♦️104『自然と人間の歴史・世界篇』「バビロニア捕囚」

2018-06-11 08:44:38 | Weblog

104『自然と人間の歴史・世界篇』「バビロニア捕囚」

 新バビロニア王国(前625~前539)が、シリアからパレスティナまでを含む地中海沿岸地方を抑えたことにより、土着の国家は大きな影響を受ける。
 そんな中でも、ユダ王国はエジプトから支援を受けることで抵抗を重ねたものの、「衆寡敵せず」といったことであったろうか、紀元前597年にはエルサレムが陥落してしまう。
 その際、住民の一部が移住させられただけであったのが、続いての紀元前596年には彼らの主だった住居や建物はほぼ完全に破壊され、彼らの相当部分に対し強制的に移住を強いる事件が起こった。これにより、新バビロニア国内に連れ去られた人々のことを、「バビロンの捕囚(虜囚)」と呼ぶ。この戦争に勝った新バビロニア軍は、ビュブロスとベイルートの間のナハル・エル・ケルブという小さな川の河口の岸壁に、記念の碑文を刻ませたという。
 これのユダヤにとっての歴史意義について、ヘブライ文化史専攻の小辻誠祐(こつじせいゆう)は、こういう。
 「イスラエルの民族史は、この時期を画して終末を告げ、かつ、再出発をしたのであって、従来のヘブライ文化が全然没落したのではないが、根本的に新らしい解釈と組織との下にユダヤ文化として、立ち直ったのである。
 いわゆる「ユダヤ人」なるものの出現もこの時からであって、王国時代には「ユダヤの孫」と呼ばれていたものが、特殊な意味において「ユダヤ人」となった。バビロンに引きゆかれた彼らは運河の辺(ほとり)の町テル・アヴィヴに移されて、そこで半世紀のあいだ忍従と切々たる懐郷の境涯を余ぎなくされた。」(小辻誠祐「ユダヤ民族ーその四千年の歩み」誠信書房、1965)
 この事件を境に、ユダヤ人の間に独自の律法をつくる運動が出て来て、空前絶後の民族救済の宗教体系をつくる。その中心にあって、信者が厳守すべきとされるものが、いわゆる「三箇条」なのであり、それらは、聖安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)を厳格に遵守していかなる業をもなさぬこと、ヤハヴェとイスラエルとの契約の徴(しるし)である割礼(かつれい)を必ず行うこと、聖安息日毎に会堂で律法を朗読するとともにヤハウェを拝し、いかなる像をも拝まぬことであった。もちろん、今日のような聖書(「旧約」)などは存在しない時代のことである。
 こうして彼らは、分かちがたい、強固な団結をつくっていく。そうすることで、みんな一丸となって自分たちの運命を切り開いていこう、というのであった。だが、自分たちの全てを分かち合う平等主義をとっていた訳ではないことに、それなりの留意が必要だと思われる。

(続く)

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