◻️23の2『岡山の今昔』岡山の下剋上(赤松氏と浦上氏(~1521))

2021-04-27 15:11:43 | Weblog
23の2『岡山の今昔』岡山の下剋上(赤松氏と浦上氏(~1521))

 浦上氏は、竜野(現在の兵庫県たつの市)の地名をルーツとする、と言われる。南北朝時代には、赤松氏のもとで活躍する。
 赤松氏が、播磨・備前・美作の守護となると、その被官として支える。浦上氏の方は、行景、宗隆、それに助景らが備前守護代を任され、本拠も備前東部の和気郡三石城に移る。

 それが、1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱で、その赤松氏が没落する。この乱の発端につき、「看聞御記」から暫し引用しておこう。
 
 「嘉吉元年六月廿四日、雨降、赤松に公方入り申す。猿楽ありと云々。晩に及んで屋形に喧嘩出来すと云々、騒動の是非いまだ聞かざるの処、三条手負て帰る。公方の御事は実説分明ならず。赤松炎上す。武士東西に馳せ行き、猥雑いわんばかりもなし。夜に至りて伊予守の屋形炎上す。家人共の家は自ら焼く。公方を討ち申し、御首を取りて落ち下ると云々。仰天周章中々に是非なし。
(中略)
 廿五日、晴、昨日の儀、粗聞く、一献両三献、猿楽の初の時分、内方とどめく。「何事ぞ」
と御尋ねあり。「雷鳴か」など三条申さるる処、御後障子引きあけて武士数輩出て、則ち公方を討ち申す。三条、御前の太刀 御引出物に進ずる太刀也 を取りて切り払い、顛倒して切り伏せらる。山名大輔・京極加賀入道・土岐遠山、走衆三人討死す。細川下野守・大内等は、腰刀ばかりにて振舞と雖も、敵を取るに及ばず、手負いて引き退く。
 管領・細川讃州・一色五郎・赤松伊豆等は逃げ走る。その外の人々は右往左往して逃げ散る。御前に於て腹切の人なし。赤松落ち行くに、追い懸けて討つ人なし。未練いわんばかりもなし。諸大名同心か、その意を得ざる事なり。所詮赤松を討たるべきの御企露顕の間、遮て討ち申すと云々。自業自得、果して無力の事か。将軍の此の如きの犬死、古来その例を聞かざる事なり」(「看聞御記」から)

 これにあるように、赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺した事件だ。
 当時の室町幕府の「三管」(幕府のNo.2・管領に就ける家柄としては、細川氏、斯波氏、畠山氏の三氏)、それに「四職」(侍所のトップに就ける家柄として、赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏)が、あった。

 では、かかる赤松氏の赤松満祐が、なぜ室町幕府6代将軍足利義教を、結城合戦勝利祝賀のためと称して、京都の自邸に招いて殺したのだろうか。なにしろ、足利尊氏挙兵に際して功労があり、幕府に忠勤にはげんできた、古参の重鎮の一人だというのに、である。

 というのは、どうやら足利義教は、権力の強化をしたかったのではないか、と考えられている。その一環として、幕府に功労のあった一色義貫らを討つ。また、赤松満祐の弟の所領を没収し、赤松貞村に与える。

 幕府は、その後、足利義教の子義勝を後継の将軍とし、山名持豊を中心に赤松追討軍を編成し、本拠の播磨に逃れていた赤松満祐を攻めて自殺させる。

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 それからは、浦上則宗が、没落したとはいえなお有力な豪族で残った、赤松政則を補佐していく。浦上にとっての主家の赤松氏をもり立てていく。
 それから、応仁の乱などに苦楽をともにしていくうちに、浦上氏は、赤松政則が播磨、備前、美作の3国の守護及び侍所所司に復権するのに、大いに貢献した。その功績から、みずからも参謀格の所司代となる。

 戦国時代(1480年頃から)に入っての1488年(長享2年)には、美作(作州)を支配していた山名軍が退き、代わって、赤松氏が勢力を伸ばしていく。

 しかし、その頃には、両者の間にはすきま風が吹くようになっていて、浦上氏(浦上村宗)は、守護赤松氏を凌ぐ力を持つようになっていたやに、伝わる。

 そして迎えた1521年(永正18年)には、浦上氏が、守護の赤松義村を殺す。この下剋上(げこくじょう)によって、実質的に西播磨をはじめ、その西隣りの美作など(現在の岡山県北東部)の支配者に、とって代わる。

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 なお参考までに、その後の浦上氏については、これまた込み入っている。すなわち、村宗の二男・宗景が隣の備前国に移って赤松氏から完全に独立したことで、浦上氏は、本家と分家で分裂してしまう。本家を継いだ村宗の長男、浦上政宗は、黒田(小寺)氏と結んで子・清宗の妻として「おたつ」を迎える。
 その婚礼の夜に、赤松氏に襲われた浦上本家は、如何せん、この時をもってたちゆかなくなってしまう。その所領は、前述の如く備前に移っていた宗景が引き継く。やがて、宗景は備前・西播磨から美作の一部まで支配する大名に成長していく。とはいうものの、さらに後には、家臣の宇喜多直家の下剋上にあって、今度は浦上氏自体が滅亡してしまう。


(続く)

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◻️23の1『岡山の今昔』山名氏の南下(1362)

2021-04-27 09:23:36 | Weblog
23の1『岡山の今昔』山名氏の南下(1362)


 さて、1362年(康安2年)には、反幕府(南朝)の頭目の一人、山名時氏の軍勢が伯耆から美作、備前備中に侵攻してくる。南北朝期の、1362年(康安2年)のことである。  
 その時の模様について、「太平記」には、こうある。

 「山陽道には、同年六月三日に、山名伊豆守時氏五千余騎にて、伯耆より美作の院庄へ打越えて、国々へ勢を差分つ。先、一方へは時氏子息左衛門佐師義(もろよし)を大将にて、二千余騎、備前、備中、両国へ発向す。

 一勢は備前仁堀に陣を取て、敵を待に、其国の守護、松田、河村、福林寺、浦上七郎兵衛行景等、皆無勢なれば、出合うては叶はじとや思けん。又讃岐より細川右馬頭頼之、近日児島へ押渡ると聞ゆるをや相待(あいまち)けん。皆城に楯籠って未曾戦(かつてたゝかはず)。

 一勢は多治目(たじめ)備中守楢崎を侍大将にて、千余騎備中の新見へ打出たるに、秋庭三郎多年拵(こしらへ)すまして、水も兵糧も卓散なる松山城へ、多治目楢崎を引入しかば、当国の守護越後守師秀(もろひで)可戦様無(たゝかふべきやうなく)して、備前の徳倉城へ引退く刻(きざみ)、郎従赤木父子二人落止って、思程戦て、遂に討死してけり。

 依之(これにより)、敵勝に乗て、国中へ乱入て、勢を差向々々(さしむけさしむけ)攻出すに、一儀をも可云様無(いふべきやうなけ)れば、国人(くにうど)一人も従ひ不付云者(つかずといふもの)なし。」(「太平記」巻第三十八「諸国宮方蜂起事付越中軍事」)

 これにあるように、この年、南朝方の山名時氏(やまなときうじ)は五千騎余りで伯耆から美作の院庄へ進出してくる。
 ところが、備前守護の松田氏をはじめ、河村氏、福林寺氏、浦上行景らは、これを迎え撃つことをしない。
 そこで、「その訳は、かち合ってはならないと思ったのだろうか。または幕府方の実力者細川頼之が近日中にも讃岐から児島に渡ってくると聞いて待っているのだろうか」と問いかけるのだが、わからない。


 そればかりが、ある部隊は多治部師景と楢崎氏を大将として千騎余りで備中新見に進出する。しかし、地元の秋庭重盛が、水も食糧もある松山城に、彼らを多治部と楢崎を引き入れてしまう。そのため、備中守護の高師秀は劣勢になり、備前の徳倉城へ退く。
 この時、師秀の家来の赤木父子は城にとどまり、存分に戦って討死する。こうして南党山名勢は備中を席巻し、国人で従わない者はいない始末。

 それというのも、これの少し前の1361年(安元年)には、南朝軍か京都を攻め、二代将軍の足利義詮(あしかがよしあきら)は近江(おうみ)に逃れる事態が起こっており、南朝はまだ勢力を保っていたからではなかろうか。

(続く)

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◻️192の4の23『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、与田銀次郎)

2021-04-27 08:23:58 | Weblog
192の4の23『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、与田銀次郎)

 与田銀次郎(よだぎんじろう、1858~1915)は、実業家、そして輸出織物の先駆者だ。

 当時の児島郡日比村(現在の倉敷市)の生まれ。幼少の時に父母を亡くし、叔父の家で育てられる。8歳で他家へ奉公に出る。


 やがての1878年(明治11年)には、叔父の店、児島で小倉真田や醬油の製造・販売に働く。
 1890年(明治23年)に朝鮮半島を視察する。その際には、韓人紐の存在を知る。折しも1877年(明治10年)の西南戦争の後は、武士からの需要は止まり、新たな開拓が望みであったのだろう。


 帰国すると、早速その製造と輸出を工夫し、真田紐を改善しての製品化に成功する。販路の拡大にこぎ着ける。


 さらに日露戦争後には、中国人の腿帯子や弁髪紐にも目をつけ、製品化する。量産体制を整え、1905年(明治38年)には、中国大陸でのビジネス・チャンスをはかって拠点を大連に築く。


 これを機に、児島とその近辺の織物業者が、続々と海外に進出するようになっていく。児島の織物業界は、この頃、韓人紐、ランプ芯、足袋、厚司、袴地、腿帯子、ゲートルなどの国内及び海外販売を伸ばしていく。


 与田はまた、染料の開発・製造も行い、第一次世界大戦の影響で輸入が激減した硫化黒の国産化にも着手したという。 


 とはいえ、1918年頃からは、腿帯子の輸出やランプ芯の内外需要が先細りになっていく。背景としては、腿帯子は中国での生活習慣の変化、ランプ芯は電気の普及があろう。 

 それからの岡山南部の繊維業界は、松井武平(まついぶへい)が、姫路や浜松にも助けを求めて、畳縁の製法を学ぶなど、新たな需要の開拓へと動いていく。

(続く)

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