208『自然と人間の歴史・世界篇』「ガリヴァー旅行記」(1726)
この冒険話において、「私」ことリチャード・シンプソンは、出版社と読者にこう語りかけている。もちろん、これの本当の作者は、ショナサン・スウィフトといい、イギリスで司祭を務めていた。1726年のある日の私は、イギリス国民レミュエル・ガリバー(彼の従兄弟)から原稿や何かを、世に出してくれと渡される。そして、「私」の苦労の後にまとめて出版した。世に問う「ガリヴァー旅行記」として。
この旅行記だが、かなり面白いは、いったいどこまでが想像上の産物で、どこからがイギリスと関係のあるところなのか、よく解らないところに、しばしば出くわす。物語の途中においても、あっちへ行ったり、こっちへ来たりで、その間に作者の見解なりが出てくるという訳だ。
ガリバーが主に旅行した所としては、リリパット国とブロブディンナグ国が有名だ。ガリバーからみて、前者は小人国であり、後者は巨人国であった。彼は前者では「人間山」と呼ばれ堂々とできたのであったが、後者にいるときはいつ踏みつぶされるかわからないような弱い立場であった。
面白いことに、巨人国にいたところで、こんな時事評論がある。
「しかし、新しい国土を私が発見したからといって、国王陛下の領土の拡張に直ぐ資するつもりが私になかったのには、もう一つの理由があった。(中略)
たとえば、海賊の一隊が暴風雨にあって海上をあてどなく漂流していたとする。やがて一人の少年がトップマストの上から陸地を発見する。
よし、掠奪(りゃくだつ)だ、とばかり一同上陸する。ところがそこに現れたのが罪のない土着民たちで、至れり尽せりの歓待をしてくれる。」(スウィフト著、平井正穗訳「ガリヴァー旅行記」岩波文庫、1980)
ところが、現実の世の中というのは、そう和気藹々には進まず、こう続く。
「海賊たちの方はその土地に勝手に新しい名前をつけ、国王の名代として正式な領有権を宣言し、その証拠に朽ち果てた板きれ一枚か石ころ一つをおったてる。そして、なんと土着民を二、三〇人殺し、なおその上見本として一組の男女を力づくで引っ捉えて帰国し、今までの犯罪の赦免状を手に入れる。ざっとこんな具合にして、まさに「神権」によってえられた新領土が確立されてゆくという訳だ。」(同)
ただし、そこは自分は善良なイギリス国民レミュエル・ガリバーなのであって、彼の旅行中、不正なことには首を突っ込まなかったと、自己弁護にこう言わせている。
「だが、わが国王陛下の御名によって領有権を正式に宣言するということは、ついぞ私の念頭には浮かばなかったのである。たとえ浮かんだとしても、当時の私の置かれていた事情が事情であったから、あくまで慎重に安全を考慮して、その問題はもっと適当な機会に委ねようとしたに違いなかったという。」(同)
(続く)
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380『自然と人間の歴史・世界篇』スペイン内戦(1923~1933)
1923年9月、プリモ・デ・リベーラが軍事蜂起を起こし、政権を掌握すると戒厳令が敷かれ、憲法は停止となる。1876年からそれまで続いていた立憲君主制が崩壊し、軍事独裁政治の開始となる。1930年、経済危機の中で軍内部からも独裁者への批判が噴出、ベレンゲール将軍が政権を引き継ぐ。これに至る経緯はなかなかに複雑であった。ざっと示すと、その前年の8月、共和主義者たちが全国から北部のサン・セバスチャンに集まって、共和国樹立のための相談にとりかかる。首都のマドリッドでは、かれらによる革命委員会が結成される。
1931年2月にベレンゲールが辞任を余儀なくされる。新政府は生き延びる道を見つけようと、国民の意思を問うことにし、1931年4月12日、地方(市町村議会)選挙に打って出る。農村部では、王党派が勝利を収める。一方、都市部では社会労働党など共和派が勝利する。返り咲きをねらっていたアルフォンス13世は亡命する。すると、人々は「共和国万歳」を叫んで、先の革命委員会は臨時政府に衣替えし、権力を握るに至る。これを「第二共和政」と呼ぶ。
続いての6月28日には、憲法制定議会選挙が実施され、社会労働党、急進社会党などが躍進する。新憲法が制定され、その第1条には「スペインはあらゆる種類の労働者の共和国である」とあった。この憲法下で、10月にはアルカラ・サモーラが大統領職に、アサーニヤが首相にそれぞれ就任する。
1932年8月、サンフルホ将軍らによるクーデターが勃発するも、軍の一部の蜂起であったがために、政府の素早い措置により失敗に終わる。9月には、農地改革法が施行される。これによって「収容された土地は、南部を中心とする大土地所有(ラティフンディオ)のみで、手続きの煩雑さや資金不足も手伝って、実際に収容され農民に分配された土地は予定の20%ほどに過ぎず、根本的な改革にはほど遠かった」(立石博高・席哲行・中川功・中塚次郎『スペインの歴史』昭和堂、1998)といわれる。農地改革が徹底しないことで農民に不満が残り、新政府を支える労農同盟に不安が生まれたのは否めない。
同月、カタルーニャ憲章が制定される。1933年1月、カサス・ビエハス事件が発生する。これは、CNT(1910年に結成された全国労働連合でアナーキスト(無政府主義)的色彩が強い)系の労働者や農民による抗議であり、これを弾圧したアサーニャの権威は失墜する。3月には、政府の反カトリック改革に反対してスペイン独立右翼連合(CEDA)が結成される。アサーニャは辞任を余儀なくされ、1933年11月に総選挙が実施された。共和国政府の改革に不満な浮動票がブルジョアを中心とする右派勢力に流れた。右派による政権が生まれたことで、これからを「暗黒の二年間」という。
(続く)
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381『自然と人間の歴史・世界篇』スペイン内戦(1934~1936)
1934年10月には、反ファシスト政府の樹立を目指す民衆の立ち上がりがあった。これを「アストゥリアスの蜂起」という。スペイン人民にとって、生きることは戦うことになっていたのであろう。かれらは「人民戦線協定」を締結する。
1936年2月16日、スペインでは総選挙の結果、共和主義者、社会党、共産党の協力による人民戦線派が右翼の国民戦線派に対して勝利する。19日、共和主義者が中心となって、再びアサーニャを首班とする人民戦線政府が成立する。
これは、スペイン人民が集う政府としては、スペインの歴史始まって以来の出来事であった。人民戦線政府は、反ファシスト政府蜂起(ほうき)における政治犯の釈放や農地改革、カトリック教会の特権の縮小などの課題を表明する。一方、大資本・地主・教会を基盤とする右翼諸勢力は、軍部を中心としてひそかに政府打倒の計画を進めた。1936年7月17日のモロッコで、駐屯軍の蜂起があった。この事件を機に、翌18日にはフランコ将軍をはじめとする軍部がスペイン各地で反乱を起こした、フランコの指揮下にモロッコに拠点を確保した反乱軍は、ドイツ、イタリアの援助を得て本土に上陸し、以後長期的な内戦になった。ここに内戦が勃発したのである。
ここに至り人民戦線政府は決意を固める。武器を労働者に分配することを要求し、首都マドリードやバルセロナでは、労働者や市民が武器庫や銃砲店を襲って武器を手に入れ、反乱軍と戦った。1936年7月19日、ヒラールが新たに共和諸派による政府を組織し、労働者団体を武装することを決定した。軍部の蜂起は、同月20日までにはスペイン本土ではカディスとセビーリャを除いてほとんど鎮圧された。もう一方のフランコ将軍は、ファシストの国となっていたドイツとイタリアに援助を求め、両国の飛行機がモロッコへ送られた。この両国の介入はその規模を増していく。
内戦は、ここに国際的な対立の構図を巻き込んだ形となったのだ。1936年年8月、モロッコから本土に上陸したフランコ軍は、北上してマドリードを目ざし、また北方のレオン、ガリシア地方を制圧し、同年9月末マドリードをほぼ半円形に囲んだ。ここにスペイン本土は共和国政府に残された地域と、反乱軍(ナショナリストと自称)に占領された
1936年9月4日、ヒラール内閣は退陣して、労働者に信望のある社会党左派のラルゴ・カバリェロが内閣を組織した。カバリェロ内閣は社会党、共産党からも入閣させ、さらに11月にはアナキストを入閣させた。共産党員がブルジョアジーとの連立内閣に入り、さらにアナキストが政府機関に参加しないという原則を破って入閣した。同じ9月には、ロンドンに不干渉委員会を開設する。
この年の10月、バスク自由憲章が制定される。その後もドイツ、イタリアの武力介入は続いてゆく。ソ連はこれに対抗して、1936年10月末、共和国側に戦車や飛行機、大砲などを送った。ソ連から送られた人数は約2千人、多くは技術的な部門で活動した。なお、メキシコのカルデナス政権もスペイン共和国に対して武器を送った。アメリカは、スペイン内戦に対しては中立の態度をとっていたが、石油資本はフランコに対する石油の供給を続けていた。
ここに至り、共和国側内部の事情は、内戦前と比べて著しく変化した。その中でも、労働者が部分的に権力を掌握したことが重要である。ヒラールを中心とする共和国政府は、自由主義的ブルジョアジーからなり、旧来の国家機構を把握している。社会党、共産党は、これを閣外から支持していた。軍部のなかにも合法的な共和国政府に忠誠を誓う勢力もあった。またカタルーニャでは、自治政府の大統領コンパニースは、アナキストを含む民兵委員会や経済評議会を設置して、労働者による軍事と経済の管理を認めていた。フランコは内戦の過程でナショナリスト側において指導的地位を獲得し、1936年10月、自ら「統領」と名のり、ファランヘ党からその大衆向けのイデオロギーを借用し、この党をテロ部隊として利用した。
そして同月、フランコ軍はマドリードの郊外にまで迫る。11月6日、フランコ軍がついに総攻撃を開始した。ドイツとイタリアは、同11月、フランコ政権をスペインの正統政府として承認を与えた。人民戦線政府側では、国際義勇兵が、マドリードの戦場に姿を現した、勇敢な心には不可能の文字はないかのように。そんな中でも、この国際義勇兵を組織的にスペインに送り込むことに努めたのは、コミンテルン(第三インターナショナル、当時の共産主義者の国際組織)であった。
政府軍と渾然一体となってファシスト側と戦うことになるこの義勇兵の数は、精々3万から4万位であったろうか。共和国政府はマドリードからバレンシアへ移転した。マドリードはその後2年半ほどもちこたえた。フランコ軍に対するドイツ・イタリアの武力援助とイギリス・フランスの不干渉政策という状況の下では、共和国側は圧倒的に不利であった。
(続く)
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384『自然と人間の歴史・世界篇』フォービズム(マティスなど)
絵画の世界でフォービズム(野獣派)という名の由来は、いささか変わっていた。時は20世紀初頭の1905年、パリで催された展覧会サロン・ドートンヌに出品された絵のうち、アンリ・マティス(1869~1954)、ドラン、ヴラマンテ、マメケの絵が一堂に集められていた。それらを観賞した美術批評家の弁に、まるで「野獣のようだ」という意味の言葉があったのだという。
なにしろ、彼らの絵は、色使いがやたらと派手に感じられた。色彩によって明るさを造造形するかのような手法が取られているようであった。少なくとも、印象派の画がのような、光に揺らめくような、微妙な色使いを拒否しているように感じられたらしい。
それらの代表格としてのマティスは、自身の出発点は「生きる喜び」にあったと明らかにしている。画家を志したのは、21歳の1890年に虫垂炎をこじらせ、1年間の静養をしていた時のことであったという。
それからは、絵画の学校に通い、1896年には早くも国民美術教会に出品使徒、準会員となる。1907年には、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」が世に出て、そちらに注目をさらわれた。そのため世間では、「マティスは色だったが、ピカソは形」だと評された。
ほどなく、ヨーロッパに苛酷な時代がやってくる。第一次世界大戦での、ヨーロッパ列強の激突であった。マルヌの戦いの少し前、マティス一家パリを離れるのだが、また戻ってきて画業に精出すのであった。はゅービズムの影響もあってか、マティスの画風に、幾何学的単純化のバリエーションが登場してくる。例えば、1916年の「モロッコ人たち」などは、キュービズムの作風とかなり似ているのではないだろうか。
(続く)
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173『自然と人間の歴史・世界篇』宗教改革(スイス)
さて、ルターがドイツでカトリック教会の免罪符(めんざいふ)に抵抗していた頃、スイスの地、チューリヒを中心に、同じくこれの販売に反対する運動が起きていた。
そこでの特徴は、1519年からかなり広範囲の教会改革に乗り出していたことにあった。これを指導したのが、トツゲンブルク村長の家系に生まれたフリードリヒ(ウルリッヒ)・ツヴィングリ(1484~1531)であった。
1506年からは、カトリックの司祭を務める。しかし、1519年にチューリヒのグロースミュンスターの司祭に就任すると、そのうち聖書のみが信仰の行動の規範となると唱え始める。
その中でも、免罪符に反対するだけでなく、歴代聖人の崇拝(偶像を含める)を批判したり、聖職者の独身制に反対するなど、ドイツのルターが進める改革運動に比べ急進的なところが窺える。
1523年、ツヴィングリらの改革派は、チューリヒ市の政治・宗教改革に乗り出す。これを阻止しようとするカトリック教会側との間で、戦いが没発する。それは、最初から武力行使も辞さないものであった。その背景として、当時のチューリヒは、ハプスブルク家の権威に対抗し、フランスやイギリス、都市ではヴェネツィアと結んで自治を守ろうと動いていた。
そして迎えた1531年10月、カトリックを信奉する5邦による奇襲によって、新旧の勢力は第二次カッペル戦争に突入する。ツヴィングリは、中部スイスでの、カトリック教徒との戦いで戦死し、改革派の敗北に終わる。
その戦後に結ばれたのが「第二平和条約」であり、各主権邦及び従属邦に対し宗派選択の自由、そして同等の宗教的権利が認められる。これは、形式的には、後のドイツのアウグスブルクの宗教平和(1555)でのものと類似のものだといえよう。
またこの条約は、改革派の諸邦がドイツの改革派や、帝国都市と結んだ同盟の解消を求めている。さらに、共同支配地での改革派の存在は許容しつつも、事実上カトリックへの復帰改宗を勧めている。
彼の死後のツヴィングリ派の宗教改革運動は、低迷を余儀なくされていく。それでも、ジュネーブの宗教改革には、1532年にベルンからギョーム・ファレルが送り込まれる。また、1536年にスイスにやってくるカルヴァン新教勢力と合流するなどして、ツヴィングリの撒いた種は引き継がれていくのであった。
(続く)
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