◻️3『岡山の今昔』旧石器・縄文時代の吉備(遺跡から)

2021-04-05 19:14:28 | Weblog
3『岡山の今昔』旧石器・縄文時代の吉備(遺跡から)

 現在の行政区である岡山県は、それより前の地名でいうと、「備前」(びぜん)、「備中」(びっちゅう)そして「美作」(みまさか)という3つのエリアから成り立っている。さらに前の上代・律令国家時代の初め、この地域は、「吉備国」(きびのくに)と呼ばれ、この3つの地域と今は西隣の備後(びんご、現在の広島県西部)とを中核として、かなり強力な力を誇示していたのであった。それでは、この地のその前はどのようであったのだろうか。時代は、これらをあわせての4つの国(地域国家)の区割りのまだなかった弥生時代以前に遡ることになろう。

 ところが、当時のこの地域がどう呼ばれていたかは、未だにはっきりしていない。そもそも、当時この地域を支配していたであろう国が、かれらの連合体(さしあたり、古代のユナイテット・ステイツと呼びたい)である倭(「わ」もしくは「やまと」、後者の呼び名は例えば人事屋に奉納する「倭舞」(やまとまい)に見られる)の中に存在していたのかもしれない。
 ところが、その当該の国が、3世紀を知る中国の史書『魏志倭人伝』で挙げられる三十余国中のどの国であったのか、当時の「邪馬台国」という連合国家の一員であったのか、そのことを特定することがかなわないままなのだ(ただし、諸説は寄せられている)。

 とはいえ、弥生時代の中期(紀元前400年位~紀元前後)にかけては、現在の大阪湾から瀬戸内地方にかけての海岸地層からは、石鏃(せきぞく、鏃はやじり)などの石器が多数出土している。これととともに、わざわざ高地を選んでの集落形成跡が広く認められる。これらの備えや防衛手段なりに出ていたことからは、この時代に集団間の激しい争いが続いていたことが広く窺える。

 ついては仮に、この時代においてもこの地は、仮に「吉備」(きび)と言う名で呼ばれていたとして話を進めようと思うのだが、この名の由来がわかっていない。そこで思いつくのは、あの穀物の「黍」(きび)ではないか。ほかにも、「連合」を意味しているのではないか、等々の説があるが、いずれも決め手に欠ける。

 おそらくは、縄文時代の初期位までに、このあたり、笠岡・倉敷・岡山・児島、下津井辺りの平野までやって来た人々の中には、そのまま東へ向かわずにこの当たりに住み着くか、それとも高梁川(たかはしがわ)、旭川、吉井川の3本の河川を伝って北上したグループがいたとみられる。こちらへ進出した人々が定住し、そこで本格的な農耕を行うことでの弥生時代の特徴は、集団での農耕であるが、この地方においては、定住の拠り所となっていた遺跡は瀬戸内に面した平野を中心に散在していて、いずれも小規模なものの寄り合わせであったのであろうか。

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 この岡山で石器時代から縄文時代のものとおぼしき遺跡としては、鷲羽山遺跡(旧石器時代)、恩原遺跡(旧石器時代)、貝殻山遺跡(かいがらやまいせき、弥生時代)、百間川遺跡(弥生時代)、津島遺跡(弥生時代)、沼遺跡(弥生時代)などが挙げられるのだろう。
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 鷲羽山遺跡(わしゅうざんいせき)は、現在の倉敷市大畠、鷲羽山久須美鼻にある、西日本で最初に注目された旧石器時代遺跡だ。当地は、隣接する人家はない。そして、南に向かって海に長く突出する岬をなしており、浸食がいちじるしく花こう岩が全面にわたって露出している。
 ここが発見された経緯としては、戦後の混乱期なのであった。それも、すでに瀬戸内海国立公園でありながら無秩序に木が伐採され一時、禿山になりかけたらしい。生活に用いる燃料の不足からの伐採ということで、地元の人々を責めることもままならずの有り様であったとか。
 ところが、その事で表土があらわとなり、遺跡を窺わせる痕跡なりが、これら花こう岩の風化土層中に認められた。
 1951年頃より専門家を含めての検討が行われ,1954年に発掘が行われた。第1層は、二次的に堆積した約30センチメートルの表土層であり、ここからの出土には、細石刃核、細石刃、ナイフ形石器、小型ナイフ形石器、尖頭器、彫器などの多様な用途に使っていたであろう石器が混在していると伝わる。

 同遺跡での特徴としては、サヌカイトという石で作った、さまざまな石器が多く出土したことだ。この石は、1891年にドイツの岩石学者ワイシェンクが来日して研究し、産地の旧国名讃岐にちなみ、サヌキット(Sanukit)と命名した。現在は、英語読みのサヌカイト(Sanukite)が通称となっている。あわせて1919年には、小藤文治郎が、サヌカイトと近縁な性質を有する瀬戸内地域の中新世火山岩を、まとめてサヌカイト類(またはサヌキトイド)と名付ける。
 なにしろ、この石で作られる石器は、外力で割ると鋭利な面を割り出すことができる、黒曜石にも匹敵するのではないだろうか。用いられ方としては、主に狩などに幅広く使用されたのではないかと考えられている。
 なお、日本列島の旧石器時代は、氷期(現在の間氷期につながる最終氷期(Last glacial period)とは、およそ7万年前に始まって1万年前に終了した一番新しい氷期のことである)と呼ばれる寒い気候で、そのまま東へ関東に至るも、最寒時(およそ2万1000年前)には海が今より100メートル内外低かったともされ、その頃の当地山上から見える瀬戸内海の一部は陸地となっていたと考えられている。

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 恩原遺跡(おんばらいせき)は、後期旧石器時代のものとされる。現在の苫田郡鏡野町の恩原高原にある。中国山地尾根筋付近にある、標高が約730メートルというから、かなりの高原地帯だといえよう。遺跡は、現在は河川域が恩原貯水池となって、その南岸に位置するとのの、元々は、瀬戸内海へそそぐ吉井川の源流を望む平坦な台地上にあったのだという。
 1981年頃、日野琢郎氏が、土器や石鏃などを採集しているうちであろうか、遺跡を発見したという。1984年から1997年まで、岡山大学文学部考古学研究室を中心とした恩原遺跡発掘調査団による発掘調査が実施された。表土層下の火山灰層中で後期旧石器時代に属する4つの文化層が確認された。細かくは、「恩原1遺跡」(2009)と「恩原2遺跡」(1996年)に分かれる。
 一番古い遺跡と判断できる地層は、「約33,000~28,000年前」ともされ、旧石器時代遺跡と認定される。もう少しいうと、より古い台形石器の時期と、より新しい石刃素材ナイフ形石器の時期とに分かたれるという。

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 貝殻山は、今は岡山市内から南に位置する児島半島(当時は島であった)にある。市内からの手頃な山歩きコースの一つであって、その登山口は神武由来の高島の対岸宮浦地区になるのだと言われる。「貝殻山」という名称はいつ頃から使われているかは知らないものの、「縄文海進」(じょうもんかいしん)や「吉備穴海」(きびのあなうみ)の頃から、このあたりにいた人々は、浜辺や海水を含んだ沼などで豊富な貝や魚などを捕って、海岸で土器などを用いて茹(ゆ)でる、焼くなどして食べていたことに関係するのではないか。

 ちなみに関東では、横浜の夏島(なつしま)の貝殻遺跡のような案配なのかとも推察している。貝殻山遺跡の貝層を掘り下げた砂質土層からは、少数だが土器と石鏃が出土しているとのことであり、少量ながら縄文時代後期のものだと見られている。

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 今度は、埋葬人骨に焦点を当てて考えてみよう。2019年の新聞記事に、こうある。

 「倉敷市教委は10日、発掘調査している縄文時代の貝塚遺跡・中津貝塚(倉敷市玉島黒崎)で、縄文晩期(約3千年前)の土壙墓(どこうぼ)と埋葬人骨が見つかったと発表した。中津貝塚は戦前、縄文土器の一形式「中津式土器」が全国で初めて出土した重要な貝塚だ。
 倉敷市は船元、磯の森貝塚などもあり、西日本屈指の縄文貝塚の密集地。中津貝塚は縄文後期初頭を代表する「磨消(すりけし)縄文」文様の土器が確認されたことで知られる。
 今回の調査は貝塚の分布状況の把握を目的に、2018年度から3年計画で実施。18年度に設けた試掘溝の1カ所で、土壙墓2基とそれぞれから1人分の人骨を確認した1基からは肋骨(ろっこつ)、脊椎骨、鎖骨や手足の骨など、ほぼ全身の骨が出土。もう一方では頭蓋骨が見つかった。本年度は頭蓋骨の出た試掘溝の隣を発掘しており、上腕骨、大腿(だいたい)骨など体部の骨が残っているのを確認した。別の試掘溝では中津式の土器片も出土している。
 前年度見つかった人骨は、国立科学博物館(東京)に送り、年代や性別などを分析中。(以下、略)」(山陽新聞デジタル、2019年12月10日付け)。
 こうしてみると、選択と集中ということで、今後の発掘、研究次第では、わが郷土の縄文人の顔や骨格なりはどうなのがが語れるようになるのではないか。ちなみに、筆者は埼玉県秩父の長瀞(ながとろ)にある県立博物館にて二度ばかり、縄文人の標本(出土の骨格)を拝見して、痛く感動した。

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 里木貝塚(さとぎかいづか)というのは、縄文時代中期の生活の一端を伝える遺跡だ。
 現在の浅口郡船穂町大字船穂字北谷、里木にある貝塚にして、高梁川の西岸,沖積平野に接する丘陵南端部に位置している。
 その地層を見ると、鹹水(かんすい)性の貝が堆積していて、これを、1919年と1922年の2回を始めとして、発掘が行われる。すると、遺跡上層から縄文時代中期の里木式土器が、下層から縄文時代前期末の、現在は里木式土器と呼ばれる珍しい形の土器が発見された。人類の痕跡そのものということでは、屈折葬及び伸展葬の人骨20体、それにガラス細工のような緑褐色の耳飾り、貝製腕輪・鹿角製腰飾・骨製ペンダント・鹿角製ペンダントなど数多くの装身具などが発見されたという。
 ほかに、縄文人骨や玦状(けつじよう)耳飾のほか、石鏃・石錐・石匙(いしさじ)・打製石斧から磨製石斧までの石器類も出土しているとのこと。


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 それに、2005年の岡山からの報告には、こうある。

 「縄文時代前期とされる岡山県灘崎町彦崎貝塚の約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、縄文時代晩期に大陸から伝わったとされる、わが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。
 町教委が2003年9月から発掘調査。五つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2・5メートルの土壌から、土1グラム当たり稲のプラント・オパール約2000―3000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。主にジャポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30―60マイクロ・メートル(1マイクロ・メートルは1000分の1ミリ)。
 調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は「稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は裏付けられるが、他の植物のものも確認され、栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証拠」(2005年2月19日付け『読売オンライン』より引用)云々。
 ここにいうイネのプラントオパールは、イネ科植物の葉などの細胞成分ということで、これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)をさらに約3000年遡る可能性を示唆しているというのだが、この列島の稲の栽培に適した地域の所々において、あくまで数ある食料の一つとしてのイネの栽培が入ってきているということであろう。

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 鑑みるに、縄文時代には、県内の一部でも、部分的な稲作が導入されていたものと推測される。史料としては、「陸稲」としてのイネが栽培されていたこともわかっている。直近の氷河期が終わって温暖な時代に生きた縄文時代の人々は、狩猟や漁撈(ぎょろう、南部の海沿い)あるいは採取とともに、農耕を行いながら食料を確保していたようだ。
 折しも、縄文時代も晩期にさしかかると、水田稲作が朝鮮半島から北九州付近に伝わり、弥生時代になって九州から本州、そして四国へと広まってくる。
 また、おそらくこの時期にコムギやオオムギも伝えられ、ウメやモモなどの栽培果樹も伝わったようだ。およそ、そういうことだから、追って水田稲作に関する本格的技術が、朝鮮半島からの渡来人によってもたらされていく、それを受け止める下地は形成されていたといえなくもあるまい。彼らと縄文人との混血によって今日に続くの日本人が、それを担う存在として浮かび上がる。かくして、それまでに比べてハイレベルな水田稲作は、日本社会に大きな変革をもたらすところとなっていったのだと考えられよう。

(続く)

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◻️4『岡山の今昔』弥生時代の吉備

2021-04-05 19:12:17 | Weblog
4『岡山の今昔』弥生時代の吉備

 判別が難しいのは、この岡山・貝殻山遺跡の貝塚周辺には弥生時代と見られる遺跡も点在していることだ。具体的な遺物・遺構としては、少なくとも6棟の竪穴式住居や貝塚、分銅形土製品などが発見されていて、弥生時代中期からの後期にかけてあったものだと言われる。そこで、これらを総称して貝殻山遺跡とよぶ場合もあるようだが、これまでの発掘調査では、縄文文化と弥生文化との間に連続は認められないようだ。この弥生時代に入ってからの遺跡の特徴として、「方形周溝墓」を伴っていることや、高地性集落の存在が挙げられることがある。ここに高地性集落とは、弥生時代中後期に瀬戸内海沿岸から近畿などに現れる少し高いところにある見張り施設のことだ。これは、かなりの人々がこのあたりに定住し、それなりの縄張りというか、他からの勢力に対し対抗できることを目して使節を構えて住んでいたことを覗わせるのである。
 さて、この弥生時代を特徴づけるのは、狩猟・採集が主体というよりも、農耕の本格的な開始であったろう。1970年代になって、この地域における農耕の発達を示す典型的な遺跡が見つかった。その場所は、備前岡山(現在の岡山市中区)の百間川(ひゃっけんがわ)緑地公園のあたりにある。今では、弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居として、整然とした形で復元されている。
このような住居をつくるには、まずは敷地を確保し、数十センチメートル位の穴を掘って、そこを土間とする。その上には、茅などを敷いたのであろうか。それから敷地から放射状の屋根となるように柱を立ち上げていき、それらの隙間を茅などで塞ぐ。見つかっている遺跡の復元した姿を想像すると、大まかに住居と水田の跡に分かたれ、考古学上の大発見と目されているのが、水田の発達がここから読み取れることである。この百間川に沿っては、原尾島遺跡、沢田遺跡、兼基遺跡、今谷遺跡、米田遺跡などが点在している。
 弥生時代の水田跡は、岡山市北区の津島〈つしま〉遺跡でも見つかっている。こちらは、弥生時代前期の水田だと見立てられている。水田が営まれるためには地面が平坦でなければならないが、津島では地面にわずかな傾斜があるのを踏まえ、水を効率良く張るために水田を畦〈あぜ〉で細かく区切った跡が残っている。
それに引換え、百間川原尾島〈ひゃっけんがわはらおじま〉遺跡においては、均一な正方形に近い区画となっていた。標高のやや高い場所(微高地〈びこうち〉)を削って水田を拡張した跡も見られる。後者は、弥生時代も後期になってからの遺跡であると考えられている。この違いの背景には、大規模な土地造成を可能とする各種鉄器の普及があったと考えられている。
 笠岡・倉敷・岡山・児島、下津井辺りの平野までやって来た人々の中には、そのまま東へ向かわずに高梁川、旭川、吉井川の3本の河川を伝って北上したグループがいたとみられる。こちらへ進出した人々が定住し、そこで本格的な農耕を行うことでの弥生時代の特徴は、集団での農耕であるが、この地方においては、定住の拠り所となっていた遺跡は散在していて、いずれも小規模なものであったのかもしれない。


 美作での弥生期の遺跡としては、沼の住居跡が有名である。大陸から九州北部に米づくりが伝わってきたのは、今から2500年ほど前だといわれており、以後稲作は、短い間に列島各地に広がっていった。当時のそこらにおいては、布の中央に穴をあけ、その穴に頭を通すタイプの衣服を着た人々が連れだって住居を構え、この辺りを開拓して水田をつくったりして、歩き回っていたのだろうか。谷口澄夫は、この史跡の発掘の成果をこう語っている。 

 「この沼の遺跡には十数個の竪穴が群集しており、これが一つの集落をなしていたと考えられるが、その中央にあってひときわ大きな竪穴が一つある。約一メートルの深さに掘った竪穴のなかほどに、二本の主柱が東西に並んでたてられ、それに棟木(むなぎ)をわたし、さらに二本の主柱のまわりに10本の支柱がならべられて、棟木から地面にいたる桁(けた)のささえとされ、その上をカヤで葺(ふ)いたものと考えられる。
入母屋(いりもや)づくりの屋根をそのまま地面に伏せたかたちであるが、その木組みはなかなか手のこんだものであった。この家屋はこの集落の族長の住居であったらしく、鉄製の「やりがんな」やガラスの小玉もこの竪穴から発見されている。」(谷口澄夫「岡山県の歴史」山川出版社、1970)
 これに同じ市内の鮒込(ふなごめ)遺跡も加え、1978年に刊行された津山市教育委員会「図録、津山の史跡」はこう説明している。
 「津山市弥生住居趾群は中国山地南麓の丘陵上に営まれた中期末の集落遺跡であるが、発掘調査によりほぼその全容が明らかにされている。すなわち、丘陵突出部の基部に周溝をめぐらして他と区別した内部に大小5軒の竪穴住居趾がほぼ半円形にならび、その中央に作業場あるいは物置と思われる長方形の遺構がある。さらに周溝の外にはやや離れて3棟の高床倉庫趾が発見されている。これら5軒の住居からなる集団は当時の低い技術段階のもとでは、主として地下水の湧出があり、普段に水が自然供給される谷水田の経営に従事していたと考えられている。津山市鮒込(ふなごめ)遺跡もこの時期のやや規模の大きな集落遺跡である。」
 これらから推し量って、この辺りでもある種の族長制が始まっていたものと考えられている。ここには、大きな住居の中には「まがたま」と呼ばれる湾曲した玉をひもに通して、それを首から下げたりして着飾った人々もいたのだろうか。大珠(たいしゅ)の方は、「まがたま」に先行するもので、出土状況から縄文中期から後期の前半(およそ前5500~前4000)その大きさは2センチセンチから10センチメートルとやや大振りな長円形をしていて、神聖な呪具(のろいぐ)や装身具として、当時の集落の長や祭司を司る者が身につけていたと推測されている。
いずれにしても、その頃にはもう階級分化が始まっていたのかも知れない。また、この辺りは「沼」といわれてきたのであるから、自然に恵まれ、その「沼」のそこかしこに、こんこんと湧き出る中国山系の伏流水が得られたはずだ。そのことで、水田の運営が可能となったと考えられる。
 1978年に刊行された津山市教育委員会「図録、津山の史跡」はこう説明している。
 「津山市弥生住居趾群は中国山地南麓の丘陵上に営まれた中期末の集落遺跡であるが、発掘調査によりほぼその全容が明らかにされている。すなわち、丘陵突出部の基部に周溝をめぐらして他と区別した内部に大小5軒の竪穴住居趾がほぼ半円形にならび、その中央に作業場あるいは物置と思われる長方形の遺構がある。さらに周溝の外にはやや離れて3棟の高床倉庫趾が発見されている。これら5軒の住居からなる集団は当時の低い技術段階のもとでは、主として地下水の湧出があり、普段に水が自然供給される谷水田の経営に従事していたと考えられている。津山市鮒込(ふなごめ)遺跡もこの時期のやや規模の大きな集落遺跡である。」

(続く)

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◻️5『岡山の今昔』弥生時代の吉備社会の構造

2021-04-05 19:10:14 | Weblog
5『岡山の今昔』弥生時代の吉備社会の構造

 吉備の社会が弥生時代を迎えるまでをざっと振り返ろう。そもそも、このあたりの生活の最初は、最終氷期が終わり、間氷期が始まった頃であろうか、一説には、約1万3000年BP(西暦にして今や世界暦2000年を基準、すなわち0(ゼロ)BP(Before  Present)とする表記。これは、考古学や地質学の用語で、2000年を「現在」とする年代測定の単位。放射性同位元素や地層などによる測定法をいい、「2000 years BP」のように略語のBPを後置するのが習わし)から始まったのではないかと見られているようだ。
 そのあたりを、旧石器時代(約1万5000年BP~約1万3000年BP)とそれ以降の新石器時代(地質学の文献に、この時代は取り上げられていない場合が見られる)及び縄文時代(約1万3000年BP~約3000年BP)との境界と考える向きもあろう。なお、北海道と沖縄では、縄文時代からの年代の定義が相当に異なることになっている。

 おそらくは、縄文時代の初期位までに、このあたり、例えば、大まかに北(日本海側)からと西(瀬戸内海側)からの渡来ルートのうち、前者の道、笠岡・倉敷・岡山・児島、下津井辺りの平野までやって来た人々の中には、そのまま東へ向かわずにこの当たりに住み着くか、それとも高梁川(たかはしがわ)、旭川、吉井川の3本の河川を伝って北上したグループがいたとみられる。

 ちなみに、この列島に最初の人々が到来したのは、約3万8千年前ともされている。かりにそうであれば、このあたりにもほどなくやって来ていたのではないか。ちなみに、国立科学博物館の見解(2016)によると、人類がこの列島に渡ったの道筋としては、第一に北海道ルート(2万5千年前頃)、第二に対馬からのルート(3万8千年前頃)、第三に沖縄ルート(3万年前頃)が考えられるとのこと。なお、同館では、「クラウトファンティング」の助けを借りて、三番目のルートで実証を試みているという。

 そして迎えた弥生時代(約3000年BP~1800BP)、こちらへ進出した人々が定住し、そこで本格的な農耕を行うことでの弥生時代の到来の初期には、人々はどのようにして暮らしていたのだろうか。例えば、この地方においては、定住の拠り所となっていた遺跡は瀬戸内に面した平野を中心に散在していて、いずれも小規模なものの寄り合わせであったのであろうか。
 そんな彼らの活動の規定的要因となっていたであろう社会のあり方につについては、ここで文化人類学者のジャレド-ダイヤモンド(「銃・病原菌・鉄ー1万3000年にわたる人類史の謎」)によりたい。彼によると、人間社会は、最初の「小規模血縁集団(バンド)」から「部族社会(トライブ)」、「首長制社会(チーフダム)」、そして「国家(ステイト)」へと発展してきた。
 このカテゴリー分類でいうと、私たちが今問題にしている、本格的農耕以前の社会というのは、「部族社会」か、精々首長制社会までの範囲のものであったのではないだろうか。それというのも、首長の統治する社会では、人々は村落数が一つもしきは複数集まっての定住生活を営んでいた。その社会の基本的関係とは、階級化された地域集団にして、大局的な意思決定は集権的・世襲的なものであったもの、官僚組織はまだないか、あっても精々一つか二つ位であったのではないか。

(続く)

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