148『自然と人間の歴史・世界篇』サン・バルテルミの虐殺
一つの国において、同じキリスト教とはいえ、新旧の二つの宗教勢力がその地域、地域で並び立つような状況になっていくと何が起こりうるか。それを教えているのが、なにしおう、1572年8月23~24日、フランスで起きた宗教を原因とした大量虐殺なのである。
カトリックを信奉する貴族の一部が仕掛けた罠により、プロテスタント貴族の主だった者が殺されると、これがカトリックの大衆に広がることにより、収拾が付かなくなった。この事件が、キリスト教の聖人、この日が聖バルテルミの祭日に起きたことから、これを「サン・バルテルミの虐殺」と呼ぶ。なお、バルテルミが1世紀に生きたキリストの12人の弟子の一人とされる。
当時のフランスにおいては、「ユグノー戦争」といって、新教のカルヴァン派が勢力を拡大するにつれ、旧来のカトリック勢力が苛立ちを強めつつあった。おりしも、フランスでは、ユグノー派の領袖ナヴァル公アンリが、カトリック派の王の妹との結婚で、この戦争を終結に向かわせようとしていた。王もこれを承諾してのことであったのだが。
ところが、国王派の摂政は、フランス全土から集まってきていたカルヴァン派の貴族たちを、いわば「だまし討ち」の形で、アンリともども襲い、大々的に虐殺を行う。
これを契機に、フランスのユグノー戦争は泥沼化していくのであった。
(続く)
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147『自然と人間の歴史・世界篇』中世ヨーロッパにおける都市化と都市人口
はたして、11世紀から13世紀にかけてのヨーロッパにおける都市化の進展には、眼を見張るものがあったという。そのプロセスは、北西ヨーロッパと北イタリアを中心に進んでいく。
まずは、そこそこでの人口規模について、どうなっていたのかをみよう。
「中世中期までのヨーロッパが基本的に荘園を中心とする農村社会であり、働く者のうち農民が多数を占めていたことは確かであるが、一四世紀初頭までには、大陸ヨーロッパの人口七五〇〇万人の約二〇パーセントにあたる一五〇〇万人以上が都市に居住していたと見積もられる。
ヨーロッパの個別の都市の人口規模も、同時代の中国やイスラーム世界の諸都市に比べれば小さかった。それでも、一三〇〇~五〇年に、推計ではあるが、一〇万人以上の人口をもつ「特大都市」としてパリ(二〇万)、ミラノ(一〇~一五万)、フィレンツェ(一〇~一二万)、ヴェネツィア(一二万)、ジェノヴァ(一〇万)など、また四万以上のインターローカルな「大都市」としてロンドン、ケルン、ヘント、ブルッヘ、ピサなどを挙げることができる。
いずれの大都市も毛織物・金属加工業や遠隔地商業・金融業など商工業の拠点として形成されたのであった。」(河原温・堀越宏一「図説・中世ヨーロッパの暮らし」河出書房新社、2015)
参考までに、その後のヨーロッパ世界においてはペストの流行があった。そして、そのまた後の人口数の推計によると、一説には、1500年頃のフランスの人口が1640万人、同じ頃のドイツは1200万人、イギリスは1570年頃410万人位であったという。
また、当時のヨーロッパの総人口としては、1500年頃8180万人位であったという(米田治・東畑隆介、宮崎洋「西洋史概説Ⅱ」慶応義塾大学通信講座教材、1988)。都市部の推計もなされていて、「人口10万以上の都市は1500年頃にはコンスタンチノープル、ナポリ、ヴェニス、ミラノ、パリの五市を数えた」(同)といわれるのだが。
(続く)
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58『自然と人間の歴史・日本篇』大和朝廷を巡って(政治体制の確立、聖徳太子不実在説など)
592年(崇峻大王5年)、欽明大王と堅塩媛(きたしひめ)の娘である炊屋媛(かしきやひめ)が、明日香の豊浦宮(現在の明日香村豊浦地区)において女性の大王として即位する。そして迎えた593年(推古大王元年)、欽明大王の一代前の用明大王の息子にして彼女の甥であるとされる厩戸皇子(うまやのおうじ)が、推古大王の摂政に就任したという。これ古代の国史たる「日本書紀」にも登場する、謎多き「聖徳太子」の誕生の物語にほかならない。
彼は、当時勢威を張っていた蘇我馬子(そがのうまこ)と共同して国政に当たったのだとされる。もっとも、現在の日本の歴史学においては、この太子が実在の人物ではなかったとの有力説が出されている。
ゆえに、あらたな卓越した指導者の出現によってか、よらぬのか判然としないものの、朝廷は仏教による国造りを目指した。そのことを民衆が下から求めたのではなく、政治権力を握る側が自己の立場を補強するために仏教を受容したものだといえよう。
奈良盆地の明日香(あすか)には、「飛鳥寺」が現在に伝わっている。その創建は596年(推古大王4年)、日本(当時の外国からは、「倭」と呼ばれていた、つまり「日本」はまだ成立していなかった。これを戦後に明確に述べたのは、網野善彦の功績である)最古の本格的に建てられた寺院と伝わる。
この寺の本尊とされるのが「飛鳥大仏」で、609年(推古大王17年)の造立として、現存する日本最古の仏像と伝わる。奈良の大仏よりずっと小さいが、数ある法印の中から、右手で人々の悩みや苦しみを受け、右手で安らぎを与える法印を選んで結んでいる。そのことでは、東大寺の大仏と同じである。すっきりした顔の表情からして、もしかしたら遠くギリシア文化の影響も受けて造立されたのかもしれない。
国史「日本書紀」において、聖徳太子なる人物が推古大王の摂政になったとされる年の10年後の603年(推古大王11年)、朝廷は「冠位12階」を制定したという。これは、官僚などの身分制を細かに色分けにすることでの改革を行ったというものだが、既述のように聖徳太子なる人物が実在しなかったとすれば、誰が中心で行ったものであろうか。
これらについては、後代の720年(養老4年)になった編纂される国史『日本書紀』の「推古十一年十二月条」に、こう記される。ちなみにこの年は、推古大王が小墾田宮(おはりだのみや、推定地ははっきりしていない)への遷都を挙行している。
「十二月戊辰朔壬申、始行冠位。大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、幷十二階。並以當色絁縫之、頂撮總如囊而着緣焉。唯、元日着髻花。髻花、此云于孺。」
604年(推古大王12年)になると、同大王による国固めが一つの劃期を迎える。「17条の憲法」が制定されるのである。第一条中に「然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成」とある。これを朝廷が率先しての意思で定め、始めたのなら、当時の施政者としては温厚な人柄が溢れて感じられるのだが、かの「論語」をはじめ中国の文献にもよく見られる表現であって、どれだけの独自性があったのかは不明である。冠位の方は、これでもかと言うくらい、細かく色分けられていた。
これについては、上位から紫(徳)、青(仁)、赤(礼)、黄(信)、白(義)、黒(智)の六色であり、これが徳なら大徳・小徳の二つに別れていた。大徳の紫が小徳の紫より濃い色を使い、これにより濃淡の違いで大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼の六つに当てはめられてると、十二階位に区別できる。
当時の最高の位階を表す紫とされたのは、『万葉集』にある「紫草」(むらさき)でつくった「古代紫」の色合いであろうか、それにしても、最高位の大王やそれに準じる人は、どんな色なりの冠を被っていたのか。おそらくは、倭の大王自らは白、その皇太子は黄丹(橙色)という色があてがわれており、十二階にはめ込まれた臣官は使えないことになっていたとされる。
(続く)
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57『自然と人間の歴史・日本篇』仏教の伝来(552?)
もう一つ、仏教はいつ、どんな形で日本に伝わったのだろうか。『日本書紀』の「天國排開廣庭天皇欽明天皇」中、「十三年冬十月の条」に、朝廷でのやりとりがこう記される。
「冬十月、百濟聖明王更名聖王、遣西部姬氏達率怒唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干卷。別表、讚流通禮拜功德云「是法、於諸法中最爲殊勝、難解難入、周公・孔子尚不能知。此法、能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶・逐所須用・盡依情、此妙法寶亦復然、祈願依情無所乏。且夫遠自天竺爰洎三韓、依教奉持無不尊敬。由是、百濟王・臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝國流通畿內。果佛所記我法東流。」
是日、天皇聞已、歡喜踊躍、詔使者云「朕從昔來、未曾得聞如是微妙之法。然朕不自決。」乃歷問群臣曰「西蕃獻佛、相貌端嚴。全未曾有、可禮以不。」蘇我大臣稻目宿禰奏曰「西蕃諸國一皆禮之、豐秋日本豈獨背也。」物部大連尾輿・中臣連鎌子同奏曰「我國家之王天下者、恆以天地社稷百八十神、春夏秋冬祭拜爲事。方今改拜蕃神、恐致國神之怒。」天皇曰「宜付情願人稻目宿禰試令禮拜。」」
この部分の書き下し文(抜粋)は、こうなっている。
(十三年)「冬十月、百済の聖明王、西部、姫氏達率怒□斯致契らを遣はし、釈迦仏に金銅像一躯、幡蓋若干,経論若干巻を献る。・・・・・群臣に歴問ひて日く、『西蕃の献れる仏の相貌端厳し。全ら未だ曽て看ず。礼ふべきや不や』と。蘇我大臣稲目宿禰奏して日さく、『西蕃の諸国、一に皆礼ふ…』と。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同じく奏して日さく、『今改めて蕃神を拝みたまはば、恐らくは国神の怒りを致したまはむ』と。天皇日く、『宜しく情願ふ人、稲目宿禰に付けて、誠に礼ひ拝ましむべし』と。」
これの口語訳の一例は、次の通りとされている。
「冬十月(西暦552年)に、百済の聖明王(またの名清王)釈迦佛の金銅像一体・幡蓋和若干(はたきぬがさそこら)・經論和若干巻き(きゃうろんそこらのまき)をたてまつる。・・・・・群臣(まへつきみたち)に歴問(となめと:一人一人つぎつぎに問う)ひて曰(のたま)はく、「西蕃(にしとなりのくに)のたてまるれる佛のかほきらぎらし。全(もは)ら未だかあつてあらず。禮うべきか不や」とたまふ。蘇我大臣稲目まうして曰さく、「西蕃(にしとなりのくに)の国々、一(もはら)に皆敬う。豊秋日本(とよあきづやまと)、あにひとり背(そむ)かむや」とまうす。
物部大連尾輿・中臣連鎌子、同じくまうすて、曰さく、「我が国家(みかど)の、天下に王とましますは、つねに天地社につやしろの百八十神(ももあまりやそかみ)を以って、春夏秋冬、祭りたまうことを事とす。まさに今改めて蕃神(あたしくにの神)を拝みたまはば、恐らくは国神(くにつかみ)の怒りを致したまはむべし」とのたまふ。」(『日本書紀』の「欽明天皇」篇)
これによると、仏教伝来は552年のことであったとされるが、外にも諸説があり、確かなところはわかっていない。先祖が朝鮮半島からやってきた蘇我氏が、大王の諮問に答えて、倭国が近隣諸国に伍していくため仏教を国事に採り入れることを推奨した。これに対し、物部(もののべ)や中臣(なかとみ)といった古参の豪族はこれまで祀ってきた神々こそ欠かせないとし、仏教の国教化に反対した。仏典などの送り主の百済の聖明王は、新羅の攻勢によって自国の存立が危ういおりから、引換に日本からの援軍を要請してきていた。
しかし、彼はこの後、殺されてしまい、息子が昌王として後を継いだ。2007年、百済の都があった扶余の白馬河畔で、「王興寺跡」が発掘された。塔心部から舎利容器が出ており、「丁酉二月十五日」と干支が記されている。「丁酉」とは577年、日本に仏像を贈ってくれた聖明王の息子威徳王(昌王)の建立ということが推測できる。この年は、倭の方では「敏達大王六年」とされており、『日本書紀』(巻第廿渟中倉太珠敷天皇 敏達天皇)にこうある。
「六年春二月甲辰朔、詔置日祀部・私部。夏五月癸酉朔丁丑、遣大別王與小黑吉士、宰於百濟國。王人奉命爲使三韓、自稱爲宰。言宰於韓、蓋古之典乎。如今言使也、餘皆傚此。大別王、未詳所出也。冬十一月庚午朔、百濟國王、付還使大別王等、獻經論若干卷、幷律師・禪師・比丘尼・呪禁師・造佛工・造寺工、六人。遂安置於難波大別王寺。」
「十三年春二月癸巳朔庚子、遣難波吉士木蓮子使於新羅、遂之任那。秋九月、從百濟來鹿深臣闕名字、有彌勒石像一軀、佐伯連闕名字、有佛像一軀。」
そういうわけで、百済の首都で王興寺の建立に携わった造仏師などの工人たちの一部が倭に派遣されて来てくれた。そればかりでなく、百済から仏像を持ってきてくれた。彼らは、その技術をもって倭で工人を育ててくれたのである。
その11年後の588年(崇峻大王元年)、飛鳥寺の建造が始まった時には、工事を担う主力は倭の工人たちであったのだと推測されよう。
592年(崇峻大王5年)、明日香(あすか、現在の奈良市の郊外の山間に近いところに広がる)に、大和朝廷の、おそらくは最初の都(みやこ)が置かれる。これ以後、710年(和銅3年)に奈良の都が発足するまで、118年間の都が置かれた。この時期を「飛鳥時代」と呼ぶ。
(続く)
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56『自然と人間の歴史・日本篇』暦の伝来
文明の発展そのものに関わるものとして、科学的知識で装われた暦(こよみ)がある。これは、文明そのものの水準を記すものといっても、決して過言ではなかろう。けれども、当時のこの列島に住んでいた人々には、これを生み出す力がなかった。ならば、どうしたのか。後代の720年(養老4年)に編集された国史『日本書紀』の「欽明天皇十四年(553年)六月の条」に、それらしき箇所がある。
「六月、遣內臣闕名使於百濟、仍賜良馬二匹・同船二隻・弓五十張・箭五十具。勅云「所請軍者、隨王所須。」別勅「醫博士・易博士・曆博士等、宜依番上下。今上件色人、正當相代年月、宜付還使相代。又卜書・曆本・種々藥物、可付送。」秋七月辛酉朔甲子、幸樟勾宮。蘇我大臣稻目宿禰、奉勅遣王辰爾、數錄船賦。卽以王辰爾爲船長、因賜姓爲船史。今船連之先也。」
ここに見える勅の内容として「易博士・曆博士等」とは、友好国の百済に対し、日本に来てくれている彼らが交替の時期になっていることから、新たな博士たちを派遣してほしいということであったらしい。この勅の後段に「又卜書・曆本・種々藥物、可付送」とあるのは、暦に関しての本なども入っていたことが推察できるのだ。
この話は続く。続いて翌年の「欽明天皇十五年(554年)二月の条」に、こうある。
「二月、百濟遣下部杆率將軍三貴・上部奈率物部烏等乞、救兵。仍貢德率東城子莫古、代前番奈率東城子言。五經博士王柳貴、代固德馬丁安。僧曇慧等九人、代僧道深等七人。別奉勅、貢易博士施德王道良・曆博士固德王保孫・醫博士奈率王有㥄陀・採藥師施德潘量豐・固德丁有陀・樂人施德三斤・季德己麻次・季德進奴・對德進陀。皆、依請代之。三月丁亥朔、百濟使人中部木刕施德文次等、罷歸。夏五月丙戌朔戊子、內臣、率舟師詣于百濟。」
これに記されるのは、五經博士として王柳貴の代わりに馬丁安が、また僧曇慧等九人の代わりに僧道深等七人が新たに派遣されてきた。この出来事が偶然の計らいでなかったことは、同『書記』の「推古天皇十年(602年)冬10月の条」の書きぶりから分かる。
「冬十月、百濟僧觀勒來之、仍貢曆本及天文地理書幷遁甲方術之書也。是時、選書生三四人以俾學習於觀勒矣。陽胡史祖玉陳、習曆法。大友村主高聰、學天文遁甲。山背臣日立、學方術。皆學以成業。閏十月乙亥朔己丑、高麗僧々隆・雲聰共來歸。」
ここには、百濟僧觀勒ら一行が来日し、天文に関する知識を伝えた。そればかりではなく、「是時、選書生三四人以俾學習於觀勒矣。陽胡史祖玉陳、習曆法」とあるように、自前の専門家の要請が試みられていった。そもそも、この国に「暦」が正式に導入されたのは、飛鳥時代から奈良時代にかけての元嘉暦(げんかれき)に始まるとしても、それまでには輸入された暦を国内で運用するための専門家が育っていたであろう。それからは、儀鳳暦(ぎほうれき)、大衍暦(たいいんれき)を経て、861年(貞観3年)には宣明暦(せいめいれき)が導入される。そこまでは、いずれも中国の暦の輸入であった。
(続く)
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309『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(パリ・コミューン、その停滞から壊滅まで)
このパリ・コミューンのそれからの歩みは、ジグザグなところがあったのは否めない。ヴェルサイユ軍を直ぐに追撃しなかったり、内部での不統一も少なからず続く。社会主義者のカール・マルクスはこの動きに自重(じちょう)を呼びかけていたが、革命勃発後は同政府を支持し、その成り行きを見守った。
4月に入って兵力を再び結集した、ティエールに率いられたヴェルサイユ軍が革命下のパリに向け攻撃を開始し、コミューンと反革命勢力との内戦が始まる。パリ前面の要塞は次々にヴェルサイユ軍に攻め落とされ、コミューン政府の内部での分裂も激しくなり、5月21日、ヴェルサイユ軍はパリの城内に突入、市街戦が行われるが、これを「血の週間」(la Semaine sanglante)と呼ぶ。兵士ばかりでなく、市民多数が殺される。そして迎えた5月28日、ヴェルサイユ軍によってパリの最後のバリケードも取り除かれ、パリ・コミューンは崩壊する。これらのうち、最後の局面での戦いの悲惨さは、百数十るンを経た今でも、語り継がれる。歴史学者は、その模様をこう伝えている。
「このパリの防衛戦はのちに「血の週間」と呼ばれた。コミューン側の死傷者数は明らかにされなかったが、死者は1万人から3万人を数え、その大半は降伏した後ただちに銃殺された人々だったと推定されている。ヴエルサイユ側の死傷者数約400人、重傷を負った兵士は1000人だった。コミューンが壊滅した後、数週間にわたり3万8000人を超える人々が逮捕された。」(ロジャース・プライス著、河野肇訳『フランスの歴史』創土社、2008)
「「血の週間」と呼ばれるこの戦闘でのコミューン派の死者はおよそ3万人、投獄された者4万3500人、他方ヴェルサイユ側の死者は1000人たらずといわれている。装備、戦闘能力の圧倒的な差に加えて、報復テロがいかに凄まじかったかを物語っている。絶望したコミューン派が退却途上で市内に火を放ったことも、ヴェルサイユ派のテロに拍車をかけたであろう。またプロイセン軍がパリ東部を固め、退路を絶ったのも大きかった。とくに凄惨をきわめたのは5月27日、ペール・ラシェーズ墓地での雨中での白兵戦であった。このとき降伏したコミューン派の即時銃殺に使われた壁は、「連盟兵の壁」と呼ばれ、コミューンの「記憶」をとどめる場所となっている。」(福井憲彦『フランス史』山川出版社、2001)
このコミューンの歴史的性格については、マルクスの『フランスの内乱』にこうある。
「コミューンのほんとうの秘密はこうであった。それは、本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった。」
1871年8月31日、パリ市街戦に勝利したチエールが大統領に指名され、第三共和政(~1940)が始まる。1875年、ワロン法などにより、第三共和政憲法が成立する。1879年1月には、共和派上・下両院を制し、王党派大統領マクマオンが辞任し、共和派グレビが大統領となる。続いて1881年の選挙でオポルチュニスト(日和見派)政権が発足し、1899年まで続く。
(続く)
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308『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(パリ・コミューン、その樹立)
そして迎えた1871年3月18日、ティエールの命令を受けたフランス正規軍は、民衆が主体の国民軍の大砲を奪おうとするが、国民軍はこれに抵抗する。正規軍の兵士も民衆に味方し、逆に、民衆と兵士は指揮官の二人を捕らえ、国民軍中央委員の制止をふりきり、銃殺する。ここから「コミューン革命」が始まる。
ブルジョアの中でも保守派のティエールは、軍隊にパリ放棄を命令し、ヴェルサイユに逃げる。パリの支配権は、自動的に武力を握る国民軍中央委員に移る。3月26日、パリ全区でコミューン市議会選挙が実施され90名の評議員が選出されると、このコミューンは執行と立法を同時に行う直接民主的行政機関となる、つまり三権分立ではなくなる。
28日には市庁舎前広場でパリ・コミューン宣誓式が行われ、シャルル・ベレーは代表してこう述べた。
曰く、「平和と労働、これがわれわれの未来である。これがわれわれの復讐の保障であり、われわれの社会的復活の保障である」「このように理解された共和国は、さらにフランスの弱い者を支持し、働くものを保護し、全世界の搾取されるものの希望となり、世界共和国の基礎とすることができるのである」(モロク編『パリ・コミューン』)。
(続く)
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336『自然と人間の歴史・世界篇』印象派絵画(新印象派、後期印象派)
ここに新印象派と呼ばれるのは、ジョルジュ・スーラ(1859~1891)やポール・シニャック(1863~1935)などであ。彼らは、印象派の中での色彩感覚をさらに進め、点描法(てんびょうほう)を編み出す。代表作とされる「グランド・ジャットの日曜日」(1884~86)では、人々が公園やその向こうにある川でくつろいだり、スポーツをしたりしている姿がある。そこでの技法としては、日差しが「もやっ」と画面に霧がかかった感じで描かれている。目を凝らすと、主に、赤、青、黄の3原色の小さな点が使われており、これを離れて観ると紫とか黄緑とかの色の幅も出てきて、私たちもそこにいるかのように感じられるから、不思議だ。
また、スーラと並び称されるシニャックの「井土と女性」や「赤い浮標」においては、光が画面に滲むように広がってみえるのだが。
それから後期印象派と目されるのは、光と色の捉え方を継承しつつも、対象をより個性的に捉えようとする。
ポール・セザンヌ(1839~1906)の作品「サン・ヴィクトール山(サン・ヴィクトワール山)」は、造形的な画面をつくっている。驚くことに、彼はこの山を87点も作品にしているとのこと。東西に20キロメートルもなだらかに続くかのようなこの山は、石灰岩でできている。彼の故郷エクス・アン・プロヴアンスからほど近いという。これを、さまざまな構図をとって、汲めども尽きないような描き方だといえよう。
これらの絵の特徴としては、やはり造形的な工夫であって、ただの山を描くのではなくて、自然の中に幾何学的な配置をしているし、自分の内面の心情に従っての自由さを大事している。そんな彼の対象を観る際の独自性を保とうとする姿勢こそが、後に続く画家に大きな影響を与えたものとみえる。
ポール・ゴーギャン(1848~1903)は、野性味溢れる作品を追求した。そんな中でも、原始への憧れを、平面的な色面と太い線とでもって表現しようとする。それらが色濃く出てくるのが、やがて南のタヒチへ移住してからであった。「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」からは、彼の理想とする社会ののびのびさ、ゆったりさなどが伝わってくる。
そして、強烈な筆遣いで、内面からわき上がる精神を表現するのが特徴的な、フィンセント・ヴィレム・ゴッホ(1853~1890)が一時代を築いていく。不遇をかこっていた彼を、生活面で支えたのは、弟であった。画風は、「星月夜」や「いと杉」といった強烈な色彩で何やら命のうごめきを感じさせるものから、「ひまわり」や「アーモンドの木」のような太陽の日差しを一杯に浴びた活き活きとしたものまでを含む。
変わったところでは、「タンギー爺さん」とかの、歴史上の人物を描いている。この爺さんだが、「パリ・コミューン」に市民側の一兵卒してであろうか、参加していた。政府の官憲に囚われていたものの、服役の後に自由の身となり、画材店の主人に戻る。ゴッホのみならず、モネなど当時の印象派が画の面々とも顔馴染みであったらしい。
エドガー・ドガ(1834~1917)は、ダンサーをはじめ行動的な人物を描く名手とされる。「踊りの花形」(あるいは「エトワール」)や「舞台の踊り子」といった作品には、人々はさぞかし瞠目(どうもく)したであろう。以来、多くの側索において、画像の三次元での表現かとみがまうような躍動感を活写している。この時とばかりに踊り手が繰り出すポーズには、人間の動きの核心に触れるものが感じられる。
(続く)
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327『自然と人間の歴史・世界篇』イギリス風景画(ターナー)
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775~1851)は、イギリスの水彩画家である。現在のイギリスでは、「この世に存在した、ただ一人の完璧な風景画家」とも称される。理髪店の家に生まれた。14歳でロイヤル・アカデミーの美術学校に入学をはたす、わずか15歳にして、ロイヤル・アカデミーに出品し、称賛を浴びたというから、驚きだ。その風貌からも窺えるように、孤独の身であったらしい。口べたでもあってか、ずっと独身のままに過ごしたという。毎日のように絵筆をとり、画業に精出し、その生涯に3万点以上の絵を描いたという(その多くはロンドンの国立博物館「デト・ブリテン」に所蔵され、無料で観賞できるとのこと)。
その代表作としては、「雨、蒸気、スピード、グレートウェスタン鉄道」(1844)や、やや晩年の傑作「のラム城、日の出」(1845頃)だとされる。その機関車の方は、うなりをあげてこちらに近づいてくるようだ。それら以外にも描かれた対象は、なかなかに幅広い。
そんな中からまず、海と船の絵を幾つか紹介しよう(2018年5月16日放送の「美の巨人」、雑誌「ノジュール」(2018年4月号表紙裏)などにも取り上げられた)。
「セント・オールバーンズ・ヘッド沖」(1822)という絵は、イングランド南西部の海での出来事を描いた。解説によると、オランダの帆船、イギリスの「3等艦」それに快速帆船と漁船がいる。当時の両国は、ともに海洋国家ではりあう中にあったから、嵐の中で遭遇することもあったのだろう。
彼のこの方面の出世作とされる「難破船」(なんぱせん)(1805、ロンドンのギャラリーに所蔵)は、嵐の海の一コマをえぐりとったものだ。その画面の中央から前面にかけては、波に呑まれようとしている小舟がある。まるで、作者がその修羅場に居合わせたかのようだ。
後方に目を凝らしてみよう。すると、嵐に難破した船、近くにそこから分離された小舟。それには、人々が溢れている。人々には、余りの恐怖と絶望のためか、祈りや、阿鼻叫喚などの混乱がみられる。みんな何とかして助かりたいと渇望しているのだが。画面一杯に命を脅かす海の景色。海というものの本当の姿、いうなれば、自然の圧倒的な力を描き出されるものだとも。
一方、画面には小舟に近づこうとしている漁船の姿がスポットライトを当てられている。その乗組員たちは、嵐に立ち向かってひるみを見せないで、だれもが怯え、おののく様子はない。彼らは、「海の男たち」なのに違いない。その名誉にかけて小舟に向かってオールのようなものを繰り出しているのは、遭難者を助けようと懸命なのだ。ちなみに、当時は、国民の多くが海に関心を描いていたという。
この絵と同じ年の1805年、ドーバー沖の「トラファルガーの海戦」(この表題で後に何枚もの作品あり)で、イギリスはナポレオンの軍を大いに破っていた。しかしてターナーは、一説には、この絵の中に海洋国家イギリスの象徴的な姿をも演出していると言われる。
それではなぜ、ターナーはこれほどの絵の数々を描くことができたのであろうか。それには、大いなる経験をくぐらねばならなかった。1802年に風景画の新たなモチーフ(動機)を求め、フランスに向かう船に乗った時、嵐との遭遇の経験があった。つまり難破寸前の戦場にいて眼前で荒れ狂う海を見たのだ。それに加えるに、ウィリアム・ファルコナー著「難破船」(この絵の創作の前年に発刊)に影響を受けたらしい。すなわち、ターナーはそこでのドラマを絵に取り入れることを思いついた。
これらの絵の注文主のかなり多くは、イギリスの貴族や新興の資本家たちであったともいう。カメラと写真のなかった時代、正確な、迫真的な彼の絵は第一級のものだと評され、注文なり収集家による市場での引き合いが相次いだとされる。
(続く)
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326『自然と人間の歴史・世界篇』印象派絵画(光と色の世界観)
印象派の絵画の主な舞台となったのは、主に19世紀後半ののヨーロッパであった。この流れに身をおいた画家たちの主なモチーフ(動機)となったのは、燦々(さんさん)とした、あるいは木洩(こもれ)れ日のような太陽の光を浴びて、刻々と変化する対象を描き取ることであったろうか。
もちろん、そこかしこにある物には個別に持っている色があり、それを完全否定するものではあるまい。それに、何を中心にもってくるかによって、その絵の印象は随分と違ってくる筈だ。その有様だが、印象派画家と言われる中でも、初期の流れからやがて新印象派そして後期印象派へとしだいに広がっていく。
いうなれば、画家たるものは、色彩分割やタッチの並置などの技法を駆使して、戸外の光の輝きの中に身をおいてキャンバスに向かう。すると、対象が「俺も俺も」と描いてくれとせがんでくるように、描き手には感じられるのかもしれない。そうしたことを何日も繰り返し、重ねて絵をものにしていく。
そんな画業の中から幾つか紹介したい。エドゥアール・マネ(1832~1883)は随分と思い切った行動に打って出た。なにしろ相手は太陽の下でその真価が発揮される。例えば「草上の昼飯」の如くに、裸の女性も加わっての野外での昼食会が描かれる。この構図は、現代においても、斬新過ぎるといって差し支えあるまい。
そんな奇想天外な筆使いをするマネなのだが、目の眩(くら)むような歴史の一断面にも立ち会っている。パリ・コミューンが壊滅を強いられたのは、1871年5月28日であった。マネは、その時の模様を、「バリケード」と「銃殺」という二つのデッサンに描いた。マネの弟ウジェーヌの妻であり画家のベルト・モリゾ(1841~1895)が娘に宛てた手紙(6月5日付け)には、こうある。
「お父様は、銃でコミュー兵士たちが銃殺されている時に、ある二人に会いました。なんとマネとドガでした。(中略)彼らは変です。貴方もそう思うでしょう?」(高橋明也「もっと知りたいマネー生涯と作品」東京美術、2010より転載)
その彼にして、「芸術とは一つの輪である。我々は出生の偶然によって、その輪の外側にいたり、外側にいたりする」というのであるから、その画風の変幻自在たるや相当なものであったのではないだろうか。
クロード・モネ(1840~1926)の「印象・日の出」や「ポプラ並木」「積みわら」「ルーアン聖堂」「夕暮れ」それに「睡蓮」といった作品では、穏やかな光が対象の全体を優しく包み込むかのように存在している。わけても、「睡蓮」は30年にもわたる連作であり、そのことで画家の探求の全体の道筋が窺えるものとなっている。
そこでは、俯瞰的(ふかんてき)な視点から、日常の静かな風景の一コマが切り取られている。そこには、水平線や地平線が消えているばかりか、水面そのものが唯一の描く対象となつているかのようだ。その水面においては、空や木木の姿が投影されているし、水中の藻(も)などにも、降り注ぐ光の反射なりが見て取れる。
ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841~1919)は、優しく柔らかな色使いで、数々の名作を世に送り出した。「陽光の裸婦」(1875)からは、画面に白で光を、影を紫で写し取る工夫が華開いた。当時の著名な美術評論家からは、そんな色ではないだろうなどと、酷評をされることもあった。
それからは、「舟遊びの人々の昼食」や「プージヴァルのダンス」などのダンス三部作、「ピアノに寄る少女たち」「市民の楽しみームーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」などには、人々の、生きているからこその喜びとかが感じられる。
後年はリューマチが昂進し、筆を持つのに苦労していたというが、画業にかける情熱は衰えなかったという。
そんなルノワールの言葉の中では、「(建築のなかの)装飾の一部として描かれてきた絵画は、それが多色(ポリクローム)なときにだけ価値をもっていた。色調が多様な調和を見せるほど、絵はますます装飾的になるのだ」(ルノワールの雑誌「印象派学」1877年4月21日への寄稿より)とあって、いかにも時々刻々の色彩変化に拘る画家ならではの姿勢が読み取れる。
(続く)
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