『自然と人間の歴史・世界篇』ヘルツの実験(1888)  

2021-04-21 23:04:59 | Weblog
『自然と人間の歴史・世界篇』ヘルツの実験(1888)
 
 ドイツの物理学者ハインリヒ・ヘルツ(1857~1894)は、ドイツの物理学者だ。
 その彼関心を向けたのが、1864年にイギリスの物理学者のマクスウェルが電磁波の存在を予言した、その存在を実証することである。

 では、ヘルツはどのような装置で電磁波の存在を確認しようとしたのだろうか。

 まずは、電波を出す送信側をいうと、誘導コイルを使って高い電圧を作り、それを火花間隙に導いて火花放電を発生させる。

 そして、そこからある離れたところに、検出器としての、電波を受信するコイル(共振器)を置く。このコイルの根もとには、小さな間隙を設ける。

 こうすることで、誘導コイル側で発生した火花放電により発生した電磁波が空間を伝わって、受信側のコイル(共振器)に誘起し、その間隙に火花放電を起こさせようと考える。

 言い換えると、この実験においてヘルツは、誘導コイルとアンテナを組み合わせた発信装置に非常に大きな電力を与え、強力な電磁波を発生させ、受信アンテナで生じた火花を観測したようとした。
 当時は、高周波で火花放電を発生させることは簡単ではなかったとのの、しばらく前に発明されていたブンゼン電池を数十個使用して大電力を発生させ、さらに誘導コイルを使うことを考えたという。


 ヘルツはこの実験で、電波を発生する間隙(かんげき、放射器)に対して、受信側のコイル(共振器)の向きを変えたり、距離を変えたりしてみる。
 そして、誘導コイルの端子間に火花が飛ぶのと同時に、誘導コイルの間隙にも火花が飛ぶのを確認した。

 これをもって、「誘導コイルの端子間の振動電流が振動する電場と磁場をつくり、この振動が空間を電波として伝わっていき、ループを通過するときに、そこに振動する電場と磁場をつくり、この強い振動電場のためにループの間隙に火花が飛ぶと理解される」(原康夫「増補版物理学入門」学術図書出版社、2005)と説明される。

 なお、今日、電磁気学以外の力学などの分野も含めて、振動数(または周波数)の単位は(1/秒)とされる。これをヘルツと呼びHzと記しているのは、彼が電磁波の発生と検出に成功したのを讃えるものだ。

(続く)

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◻️115『岡山の今昔』備前岡山(江戸時代)

2021-04-21 21:03:32 | Weblog
115『岡山の今昔』備前岡山(江戸時代)

 思い起こせば、1603年(慶長8年)、今度は、徳川家康の孫の池田忠継が備前28万石の太守に封ぜられる。しかし、幼少であったため兄の利隆が代わって藩政を執った。忠継没後、弟の忠雄が継いで藩主となって、岡山城の整備を続け、彼の代で今日に残る岡山城の威容が完成した。このとき藩の石高も31万5200石に落ち着く、正に瀬戸内の雄藩としての位置づけを与えられたのである。

 1632年(寛永9年)に忠雄が亡くなると、その後を継いだ光仲は幼少のため、池田氏一族内での系統の入れ替えの幕令が下る。それからは、従兄弟にあたる鳥取藩主・池田光政(いけだみつまさ)と交代して鳥取へ移り、以後明治維新を迎えるまで、岡山藩32万石は光政の子孫(系統)の池田家によって治められていく。ここに光政は、姫路城を築いた西国将軍・池田輝政の孫で、父・利隆の跡を継いだ翌年に姫路から鳥取へ転封されていた人物である。

 さて、江戸期に入ってからも城造りは続いていく。それが、池田家によって一応の完成を見る。岡山城二の丸跡には、次の説明板が設けてある。

 「岡山城郭について
 岡山藩の城府である岡山城郭は、戦国大名の宇喜多秀家が一五九〇年代に築城し、以後の城主の小早川秀秋や池田家に城普請が引き継がれ、四代目城主の池田忠雄の時(一六ニ〇年代)に完成をみました。
 二の丸跡に立てられている説明板によると、「城郭の構成は、本丸を中心にして一方に郭の広がる梯郭式の縄張りになり、本丸・二の丸内屋敷と二の丸・二郭からなる三の曲輪と三の外曲輪の、三段構えの六区画から成り立っています。ー中略ー。三の曲輪と三の外曲輪は、城下町にあててあり、内側には町人町を設け、外側に侍屋敷を配して城郭周辺部の固めをなしていました。城郭は、東西約一km(キロメートル)・南北約一・八kmの規模になり、背後を旭川の天然の要害で固め、縄張りの各区画が堀で区切られ、二十日掘と呼ばれる幅約三十m(メートル)の外堀が城府を画していました。」(以下略、昭和六〇年二月、岡山ライオンズクラブ、監修岡山市教育委員会)

 これにあるように、完成した岡山城の間取りは、本段、中の段、下の段の三段造りとなっている。中の段の北に本丸が聳える構図だ。正保年間(1644~1647年)の備前国岡山城絵図を基にして描写)の絵図を見ると、城郭の北から東にかけては旭川が西から東へと張り出した格好となっている。そして西から南にかけては内掘で囲んでいる。南ないし西が大手門の方向とされ、いわば城の玄関というところか。
 本段には、天守と藩主が日常生活を送るための本丸御殿が配されていた。そこに五重六階の天守が立ち、あたりをぐるりと見渡すことができていた。珍しいのは、天守台の張り出し具合に合わせる形で下層が不等辺多角形、上層が正方形となっている。天守閣の他にも、「櫓一八棟・多聞櫓六棟・城門一三棟、さらに御殿・表書院・鉄砲蔵・金蔵・長屋などの建物が立ち並んでいました」(岡山城二の丸跡の説明板、昭和六〇年二月、岡山ライオンズクラブ、監修岡山市教育委員会)とある。

 それから、時代が改まっての1873年(明治6年)の廃城令により御殿、櫓そして門の大半が取り壊される。続いて1945年(昭和20年)のアメリカ軍の空襲で、、江戸期からの天守と石山門は、焼け落ちた。戦後になって、天守、不明門、廊下門、六十一雁、木の上門、上屏の一部などが再建される。中の段には、広間や台所を備えた大きな建物が配されていて、「政庁」を構成していた。その区画には、藩主の公邸ある表書院の御殿も建てられてあった。そして下の段には、あれやこれやの蔵や藩主遊興の建物などが所狭しと並んでいたらしい。


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 ちなみに、江戸時代を通じての備前岡山藩の石高の人口の推移は、例えば、次のように推定されている。
 いわく、1661~1670年代の貢米(単位は100石)は1992、1665年の人口(単位は100人)は2472。1671~1680年代の貢米(単位は100石)は1908、1679年の人口(単位は100人)は2442。 1721~1730年代の貢米(単位は100石)は1821、1721~1726年の人口(単位は100人)は3418。1751~1760年代の貢米(単位は100石)は1878、1750~1756年の人口(単位は100人)は3243。1781~1790年代の貢米(単位は100石)は1831、1786年の人口(単位は100人)は3216。 1861~18706年代の貢米(単位は100石)は1738、1872年の人口(単位は100人)は3319。(山崎隆三「江戸後期における農村経済の発展と農民層分解」、岩波講座日本歴史12・近世、1963.12に所収)
 さて、このような城郭をもった岡山城下町の規模はどのくらいであったのだろうか。1707年(宝永4年)の史料に基づくと、武家が約2万3千人、町人は約3万人であったといわれ、山陽路では屈指の規模であったようである。これに周辺の町・村名と同じ町名が幾つもある城下町も類例を挙げればきりがない。岡山城下の西大寺(さいだいじ)町・児島(こじま)町・片上(かたかみ)町などもこういった町名の由来であるが、それぞれ上道(じょうどう)郡西大寺・児島郡郡(こおり)(いずれも現岡山市)、和気(わけ)郡片上(現備前市)から城下への移住による故これらの名称となったことが覗われる。

 次に、城下町の詳細な区割りと方向性は、どうなっていただろうか。そして現在の街割り、町筋などとの関わりはどうなっているのだろうか。江戸期の地図については、色々と残っている。その中でも元禄時代(1668~1707年)の古地図によめと、五重の掘に囲まれた城郭と、南北に3.5キロメートル、東西に1.3キロメートルに及ぶ城下が広がる。

 また1863年(文久3年)の「備前岡山地理家宅一枚図」(池田家文庫)」があり、彩色の上、町屋の町名も逐一記載されている。
 いま江戸末期の地図を広げて見る者には縦に細長い。同図を城のあるところから西へとたどっていくと、一番内側の内掘が設けられている。この内側には、南側と西側にかなり広範囲に城下が広がっていた。そして今は、この内側に丸の内、内山下とある。現在の丸の内はオフィス街だが、日本銀行などの官庁もある。内山下は津山城下などでも広く見られる地名で、城の周りの「山下」の中でも、内堀の中川に当たる部分を指して言われる。こちらの旭川沿いに現在の岡山県庁が鎮座している。

 そして江戸期の内堀の外側には、[伝旧本]や[石山]、[西の丸]といった城割りがほぼ平行して並んでいた。この「二の丸には、櫓一六棟・南側の大手門を含めた城門10棟を始め、殿舎・長屋・土蔵・評定所や勘定所などの役所、さらには重臣クラスの邸宅や武家屋敷が配置されていました」(岡山城二の丸跡の説明板)とあり、往時にはさぞかし重厚感のある景色が広がっていたことを覗わせる。

 さらに「三の曲輪と三の外曲輪は、城下町にあててあり、内側には町人町を設け、外側に侍屋敷を配して城郭周辺部の固めをなしていました」(岡山城二の丸跡の説明板)とある。こちらは、武家と言うより、むしろ町人町であったというのが、ふさわしいのではないか。今度は、現代的の此のエリアにやってくる多くの人達がそうであるように、岡山駅のあるところから出発してみよう。

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 時代が明治になっての1886年(明治19年)、私鉄として神戸以西に鉄道をつけようという計画が関西の財界を中心に持ち上がる。その話が続いての2年後、藤田伝三郎を発起人代表として、山陽鉄道株式会社が認可設立される。そこでは、全線を神戸~岡山、岡山~広島、広島~下関の3区間に分割し、各区間3ヵ年で完成する計画が立てられる。
 最初の区間のうち、神戸~姫路間の53キロメートルは、1888年(明治21年)12月に開通した。しかし、翌年の凶作による不況から工事用資金の調達難におちいるなど、資金を得るには困難さが増した。他にも、岡山県内では西大寺や玉島などの河川水運と海上交通の接点として栄えた町が、鉄道敷設による用地買収などに消極的であったことが挙げられる。そのため、これらの町を外して北寄りに路線を敷いて工事を進めるなどの計画の手直しがなされたことがある。

 それでも1891年(明治24年)3月までには、岡山までの89キロメートルが開通し、更に9月までには福山まで開通した。その後もなんとか工事が進んで、1894年(明治27年)6月には神戸~広島間の全区間127キロメートルが開通したのであった。
この東西ルートに続き、江戸期からの「津山往来」のルートに沿って南北を結ぶ鉄道を通す話が、中国鉄道という会社の設立と絡んで進められる。そして1898年(明治31年)12月に開業する。中国鉄道の駅として岡山駅に隣接してつくられた。明治末期の撮影に「岡山市」駅が写っている。この駅は、1904年(明治37年)に岡山駅に統合された。

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 それでは、城下町の頃の町人町の中心部はどこであったのだろうか。だが、現在の岡山市の中心市街地のあるところは、かなり広範囲に及ぶ。数ある町の名前や通りの中には、江戸期からのものもあるし、明治以降のものもあるのだろう。めずらしいところでは、例えば、中心市街地にオランダ通りという、めずらしい名前のついた通りがある。これは、表町商店街のアーケード通りに平行して位置している。現在では、南北1キロメートル程度の通りに、ブティックやギャラリー、飲食店等が並んでいる。1998年には、電線の地中化や、車道にレンガを敷き、屈曲化して歩道と接するようにするなど、歩行者優先のおしゃれな街路に切り替わった。

 その名前の由来は、1846年(弘化2年)、ドイツ人医師のシーボルトの娘、楠本いねが、この地で医者修行を始めた。いねは、長崎の出島にやってきていたオランダ人医師のシーボルトと長崎の遊女「お瀧」との間の娘であった。彼女が2歳の時、父親のシーボルトはシーボルト事件を起こして国外追放になってしまう。その後の彼女は、シーボルトの門下生達によって養育され成人する。

 そのシーボルトの門下生の一人、岡山勝山藩の石井宗謙に岡山の地(現在の岡山市下之町界隈)について医学を学ぶ。1845年(弘化2年)から1861年(嘉永4年)まで6年間学んだ。いねは、師の石井宗謙との間に娘一人を設けたが、結婚はしなかった。宗謙と分かれてからは、宇和島藩主伊達宗城が後見人となっていた。その後、長崎に遊学する。我が国初の女性産婦人科医であって、将来の勉強家であったと伝えられる。18561年(安政3年)には日蘭修好条約が締結され、その翌年、禁が解かれて来日していた父シーボルトと再会を果たしたことになっている。


(続く)

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◻️154の2『岡山の今昔』岡山のうまいもの(肉など)

2021-04-21 09:41:03 | Weblog
154の2『岡山の今昔』岡山のうまいもの(肉など)

 今日でいう津山地域は、中国や韓国での「医食同源」とも似ている「養生食い」でも知られる。
 それというのも、その歴史はかなり古い。それに関する記録でいうと、705年に津山で牛馬の市が開かれた。北方での大山道のあたりでのことなら定期市があったのがかなり知られてるのかもしれない、とはいえ、津山もまたその関わりかあったのかどうか、牛馬の流通地点であったらしい。
 しからば、やや近いところで歴史を紐解くと、江戸幕府とても、その風習のあることを知っていて、おそらく黙認していたことになろう。とにかく、(私のような郷土史家の先達の後に付く者はなおさらのこと)何らかの歴史史料が欲しいものだ。
 さて、明治時代に入る前、江戸時代の末頃になっても、津山は全国的にも、今日でいう滋賀県彦根市と並んで、かかる「養生食い」の本場であったようだ。
 そうはいっても、「肉食は禁止」されていたともされ、公にはなかなか評判が立つまでには至っていなかったのではないか。

🔺🔺🔺

 それが、時代が明治になると、平たい意味での世間というか、周りの様子が大胆にも、つまりガラリと変わる。東京では、すき焼きなども評判になっていく。
 それに加えていわく、1879年(明治12年)に陸軍がまとめた全国主要物産において、東南条郡川崎村(現在の津山市川崎)の牛肉が紹介されている他、開国からさして経っていない神戸居留の外国人には、津山から牛肉を取り寄せたり、それが目当てで、たまには津山方面へ出かけるなりしていたようなのだ。だとすれば、文明開化の時代となっても、日本の食文化にそれなりに貢献していくのであって、かの伝統を基に面目を新たにしたことになろう。

154『岡山の歴史と岡山人』岡山のうまいもの(肉など)

 今日でいう津山地域は、中国や韓国での「医食同源」とも似ている「養生食い」でも知られる。
 それというのも、その歴史はかなり古い。それに関する記録でいうと、705年に津山で牛馬の市が開かれた。北方での大山道のあたりでのことなら定期市があったのがかなり知られてるのかもしれない、とはいえ、津山もまたその関わりかあったのかどうか、牛馬の流通地点であったらしい。
 しからば、やや近いところで歴史を紐解くと、江戸幕府とても、その風習のあることを知っていて、おそらく黙認していたことになろう。とにかく、(私のような郷土史家の先達の後に付く者はなおさらのこと)何らかの歴史史料が欲しいものだ。
 さて、明治時代に入る前、江戸時代の末頃になっても、津山は全国的にも、今日でいう滋賀県彦根市と並んで、かかる「養生食い」の本場であったようだ。
 そうはいっても、「肉食は禁止」されていたともされ、公にはなかなか評判が立つまでには至っていなかったのではないか。

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 それが、時代が明治になると、平たい意味での世間というか、周りの様子が大胆にも、つまりガラリと変わる。東京では、すき焼きなども評判になっていく。
 それに加えていわく、1879年(明治12年)に陸軍がまとめた全国主要物産において、東南条郡川崎村(現在の津山市川崎)の牛肉が紹介されている他、開国からさして経っていない神戸居留の外国人には、津山から牛肉を取り寄せたり、それが目当てで、たまには津山方面へ出かけるなりしていたようなのだ。だとすれば、文明開化の時代となっても、日本の食文化にそれなりに貢献していくのであって、かの伝統を基に面目を新たにしたことになろう。

 それと、津山においては、単に肉食というにとどまらず内臓肉を「ホルモン」と呼んで珍重して食する習慣がある。こちらの話でいうと、最近の冷蔵・冷凍技術の発達により当該肉の保存が向上してきている、あわせて津山市内に食肉処理場のあることが助けとなって、新鮮な段階で市場に提供が可能になっている由、そのことで「津山のホルモンは臭みがなくおいしい」(観光案内のチラシより)としている。

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(続く)

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(続く)

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