◻️32の8の2『岡山の今昔』備中松山城の築城(水谷氏時代まで)

2021-04-17 21:25:19 | Weblog
32の8の2『岡山の今昔』備中松山城の築城(水谷氏時代まで)


 この城の天守閣たるや、ほど高い山の上に現れる。なので、山麓の城下町から大手門までは徒歩で、片道1時間弱かかるみたいだ。そんな中でも、約1500メートルの急な山路を登っていかねばならないという。
 たしかに、かくいう私が訪れた時、天守はかなり遠くの天空に鎮座するというあんばいにて、それまで一気呵成に登れるのではないかと甘く見ていたのを、改めたことがある。


 これの経緯だが、当初からの城普請のあらましを振り返ると、1240年(仁治元年)に、秋庭氏(あきばし)の秋庭重信が、大間松山に初代の城郭を構築する。

 1571年(元亀2年)には、三村元親(みむらもとちか)が修築を行うとともに、山全体に城を拡張する。その後の1575年(天正3年)には、毛利氏に城を攻められて、激しい戦いが半年余り行われる。

 それというのも、あの信長が城主の元親に「毛利の上洛を阻止してほしい、できたなら礼として備前、備中の二国を与える」との連絡があった模様。元親の父三村家親は宇喜多直家に謀殺されていたから、「父の仇を討つのはこの時」となり、信長に味方した。もとの動きを知った毛利方の小早川秀秋は、備中を急襲し、備中松山城を囲み、近在の青麦を刈り取るなどして兵糧が尽きるよを待つ作戦をとる。
 そのうちに、山頂から山麓にかけて、全長約 1,800 mにわたり築かれた稜線のうち、北から大松山(おおまつやま)、天神丸(てんじんまる)、相畑城戸(あいはたのきど)、小松山(こまつやま)、中(なか)と下(しも)の太鼓(たいこ)の丸と曲輪(くるわ)が並ぶ、そのうちの)天神の丸が内応者によって毛利方に落ちると、城勢は大きく傾いていく。元親は、一端城を抜け出してものの、もはや逃れる道は残されていないと思ったのであろうか、再び城下に入り自害し、ここに三村氏は滅亡する。

 以後、毛利氏の代官が在城していてのか、1600年の関ヶ原の戦いで西軍が負けたことから、江戸幕府ができ、この地は幕府領となり、代官として小堀正次(こぼりまさつぐ)が統治を行う。

 1609年に正次が死ぬと、その子の小堀政一(こぼりまさかず、文化人・遠州)がその2年後から備中松山城の修復、次いで、山麓の三村氏の居館跡に陣屋を設け、次いで小松山に築城を始める。


 そこで、かかる城郭の山上での配置をいうと、弓のようにしなる形での小松山の屋根には本丸、ニノ丸、三の丸を階段状につくってある。そして、御根小屋との間には、上・下の太鼓丸を配置する。本丸中央には、二重の天守を構え、平櫓10、櫓門2、冠木門(かぶきもん)7、それに番所を設けた。


 大手門の周りには、10メートル以上の岩壁と組み合わせた石垣があり、そそり立つかのよう。土塀に目を向けると、矢を射るための矢狭間(ざま)、鉄砲を撃つ筒狭間が並ぶ。
 実戦も強く意識したであろうか、三の丸、二の丸の鉄門(二の門)跡へと至る石段は直角に何度も曲がらせてある。

 もう一度、石垣と櫓に囲まれた本丸をあおぐと、一見3層に錯覚するように設計された2層2階の天守が立つ、まさに「難攻」の城構えといって差し支えあるまい。

 その後、池田氏の池田長幸が、1617年(元和3年)、鳥取から6万5千石で松山の地に移ってきた。幕府領時代の小堀氏の町づくりの基礎の上に立って、城下町の建設を進める。
 この政権ではまた、消費都市としての松山城下への物資輸送をするため高瀬舟の管理運営に当たる問屋を松山と玉島に設けている。そして、高梁川の下流で三角洲が発達しているのを良しとし、1624年(寛永元年)には、玉島長尾内新田十町歩を開く。
 ところが、藩政が軌道に乗りつつあった1641年(寛永18年)には、藩主の長常が死去したため、備中松山藩池田家は無嗣絶家となる。結果、当地は幕領となり、福山藩主水野勝俊が在番する。1642年(寛永19年)には、水谷勝隆が成羽より5万石で松山に移って来る。水谷氏は、3年前に常陸の下館(茨城県)より成羽に移封されてきて、成羽川の流路を北寄りに付け替え、鶴首山の麓に陣屋造りに着手したばかりであったという。


 1693(元禄6年)に水谷家が断絶したため、播磨赤穂藩主・浅野内匠頭が一時的に管理するよう、幕府に命じられる。城明け渡しの後は、筆頭家老の大石内蔵助が1年間城代を務める。その後、安藤家、石川家と城主は次々と変わったが、1744(延享元)年から幕末までは板倉家が8代にわたって受け継いでいく。


(続く)


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新217『岡山の今昔』20世紀の岡山人(山川均)

2021-04-17 19:27:07 | Weblog
217『岡山の今昔』20世紀の岡山人(山川均)

 山川均(やまかわひとし、1880~1958)は、日本の社会主義者にして翻訳家でもある。革命家の部類に属しながらも、政争にはなじまなかったのではないか。むしろ、私見だが、政治思想家というのがふさわしい。

 今の岡山県の倉敷の生まれ。後の自伝に、こんな当時の故郷評を述べている。

 「倉敷は片田舎の町としては、たしかにきれいな町だった。大正8年(1919)に、私といっしょにはじめてこの地方に旅行した妻の菊栄をおどろかせたのは、関東や東北の農村にくらべて、鉄道沿線の農家のかくだんに裕福そうなことだった。(中略)
 じっさい私の町は白くて明るい町、そしていかにも昔風の田舎の大家といったような感じをあたえる町だった。(中略)
 こうして私の村は多年のあいだの地方政治の小中心地からはなれ、「天領倉敷」などというハクのはがれた、ただの田舎になった。そのとたんに御蔵元も御廻米もなにもかも吹き飛んでしまったので、私の家は完全な意味で失業してしまった。」(「山川均「山川均自伝」」)


 若くには、同志社大学時代、キリスト教にも大いに傾倒した時期があったという。聡明さは群を抜いていて、大学時代から社会の動きに鋭敏であった。マルクスの思想を身に着けて後は、それらに加え、大いなる気概をもって前進していく。

 1922年7月15日には、山川らが中心となって日本共産党が誕生した。しかし、この党はほとんど機能していないところで、翌1923年6月には主要メンバー29名が検挙され、壊滅状態に陥ってしまった。ともあれ、時期尚早ということばかりではあるまい。

 この共産党の結成と同じ年の7月、当時の左翼陣営の理論的指導者とみなされていた山川均は『前衛』誌上に、政治向きの論文を発表した。「無産階級運動の方向転換」と題する刺激的な名が付されていた、この論文はまず「過去二十年間における日本の社会主義運動は、まず自分を無産階級の大衆と引き離して、自分自身をはっきりさせた時代であった」と振り返る。

 しかし、これは「独立した無産階級的の思想と見解とを築くためには、必要な道程であった」のだと。これを言い換えると、日本の社会主義者は、自らを「思想的に徹底し純化する」というその「第一歩」を「りっぱに踏みしめた」ということになろうか。

 そこで今度は、我々は、「次の第二歩を踏み出さねばならない」ことになるとして、こう続ける。


 「無産階級の前衛たる少数者は、資本主義の精神的支配から独立するためにまず思想的に徹底し純化した。それがためには前衛たる少数者は、本隊たる大衆を遙か後ろに残して進出した。(中略)そこで無産階級運動の第二歩は、これらの前衛たる少数者が、徹底し純化した思想を携えて、遙か後方に残されている大衆の中に、再び引き返して来ることでなければならぬ。(中略)『大衆のなかへ!』は、日本の無産階級運動の新しい標語でなければならぬ。」

 それでは、この「大衆の中へ!」の「方向転換」は具体的にはどのようなものかというと、こうある。
 「無産階級の大衆が、現に何を要求しているかを的確に見なければならぬ。そして我々の運動は、この大衆の当面の要求に立脚しなければならぬ」、「我々は勢い無産階級の大衆の当面の利害を代表する運動、当面の生活を改善する運動、部分的の勝利を目的とする運動を、今日より重視しなければならぬ。」


 そんな硬派の典型のような冷徹な頭脳の持ち主にしては、その私生活で見せる表情や仕草(しぐさ)たるや、どこか「あっけらかん」なものであったようだ。夫人で同志の山川菊栄は、「山川均自伝」の「あとがき」でこんな面白さを紹介している。

 「無口で、気むつかしく、ウイットに冨み、鋭利な皮肉を、うっかりしていると気づかずにすむほどさりげない、デリケートないいまわしでいったりする」「堺君はタタミの上で死にたくないというが、僕はタタミの上でも死にたくないよ、とよくいったくらい、英雄的ではありませんでした」「寸鉄殺人的な彼の舌の動きは・・・名人芸」云々。
 
(続く)
 
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◻️32の8の1『岡山の今昔』備中松山城明け渡し(1693)とその後(~幕末)

2021-04-17 19:03:54 | Weblog
32の8の1『岡山の今昔』備中松山城明け渡し(1693)とその後(~幕末)

 振り返ってみれば、1638年(寛永15年)、水谷勝隆(みずのやかつとし)は常陸国(現在の茨城県)下館(しもだて)から成羽(なりわ)に転封となる。

 次いでの1642年(寛永19年)には、無嗣改易となった池田家のあとを受けて、水谷氏移封の形で備中松山に入る。

 その水谷家は、3代藩主勝美の時には、それまでに蓄えてきた力を発揮するにいたったのだろうか、鉄の生産、干拓、塩田開発などへと向かう。
 それに、1683年(天和3年)に3年がかりで天守を改築し、現在も山城の天守としては唯一のものとなっている。


 しかし、1693年(元禄6年)、先の池田氏同様に、その3代藩主勝美の死後、これまた無嗣に直面する。勝美が31歳の若さで急死、継子も13歳で亡くなったため、
水谷藩としては、死後養子を迎える話を進めたかったものの、その頃の幕府の方針にはまだ認める方向での変化がなかった。かくて、御家は断絶と決まり、領地5万石は没収、松山城は接収される沙汰が下る。
 城受取りの役は、赤穂藩主、浅野長矩に命じられた。赤穂藩は大石を先鋒、長矩を総大将に多くの軍勢で松山城下に乗り込む。城方には、家老の鶴見内蔵助以下約千名が城内にあった。そこで大石は平服、供の者も連れず鶴見内蔵助と面会、平和的に城を明け渡すよう説得を行う

 折しも藩内は、籠城と開城の二つに分かれ、せめぎあう。そこで大石は、家老職のもう一人の鶴見内蔵助と会合し、説得した由。なんとか城中を説得するのに成功したのだという。備中松山城の登城の途中には大石が休んだといわれる腰掛石が残っている。

 幕府は、祖先の勲功により勝美の弟勝時に川上郡の内から布賀村、長屋村3千石をわける形で与える。その陣屋は当初、長建寺近くの山の上にあったのが、後に交通の便の良い、成羽川沿いの黒鳥に移る。


 とはいえ、同時に幕府が行った備中松山領の見直し検地には厳しいものがあったという。水谷氏が断絶した後は、安藤、石川氏を経て、1744年(延享元年)に、板倉氏が城主となる。



(続く)


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◻️176の4『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、広瀬臺山)

2021-04-17 07:17:14 | Weblog
176の4『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、広瀬臺山)
 
 広瀬臺山(ひろせたいざん、1751-1813)は南画家だ。津山藩士の三男、広瀬義平として津山藩大坂屋敷に生まれる。大坂在住の青年期に、池大雅門下の福原五岳に画法を学ぶ。


 1781年(安永8年)には、父の隠居に伴い家督を相続する。その翌年には、京都御留守居見習役となる。天明元年(1781)には、江戸定付となる。


 それからは、江戸藩邸での職務をこなすとともに、谷文晁、僧雲室、片桐蘭石、増山雪斎、大窪詩仏など、江戸市中の文化人と交流を深める。そして、すぐれた作品をつくる。


 1803年(享和3年)には、家督を息子に譲り、江戸の麻布長坂に住む。やがての1811年(文化8年)には、津山に帰る。


 画風は、さりげなく、自分の世界に誘うが如しか。その一つ、「蓬莱山水図」には、中空に浮かんでいるかのような、仙人が住むという山がさりげなく描かれている。また、「山静日長図」、「富岳真景図」、「遺琴贈帰図」、「山静日長図」など、多くの文人画を描いている。

(続く)

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