◻️66の1『岡山の今昔』戦後の高度成長期(岡山城の再建、1966)

2021-04-07 11:07:05 | Weblog
66の1『岡山の今昔』戦後の高度成長期(岡山城の再建、1966)


 戦前までの岡山城天守閣は、国宝であったという。戦国時代の1597年(慶長2年)に8年の歳月をかけて築城された、流れを変更した旭川に囲まれた小高い山(岡山)の上に君臨するかのようなその姿は、「鳥城(うじょう)」とも言い慣わされた。

 それが、1945年6月の岡山空襲で、その天守閣を含めて、月見櫓以外が壊滅的打撃を受けたのは、まだ記憶に新しい。ちなみに、天守のほか30の櫓、3つの御殿が林立していた。わけても、3階建て以上の櫓9棟が防衛の要所要所に配せられていた由、その偉容が、唯一残ったのが月見櫓では、1964年に国の重要文化財となっているとのこと。


 戦争が敗戦となってしばらくしての1966年(昭和41年)には、鉄筋コンクリート造の外観復元で天守が再建された。往時と同じく、本丸の土台は岡山の強固な岩盤を利用して造られていて、3つの段(下の段、中の段、本段)に分かれ、その最上段の北西の端をしめる配置で建てられた。一説には、「これで江戸時代さながらによみがえった」とも。


 では、新たな天守のありようは、どのようなものだろうか。最上段への入口たる不明門(あかずのもん)を潜り抜けて石階段を含む道をしばらく進むと、奥御殿があったとされるその奥に、天守が見えてくる。壁は黒塗りのようであり、往時は、黒漆を下見板(外壁)に直に塗っていたのだという。屋根の各層の先端部は、金箔で綾どられており、説明によれば、安土桃山時代からの振り付けであるらしい。


 しかして、この天守の特徴的なこととして最もよく取り上げるのは、不等辺な立体構造のゆえではないたろうか。それまでは四角形の平面やその組み合わせが主流であったとか、ところが、岡山城天守の一層目は相当変わっていて、不等辺五角形であるという。


 それだからして、眺める角度から、それによって姿形が変わって見えることだろう。すなわち、本丸御殿から、つまり南がわからは「飾り気のない」、幅広のどっしりした偉容というべきか。東側からの眺めは、細長い、さながら太い棟のようで、中国の西安に立つ唐代からの有名な塔になんとなく似ているようだ。北西からは、人間でいうと粋な着流しというか、バランスのよい姿が印象的だ。そして北側からとなると、「巨大な軍艦」が大地に乗っかっているような、重厚にして、一説には「威圧的」姿となって斜め横に映る。

 これの種明かしとしてよく持ち出されるのが、万事は、一階が不等辺五角形ということにあるという。
 いいかえると、上の階にあがるにつれて、設計上、最上階をできるだけ正方形に近づけたいということがあり、再建後でいうと、2階(やや出っ張りを緩やかに)、3階(十字形)、4階(長方形)、5階「太目のレール断面のよう」と修正がなされてきて、さいごの6階が正方形となっている。


 それでは、なぜわざわざ石垣を天守が不等辺になるように積み上げる必要があったのだろうか、調べてみる限りでは、定説らしきものは見当たらないものの、有力視されているのが、これは、岩盤そのものが、その形になっていて、すべてはそこから始まることであるという。


(続く)

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