♦️225『自然と人間の歴史・世界篇』トリチェリーの真空の発見(1644)とパスカルの原理の発見(1653)

2021-04-23 22:15:55 | Weblog
225『自然と人間の歴史・世界篇』トリチェリーの真空の発見(1644)パスカルの原理の発見(1653)

 パスカルの原理というのは、密閉した容器の中で静止している流体(液体あるいは気体)の圧力は、高さに変わりがないならば一定であるが、その高さが高くなれば減少するというもの。密閉容器の一部に圧力pが作用すると、その圧力pが増減することなく容器の形状に関係なく液体内の全ての箇所に伝わる、といってもよい。

 まずは、その前史としての、イタリアのトリチェリー(1608~1647)が1644年に行った実験から紹介しよう。彼は、長さ1メートル程のガラス管に水銀を満たしてからふたを被せる。そして、同じく水銀を満たした皿にそのガラス管を逆さにして立てる。その後、ガラス管のふたをはずしてみる。


 すると、ガラス管の中の水銀はすっと下がり、お皿の水銀面か約76センチメートルの高さで止まるではないか。これは、お皿の水銀面を押す大気圧(空気の重さ)と、ガラス管の中の水銀柱の重さが釣り合っている。

 また、この間、水銀柱の上には何も入り込めないのであるから、真空になっていると考えられ、この部分を「トリチェリーの真空」と呼ぶ。


 さらに、フランスのパスカル(1623~1662)は、ガラス管の太さや形を変えても、あるいはガラス管を傾けても、ガラス管の中の水銀柱の高さは一定になることを発見する。かくて、ここで釣り合っているのは一定の面積に加わる圧力であるということがわかった訳だ。

 では、この原理を使っては、何ができるだろうか。ここでは、簡単な図を描くとしよう。
 この原理の実用化の例としては、流体を入れた密閉容器に断面積の違う二つのピストンを用意してみよう。すると、断面積の大きな方に重いものを置いても、面積が大きい、なので、圧力はそれほど大きくならない。
 かたや、断面積の小さな方では、軽い力を加えただけでも大きな圧力を掛けることができる。

 要は、細い方のシリンダーから押し出した流体の量と同じ分だけ、その押し出された流体が太い方のシリンダー側に入ることになるのだから、ピストンの移動距離は断面積に反比例することになっている。

 この場合、かたやp′とA′、かたやp′′とA′′の圧力及び断面積とすると、両方のピストンに働く力は同じとなるので、次式が成り立つだろう。
p′/A′=p′′/A′′
仮に、p′′を100kN(キロニュートン)、A′′を200平方センチメートル、A′を20平方センチメートルとおいて、この式に入れてみよう。
p′/20=100/200
p′=20×1/2=10kN


 ちなみに、その場合の力の在り方は、断面積に比例するというのだから、距離と力の積をもって仕事と規定するエネルギー保存則を破らない。
 

(続く)

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♦️69の4『世界の歴史と世界市民』アルキメデスの原理(ギリシア)

2021-04-23 20:24:39 | Weblog
69の4『世界の歴史と世界市民』アルキメデスの原理(ギリシア)

 アルキメデスの原理というのは、「流体内にある物体は、その物体が押しのけた流体に作用する重力に等しい大きさの浮力を受ける。すなわち、そのことにより流体の重さだけ軽くなる」ことをいう。

 いま、密度ρの流体の中に、円柱状の物体が浮かんでいるとしよう。すると、物体の表面には、この流体からの圧力が働くだろう。すなわち、下面に対して上向きにp′A、上面に対しては下向きにp′′A。したがって、この場合の浮力(上向きの合計力)は、p′A-p′′Aとなる。
 ここで、流体の密度ρは一定とすると、体積VがhAであるから、質量mが密度ρ×体積hA=ρhAの物体に下向きに作用する重力の大きさはmg=(ρhA)g、なので、鉛直方向の力が下向きと上向きとで釣り合う条件としては、p′′A+ρhAg=p′A、したがってp′A-p′′A=ρhAgの関係にある。
 しかして、この右辺のうちではm=ρhAであり、これは、体積hAの円柱状物体が押しのけた密度ρの流体の質量であるといえよう。
 したがって、浮力の大きさp′A-p′′Aは、物体が押しのけた流体に作用する重力の強さρhAg=m=ρhAgに等しいことになっている。

 ところで、この発見には逸話(伝承)があって、古代ギリシアのアルキメデスは、シラクサの王から、神々に捧げる冠が本物の金で作られているが、銀が混ぜられているかを確かめてもらいたい、との依頼を受けていたという。なお、条件として、冠を傷つけないことになっていた。
 以来、いつも、これを思案していたのだろうか、ある時、すなわち公衆浴場に入浴していてアルキメデスは、突然、「ヘウレーカ(見つけた)」と叫びながら、急いで実験室へ向け走って帰ったというのだから、もし本当なら驚く。
 さっそく、空気中で、この冠と同じ重さの金塊と冠の両方を糸で水の中に吊るして重さを測ってみたところ、水中ではかの方が軽かったことから、冠は純金ではないと結論したという。


(続く)

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◻️42の3『岡山の今昔』江戸時代の三国(17~18世紀の藩政改革・美作)

2021-04-23 10:06:55 | Weblog
42の3『岡山の今昔』江戸時代の三国(17~18世紀の藩政改革・美作)

 この時期の津山藩の藩政改革でいうと、その名がつくものとしては、まず「宝暦の変革」がある。
 これが実施されたのは、1759年から1761年にかけての、松平氏の治世になってからはや半世紀余り、もはや先代森藩からの宿題を云々することはできなかったであろう。
 その狙いとしては、「徹底した財政問題に絞った」(「津山市史」第4巻、近世2、松平藩時代)とされている。
 手始めになったのは、10人もの大庄屋の更迭であった。しかも、それまで帯刀を認められていたの剥奪されたのにとどまらず、平百姓を申し付けられたというのだから、驚く。
 なぜなら、改革というのなら、彼らの上に立って実際を取り仕切っていたであろう武家の面目をなんと心得ていたのか、責任転嫁と言えなくもなかろう。
 その実は、10万石から5万石に減封になったことに加え、江戸鍛冶橋門内(現在の東京駅)の上やし屋敷が全焼したことによる再建など諸々の「御用向き」があったのだと、大方には解説されているようだ。

 やがて、松平康哉の治世になると、先代の長孝が行った「新法」を吟味してみたという。先代では、庄屋制度を廃するなど藩政改革を行なうことで藩財政などの再建を目指したという。けれども、実績が上がらないまま、重臣たちがとりあえず続けたのかもしれない。
 そして迎えた1771年(明応8年)の康哉は、父が始めた新法による改革を一旦廃し、新たな決意で藩政改革を行う。先代改革の全てが失敗したというのではなくても、領民から搾り取るばかりではいけない、と判断したのではないか。
 その正式な触れ、それに家中向けとしては、「申渡十一時箇条」、「問九ケ条」と「郷中御条目」なりが出ていて、なかなかの体裁にちがいない。
 これに至るまでには、江戸にいるときは、上杉治憲や細川重賢らに教えをこう。彼らに倣い、機構改革、それに大村庄助や飯室武中といった、家柄にとらわれない有能な人材を登用したりで、藩政の刷新を目指す。
 また、税徴収の増加を目して、社倉や義倉孝行者に対して褒賞を出す、育児法を制定するなどの、社会福祉的な政策をとる。ほかにも、藩校を整え、学問を奨励、武道を励ますなど、多様な取り組みを行う。
 それでも、全体として実効性の確保ができないうちに改革が終わったのには、上意下達ではなく、下からの声を積み上げるやり方をとらなかったことが少なからずあったのではないだろうか。

(続く)


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