110『自然と人間の歴史・日本篇』新田荘(武家の荘園)
新田荘遺跡(にったのしょういせき)をひもとくと、中世までは遡ることになろう。上野国新田郡(現在の群馬県太田市)にあった荘園に関する遺構などであって、荘域は上野国新田郡全域・勢多郡・佐位郡・武蔵国榛沢郡の一部に及んでいたという。ちなみに、現在は、新田氏遺構群のうち、円福寺境内など11箇所が新田荘遺跡として国の史跡に指定されているとのこと。
地形でいうと、おもに大間々扇状地と利根川左岸氾濫原からなるという。新田氏一族の根源地として成立し、ゆくゆくは鎌倉幕府を倒した新田義貞の勢力へと流れゆく。
そもそも、新田荘の初代は、かの八幡太郎こと源義家の三男・義国だという。所領の足利庄を次男の義康に譲り、長男の義重(義康の異母兄)と共に、一族郎党の力であったのだろうか、新田に移って利根川北部の荒地を開墾したという。
1157(保元2年)には、新田として開発しての私領を藤原忠雅に寄進、自らは下司職(げす、げしき、現地管理者・実務担当者)となって実を得る。
その後、父義国を継いで新田氏の主となった新田義重(にったよししげ、?-1202、母は藤原敦基(ふじわらあつもと)の娘という。)は、新田荘で一族発展の基礎固めをするとともに、更に周辺の開発にも力を注いだようだ。1170年(嘉応2年)頃には、広大な荘園を経営する一族となった由。本領の新田中心部は、やがて義兼が相続し、周辺の所領は他の男子が受け継いで更に勢力を広げていく。
頼朝挙兵の際は、新田氏も馳せ参じようとした。伝わるところでは、義兼が早くから参加したにも拘わらず、合流が遅れたらしい。ほかにも、新田荘が平家系の荘園だった事や、頼朝を格下げに見ていたことから、決断が遅れたとも。それでも、源氏の最長老ということでなんとか面目を保っていたともいう話が伝わる。
その後の時の流れは、どうやら平坦とは言えなかったようだ。すなわち、新田の惣領は義重-義兼-義房-政義と継がれていく。政義の代になっての1242年(仁治3年)には変事が起こる。どうしたことかというと、幕府から預かった囚人に逃げられ、大番役として京都にいた1244年(寛元2年)には昇殿と任官を朝廷に求めて拒まれると突然出家し、職務を放棄して新田に帰ってしまった模様だ。
(続く)
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新田荘遺跡(にったのしょういせき)をひもとくと、中世までは遡ることになろう。上野国新田郡(現在の群馬県太田市)にあった荘園に関する遺構などであって、荘域は上野国新田郡全域・勢多郡・佐位郡・武蔵国榛沢郡の一部に及んでいたという。ちなみに、現在は、新田氏遺構群のうち、円福寺境内など11箇所が新田荘遺跡として国の史跡に指定されているとのこと。
地形でいうと、おもに大間々扇状地と利根川左岸氾濫原からなるという。新田氏一族の根源地として成立し、ゆくゆくは鎌倉幕府を倒した新田義貞の勢力へと流れゆく。
そもそも、新田荘の初代は、かの八幡太郎こと源義家の三男・義国だという。所領の足利庄を次男の義康に譲り、長男の義重(義康の異母兄)と共に、一族郎党の力であったのだろうか、新田に移って利根川北部の荒地を開墾したという。
1157(保元2年)には、新田として開発しての私領を藤原忠雅に寄進、自らは下司職(げす、げしき、現地管理者・実務担当者)となって実を得る。
その後、父義国を継いで新田氏の主となった新田義重(にったよししげ、?-1202、母は藤原敦基(ふじわらあつもと)の娘という。)は、新田荘で一族発展の基礎固めをするとともに、更に周辺の開発にも力を注いだようだ。1170年(嘉応2年)頃には、広大な荘園を経営する一族となった由。本領の新田中心部は、やがて義兼が相続し、周辺の所領は他の男子が受け継いで更に勢力を広げていく。
頼朝挙兵の際は、新田氏も馳せ参じようとした。伝わるところでは、義兼が早くから参加したにも拘わらず、合流が遅れたらしい。ほかにも、新田荘が平家系の荘園だった事や、頼朝を格下げに見ていたことから、決断が遅れたとも。それでも、源氏の最長老ということでなんとか面目を保っていたともいう話が伝わる。
その後の時の流れは、どうやら平坦とは言えなかったようだ。すなわち、新田の惣領は義重-義兼-義房-政義と継がれていく。政義の代になっての1242年(仁治3年)には変事が起こる。どうしたことかというと、幕府から預かった囚人に逃げられ、大番役として京都にいた1244年(寛元2年)には昇殿と任官を朝廷に求めて拒まれると突然出家し、職務を放棄して新田に帰ってしまった模様だ。
(続く)
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