23の2『岡山の今昔』岡山の下剋上(赤松氏と浦上氏(~1521))
浦上氏は、竜野(現在の兵庫県たつの市)の地名をルーツとする、と言われる。南北朝時代には、赤松氏のもとで活躍する。
赤松氏が、播磨・備前・美作の守護となると、その被官として支える。浦上氏の方は、行景、宗隆、それに助景らが備前守護代を任され、本拠も備前東部の和気郡三石城に移る。
それが、1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱で、その赤松氏が没落する。この乱の発端につき、「看聞御記」から暫し引用しておこう。
「嘉吉元年六月廿四日、雨降、赤松に公方入り申す。猿楽ありと云々。晩に及んで屋形に喧嘩出来すと云々、騒動の是非いまだ聞かざるの処、三条手負て帰る。公方の御事は実説分明ならず。赤松炎上す。武士東西に馳せ行き、猥雑いわんばかりもなし。夜に至りて伊予守の屋形炎上す。家人共の家は自ら焼く。公方を討ち申し、御首を取りて落ち下ると云々。仰天周章中々に是非なし。
(中略)
廿五日、晴、昨日の儀、粗聞く、一献両三献、猿楽の初の時分、内方とどめく。「何事ぞ」
と御尋ねあり。「雷鳴か」など三条申さるる処、御後障子引きあけて武士数輩出て、則ち公方を討ち申す。三条、御前の太刀 御引出物に進ずる太刀也 を取りて切り払い、顛倒して切り伏せらる。山名大輔・京極加賀入道・土岐遠山、走衆三人討死す。細川下野守・大内等は、腰刀ばかりにて振舞と雖も、敵を取るに及ばず、手負いて引き退く。
管領・細川讃州・一色五郎・赤松伊豆等は逃げ走る。その外の人々は右往左往して逃げ散る。御前に於て腹切の人なし。赤松落ち行くに、追い懸けて討つ人なし。未練いわんばかりもなし。諸大名同心か、その意を得ざる事なり。所詮赤松を討たるべきの御企露顕の間、遮て討ち申すと云々。自業自得、果して無力の事か。将軍の此の如きの犬死、古来その例を聞かざる事なり」(「看聞御記」から)
これにあるように、赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺した事件だ。
当時の室町幕府の「三管」(幕府のNo.2・管領に就ける家柄としては、細川氏、斯波氏、畠山氏の三氏)、それに「四職」(侍所のトップに就ける家柄として、赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏)が、あった。
では、かかる赤松氏の赤松満祐が、なぜ室町幕府6代将軍足利義教を、結城合戦勝利祝賀のためと称して、京都の自邸に招いて殺したのだろうか。なにしろ、足利尊氏挙兵に際して功労があり、幕府に忠勤にはげんできた、古参の重鎮の一人だというのに、である。
というのは、どうやら足利義教は、権力の強化をしたかったのではないか、と考えられている。その一環として、幕府に功労のあった一色義貫らを討つ。また、赤松満祐の弟の所領を没収し、赤松貞村に与える。
幕府は、その後、足利義教の子義勝を後継の将軍とし、山名持豊を中心に赤松追討軍を編成し、本拠の播磨に逃れていた赤松満祐を攻めて自殺させる。
🔺🔺🔺
それからは、浦上則宗が、没落したとはいえなお有力な豪族で残った、赤松政則を補佐していく。浦上にとっての主家の赤松氏をもり立てていく。
それから、応仁の乱などに苦楽をともにしていくうちに、浦上氏は、赤松政則が播磨、備前、美作の3国の守護及び侍所所司に復権するのに、大いに貢献した。その功績から、みずからも参謀格の所司代となる。
戦国時代(1480年頃から)に入っての1488年(長享2年)には、美作(作州)を支配していた山名軍が退き、代わって、赤松氏が勢力を伸ばしていく。
しかし、その頃には、両者の間にはすきま風が吹くようになっていて、浦上氏(浦上村宗)は、守護赤松氏を凌ぐ力を持つようになっていたやに、伝わる。
そして迎えた1521年(永正18年)には、浦上氏が、守護の赤松義村を殺す。この下剋上(げこくじょう)によって、実質的に西播磨をはじめ、その西隣りの美作など(現在の岡山県北東部)の支配者に、とって代わる。
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浦上氏は、竜野(現在の兵庫県たつの市)の地名をルーツとする、と言われる。南北朝時代には、赤松氏のもとで活躍する。
赤松氏が、播磨・備前・美作の守護となると、その被官として支える。浦上氏の方は、行景、宗隆、それに助景らが備前守護代を任され、本拠も備前東部の和気郡三石城に移る。
それが、1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱で、その赤松氏が没落する。この乱の発端につき、「看聞御記」から暫し引用しておこう。
「嘉吉元年六月廿四日、雨降、赤松に公方入り申す。猿楽ありと云々。晩に及んで屋形に喧嘩出来すと云々、騒動の是非いまだ聞かざるの処、三条手負て帰る。公方の御事は実説分明ならず。赤松炎上す。武士東西に馳せ行き、猥雑いわんばかりもなし。夜に至りて伊予守の屋形炎上す。家人共の家は自ら焼く。公方を討ち申し、御首を取りて落ち下ると云々。仰天周章中々に是非なし。
(中略)
廿五日、晴、昨日の儀、粗聞く、一献両三献、猿楽の初の時分、内方とどめく。「何事ぞ」
と御尋ねあり。「雷鳴か」など三条申さるる処、御後障子引きあけて武士数輩出て、則ち公方を討ち申す。三条、御前の太刀 御引出物に進ずる太刀也 を取りて切り払い、顛倒して切り伏せらる。山名大輔・京極加賀入道・土岐遠山、走衆三人討死す。細川下野守・大内等は、腰刀ばかりにて振舞と雖も、敵を取るに及ばず、手負いて引き退く。
管領・細川讃州・一色五郎・赤松伊豆等は逃げ走る。その外の人々は右往左往して逃げ散る。御前に於て腹切の人なし。赤松落ち行くに、追い懸けて討つ人なし。未練いわんばかりもなし。諸大名同心か、その意を得ざる事なり。所詮赤松を討たるべきの御企露顕の間、遮て討ち申すと云々。自業自得、果して無力の事か。将軍の此の如きの犬死、古来その例を聞かざる事なり」(「看聞御記」から)
これにあるように、赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺した事件だ。
当時の室町幕府の「三管」(幕府のNo.2・管領に就ける家柄としては、細川氏、斯波氏、畠山氏の三氏)、それに「四職」(侍所のトップに就ける家柄として、赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏)が、あった。
では、かかる赤松氏の赤松満祐が、なぜ室町幕府6代将軍足利義教を、結城合戦勝利祝賀のためと称して、京都の自邸に招いて殺したのだろうか。なにしろ、足利尊氏挙兵に際して功労があり、幕府に忠勤にはげんできた、古参の重鎮の一人だというのに、である。
というのは、どうやら足利義教は、権力の強化をしたかったのではないか、と考えられている。その一環として、幕府に功労のあった一色義貫らを討つ。また、赤松満祐の弟の所領を没収し、赤松貞村に与える。
幕府は、その後、足利義教の子義勝を後継の将軍とし、山名持豊を中心に赤松追討軍を編成し、本拠の播磨に逃れていた赤松満祐を攻めて自殺させる。
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それからは、浦上則宗が、没落したとはいえなお有力な豪族で残った、赤松政則を補佐していく。浦上にとっての主家の赤松氏をもり立てていく。
それから、応仁の乱などに苦楽をともにしていくうちに、浦上氏は、赤松政則が播磨、備前、美作の3国の守護及び侍所所司に復権するのに、大いに貢献した。その功績から、みずからも参謀格の所司代となる。
戦国時代(1480年頃から)に入っての1488年(長享2年)には、美作(作州)を支配していた山名軍が退き、代わって、赤松氏が勢力を伸ばしていく。
しかし、その頃には、両者の間にはすきま風が吹くようになっていて、浦上氏(浦上村宗)は、守護赤松氏を凌ぐ力を持つようになっていたやに、伝わる。
そして迎えた1521年(永正18年)には、浦上氏が、守護の赤松義村を殺す。この下剋上(げこくじょう)によって、実質的に西播磨をはじめ、その西隣りの美作など(現在の岡山県北東部)の支配者に、とって代わる。
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なお参考までに、その後の浦上氏については、これまた込み入っている。すなわち、村宗の二男・宗景が隣の備前国に移って赤松氏から完全に独立したことで、浦上氏は、本家と分家で分裂してしまう。本家を継いだ村宗の長男、浦上政宗は、黒田(小寺)氏と結んで子・清宗の妻として「おたつ」を迎える。
その婚礼の夜に、赤松氏に襲われた浦上本家は、如何せん、この時をもってたちゆかなくなってしまう。その所領は、前述の如く備前に移っていた宗景が引き継く。やがて、宗景は備前・西播磨から美作の一部まで支配する大名に成長していく。とはいうものの、さらに後には、家臣の宇喜多直家の下剋上にあって、今度は浦上氏自体が滅亡してしまう。
(続く)
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その婚礼の夜に、赤松氏に襲われた浦上本家は、如何せん、この時をもってたちゆかなくなってしまう。その所領は、前述の如く備前に移っていた宗景が引き継く。やがて、宗景は備前・西播磨から美作の一部まで支配する大名に成長していく。とはいうものの、さらに後には、家臣の宇喜多直家の下剋上にあって、今度は浦上氏自体が滅亡してしまう。
(続く)
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