告されるにいたる。
この時、カエサルは大いなる決断を下す。「もはや賽は投げられた」と言って、ガリアとイタリアの境、ルビコン河を渡ってローマ市街に帰り、首都を手中に収め、マケドニアに走ったポンペイウスを追ってこの軍をファルサロスの戦いで下し、元老院により終身独裁官になるも、独裁政治に反対する勢力により暗殺される。
紀元前43年、カエサル派のオクタヴィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる二回目の三頭政治が成立する。アクティウムの海で、アントニウスとエジプト女王クレオパトラの連合軍とオクタヴィアヌスの率いるローマ軍との戦いがあり、オクタヴィアヌスが勝利する。
紀元前27年のオクタヴィアヌスは、元老院により「アウグストゥス」の称号を得、事実上の帝政が始まる。アウグストゥスがヤヌス神殿の扉を閉める。紀元前27年、ローマがヒスパニアを征服する。紀元前6年、ローマがスカンブリ族以外のゲルマニアの征服にこぎつける。
紀元前の4年、ユダヤのヘロデ王が死ぬと、ユダヤ人の居留地で反戦が勃発した。当時のこの地域はすでにローマの支配下にあって、シリア総督のクィンクティリアス・ウァルスにより鎮圧される。
紀元後に移っての6年、ローマはこのユダヤを直接統治下におく。66年にも、ユダヤで反乱が起こる。79年、ウェスウィウス火山が噴火し、ポンペイなどが炎上した。火山灰などに埋もれていたこの都市は、現代に至って発掘作業が行われ、当時のこの都市の全貌が明らかにされつつある。
(続く)
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90『自然と人間の歴史・世界篇』奴隷反乱の頻発(スパルタクスの反乱など)
宿敵カルタゴを3度の戦役で下してからの古代ローマの外国制覇の夢には、果てしというものがなかった。破竹の勢いで侵略を行い、勝利すれば、多くの奴隷を得ることができた。
参考までに、第一次ポエニ戦争(紀元前264~同241)でのローマは、地中海西部の雄カルタゴと初めての武力衝突でシチリアを獲得する。ここで「ポエニ」とは、ローマからみたフェニキア人の呼び名から名付けられた。第二次ポエニ戦争(紀元前218~同201)でも、ローマはチュニジアのザマの戦いで勝利する。そして迎えた第一次ポエニ戦争(紀元前149~同146)において、ローマはカルタゴを滅ぼす。
その戦争奴隷達を取り込んで、ローマは古代奴隷制の最盛期を迎えていた。そんな中で、ローマの体制を揺るがす奴隷の反乱が起こってくる。
シチリア地方での奴隷反乱は、紀元前135~同132年に1回目のものが勃発する。その時、7万人もの奴隷たちが、いわば「奴隷王国」をつくろうとした。一時は、ミントゥルナエ・シヌエッサなどイタリア諸都市にも迫る勢いだった。第二次の反乱は、紀元前135~同132年であったが、その少し前の紀元前104年にも、ヌケリアとカプアでも大規模な奴隷反乱が起きたが、いずれも鎮圧される。
そして迎えた紀元前73年の春、歴史に一際名高い奴隷反乱が起こる。その主役は、なんと剣闘士奴隷であった。これのリーダー格を任じたのが、トラキア、すなわち、バルカン半島の南東部、現在のブルガリア、そこでは小王たちが乱立している、ギリシャ・ローマの都市の世界とは異質な、部族社会であった、そこの出身のスパルタクスであって、自由の身になろうと、200人くらいの仲間と一緒に脱走を試みる。
記録によると、そのうち74人が脱出に成功し、足を伸ばしてヴェスヴィオス山に立てこもる。そこをめがけて、イタリア半島の各地から自由を求める奴隷が集まってくる。
ローマは、これを潰そうと軍団を派遣するものの、撃退される。当時のローマ軍団の主力は、征服戦争なりで他国や国境に出掛けていて、手薄であったため、その虚をつかれた格好であった。
そもそも、「当面の時代については、序章でも述べたように、スペインの奥地といい、小アジアの奥地といい、バルカン半島北部といい、都市化の進んでいない多様な世界でローマ権力に対する反抗がもりあがったのが、ローマの直面した危機の一つの特徴だった。」(吉村忠典「古代ローマ帝国ーその支配の実像」岩波新書、1997)
それからの奴隷反戦軍は、一説には7000人ともいわれるまでに力を増しながら、ノラ、ヌケリア、トゥリイ、メタボンドを占領した。6月のこのあたりは収穫の時期であって、多くの奴隷が収穫物を持って駆けつけた。兵力は2万人にも増える。それでも、彼らは自力で必需品の多くを、周囲の村落から略奪しなければならなかった。
その最盛期には、6万人もの兵力に達したという。ルカリアを中心に勢力を維持しつつ、キリキアの海賊と連絡をとったりしていたが、やがてイタリア半島を南下していく。
そこへようやく態勢を整えたクラッスス(貴族)率いるローマ正規軍が迫ってくる。それからの間を「めくるめくストーリイ展開」というのは、あながち間違ってはいまい。両軍は、ついに相まえ、決戦の時を迎えるのであった。
だがしかし、奴隷軍は何故かゲリラ線に徹することをしなかった。正面から立ち会っては、奴隷軍にもはや勝ち目はなかった。奴隷軍は総崩れとなり、乱戦の中スパルタクスは戦死を遂げる。捕虜となった6000人余は、後にアッピア街道沿いにはり付けられて息絶えたという、かくも凄絶(せいぜつ)な結末であった。
(続く)
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