108『自然と人間の歴史・日本篇』荘園整理令(902~1069、そのあらまし)
振り返ってみれば、荘園とは何だろうか。その元々の概念については、さしあてり、成立の契機から墾田地系荘園、寄進地系荘園の二つに区別するのが一般的だ。 このうち前者は、初期荘園とも呼ばれ、743年(天平15年)に公布され、墾田永世私財法によって形成された荘園である。墾田永世私財法は、土地の開墾者にその開墾地の私有を認めるものであった。
土地の支配が先行し、多くの場合、荘内に定住している農民に毎年一定の耕地を耕作させる方法をとらず、周辺の班田農民を雇用、もしくは浮浪逃亡民の労働力に依存していた。そのため維持・管理は不安定であり、現地の豪族の協力に依存し、多くは10世紀末までに消滅した。
それに対し、寄進地系荘園は平安後期に「富豪」と称される地方の豪族が、国衙による収公を免れ、現地における自分の地位を確保しようとするため、開発した私領を中央の貴族や大寺社に寄進して成立した荘園を指す。中央の貴族や大寺社は、「領家」と呼ばれる荘園領主となり、寄進主体の開発領主は下司などの荘官に任じられて荘園の実際の管理・運営にあたった。
土地の支配が先行し、多くの場合、荘内に定住している農民に毎年一定の耕地を耕作させる方法をとらず、周辺の班田農民を雇用、もしくは浮浪逃亡民の労働力に依存していた。そのため維持・管理は不安定であり、現地の豪族の協力に依存し、多くは10世紀末までに消滅した。
それに対し、寄進地系荘園は平安後期に「富豪」と称される地方の豪族が、国衙による収公を免れ、現地における自分の地位を確保しようとするため、開発した私領を中央の貴族や大寺社に寄進して成立した荘園を指す。中央の貴族や大寺社は、「領家」と呼ばれる荘園領主となり、寄進主体の開発領主は下司などの荘官に任じられて荘園の実際の管理・運営にあたった。
次に、荘園の展開についての基本的な事柄から。ここで用語について少し触れると、朝廷が任命する国司が管理する公領(国衙領(こくがりょう))というのは、公地公民制(班田制)が崩壊した後のことをいう。富裕層が保有する広大な私有地、これを荘園というのだが、これと公領との二本立てになった日本の土地制度のことを、狭い意味での「荘園公領制」と呼ぶ。土地に関する二重権力とは、ひとまず別の社会事象として考えるべきだろう。成立時期としては、10世紀から少しずつ荘園公領制へと向かい始め、11世紀後半期には全国的本荘園公領制の成立となった模様だ。
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しかして、荘園整理令というのは、平安時代,荘園の増大を抑止するために出された一連の法令にして、全国を対象としたものと、国単位に出されたものとがある。
全国を対象としたものとしては、902年(延喜2年) 、984年(永観2 年) 、987年(永延元年) 、1040年(長久元年) 、1045年(寛徳2 年) 、1054年(天喜2年) 、1069年(延久元年) 、1075年(承保2 年) 、1078年(承暦2年) 、1099年(康和元年) 、1127年(大治2 年) 、1156年(保元元年) など。
当時、諸国の富豪層が課役を逃れる目的で、寄進や売却と称して王臣家の庄とする動きが頻発していた。そこで、農民と王臣家の結合を切断し、かかる朝廷からみた権門勢家領の横暴に打撃を与えようと考えた。ただし、これに人民大衆が感心するのは、そもそも似つかわしくない性格のものであったろう。
審査というのは、つまるところ、(1) 荘園の成立の確かな証拠の有無、(2) 国務の妨げになるか否かの2点を基準に、当該荘園の所在地、領主、田畠惣数などの調査を行い、合否を判断するというもの。
この二つを基準として、格前からの荘園は合法として公認し、一定の水準に満たない荘園は停止なり廃止するという方針がたえられた訳だ。とっかかりの902年(延喜2年)に出された官符が残っていて、「院宮王臣家の庄」を停止することをうたったもの。
それが、寛徳荘園整理令になると、前任国司の在任中以後に立てられた新立荘園の停止という。これだと、整理の基準線が大幅に引下げられるにいたった。
さらに、後三条天皇のときの1069年(延久元年)に出された荘園整理令では、記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいしょ)を設置してある。そこにおいて、既述の基準に照らし、寛徳の荘園整理令以降の荘園・券契が不明確などを吟味の上、そのかなりを停止したのだと伝わる。かかる整理を断行するに至るには、藤原氏専権の経済基盤である荘園を整理し、その抑制と天皇権力および国家財政の強化をはかる思惑があったようだ。
ちなみに、かの「愚管抄(ぐかんしょう)」(天台座主(ざす)にして九条兼光の弟たる慈円(じえん)の作)には、こうある。
「コノ後三条位ノ御時、(中略)延久ノ記録所トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨・官符モナクテ公田ヲカスムル事、一天四海ノ巨害ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチ宇治殿ノ時、一ノ所ノ御領御領トノミ云テ、庄園諸国二ミチテ受領ノツトメタヘガタシナド云ヲ、キコシメシモチタリケルニコソ。」
この文中に「後三条」とは後三条天皇を、「記録所」は記録荘園券契所を、「宇治殿」は当時この地に別荘を有していた藤原頼通を、「一ノ所」は摂関家を、受領(ずりょう、)とは任地に赴任して政務をとる国司の最上級官僚のことをいう。
全国を対象としたものとしては、902年(延喜2年) 、984年(永観2 年) 、987年(永延元年) 、1040年(長久元年) 、1045年(寛徳2 年) 、1054年(天喜2年) 、1069年(延久元年) 、1075年(承保2 年) 、1078年(承暦2年) 、1099年(康和元年) 、1127年(大治2 年) 、1156年(保元元年) など。
当時、諸国の富豪層が課役を逃れる目的で、寄進や売却と称して王臣家の庄とする動きが頻発していた。そこで、農民と王臣家の結合を切断し、かかる朝廷からみた権門勢家領の横暴に打撃を与えようと考えた。ただし、これに人民大衆が感心するのは、そもそも似つかわしくない性格のものであったろう。
審査というのは、つまるところ、(1) 荘園の成立の確かな証拠の有無、(2) 国務の妨げになるか否かの2点を基準に、当該荘園の所在地、領主、田畠惣数などの調査を行い、合否を判断するというもの。
この二つを基準として、格前からの荘園は合法として公認し、一定の水準に満たない荘園は停止なり廃止するという方針がたえられた訳だ。とっかかりの902年(延喜2年)に出された官符が残っていて、「院宮王臣家の庄」を停止することをうたったもの。
それが、寛徳荘園整理令になると、前任国司の在任中以後に立てられた新立荘園の停止という。これだと、整理の基準線が大幅に引下げられるにいたった。
さらに、後三条天皇のときの1069年(延久元年)に出された荘園整理令では、記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいしょ)を設置してある。そこにおいて、既述の基準に照らし、寛徳の荘園整理令以降の荘園・券契が不明確などを吟味の上、そのかなりを停止したのだと伝わる。かかる整理を断行するに至るには、藤原氏専権の経済基盤である荘園を整理し、その抑制と天皇権力および国家財政の強化をはかる思惑があったようだ。
ちなみに、かの「愚管抄(ぐかんしょう)」(天台座主(ざす)にして九条兼光の弟たる慈円(じえん)の作)には、こうある。
「コノ後三条位ノ御時、(中略)延久ノ記録所トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨・官符モナクテ公田ヲカスムル事、一天四海ノ巨害ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチ宇治殿ノ時、一ノ所ノ御領御領トノミ云テ、庄園諸国二ミチテ受領ノツトメタヘガタシナド云ヲ、キコシメシモチタリケルニコソ。」
この文中に「後三条」とは後三条天皇を、「記録所」は記録荘園券契所を、「宇治殿」は当時この地に別荘を有していた藤原頼通を、「一ノ所」は摂関家を、受領(ずりょう、)とは任地に赴任して政務をとる国司の最上級官僚のことをいう。
さしずめ、かかる別荘に建立され阿弥陀堂(平等院鳳凰堂)に鎮座している、定朝作・阿弥陀如来(西方浄土を司る、とされる)像などを造立するには、いかほどの費用がかかったのだろうかと。かたや国衙(こくが)や中央政府(朝廷)の方も、かかる整理令で取り戻した財源を広く民衆のために使うための措置という訳でもあるまい。そのように考えると、藤原氏の栄華を含んだ、広い意味での権力図絵の中からは一歩も出るものではなかったのかもしれない。
あるいは、別の論者により、こう評される。
「政治史の流れに話をもどせば、三年余の後三条天皇の治政とこれをうけた五七年間の白河天皇・上皇による治政は、たび重なる荘園整理令の発布と記録荘園券契所(記録所)の活発な活動によって、中世的土地制度=荘園公領制が確立した大きな画期であった。後三条天皇親政期の延久の荘園整理令は一般に、(1)寛徳二年(一〇四五)以後の新立荘園の停止、(2)公田加納の停止、(3)坪付の定まらない荘園の整理、(4)往古の荘園のうち券契の不明のものや国衙行政に支障のあるものの停止、の四項からなると考えられている。とくに(2)(3)については、各国衙レベルで国司による厳しい追及が続けられ、その過程で(4)すなわち券契(公験)の整備が進んだから、以上の全体を通じて荘園・公領の分離とそれぞれの領域の明確化が進展することとなった。」(「福井県史」(通史編、原始・古代)より引用)
要は、この整理令では、1045年(寛徳2年)以降に新設の荘園を廃止したほか、それ以前の荘園に対しても、かかる記録所を設け、その幹部職員(寄人(よりうど))には反摂関家の大江匡房(おおえまさふさ)らに荘園領有の証拠文書を厳しく吟味させたのであった。
このような整理令の展開であったが、そのうちに諸般の事情により内容を薄めなから継続を重ねていく。
(続く)
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