162『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、河原善右衛門)
河原善右衛門(かわらぜんえもん、1631?~1685)は、江戸時代の寛永年間に、当時の久米南条郡弓削(ゆげ)村(現在の久米南町の下弓削)に生まれた。このあたり一帯は、広くは旭川沿いの農村地帯だといえよう。家は、そこら内では、裕福な部類であったのだろう、長じては大庄屋となった。
それからの彼は、この地に住んでいる人びとの暮らしの発展のために、様々な事業を興し、先導するのであった。ところが、脂ののりきった時に無実の罪を着せられ、一族連座して処刑されたためか、その事績の全容は必ずしも明らかになっていない。
1996年には供養塔が発見され、2005年その横に設置された、久米南町文化協会による石碑には、河原の生涯にわたる事蹟(じせき)について、こう記されている。
「河原善右衛門は、寛永八年(1631年)久米南条郡弓削村(現久米南町下弓削)に生まれた。度量篤く、進取の気性に富み、経世の才に長じ、国主森長継より大庄屋を命ぜられ、よく善政を施し、地方の開発と、民の利益増進に努めた。
その経営した事業は厨神社の移転、佐良川、弓削川など数多河川の改修、道路の開設、堤防改築、新地開墾。誕生寺池、長万寺池を始め、十六を超える貯水池の新築修築を行った。これらの池は今日に於いても、なお満々たる水を湛え、四百町歩の田畑を潤し、住民の生活を支えている。それら独特非凡の手腕は、領主よりの一層の信任と寵遇を得たが、その盛名を妬んだ心なき者の讒訴(ざんそ)により、無実の罪を着せられ、貞享二年(1685)四月二十六日、五十五歳を以て、一族九人と共に磔台の露と消えた。」
これにあるよう、河原が一重に願いとしたのは、貧困にあえぐ農民たちを何とか救済したいということであった。協力者や支援者がどの位いたものかつまびらかとは言えないまでも、数々の事業に私財を投じて取り組んだ。家族も、そんな彼をけなげに支えたのだという。
この地での当時最大級の事績として現代に伝わるのは誕生寺池(旧名称は坪井池)であって、「天和年間、美作国久米南条郡上弓削村の大庄屋河原善右衛門によって築造」(「角川日本地名大辞典」より)と現地に刻まれているとのことである。
また、前述の佐良川の改修については、延宝7年には森藩に建議したのだという。当時のこの川は、元一方村より井口村へ迂回して流れ、しかも、二筋に岐れて津山川に注ぎ、その流程一里に及んでいたのを、一方村の土地180間ばかりを掘削して、津山川に注ぐように工事を指導した、と伝わる。
而(しか)して、断罪されてからしばらくの間は、津山藩(時の藩主は3代目の森長武)から善右衛門の供養は禁じられていたらしい。そして断罪に至った理由や経緯についても、真相を求めて多くの歴史家(郷土史家を含む)が努力してきた。とはいうものの、いまだに定説らしきものはなく、ましてや確証となる史料は見つかっていない。
一説には、後に4代藩主となる森長成派の面々(家老の一人、長尾隼人など)が、3代藩主長武の「側用人政治」を攻撃するために、藩主の寵愛を一身に背負って土木工事に邁進していた河原善右衛門の追い落とし(「隠田」の罪とかで)をねらったとされるものの、なお憶測の域を出ていないように感じられる。
幕末の1856年(安政3年)、下弓削村の大庄屋、宮本勘三郎古建立により「善右衛門頌徳碑」(ぜんうえものしょうとくひ)が建てられたことで、本来の面目、その人となりが現れ、以来郷土史家らの熱意と努力とによって、その大いなる事績と「久米南の義人」とも形容される精神とが緩慢ながらも明らかになりつつある。
(続く)
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