79の5『自然と人間の歴史・世界篇』ポンペイ(79)
イタリアのヴェスヴィオ火山といえば、イタリア南部・カンパニア州のナポリ近郊にある。
79年、472年、1139年、1631年にも噴火、その都度大きな犠牲を出した。これらのうち最大のものは、79年のもので、古代ローマは帝政時代にあった。
この噴火で吹き上がった大量の石と火山灰が、当時麓にあった、人口約2万人の都市ポンペイに降りかかる。それからは、噴火の状況は断続的に続いたのだろうか、町のほとんどを埋没させた。
ここからは、諸説あるようなのだが、一説には、かなりの大部分のポンペイ市民は火山灰が降る中、町の外側へと避難していく。しかし、これに続かない人・家族もかなりいたとされ、翌日朝には火砕流や火砕サージが再び町を襲い、一説には町に残っていた約2000人が生き埋め、もしくは屋根の重みなどにより押しつぶされ、さらには瞬時に焼かれて死亡したともいう。
この惨劇の様子は、以来、さまざまに記され、語りつがれてきた。けれども、物理的にも災害の痕跡は、風化してゆく。長らく地中に埋没していたポンペイの街は、18世紀になって農民が井戸掘りの最中に偶然大理石の柱を発見したことから脚光を浴びるにいたる、そこで学術的な発掘が進められ、当時の街並みがそのまま残っていたことが明らかとなった。一つの都市が丸ごと埋まっってあるのを発掘するという大事業であり、その経過は世界の耳目を一貫して集めてきた。
ところが、2018年の発掘で、木炭で書かれた落書きが、「レッジョV」と呼ばれる発掘現場にある家屋の壁で見つかった。書かれているのは「XVI K Nov」というラテン文字で、「11月の16日前」を意味しているかのように見えるといい、その模様は国際的にもドキュメンタリー番組として放映されており、筆者も視聴したところだ。それによると、当該日は、「現在の日付で10月17日」に当たるというのだ。
そのように考えると、噴火が起きた時期、当該の家屋では改修作業が行われていた。ついては、落書きの書かれた壁には、この後漆喰(しっくい)が塗られる予定だったのではないかと。それに、木炭で書かれた文字が長期にわたって消えずに残るのは考えにくいため、落書きは噴火と同じ紀元79年に書かれた可能性が高い。
およそこのような次第で、発掘に携わる考古学者のチームは声明を出し、「落書きは紀元79年10月のものである公算が極めて大きい。より正確には、10月24日とされる火山噴火の1週間前の日付になる」と述べた。
従来から、ベスビオ火山噴火の日付には、二つの見方がある。そのうち、どちらかというと、8月24日が定説とされてきた。これは帝政ローマ時代の文人、小プリニウスによる噴火から25年後の記述に、相応の根拠をおく。噴火当時、17歳の小プリニウスはナポリ湾の対岸から火山の様子を観測したという。
この点、イギリスBBCの報道「Pompeii: Vesuvius eruption may have been later than thought」の一節にも、こうある。
「The inscription discovered in the new excavations is nothing more than a scrawl in charcoal, likely made by a worker renovating a home.
But it is dated to 16 days before the "calends" of November in the old Roman calendar style - which is 17 October in our modern dating method.
"Since it was done in fragile and evanescent charcoal, which could not have been able to last long, it is highly probable that it can be dated to the October of AD 79," the archaeology team said in a statement.
They believe the most likely date for the eruption was, in fact, 24 October.」(Published16 October 2018)
参考までに、重ねて、こうある。
「So did Pliny the Younger record things incorrectly?
His letter to Tacitus was written some 20 years after the eruption in 79 AD. And the original copies have not survived the intervening 1,939 years.
Instead, our modern reading of the text is based on translations and transcriptions made over the centuries. In fact, various copies of the letters have contained dates ranging anywhere from August to November - though 24 August has long been accepted.
The differences between the texts could easily have been influenced by confusion over the ancient and modern systems of counting days.
The discovery was made in the new Regio V excavation, uncovering previously untouched areas of the ancient city.
In addition to the simple inscription, grand houses have been unveiled this week with elaborate frescoes and mosaics.」
これにもあるように、これまでの噴火の定説が「西暦79年8月24日13時頃(現地時間)」であったとしても、総じて科学的な見地というものは、新たな証拠の提出により揺らぎうるものであることを、私たちに学ばせている。
(続く)
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イタリアのヴェスヴィオ火山といえば、イタリア南部・カンパニア州のナポリ近郊にある。
79年、472年、1139年、1631年にも噴火、その都度大きな犠牲を出した。これらのうち最大のものは、79年のもので、古代ローマは帝政時代にあった。
この噴火で吹き上がった大量の石と火山灰が、当時麓にあった、人口約2万人の都市ポンペイに降りかかる。それからは、噴火の状況は断続的に続いたのだろうか、町のほとんどを埋没させた。
ここからは、諸説あるようなのだが、一説には、かなりの大部分のポンペイ市民は火山灰が降る中、町の外側へと避難していく。しかし、これに続かない人・家族もかなりいたとされ、翌日朝には火砕流や火砕サージが再び町を襲い、一説には町に残っていた約2000人が生き埋め、もしくは屋根の重みなどにより押しつぶされ、さらには瞬時に焼かれて死亡したともいう。
この惨劇の様子は、以来、さまざまに記され、語りつがれてきた。けれども、物理的にも災害の痕跡は、風化してゆく。長らく地中に埋没していたポンペイの街は、18世紀になって農民が井戸掘りの最中に偶然大理石の柱を発見したことから脚光を浴びるにいたる、そこで学術的な発掘が進められ、当時の街並みがそのまま残っていたことが明らかとなった。一つの都市が丸ごと埋まっってあるのを発掘するという大事業であり、その経過は世界の耳目を一貫して集めてきた。
ところが、2018年の発掘で、木炭で書かれた落書きが、「レッジョV」と呼ばれる発掘現場にある家屋の壁で見つかった。書かれているのは「XVI K Nov」というラテン文字で、「11月の16日前」を意味しているかのように見えるといい、その模様は国際的にもドキュメンタリー番組として放映されており、筆者も視聴したところだ。それによると、当該日は、「現在の日付で10月17日」に当たるというのだ。
そのように考えると、噴火が起きた時期、当該の家屋では改修作業が行われていた。ついては、落書きの書かれた壁には、この後漆喰(しっくい)が塗られる予定だったのではないかと。それに、木炭で書かれた文字が長期にわたって消えずに残るのは考えにくいため、落書きは噴火と同じ紀元79年に書かれた可能性が高い。
およそこのような次第で、発掘に携わる考古学者のチームは声明を出し、「落書きは紀元79年10月のものである公算が極めて大きい。より正確には、10月24日とされる火山噴火の1週間前の日付になる」と述べた。
従来から、ベスビオ火山噴火の日付には、二つの見方がある。そのうち、どちらかというと、8月24日が定説とされてきた。これは帝政ローマ時代の文人、小プリニウスによる噴火から25年後の記述に、相応の根拠をおく。噴火当時、17歳の小プリニウスはナポリ湾の対岸から火山の様子を観測したという。
この点、イギリスBBCの報道「Pompeii: Vesuvius eruption may have been later than thought」の一節にも、こうある。
「The inscription discovered in the new excavations is nothing more than a scrawl in charcoal, likely made by a worker renovating a home.
But it is dated to 16 days before the "calends" of November in the old Roman calendar style - which is 17 October in our modern dating method.
"Since it was done in fragile and evanescent charcoal, which could not have been able to last long, it is highly probable that it can be dated to the October of AD 79," the archaeology team said in a statement.
They believe the most likely date for the eruption was, in fact, 24 October.」(Published16 October 2018)
参考までに、重ねて、こうある。
「So did Pliny the Younger record things incorrectly?
His letter to Tacitus was written some 20 years after the eruption in 79 AD. And the original copies have not survived the intervening 1,939 years.
Instead, our modern reading of the text is based on translations and transcriptions made over the centuries. In fact, various copies of the letters have contained dates ranging anywhere from August to November - though 24 August has long been accepted.
The differences between the texts could easily have been influenced by confusion over the ancient and modern systems of counting days.
The discovery was made in the new Regio V excavation, uncovering previously untouched areas of the ancient city.
In addition to the simple inscription, grand houses have been unveiled this week with elaborate frescoes and mosaics.」
これにもあるように、これまでの噴火の定説が「西暦79年8月24日13時頃(現地時間)」であったとしても、総じて科学的な見地というものは、新たな証拠の提出により揺らぎうるものであることを、私たちに学ばせている。
(続く)
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