◻️171の14『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤田秀斎、佐伯義門、佐藤善一郎)

2021-04-03 22:02:55 | Weblog
171の14『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤田秀斎、佐伯義門、佐藤善一郎)

 藤田秀斎(ふじたしゅうさい、1822~1878)は、下道郡(吉備郡)総社の薬種業者にして、和算家である。いつの頃からか、算数を勉強する。やがて、小野光右衛門宅に通うようになる。新しい環境が得られて、算法ばかりでなく、和算全般を精力的に学ぶようになっていく。

 そのうちに、小野の学統を継ぐだけの実力を養うに至ったようで、たとえば、1858(安政5)年の日付で岡山市の吉備津神社に奉納された算額がある。の桧製画面の大きさは、縦46.3センチメートル、横178.8センチメートルだ。前文は小野以正(おのゆきまさ)こと小野光右衛門が記し、藤田秀斎(小野の門人)ら4人が解答を寄せている。

 そんな藤田秀斎を佐伯義門(さえきぎもん、1831~1911)らが引き継ぐ。その佐伯は、小田郡里山田村矢掛村の庄屋の出身だ。早くに、総社の藤田の塾に入り、算法測量にいそしむ。青年となっては、京都に行き、福田理軒に天文や暦を学ぶ。さらに、阪谷朗盧の開いた興譲館で漢文を学ぶという用意周到さであった。維新後は、矢掛村(現在の小田郡矢掛町)に住み、師の藤田秀斎とともに小田県に出仕し、地籍測量に携わる。(追って、追記)

 さらに、その系統はさらに佐藤善一郎 (さとうぜんいちろう、1841~1902)へと引き継がれていく。その佐藤は、後月郡井原村(現在の井原市井原町)の生まれ。やがて、前述の矢掛村(現在の小田郡矢掛町)の佐伯義門(さえきぎもん、1881~1911)に、和算(算法測量)を学ぶ。
 その後の佐藤は、佐伯の師の藤田秀斎(ふじたしゅうさい)について小田県庁に入る。

 地租改正の元になる準備作業として、地番ごとの評価を割り出さねぱならない。ここで、山陽道・四国・播磨・山陰地方を歩いて、それぞれの地での地籍測量に携わる。

 関連して、佐藤小夜女 (さとうさよめ、1874~1889)は、佐藤の一人娘であり、父から和算を学び、才能を開花させた。
 たとえば、福知山市下夜久野額田の妙龍寺に、複雑な図形が描かれた一枚の額が残されている。これは算額といい、和算家が難解な数学の問題もしくはその解答を添えて社寺へと奉納したものである。こうした算額は全国各地にみられ、近世に和算が関孝和らにより大成した後の文化文政期に最盛期を迎えた。
 しかして、この妙龍寺に残されている算額は、1887年(明治20年)4月に板生村中川安太郎の追善として、佐藤善一郎により奉納された。これに記されている問題は全部で4問であり、その中に後月郡井原(現在の井原市)の「佐藤小夜女」の名がある。いわく、佐藤の娘(戸籍名はいま)とのことであり、当時は13歳にも満たないながら、近隣の村らしき男性たちとともに出題者に名を連ねている。
 ところが、16歳で、父の赴任先の京都で亡くなる。さらに紹介すると、刺繍図案帳を遺しているほか、父とともに算額を足次山神社に奉納した算額が残っている。

 愛娘が亡くなってからの佐藤は、幾らか気落ちしたのかもしれない。役人をやめて、郷里の井原に戻る。郷里で算盤や俳諧を教えていたという。他に、楽しみということであろうか、「一竹」という雅号をもって絵を描いていたようで、妙龍寺には蟹と蓮の掛け軸が残っているという。


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 太田直太郎(おおたなおたろう、1798~1829)は大坂に遊学して、武田流算学家元の武田無量斎真元に和算を学ぶ。この流派は、近畿以西に勢力をもっていたという。
 その武田から算術に関わる「秘術」の伝授される機会を得て、滞在50日でその奥義を極めたというから、秀才に違いない。帰郷後も、研鑽を積んで、算術図説数十条を作る。
 太田の没後、岡山市の吉備津神社と倉敷市玉島の羽黒神社に掲げたという。「新撰浪華武田流諸国算者見方角力」に関脇、また「諸国算者高名鑑」にも頭取として名を連ねている。武田流の兄弟弟子に倉敷の内藤真矩がいて、内藤が太田に産題の依頼をしている文章が残っていることから、交流が続いていたことがわかっている。


(続く)


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