◻️419の2『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、坪田利吉)

2021-04-20 22:20:21 | Weblog
419の2『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、坪田利吉)

 坪田利吉(つぼたりきち、1870~1944)は、現在の広島県府中市の出身ながら、岡山城下町で大きな足跡を残した人物だ。
 岡山の地で万納屋(まんのうや)という行商屋を営む。商いをした対象は概ね日用品とのことで、一説には、自身が大八車を引いて売り歩いていたともいう。
 さて、その名前を世間に知らしめてある最大のものは、坪田が並みの富豪とは異なる、商売と同じくらいの情熱を慈善事業に注いだことだ。
 その代表的なものは、県下では初めての鉄骨製の火の見櫓の建設する。その最初のものとは、天神町にあるもので、こう説明されている。

 「大正13年(1924)に建設された火の見櫓(登録有形文化財)も残っている。高さ21.1m、4脚の鉄塔で、最上部には1辺2mな四角形の望楼があり、屋根上には飾りの付いた尖塔がある。」(岡山大学附属図書館編「絵図で歩く岡山城下町」吉備人出版、2009)

 これを皮切りに京橋など市内6ヶ所に建設、寄贈している。また西川にも三基の石橋(万納橋)を築く。全体でいうと、火の見櫓の寄贈は12ヶ所のようだ。
 他にも、無料宿泊施設や石のベンチなどを寄贈しているという。
 晩年は眼病に苦しみ、1937年(昭和12年)に引退する。
 私生活では、熱心な日蓮信徒でも知られる。


(続く)

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◻️178『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方洪庵)

2021-04-20 08:51:55 | Weblog
178『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方洪庵)

 緒方洪庵(おがたこうあん、1810~1862)は、備中の足守藩の藩士の家に生まれる。大坂に出て、医学を学ぶ。洋学者の中天ゆう(なかてんゆう)が先生であったという。1830年には、江戸に出て、坪井信道(つぼいしんどう)らに蘭学を学ぶ。それにもあきたらずか、1838年には、長崎に行き、蘭学を深める。こちらは、「遊学」であったとか。
 1838年に、大坂で「適塾」を始める。1844~1864年までの適塾姓名録には、637名のうち、岡山出身のものは46名を数える。彼らは、医学を習得して故郷に帰り、そこで開業していく。
 その著書も多い。「扶氏経験遺訓」(30巻)や「病学通論」(3巻)など。社会活動は医師ならではの活躍を示す。西洋医学で発明された種痘を日本に取り入れる。幕府にはたらきかけて、種痘の普及やこれらの治療などに力を尽くす。その人脈を通じて、種痘の種を送り、全国に広まっていく。多くの命がこれで救われたのだという。
 そんな中でも、「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救わんことを希ふべし」(「扶氏医戒之略」)というのは、空前絶後と見なしうるのではないか。
 1862年には、幕府に呼ばれて、江戸に出向く。医師兼西洋医学所の頭取に就任する。翌1863年に急死したのには、過労やストレスなどがかさんだのではないか。加えるに、学問の人を悩ませたのは、人付き合いの苦労が大きかったのではないか。


 ちなみに、病の洪庵を看取った八重夫人の述懐には、こうある。

「昨秋より一方ならぬお勤め、今までは我がままにお暮らしなられ候御身が御殿向きの事、また医学の御用向き、何につけてもご心配の多く、世上は騒がしく、子供は大勢なり。
 ご心配ただの一日も安心と思い召さずに、こ病気もかねて胸の痛みもなく、・・・にわかに咳が出て、その時少々血が出て、また咳が出て候えば、この時はもはや口と鼻の両方に、一時に血がとんと出て、そのまま口をふさぎ、縁側のところに出て、血を吐かれ候ところ、追々出て、もはや吐く息は少しも相成らず候と相見え、・・・こと切れ申し候・・・。」(柳田昭「緒方洪庵生誕200年前夜ー病弱な洪庵が偉大な業績をあけた原動力ー」に引用される、八重夫人が洪庵の死後、名塩の妹に送った手紙から)

(続く)
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◻️160の1の3『岡山の今昔』岡山人(16世紀、宇喜多直家)

2021-04-20 08:09:36 | Weblog
160の1の3『岡山の今昔』岡山人(16世紀、宇喜多直家)

 宇喜多直家(うきたなおいえ、1529~1582)は、機を見るに敏、かつ、かなりの権謀術数に長けていた戦国武将と言って、差し支えあるまい。


 元は、1543年(天文12年)頃からは、和気郡天神山城主の浦上宗景のもとに出仕し、寵愛されて邑久郡乙子城を与えられる。

 浦上は、赤松氏の重臣であった。とはいうものの、やがて主君に寵愛されるのでは足らない、それに埋没するのではなく、浮上する機会を狙っていたのではないたろうか。

 こうした中で、1549年(天文18年)にもなると、その野心があらわになっていく。この年、宗景の命により邑久郡砥石山城主浮田山和を討って、祖父能家の居城を奪い返すとともに、その功により上道郡奈良部城に入る。


 1559年(永禄2年)には、島村豊後と備中勢と上道郡沼城主中山備前守とを、策を弄して同時に討つ。


 その後、居城を沼城に移す。1561年(永禄4年)には、津高郡金川城主の松田元領有の口山城を後略して、邑久・上道の沃野を手に入れる。


 このころからは、宿敵であったはずの金川城主松田元輝と縁を結び、備前・美作陣出を目指す備中成羽城主三村家親に備える。そのうちの1560年(永禄9年)に、は刺客を放って家親を暗殺する。


 その翌年、直家は、約2万の兵を率いて備前に攻め入る。心中に、作戦を温めていたようであり、家親の息子の三村元親の軍勢を、約5千の兵をもって撃退する。明禅寺崩れといわれるこの合戦は、直家方の会心の勝利であった。


 かくて、その時は訪れた。下剋上(げこくじょう)により、宗景は赤松の領国、備前・美作などを領する。その後どうしたかということでは、直家もまた宗景の隙をついて毛利元就と通じ、備前を奪い取る。岡山城に入り、ついで美作をももぎ取り、外交では毛利と通じる。


 ところが、これでは安心できなかったのだろうか、1580年(天正8年)に、織田信長に毛利氏征伐に派遣されていた羽柴秀吉が播州三木城を陥れると、時勢をにらんでか、織田方の陣営に加わる。

(続く)

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