419の2『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、坪田利吉)
坪田利吉(つぼたりきち、1870~1944)は、現在の広島県府中市の出身ながら、岡山城下町で大きな足跡を残した人物だ。
岡山の地で万納屋(まんのうや)という行商屋を営む。商いをした対象は概ね日用品とのことで、一説には、自身が大八車を引いて売り歩いていたともいう。
さて、その名前を世間に知らしめてある最大のものは、坪田が並みの富豪とは異なる、商売と同じくらいの情熱を慈善事業に注いだことだ。
その代表的なものは、県下では初めての鉄骨製の火の見櫓の建設する。その最初のものとは、天神町にあるもので、こう説明されている。
「大正13年(1924)に建設された火の見櫓(登録有形文化財)も残っている。高さ21.1m、4脚の鉄塔で、最上部には1辺2mな四角形の望楼があり、屋根上には飾りの付いた尖塔がある。」(岡山大学附属図書館編「絵図で歩く岡山城下町」吉備人出版、2009)
これを皮切りに京橋など市内6ヶ所に建設、寄贈している。また西川にも三基の石橋(万納橋)を築く。全体でいうと、火の見櫓の寄贈は12ヶ所のようだ。
他にも、無料宿泊施設や石のベンチなどを寄贈しているという。
晩年は眼病に苦しみ、1937年(昭和12年)に引退する。
私生活では、熱心な日蓮信徒でも知られる。
(続く)
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坪田利吉(つぼたりきち、1870~1944)は、現在の広島県府中市の出身ながら、岡山城下町で大きな足跡を残した人物だ。
岡山の地で万納屋(まんのうや)という行商屋を営む。商いをした対象は概ね日用品とのことで、一説には、自身が大八車を引いて売り歩いていたともいう。
さて、その名前を世間に知らしめてある最大のものは、坪田が並みの富豪とは異なる、商売と同じくらいの情熱を慈善事業に注いだことだ。
その代表的なものは、県下では初めての鉄骨製の火の見櫓の建設する。その最初のものとは、天神町にあるもので、こう説明されている。
「大正13年(1924)に建設された火の見櫓(登録有形文化財)も残っている。高さ21.1m、4脚の鉄塔で、最上部には1辺2mな四角形の望楼があり、屋根上には飾りの付いた尖塔がある。」(岡山大学附属図書館編「絵図で歩く岡山城下町」吉備人出版、2009)
これを皮切りに京橋など市内6ヶ所に建設、寄贈している。また西川にも三基の石橋(万納橋)を築く。全体でいうと、火の見櫓の寄贈は12ヶ所のようだ。
他にも、無料宿泊施設や石のベンチなどを寄贈しているという。
晩年は眼病に苦しみ、1937年(昭和12年)に引退する。
私生活では、熱心な日蓮信徒でも知られる。
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